ダーウィンの番犬・・・バッシングの均等発信論
STAP事件は、「科学技術立国」と言いながらあまり科学とは縁が遠かった日本社会が初めて「科学」というものを真剣に考えたきっかけにもなった。そこでは、京都大学の先生が「仮説は論文にならない」などと荒唐無稽のことを言われたり、多くの先生が「著作権」をご存じなかったり、日本の学術界の曖昧さを露呈した面もあった。
ところで、この事件は「社会の中の一個人」というものがいかに脆弱であるかも示した。あることでネットの一部の人が騒ぐと、それがたちまちのうちに日本中に広がり、その真偽やソースをあまり確かめることなく、マスメディアは「社会の中の一個人」を葬りさり、所属する団体は冷たく切り離すことがはっきりしたからだ。
そこで、この事件を前向きに転換するために、少しでも日本社会が前進することに役立てようと思う。
私は政府、NHK、東大など強力な組織は批判することがあるが、個人はほとんど批判の対象にしない。これまで個人を批判したのは東大総長、国連大学副学長などだ。それは「自分より発信力の低い人を批判すると、その人が私の批判で打撃を受けることがある」からだ。
言論の自由があっても、それが「凶器」になってはいけない。そのためには、批判する相手が、十分に強力で、体力もあり、地位が揺らがないという前提があると思う。その人がいよいよ社会的に危険になれば警察がでるのだから、「批判」というのは、それよりずっと内輪でなければいけないからだ。
今回のSTAP事件ではネットをはじめ、マスコミが繰り返し、繰り返しかなりの時間をかけて小保方さんという一個人の批判を行った。特に昼のワイドショーのような番組では、怪しげな科学論から研究者としての批判まで、醜悪だった。
でも、今回のことを教訓にして、私は次のことをマスコミとネットに提案したいと思う。
● 一個人を批判する場合は、ネット及びマスコミにおける「総批判時間数」の制限を設ける。
● 一個人を批判するネット及びマスコミは、その個人が反論を希望した場合、批判した時間やページ数と同じ時間やページ数を提供する義務を負う。
なんで言い始めたかと言うと、STAP事件が起きてから、小保方さんを攻撃する人はネットやテレビ新聞の関係者が1000人もいただろうし、それを見た視聴者やネット参加者は膨大な数に上る。その人たちの多くは「こんなにひどいことをしている。小保方でてこい。釈明しろ!」と言う。
別に小保方さんはネイチャーに論文を投稿しただけで、誰にも迷惑をかけていないのだから、「出てこい!」と命令する方がおかしいのだけれど、社会がヒステリー状態になると「そんなことを言ったら失礼ではないか」という日本人の謙虚さなどどこかに行ってしまった。
批判している人はテレビや、新聞、ネットなどさまざまで、その数も多いから、それを小保方さんが反論に回っていたら疲れ果てる。また彼女には彼女の仕事があるから、彼女の人生が最優先で、彼女が「気が向いたら来てください」ぐらいだろう。
「俺が興味があるのだから、彼女の都合など考えなくても良い」ということは私には成立しないように思える。現在はディジタル時代なので時間は簡単に割り当てられるので、「批判時間登録所」をネット上に作り、そこで「一個人の批判時間」の管理を自動的に行うことが可能だと思う。ネットもバッシングばかりではなく、社会がスムースに進むような仕組みもいるだろう。
そして、テレビや新聞などは、放送法で定められている通り、どんなことでも「賛否両論」をバランスよく取り上げること、もし一個人を批判することが多くなれば、その本人、もしくは本人を代弁する人にかならず同程度のスペースを出す必要があると思う。
ダーウィンが進化論を出した時、それまで「人間は神から作られた」と思っていた人からの総攻撃で研究ができなくなったことがあった。その時、必ずしもダーウィンの進化論に全面的に同意していたわけでもないハクスリーが世間のダーウィン・バッシングに対抗して頑張り、戦いを好まなかったダーウィンが社会の批判にさらされるのを防いだ。
後の「ダーウィンの番犬」と呼ばれるハクスリーがダーウィンという静かな研究者を守ったことが、それからのダーウィンにとってとても大切になる。
ダーウィンの進化論から155年を経るが、まだ人間社会は「新しいことをする人をバッシングする」ということから抜け出せていない。でもすでにディジタル社会だから、「STAP番犬」の登場を待つより、もう少しましな方法を取れないかと思う。
(平成26年4月29日)
武田邦彦
(出典:武田邦彦先生のブログ)