2014年4月29日火曜日

【STAP騒動の解説 260429】 ダーウィンの番犬・・・バッシングの均等発信論




ダーウィンの番犬・・・バッシングの均等発信論



STAP事件は、「科学技術立国」と言いながらあまり科学とは縁が遠かった日本社会が初めて「科学」というものを真剣に考えたきっかけにもなった。そこでは、京都大学の先生が「仮説は論文にならない」などと荒唐無稽のことを言われたり、多くの先生が「著作権」をご存じなかったり、日本の学術界の曖昧さを露呈した面もあった。


ところで、この事件は「社会の中の一個人」というものがいかに脆弱であるかも示した。あることでネットの一部の人が騒ぐと、それがたちまちのうちに日本中に広がり、その真偽やソースをあまり確かめることなく、マスメディアは「社会の中の一個人」を葬りさり、所属する団体は冷たく切り離すことがはっきりしたからだ。


そこで、この事件を前向きに転換するために、少しでも日本社会が前進することに役立てようと思う。


私は政府、NHK、東大など強力な組織は批判することがあるが、個人はほとんど批判の対象にしない。これまで個人を批判したのは東大総長、国連大学副学長などだ。それは「自分より発信力の低い人を批判すると、その人が私の批判で打撃を受けることがある」からだ。


言論の自由があっても、それが「凶器」になってはいけない。そのためには、批判する相手が、十分に強力で、体力もあり、地位が揺らがないという前提があると思う。その人がいよいよ社会的に危険になれば警察がでるのだから、「批判」というのは、それよりずっと内輪でなければいけないからだ。


今回のSTAP事件ではネットをはじめ、マスコミが繰り返し、繰り返しかなりの時間をかけて小保方さんという一個人の批判を行った。特に昼のワイドショーのような番組では、怪しげな科学論から研究者としての批判まで、醜悪だった。


でも、今回のことを教訓にして、私は次のことをマスコミとネットに提案したいと思う。
● 一個人を批判する場合は、ネット及びマスコミにおける「総批判時間数」の制限を設ける。
● 一個人を批判するネット及びマスコミは、その個人が反論を希望した場合、批判した時間やページ数と同じ時間やページ数を提供する義務を負う。


なんで言い始めたかと言うと、STAP事件が起きてから、小保方さんを攻撃する人はネットやテレビ新聞の関係者が1000人もいただろうし、それを見た視聴者やネット参加者は膨大な数に上る。その人たちの多くは「こんなにひどいことをしている。小保方でてこい。釈明しろ!」と言う。


別に小保方さんはネイチャーに論文を投稿しただけで、誰にも迷惑をかけていないのだから、「出てこい!」と命令する方がおかしいのだけれど、社会がヒステリー状態になると「そんなことを言ったら失礼ではないか」という日本人の謙虚さなどどこかに行ってしまった。


批判している人はテレビや、新聞、ネットなどさまざまで、その数も多いから、それを小保方さんが反論に回っていたら疲れ果てる。また彼女には彼女の仕事があるから、彼女の人生が最優先で、彼女が「気が向いたら来てください」ぐらいだろう。


「俺が興味があるのだから、彼女の都合など考えなくても良い」ということは私には成立しないように思える。現在はディジタル時代なので時間は簡単に割り当てられるので、「批判時間登録所」をネット上に作り、そこで「一個人の批判時間」の管理を自動的に行うことが可能だと思う。ネットもバッシングばかりではなく、社会がスムースに進むような仕組みもいるだろう。


そして、テレビや新聞などは、放送法で定められている通り、どんなことでも「賛否両論」をバランスよく取り上げること、もし一個人を批判することが多くなれば、その本人、もしくは本人を代弁する人にかならず同程度のスペースを出す必要があると思う。


ダーウィンが進化論を出した時、それまで「人間は神から作られた」と思っていた人からの総攻撃で研究ができなくなったことがあった。その時、必ずしもダーウィンの進化論に全面的に同意していたわけでもないハクスリーが世間のダーウィン・バッシングに対抗して頑張り、戦いを好まなかったダーウィンが社会の批判にさらされるのを防いだ。


後の「ダーウィンの番犬」と呼ばれるハクスリーがダーウィンという静かな研究者を守ったことが、それからのダーウィンにとってとても大切になる。


ダーウィンの進化論から155年を経るが、まだ人間社会は「新しいことをする人をバッシングする」ということから抜け出せていない。でもすでにディジタル社会だから、「STAP番犬」の登場を待つより、もう少しましな方法を取れないかと思う。


(平成26年4月29日)
武田邦彦








2014年4月26日土曜日

【STAP騒動の解説 260426】 知の鍛錬(4) 平和への道の1 クーベルタン男爵




知の鍛錬(4)
 平和への道の1 クーベルタン男爵



「あなたは平和を愛しますか?」と聞けば日本人の100人が100人、「もちろんです」と答えるだろう。マスコミならさらにそれを強調するに相違ない。


平和運動というのがある。そこに行くと「平和の大切さ」、「命の尊さ」が叫ばれる。でも、ウクライナにロシアが侵攻しても、尖閣諸島の防衛にアメリカ軍が参加しても、声を上げない。


平和運動は批判しにくいし、批判に対してあまりにも激しい攻撃がくるので、あまりやる気もないが、私は平和の大切さとか命の尊さというのはあまりに簡単すぎて、それを言っていても平和は訪れないと長く思ってきた。つまり「平和」というのは非常に難しく、平和の尊さを強調するやさしさとあまりにもレベルが違うから、解決策にはならないからだ。


つまり、航空機の安全運航という問題を、小学生が解けないということと同じで、難しい問題を解決するためには、その難しさを超えるレベルが必要だからだ。「そういっても平和の大切さを強調するのは必要だ」と言われるが、私がそれに反論すれば「戦後、70年、それだけじゃないか。国連で否決されているのに、イラクにアメリカ軍が侵攻しても、なんでアメリカを支持するのか? 中国はチベット、ウィグル、満州はもともとの領土ではないのに、なぜ中国を支持しているのか?」と言いたくなる。


そして、STAP事件でも、「平和のために学問の成果は公知にする」となっているのに、「公知」を非難して「盗用」というのだから、これも「戦争をしたい」ということにほかならない。


その一つに「オリンピックのメダル争い」がある。オリンピックは「平和の祭典」であるがゆえに「国」をできるだけ後退させなければならない。団体戦など仕方がないものもあるが、個人がどの国に所属するかは事務的な手続きに必要なもの以外は使ってはいけない。


もちろんIOC(国際オリンピック委員会)は、「国別メダル数」をまったく発表していない。それを計算して毎日の紙面にだし、戦争をあおっているのがマスコミである。


スポーツは人間の神聖な活動だから、国を超えたものだ。アメリカの大リーグで田中選手が活躍して拍手をうけ、日本の国技である相撲で外国人が3人、横綱を独占しても良い。それがスポーツである。


スポーツに国の対立を持ってくると、サッカーで韓国がやったように政治的横断幕を使ったり、負けていたら審判がペナルティーキックで救うという奇妙なことが起きる。


「国の税金を使っているのだから、選手はメダルを取れ」と言うのなら、「オリンピックのような平和の祭典に行くな」と言ったほうがまだ筋が通っている。日本が国連に分担金を出したり、ユネスコに協力しているように、スポーツを通じて世界平和に向うのがオリンピックなのだ。


今から100年ほど前にすでにクーベルタン男爵が声をからして国別対抗を止めるように説得し、イギリス国教会の牧師様(呼び名は違うが)がオリンピックで対抗心を燃やしたイギリスとアメリカの選手さんをいさめたように、すでに世界の合意を得ているのだ。


平和への道の第一歩、それは「国別メダル数をマスコミが計算せず、報道しないこと」である。それすら今の日本はできない。韓国や中国が「対立を激化させ、戦争に向かおう」としているのと私にはほぼ同じと思う。


平和への道を一歩、一歩、勇気をもって進むことが、私たちが子供にできるとても大きなことだ。


(平成26年4月26日)
武田邦彦

(出典:武田邦彦先生のブログ






2014年4月25日金曜日

【STAP騒動の解説 260425】 知の鍛錬(3) 学問とコピペの3:科学には盗用はない




知の鍛錬(3) 学問とコピペの3:
科学には盗用はない



STAP事件が起こってから、経験の浅い「学者」と自称する人が「論文はそれを見たらだれでも再現できるようになっていなければならない」とか、「仮説が論文にならないのは常識」などと間違ったことを連発している。


そして日本中が騙されたのが「科学論文でコピペは許されない」というのがあった。なにしろ文章がダメな学生が先生から「コピペはいけない」と言われるものだから、それが自分がいたらないから教育を受けていることを棚に上げて、「大人もコピペはいけない」と言いだしたからややこしくなった。


先回と先々回、アインシュタインの業績を例にとって、大切なのは「概念=相対性原理」と「式(データ)」であって、説明の文章は極端に言えば頭脳明晰な人にとっては「カス」であることを明らかにした。


次に、もともと価値のある論文と言うのはどういうものか、20世紀の最大の科学的発見(着想)と言われているワトソンとクリックの論文を示したい。これはノーベル賞を受賞した論文だから、まさか20世紀の科学の最高峰と言われる論文を「ダメな論文だ」と言う豪の人はいないだろう。


ネイチャーに投稿されたこの論文は実質1ページで(2ページめは数行なのでここでは示していない)、実験結果も理論式もなにもない。わずかな文章とDNAの構造(仮説)が示されているだけだ。


しかも、この論文のもとになったのは、「ワトソンとクリックのデータ」は一つもなく、現代の理研とマスコミが言うなら「盗用したデータ」だった。このことは後に問題になるが、「科学のデータは公園のベンチと同じように人類共通の財産である」=公知 であることで、結局、ワトソンとクリックがノーベル賞を受賞した。


科学で大切なのは、一に「概念」、二に「理論式やデータ」、そして三にほとんど意味はないけれど「文章」だ。概念が画期的なら、理論式やデータはいらないし、DNAのようにデータが「盗用」でもOKである。


科学には所有権がないから、もともと「盗む」という行為がない。それを知らない専門家が間違ったことを言っただけだが、もし仮に科学的事実に所有権があって、人のデータを使うことが「盗用」としても、科学は人間の所有権を超えるものだから、「盗用でも新しい概念の価値は変わらない」のである。


もう少し具体的に考えてみたい。データを取った人は近くの研究室の女性研究員だったが、その人はDNAのX線のデータを取ったが、それから「DNAは二重らせん構造であり、生命は化学物質である」という極めて重要な結論を導き出すことができなかった。


もし彼女のデータに所有権があり、他の人が使えなければ(もし、彼女に断ったとしても、彼女がデータの使用を断ることがある)、人類はDNAの構造を明らかにすることができず、自然を解明することが不可能になる。


科学がすべての結果を「人類共通の財産」としているのは、一つは争いをもたらさないためだが、もう一つは「科学的財産を公知にしておかないと人類の叡智を発揮することができない」からである。


「他人のデータを使ってはいけない」、「引用しなければならない」、「文章をコピペしてはいけない」などは「人間の発展をどう考えるか」について良く考察していないからと思う。


そして、自然科学者は「人間の所有権、個人の名誉」などは「自然を明らかにすること」に比べてとても小さいという感覚を持っている。自然が嫌いで、名誉やお金が欲しい人が自然科学をするから、ややこしい。


(平成26年4月25日)
武田邦彦


(出典:武田邦彦先生のブログ






2014年4月24日木曜日

STAP事件簿理研編(3) 理研は懲罰をできない






STAP事件簿理研編(3)
 理研は懲罰をできない



親は未成年の子供に対して「親権」という権利を持つ。自分の子供の財産などに対して権利を持つのだが、それには制限がある。あまりにも当然のことだが、親権者は「財産管理権」を行使するので、一定の「行為能力」をもつ者でなければならない。



つまり、「権利」とは、「権利を行使することができる能力」がある場合に限る。いくらお親だからといって、自分自身が財産管理ができないのに、子供の財産を勝手に処分することができないのは当たり前である。



それは親権のようなものばかりではなく、一般社会でも常識で、「泥棒が泥棒を裁くことはできない」とたとえで言われることもある。



今回のSTAP事件では、理研は「組織として当然、やるべきこと」をしなかった。やるべきことをしない組織が、「その雇用者の懲罰だけはできる」ということにはならない。こんなことを認めると社会正義、公序良俗を失うので、その影響は大きい。理研が「組織としてしなければならなかったこと」は次のように整理できる。



  • 任命責任の欠如: 理研は小保方さんをユニットリーダーというある程度、独立した研究ができるというグループの研究リーダーにした。(理研は記者会見で小保方さんを「研究者にあるまじき」と批判したが、研究者にあるまじきミスをする人を任命した責任を取らなければならない。)

  • 上司の職務怠慢: 理研は笹井さんという京都大学教授から転身した人を「小保方さんの論文をネイチャーに通すため」に「論文作成チーム」に所属させた(笹井さんの記者会見から)。小保方さんの論文は笹井さんがチームに加わる前に一度、ネイチャーに提出されて、掲載を拒絶(リジェクト)されている。ということは、その論文が「提出される論文が学問的に正しく、提出する価値があるか」を判断し、その後、具体的な助力をする以外にやり方がない。つまり、論文内容が不十分だから拒絶されたのか、論理や書き方が不十分だからかの判断が必要だ。笹井さんは論文としての価値があると判断して助力したのだから、論文内容を知らなかった(データに矛盾がなく、写真の加工(ネットのチェッカーが一週間ほどでわかるものを1年かけてわからなかった)にも気が付かなかった(武田は「写真が加工されていた」と言うだけでは不正でもなんでもなく「写真を加工しないと論文が通らない」という証明が必要だと考えている)。

  • 上司の能力不足: 小保方さんはユニットリーダーになる前に若山研究室で研究をしていた(笹井さん記者会見より)。その時に今回の論文をネイチャーに投稿している。この時には小保方さんは平研究員だったのだから、この論文の責任は若山さん(現山梨大学教授)にある。今回の問題となった写真3枚やそのほかのミスの多くは現論文で発生していると考えられる。笹井さんが参加してからの文章がコピペなら笹井さんに問題があり、ユニットリーダーになる前にコピペや加工があったなら「組織」としては若山さんに責任がある。大学教授になるためには、本人が論文と出すだけの能力とともに学生や研究生の論文をチェックしたり、修正したりする能力があるはずで、能力がある人がその能力を発揮できなかったのだから、職務怠慢である。

  • 特許の不正申請: 2013年3月10日に出された論文と同年4月25日に申請された特許はタイトルや発明者などから見て同一内容と思われるが、「提出すべきデータではない」というものを特許申請したということになり、組織として犯罪を行ったということになる。

  • 組織内の対立構図の創造: 理研は小保方さんとの意思の疎通を欠く状態で「理研のお金=税金」を使用して記者会見をし、笹井さんの記者会見も税金を使った。しかし、小保方さんの記者会見は小保方さんの個人のお金でおこなった。それなら、理研は小保方さんの記者会見を禁止すべきであった。つまり組織内の人間は、その組織を批判する記者会見を自由に開くことはできないし、逆に組織もそこに所属する人を「組織の公的なお金」を使って批判することもできない。また小保方さんの記者会見を認めるなら費用も負担しなければならない。その意味で、理研は税金を使って組織内の対立構図を積極的に公にしたのだから、組織としての体をなしていない。



まだまだ「理研が組織ではない」ということが多いが、「組織ではない理研」は「組織の一員の懲罰」ができないことは明らかで、いったん理研を解散し、もしくは経営陣を一新し、数年かけて「組織としての社会的な信頼性」を回復してからにしなければならない。それまでこの組織に「税金」を投入するべきではないと考えられる。


(平成26年4月24日)

(本日、理研の調査委員会の委員長が不祥事で辞任しました。でも、もともとここに書いたように理研には資格はなかったと思います。)

武田邦彦

(出典:武田邦彦先生のブログ





2014年4月23日水曜日

STAP事件簿理研編(2) 雇用者を貶める組織






STAP事件簿理研編(2)
 雇用者を貶める組織



「身内をかばう」必要はないが、かといって「身内ならでは」知らないことを事件が起こると暴かれるというのは辛い。人間の日常生活は「表面」と少しは違う。どんな美人でもトイレに行くと考えたくないが、それも事実だが、いくら事実でもその写真を公表されるのは辛い。



今回のSTAP事件、特に理研の委員会の記者会見は「組織の中で仕事をする若者」には大きな打撃を与えただろう。小保方さんが「悪かった」から「悪い」と言ったわけではなく、「社会が悪いと言っているので、悪いところを探した」ということだったからだ。



委員会が「不正」と認めたのに、2枚の写真が間違っていたことと、1枚の写真が加工されていたことだ。これが「悪意」であるためには最低でも、次のことが必要だろう。



2枚の写真は「単純ミス」だったか、「悪意」だったかは、「正しい写真がないか」、「正しい写真があっても、違う写真を使わないと結論が出ない」かどちらかである。「正しい写真はあった」し、「違う写真を使わなくても結論は変わらない」のだから悪意は存在しない。


写真を加工する目的は、「わかりやすくするため」か「ウソをついて加工しなければ結論が得られない」という2つがあるが、加工された写真は80枚の図表と4つのビデオの一つで、重心的な写真(これがなければ結論が変わる)というものではない。


動機が必要である。「悪意」、「捏造」などが存在するためには、「動機」がいる。論文は、2枚の写真と1枚の写真の加工を除いても論文は通るし、結論も変わらない。すでに持っている正しい写真を使わず、1枚の写真を加工する動機がない。


論文は小保方さんばかりか、若山さん、笹井さんなどが深く関与しているので、悪意が誰にあったかを特定する必要がある。


ところが、「実験ノート」という「悪意」とは無関係の内部事実を持ち出し、「研究が杜撰だった」という印象を与え、「研究が杜撰だったから悪意だ」という論理を使った。学者にはあるまじき論理展開で、委員会の「悪意」は明白である。



「実験ノート」を委員会が持ち出したのがなぜ「悪意」かというと、日常的な研究の状態で彼女の不利になる(本当はノートはいらないが)ことを暴いたからだ。「捏造されていなければ論文は通らない」というもっとも基本的なことは言わずに、「あり得ない」、「杜撰だ」と繰り返したのは「悪意」以外の何物でもない。



また、雇用者に関する事件なのに、事前に十分な調査をせず、「本人は承知しているのか?」という質問に「異議申し立てをすればよい」というのは組織ではない。理研が組織としての見識を持っていないのだから、彼女を懲罰する権利はない。形式的に組織だから権利が発生するのではなく、組織は組織としての言動を保つことが前提条件だ。



十分に聞きとり、「事実」についてできれば100%合意し、その上で判断し、その判断についても本人の了解を得て、それから外部に公表するというのは、本人をかばうというより「中立的方法」である。



その意味で、今回の事件は、理研に悪意があったのは明らかであり、マスコミが「大きな組織は叩かない」という原理があることを巧みに利用したものであることは明らかである。



(平成26年4月23日)
武田邦彦

(出典:武田邦彦先生のブログ






2014年4月22日火曜日

STAP事件簿理研編(1) 迷惑の原因は誰が作ったのか?





STAP事件簿理研編(1)
 迷惑の原因は誰が作ったのか?




なにか事件が起きたとき、その人が所属する団体(会社など)は、その事件で被害を受けた人に対して「会社として謝罪する」と言うことがある。その時は「このたび・・・を起こしまして・・・」と謝ることが多い。



今回の場合では「本来はネイチャーに論文を出しただけなので、格別、社会にご迷惑をおかけしたのではないのですが、理研が派手に記者発表をしたために、皆様に過大のご期待を・・・」というようなことになるだろう。



ネイチャーに論文がでることはあるので、それを派手に宣伝しなければ学術論文の一つとして扱われるので、格別「ご迷惑」をおかけすることはない。でも今度の場合、「理研」という組織が大々的に発表したので、テレビも新聞も「理研だから大きなことなのだろう」と思い、その発見に理研自体が疑問を持っているなど思いもしない。



だから、マスコミもマスコミだが、もし社会が迷惑を蒙ったとしたらそれは「理研だから信頼性がある」と思わせた理研の方であることは間違いない。



ところが、こともあろうに小保方さんの論文の「書き方」を理研自体が咎める記者会見をして、「悪意があるかもしれないので、調査委員会を作る」と言った。調査委員会を作るならまずは「派手な記者会見を提案した人、承認した人」を調査しなければならない。



次に、理研はほぼ同じ内容に特許を出している。特許というのは研究者が出すものではなく、組織が出すものだから、論文がおかしければ特許をまずは取り下げなければならないし、そんな特許を認めた人が理研の中にいる(この種の特許には一千万円を超える経費がいる)ので、税金を無駄使いした責任は重大だ。



つまり、理研は理事長まででて、何をわびたのか、論文がおかしければ特許はどうしたのかを最初に説明する必要があった。これだけでも理研にはなにか犯罪のにおいがする。



(平成26年4月22日)
武田邦彦
(出典:武田邦彦先生のブログ





2014年4月19日土曜日

STAP事件簿後日譚 論文の不備を誰がわかったのか?





STAP事件簿後日譚
 論文の不備を誰がわかったのか?




正確な日時は次第に明らかになっていくと思うけれど、STAP論文が掲載されたのが1月29日。ネットで最初の「欠点の指摘」があったのが、確か2月4日で6日しかたっていない。これが2月14日でも16日だから、「出てすぐ」には変わりはない。



世界中で毎日、多くの論文がでるが、主要なものだけで100ケ以上はある。その中で、このネイチャーの論文に注目し、掲載された日に論文を読み、80ケもある画像をすべてチェックし、ビデオを検査し、文章にコピペがないかを見て、論文引用(40ケほど)、図表の説明、その他の記述を全部読み、理解するだけでも2,3日はかかる。



そのうえ、小保方さんの博士論文はPDFで入手できると聞いたことがあるが、そうなると博士論文にでている図とネイチャーの80枚のうちの2枚が類似しているということは「図のデジタル情報」からはわからず、目で見ないと類似しているかどうか不明である。



さらにPDFから電子化したファイルを作り、そこに書かれた文章が世界のどこかにある文章と類似していることを知るためには、電子化の作業がかなり大変である。



もともと、STAP論文は、2012年に若山先生の指導の下で小保方さんが書いてネイチャーに投稿し、拒絶(リジェクト)されている。そこからのものだから、小保方さん、若山先生、笹井さんという一流の当該研究の研究者が2年ほど見ていて、さらにこれも世界一流の査読委員(複数)でやるネイチャーで10か月ほどの査読を経ている。



つまり世界でもっとも「間違いに気が付きそうな4,5人」が10か月から2年、綿密に見て、修正している時に気が付かなかった欠点をわずか、6日から16日程度の間にわかることは不可能である。



「査読」というのはその分野で最も学力、経験のある学者が複数で綿密に見て、おかしいところを指摘して修正する。私も経験があるが、私が見る分野は世界の学者の名前、その人の文章の特徴、これまでのデータなど全部、頭に入っているから、ちょっとでも類似のものがあったり、画像がおかしかったりしたらすぐわかる。



図表がどのような形で提供されたかは不明だが、私が論文を投稿するときには手持ちの図表、画像のもっとも鮮明なものを提供する。またもし不鮮明の場合、「鮮明なものを出すように」と求められる。



中心的な専門家4,5名が1年ほど綿密に見てわからないものを、関係外の人が1,2週間でわかるはずもない。



つまり、1月29日にSTAP論文が掲載されることをあらかじめわかっていて、またこの論文の不備や小保方さんの研究の欠点もわかっていて、あらかじめ指摘する準備を整えていたとしか考えられない。



そうすると、指摘したほうが何らかの犯罪を犯している可能性が高く、犯罪を犯して指摘したことを無批判にマスコミが拡大したということになると、またまた取材の信頼性を調査せずに国民をだますことになった佐村河内氏の事件と類似になる。



もし身内に「論文を作成している時には間違いを指摘せず、博士論文までよく知っていて、本人が不十分なところを突く」という人がいたら、これはなかなか防ぐことはできないし、データの入手などで不正が行われたことは十分に考えられる。



「不正を指摘する」というと、指摘する方は善人で、指摘される方は悪人と言う先入観があるが、逆の場合も大いにありうる。まして、理研の調査委員会が肝心な点2か所(1か所は実験ノートがあるのに、2冊しかないと言ったこと。もう一つは「差し替える写真が提出されている」のに、それを言わなかった)の明らかなウソを言っている点が気になる。



つまり、もともと理研は小保方さんを守る立場にあるのに、逆にウソをついても小保方さんの「不正」を指摘した。指摘した2か所はどう考えても「意図的」ではないが、それを「悪意」と言った。



また、笹井さんは「STAP現象は確かだが、仮説の段階」と言い、京都大学の先生はそれを受けて「仮説は論文にならない」と言った。普通の論文は仮説が書いてあるのだから、このチームプレーと思われる非学問的な言動も実に不思議である。



疑念は小保方さんではなく、理研の委員会、ネットで指摘した人、それに損害をうけていないのにでたらめを言ってまで徹底的に批判している京都大学の先生などにある。



また早稲田大学の博士論文を審査し、合格させた先生方がまったく登場しないのも理解できない。



せっかくの素晴らしい論文をここまで貶めるのは、単に「善意」とは思えない節が多すぎる。この際、STAP事件を報道し、小保方さんを非難したマスコミは自らのプライドをかけて、「ソース」と「組織」を徹底的に取材してもらいたいものである。



この内容はシアターテレビジョンのご厚意で、無料でユーチューブで見ることもできます。



(平成26年4月19日)
武田邦彦
(出典:武田邦彦先生のブログ






2014年4月18日金曜日

【続・小保方さんは悪くない!】 武田邦彦がSTAP細胞問題を徹底解説!

武田先生の解説は、いつも非常に理解しやすく的確ですね。

その1 (4月18日収録)

その2 (4月18日収録)


その3 (4月18日収録)


その4 (4月18日収録)


【STAP騒動の解説 260418】 知の鍛錬(2) 学問とコピペの2:文章は「カス」か「知」か?





知の鍛錬(2) 学問とコピペの2:
文章は「カス」か「知」か?



さて、アインシュタインが私たちに示した知は、1)概念、2)理論式(実験の場合もある)、3)説明、である。学問や人類にとって最も大切なのは「相対性原理と言う概念」であり、さらに「具体的な計算ができる式」である。たとえばエネルギーは次式で示すことができるが、これがあるから太陽光発電のもとになる太陽のエネルギーや熱も計算ができる。


しかし、アインシュタインの「説明」は何らかの意味があるのだろうか? もし、私たちの学力がアインシュタインをはるかに超えていれば、アインシュタインは前回のこのブログに示した式を5,6ケ示して、だから相対的なのだと書けばよいだろう。


でも、私たちは頭が悪い。だから、アインシュタインは「この論文を読む程度の人なら、このぐらいから説明しておく必要があるだろう」と推定して、(本当は不必要だが)解説する。それが論文の「文章」のところだ。


ここは「知の実体」が理論式や観測データ、計算値にある自然科学と、文章に意味のある法律や文学などとの違いと思われる。だから、相対性原理の論文の説明は、アインシュタインが書いても、アインシュタインの知人が彼から話を聞いて書いても、同じ文章になる。だから、文章は「必須のもの」ではないことがわかる。


つまり、科学論文の文章は知的内容の無い単なる説明だから、知としては「カス」の部分である。


また、「知的なもの」で「自分の頭に入り込んだもの」は自分がどういう形でそれを利用しているのか、明示的にわかるものではない。つまり、私が今、「私」と書いたとすると、「私」という字を発明した人、「わたし」と読むと決めた人、自我についての哲学の認識などが前提であって、それも「借用している」ことには相違ない。


つまり、「物品」なら、人の自動車を運転して初めて「人のものを使う」ことになるが、「知恵」は頭脳の中に溶け込んでいるので、区分けすることが難しいという現実問題があり、文章は「理論式やデータを人の文章のかけらを組み合わせて説明に使ったもの」であり、そんな価値のないものを制限するということは人間社会の発達を阻害することにもなる。


問題は、コピペが妥当かどうか、なにをコピペと言うかについて、学会はほとんど何も議論もせず、根拠のある規則(世界平和、人類の発展などとの関係でどのように制限する必要があるかなどとの関係で)が無い状態だということだ。


よく「学問は厳密でなければいけない」という大学者が「なぜ、コピペしていけないのですか?」と聞くと、「いけないものはいけないのだ!とんでもない!」と叫ぶことがある。


小保方さんが会見で言っていたように、「一つの研究室にいなかったので、しきたりを学ぶ機会がなかった」ということ、つまり、研究のやり方にしても、結果のまとめや発表にしても、「職人が親方から学ぶ」というのは現在では前近代的として退けられている。


また、「アメリカではこうだ」と言っても、日本人はすべてのことにアメリカで決まっていることを守らなければならないという声明もない。ただ、村の掟で「コピペはいけない」と決まっている。それは私も知っているが、私は「コピペしたほうが人類の知の成果を利用できるし、権利にしたければ合意に基づく権利(著作権、特許権)が良い」という考えである。


科学論文の他人の文章を使うことが「やってはいけないこと」という理由のある論理と書いてあるものはどこにあるのだろうか? 理由もなく、教会の権威を守るために、女性を魔女として縛り首にしたヨーロッパ中世を思い出す。


(平成26年4月18日)
武田邦彦

(出典:武田邦彦先生のブログ







2014年4月17日木曜日

【STAP騒動の解説 260417】 知の鍛錬(1) 学問とコピペの1:アインシュタイン



知の鍛錬(1) 学問とコピペの1:
アインシュタイン



普段の生活では私たちはややアバウトで、アバウトでなければ毎日を過ごしていく事ができません。でも、学問とか科学の世界はアバウトではダメで、しっかりした論理で進まなければならない。


でも、最近、日常生活もアバウトになると、専門家やマスコミに騙されることが多くなってきた。なにしろ、事実を知らないことを良いことに「ここまではだましてもわからない」という専門家が増え、それは耳触りが良いのでマスコミが使うという悪循環が続いている。


そこで、ここではSTAP事件で問題になったコピペのことを「厳密な論理」で考えてみたいと思う。
・・・・・・・・・


「知の果実」とはどういうものだろうか? 「物」なら「見ればわかる」から簡単で、たとえば、この自動車は誰のものですか?というようなことで、混乱しない。ところが「知の産物」は違う。


知の産物、たとえば論文が示していることは3つある。
1) 新しい知の領域(たとえばアインシュタインの「相対性原理」)
2) 新しい知の領域に達した証拠(アインシュタインが示した理論式、実験データ)
3) 知の領域と証拠の説明(論文や本の文章)


このうち、人類に新しい知恵を与えてくれた概念(相対性原理)は、論文に書かれていることもあれば、書いてないこともある。というのは、一般的に研究者は謙虚であることと、将来のことはわからないという思いが強いので、2)で式の展開を行い、「このような結論を得た。これは・・・である可能性がある」程度に留める。


次に、アインシュタインの相対性原理を導くために考えた式、つまり「人類の知恵」の2)を順序良く示したい。ここに示す一つ一つの式は慣れていないとわからないので、「誰の式か」、「流れはどういうものか」だけに注目していただいて欲しい。


まず、この式が基礎になるが、これは「マックスウェル」という人が19世紀に提案したもので、電磁気学の基礎的な式である。アインシュタインはこの式を使うときにマックスウェルに断っていない。また私も使うけれど、「本人は亡くなっているし、引用もしない」で使う。それはこの式が「公知」だからだ。


次にローレンツ変換というのを使う。これも物理学では有名な手法で、比較的最近(100年ほど前)のものだが、誰も本人に断らずローレンツの論文を引用せずに式を使っている。「公知」だからだ。


もちろん、ニュートンは出てくる。次の式はニュートンの運動方程式で、膨大な物理の論文に使われるが、私はこの式を使うときにニュートンの論文(原著)を引用している例を見たことはない。無断引用するのは「公知」だからだ。


そして、ニュートン、マックスウェル、ローレンツなどの先人の式をコピペ(利用)して、アインシュタインは運動を明らかにし、そして有名な「質量とエネルギーの関係」、つまり「ニュートンの運動方程式の修正版(厳密にいうとニュートンは間違っていたという証明)」をだす。この時にも彼はフーリエ展開をするけれど、フーリエ(相対性原理の80年前に他界している)には断っていない(公知)。


このように科学研究は「先人の知恵」を利用してわずか一歩だけ自分が進むことができる。だから、もし科学的知見が「公知」でなく、「物品」のように所有者がいたら、科学の研究は不可能になる。これが「公知」の存在意義であり、とても重要なことだ。


ここでアインシュタインの例を出したのは、アインシュタインですら、その業績のほとんどは「先人の業績」であり、それが「使える状態(公知)」になっていないと、何もできなかったことが分かる。つまり「公知」があって初めて科学は成果をあげられるのだ。


ここにコピペを持ち出したのは、私は科学の進歩に大切なことだと思っていたが、日本の学者の多くが反対の意見なので、自分としても考え直すことが必要かを知の鍛錬を通じて考えてみようと思ったからだ。


(平成26年4月17日)

(注)掲載してから音声を聴いたら、「テイラー展開」のことを「フーリエ展開」と言い間違っています。また、この記事にはウィキペディアの一部をコピペしていますが、著作権法で定められた「思想又は感情に基づく創作物」ではないと考え、使用しました。

武田邦彦

(出典:武田邦彦先生のブログ






2014年4月16日水曜日

STAP事件簿18 深層(3) 科学の世界の反日日本人





STAP事件簿18 深層(3)
科学の世界の反日日本人




私は、「南京虐殺」というのはフィクション(架空の物語)で、事実は普通の戦争だったという考えだが、中国が「南京虐殺があった」と日本を批判するのは仕方がないと思う。



もともと中国は南京で30万人が虐殺したなどと言っていなかったのに、日本の中の反日日本人(この場合は朝日新聞と本多記者)がはじめて30万人と言ったり報道し、それに日本人自身が追従するのだから、仕方がない。



中国は「日本人が自ら言っている数字を使っているだけ」と言うだろう。明治の日本人は武士の時代の魂があって、礼儀正しく、謙虚だったが、事実でもないことを言って相手の歓心を呼ぼうなどと卑屈でひん曲がった心は持っていなかった。だから、こんな話は出てこない。



戦争に負けて日本社会が大きな心の傷を負ったことは確かだが、自虐史観、相手の顔色を見て何でも言う人たち、自分で判断せず人の言ったことに追従して居丈高になる・・・など悪い癖を身に着けてしまった。



2011年3月12日、午後4時半、福島原発1号機がその1時間前に爆発し、それを定点カメラでとらえた映像を流しながら、NHKのアナウンサーは、原発敷地境界で1時間1ミリシーベルトを超えたことを伝え、次のように言っている。



「東京電力から原子力安全保安院に入った報告によりますと、福島第一原子力発電所の敷地境界付近で放射線を測ったところ、爆発音があったころとされる午後3時29分には1時間に1015マイクロシーベルトでした。この値は一般の公衆が1年間に浴びる放射線の限度量をわずか1時間で受ける量にあたり・・・」



爆発直後、NHKは一般公衆が1年間に浴びる放射線の限度量が1ミリシーベルトであることを知っていた。しかし、その後、政府や福島県などが「規定はない」とか「100ミリまで大丈夫」というと、「1年1ミリの基準」をまったく伝えなくなった。



私自身は学者だからバッシングは別に気にしていないが、ある大手週刊誌が「1年1ミリシーベルト男:武田邦彦」という大きな記事をだし、そこに出てきた関係者は口をそろえて「そんな基準はない」と合唱した。



これも法治国家なのに、「原発事故のためなどに決めておいた1年1ミリシーベルトの限度量」を、事故が起こったらコロッと変えた反日日本人の仕業だった。つまり、日本人が法令で定められた量を被曝して健康に障害がでても「反日」だから何の心の痛みも、日本国に対するプライドもなかったのだ。



今回の事件の火種がどこから出たのかはまだ不明だが、日本人が日本人の優れた論文や若手研究者をわざわざ根掘り葉掘り調べて貶めることはあり得ないので、火種はアメリカか、もしくはまたまた反日日本人が登場したのだろう。



南京虐殺(歴史的になかったことだが)も、本当にあったのなら日本も反省しなければならないので、大いに言ってもらっても良いが、起こってもいないことを、日本をダメにするのに役立つからとでっち上げるのだから相当なものだ。



STAP論文も、小さなミス(南京事件で言えば、普通の戦争で犠牲になる民間人ぐらいの被害)を拡大に拡大して、STAP論文を取り下げろと叫ぶ。論文が取り下げられ、特許が出せなくなり、若手研究員が海外に行ってしまったら、「何も問題がないのに反日の事件をねつ造して、日本にダメージを与える」ということになる。



繰り返すが、本当に論文が問題なら仕方がないが、論文はその価値から言って(価値100とすると)、ミスは1か2ぐらいしかない。第一、ネイチャーの査読委員が価値ある論文だと認めたものをなんでわざわざ日本人が否定しなければならないのか? 



戦争をして、敵国は原爆を落とし、婦女子だけを狙った爆撃をして30万人も殺した(広島長崎はもとより、東京大空襲は第一波で婦女子が怖がるように爆弾を投下し、逃げる方向を予想して第二波は人間だけを殺すことができる焼夷弾を使った。後に日本国からこの司令官に勲章を出した)のに、日本軍が一人の民間人も犠牲にしたらバッシングしているようなものだ。



アメリカはご主人だが、日本は召使いだから、どんなことがあってもアメリカは正義、日本はバッシングという文化がまだマスコミや専門家に残っていることを思うと、慄然とする。



戦争はいけないことであるし、残虐だが、アメリカ軍と日本軍の残虐さは原爆や東京大空襲のように比較にもならない。それでもアメリカの行為を全く批判せず、友軍だけに矛先を向ける朝日新聞。



アメリカ人一人当たりの電気の消費量は、日本人の2倍なのに、日本人の子供に節電を呼びかけて「暑い、暑い」と言わせている朝日新聞。



そして今回、アメリカ人の論文のミスは咎めずに(たとえば温暖化のホッケースティック論文(ウソの論文でアメリカ人が書き、大いに日本の新聞が報道したもの。2009年のクライメートゲート事件でインチキがばれたが、報道せず。そのほか温暖化関係では多くのインチキ論文があったし、影響も大きかったが、アメリカ人だから報道しないという取扱いをした)、邦人のミスだけを根掘り葉掘り追及する朝日新聞。



ああ、いやだ。日本の良さを強弁する必要はないが、誠実、礼儀を守る日本社会に戻りたいものだ。



(平成26年4月13日)
武田邦彦

(出典:武田邦彦先生のブログ









STAP事件簿17 STAP細胞が無くても論文は立派





STAP事件簿17 STAP細胞が無くても論文は立派



自然科学の論文は、時に新しいことを示したものに「価値のあるもの」、「立派なもの」、「成立するもの」がある。用語はなかなか適したものがないので、最初に「定義」を示しておきたい。



「価値がある」というのは、論文としても立派であり、最終的に学問や人間社会に有用だったもの。
「立派なもの」とは、論文としては新しい見方を示しているが、最終的には学問の進歩に大きな貢献はできなかったというもの。
「成立する」というのは、論文としての要件が整えられていて、査読委員が査読(審査)したときには「価値がある可能性がある」と認められたもの、である。



結論を言えば、STAP論文は、今のところ、「価値があり、立派で、成立する」と考えられる。でも、日本社会はいま、「価値がなければ成立しない」と言っている(STAP細胞があったら論文としてOK)ようだ。



私は現在、「価値があるかどうかは少し長い目でみなければならないが、立派な論文であるのは間違いない。もちろん、査読を通っているのだから成立する」と考えているが、世論は「価値がある」と「成立する」を混同しているようだ。



ひとつ例を取ろう。
天動説(天体は地球の周りをまわっている)という考えだったころ、一人の学者が小さくできたばかりに望遠鏡で星を観察したら、奇妙な動きをする星が数ケあった。その動きを数式にして検討したところ、「私たちの地球はある星のグループに属していて、その中心は木星だ」という論文を出したとする。



それからしばらくして、その論文を見た若い学者が、計算間違いがあるのではないかと思って、もう一度、計算してみたら、式の立て方に一部問題があり、どうも「太陽が中心ではないか」との見解を発表した。



それから300年たって、人類は人工衛星を打ち上げ、太陽系の外から写真を撮ってみると、太陽の周りに地球も木星もまわっていることが確実に分かった・・・学問はこのように進む。



この時、最初に「間違った論文」を書いた人が学者として偉いのか、それとも計算式の間違いを発見した人が偉いのかはむつかしい。もともと星を観察して、天動説に疑問を持ち、不完全だがそれを指摘した人がいないと、正しい計算ができる人は望遠鏡を持っていないこともある。



自然は人間より大きくてすぐれている。だから、自然を研究するときには最初から「自然は人間の知恵より大きく複雑だ」と言うことが前提だ。だから自然科学者は謙虚である。



STAP論文では、「外部からの刺激で細胞が初期化されることがある」と言う指摘だけで十分で、その作り方などは全く必要がない。そんなことを求めたら、人工衛星が打ちあがるまで、地動説を出すことができないということになる。



もしSTAP細胞があるなら、論文は極めて高い価値を持ち、もしSTAP細胞がないか、何の役にも立たず、学問的な意味もなければ、立派な論文と言うことになる。いずれも論文を取り下げるとかそういう問題ではないし、研究者の資質などはすでに立派であることは証明されている。



(平成26年4月16日)
武田邦彦

(出典:武田邦彦先生のブログ







STAP事件簿16 (2-0=2、10-2=-4) の日本社会





STAP事件簿16 
(2-0=2、10-2=-4) の日本社会


(今朝は少し、うなされました)


人間には良いところと悪いところがある。人のやることには成功もあるし失敗もある。毎日の生活でもうまくいくときと、何をやってもダメな時がある。



特に人が成長していくときには、「芋蔓式」がすべてだ。つまり子供や若い人にはまだ欠点が多い。でも年配者よりこれから伸びるところもある。だから、欠点を強調せず長所を伸ばすことが大切だ。



三種類の考え方がある。一つは(2-0=2)型で欠点もないが長所も大したことがないという場合。これも大切だがすべてではない。もう一つは(10-2=8)型で欠点が2あっても、長所が10あれば、差引8もあるじゃないかという見方だ。



それより積極的な考えが、(4-2=4)で、長所4、欠点2の場合、長所だけ見て総合4点とする。武田式見方だ。ところが反対に、(4-2=-6)というのもある。これが「最近のマスコミにみられるバッシング主義」で、せっかく長所が4、欠点が2なのに、欠点だけを拡大してマイナス6とするというとんでもない考え方だ。


やめよう!


評価する社会と人のタイプの整理
K:欠点がなければそれでよい(進歩はないが穏やか)
S;そのままの状態を評価(素直な社会)
M:良いところがあればよい(積極的な社会)
B:悪いところがあればよいところは帳消し(現代日本)



(平成26年4月16日)
武田邦彦

(出典:武田邦彦先生のブログ









2014年4月12日土曜日

STAP事件簿15  「公知」に供する科学者のプライド・・・恩を感じる日本人






STAP事件簿15
「公知」に供する科学者のプライド・・・恩を感じる日本人




(少し、軽い話題です)



私は科学の世界でコピペは何の問題もないと考えているが、コピペに対して反感を持つ人が多いのも確かである。なぜ、私が科学者でありながら、コピペを容認してきたかというと、それは「科学の本質はなにか」が理由だが、それ以外に「公知」と「平和」である。それについてリラックスして一言。



学問の世界は「学問の自由」で守られている。この学問の自由は「内的・精神的自由」で、社会に対して実行力を持たないのが特徴であり、仮に何かの力を発揮するなら自由は奪われる。



一方、科学者のプライドは「自らの仕事の成果が「公知」になる」というところにある。つまり、「公道、公園、公海」と同じように、人類が自由に使える「知恵」の仲間入りをさせてもらえるのだ。



これは素晴らしいことで、自分の頭脳活動の産物が、誰かの所有物になるのではなく、人類共通の財産として「公知」になり、その後は誰でも私の産物を利用してくれる。これほどうれしいことはない。



今回のSTAP事件でも、小保方さんは自分の研究をネイチャーに投稿し、それが掲載された。その瞬間から小保方さんの頭脳にあったSTAP細胞の考え方は人類共通の財産となった。



その意味で「著作権」が「思想又は感情に基づく創造物」と限定されたことは科学者の私としてはうれしいことだ。もし、小保方さんの論文が公知にならなければ、その成果を利用するときに、いちいち小保方さんにメールを出して了解を取るか、代理人が理研なら、お金を取られるだろう。



でも、公知になったものなら、公道や公園のベンチのように誰にも断らずに自由自在に使える。だからこそ利用価値があり、小保方さんも「どこにでも行って、一緒に実験する」と言われている。立派だ。



私は、自分の論文や著作物が公知になるのは、「学問の自由を与えてくれた社会への恩返し」ととらえている。西洋流に言えば「学問の自由と言う権利と、その成果を公知にする義務」と言うことになるのだろう。人間はもらうだけではダメで、もらったら必ずお返しがいる。



学問の自由はとても快適だ。人が何と言おうと自分がやりたい学問をすることができ、どうやるか、何を目的とするか、どこで飽きてやめても良い。こんな気軽な人生ってあるのだろうか?と思う。だから、その恩返しに自分の成果はご自由にと私は希望する。



ところで、小保方さんや私が書いた「文章」はどうだろうか? 科学の論文の文章も事実の説明だから「思想又は感情に基づいて」いない。したがって、何の権利もない。「データ」、「写真」、「文章」ともに「公知」である。



今まで、私はそれでやってきた。「先生のデータを使いたいのですが?」・・・「どうぞ、どうぞ」、「先生の講演を録音してよいですか?」・・・「どうぞ、どうぞ。オールOKです」。そういうと多くの人が訝しい顔をされる。中には「本当に良いのですか?」と念を押してくる人もいる。



大学に移ってから、いろいろ発明をした。そのたびに企業が来て「特許を出しますが、先生の取り分は?」とお聞きになるので、「要りません。必要ならそちらで出願してください。発明者は私なので、そうしておかないと詐欺と言われますから発明者には入れてください。でも、お金はいりません」と言ってきた。



時に特許を出した会社が一杯、飲ませてくれることはある。それは恐縮していただいた。人情があってよいものだ。ある時、大きな発明で大会社が私の発明したことで、世界の数10カ国に特許を出した。その時はさすがに責任者が大学に来て「先生、本当に権利を放棄するのですか?」と聞いた。現代の日本社会では「自分の業績が公知になることがうれしい」という学者は少なくなってきたのだろう。



「コピペは良いことだ」と私が言うのは、科学の成果は公知だから、できるだけ多くの人が、できるだけ多くの文章やデータを利用して欲しい、それが「人類にとって良いことだ」と思うからだ。そして人類共通の財産が増えれば、「俺だ、俺だ」と言う人が減って、国際関係は良好になるだろう。



でも、「人のものを使うのはなにか気が引ける」という人もいる。そう感じるのは良いことのように思うけれど、「公知」にプライドを持った科学者がいること、その科学者は自分の文章、データが利用されることを望んでいることを知ってほしいと思う。



自由に使ってください。卒業論文でも博士論文でも、なんでも活用してください。まったくかまいません。



でも、それは「科学の目的」に限ることで、私の文章やデータを使って私や科学をバッシングするなら、それは「世俗」の世界のことだから、私は権利を主張する。今回も、もしSTAP論文をもとに小保方さんを社会的にバッシングするなら、論文を読むこと自体を小保方さんに断る必要がある。



また公知のものだから、誤字があったからとか、写真を取り違えていたとか、少しのことはご勘弁いただきたい。もちろん最善は尽くすが、もともとは小保方さんや私の頭の中にあったものを、恩返しで公表したのだから。



(平成26年4月12日)


武田邦彦


(出典:武田邦彦先生のブログ







STAP事件簿14 深層(2)自分は判断せず、受け売りを自分の判断にする社会





STAP事件簿14 深層(2)
自分は判断せず、受け売りを自分の判断にする社会



(事件簿13を挿入しましたので、音声では13となっています)


私には、多くの人が必死になってSTAP論文の欠陥を探し、公表し、小保方さんを罵倒しているのか、理解することができない。誰かに迷惑をかけたわけでもなく、論文は面白いし、価値のあることが書かれている。写真を間違えたからと言ってSTAP細胞が消えるわけでもない。



アインシュタインが舌を出したから、相対性原理は間違っているというようなことでに懸命になっているのは理解に苦しむ。また、東大の入学式で、理系の著作権・特許権も勉強しない先生が入学する学生にコピペをしてはいけないと言ったらしい。学者もおカネまみれになった。



私はこの現象を「なぜだろうか?」と考えている。ある心理学者は「単に自分が信じたことが裏切られた(論文はしっかりしているのに)と思ったことの反作用で、マッチポンプ」と解説していた。自分が信じ込んだので、裏切られた感じがするらしい。自作自演だ。



でも、それも科学者としての私は納得できない。なぜだろう? なぜこんなにも執念が続くのだろう? 自分の生活にも関係ないのに??



私は昨日、原因が分かったような気がした。それはこれまで、「侵略戦争」、「東京裁判」、「リサイクル」、「ダイオキシン」、「1年1ミリ」などが問題になるたびに、どうして事実と違うことが社会に広まるのだろう?と訝ってきた答えでもある。



「自分で調べたり、読んだりして、自分で判断し、自分の言動を決める」のではなく、「他人の言っていることで自分の先入観に合うものを事実とする」というまったく私の行動原理と違うことを多くの人がしているからのように感じられた。



「自分の言動を自分の判断で決める」のは、言うまでもなく当たり前と思ってきたが、「自分の言動を他人の判断で決める」というのが普通らしい。そしてほぼすべての人が「自分の言動を他人の判断で決めている」ので、その結果、「極めて少数の人が最初に判断したことが日本全員の判断となり、それが言動になる」という社会現象であると気が付いたのだ。



STAP事件は論文の価値の問題だから、論文を読まなければ価値はわからない。たとえミスがあっても価値がある場合が多く、論文は「ミスがなければ掲載される」のではなく、「価値があれば掲載される」のだから、ミスがあっても掲載自体になにも非難する理由はない。



自分に被害がなく、論文も面白く価値があるのに、これだけ懸命になるのだから、一種の集団催眠現象(大人のイジメ)だが、それが発生するのは誰も自分で判断していないからだ。



「侵略戦争」も、「日本が戦ったのはアジア人ではありません。どこを侵略したのですか?」と聞いただけで答えはない。誰かが最初に侵略戦争と言ったし、それが自分の先入観に合致するだけだ。



「東京裁判」も、「裁く法律がなかったので、リンチですが」と言うとこれも戸惑う。「リサイクルしていません」、「ダイオキシンは無毒です」と言うのも同じで、誰も「リサイクルされている量」を調査していないし、「ダイオキシンの人間に対する毒性論文」も読んでいない。



だから、右から左、左から右へザーッと移動する。誰かが言えば、「俺もバスに」と慌てるのだろう。ぜひ一度、STAP論文を通読して、そこにどういうミスがあるのかではなく、どういう知見を得たかを読んで判断して欲しい。そうしたら、この騒ぎはなくなり、小保方さんは一夜にして、日本の若者のもっともすぐれた人の一人になるだろう。



(平成26年4月12日)
武田邦彦

(出典:武田邦彦先生のブログ








2014年4月11日金曜日

STAP事件簿13 研究が悪いのか、書き方が不十分なのか?






STAP事件簿13 
研究が悪いのか、書き方が不十分なのか?



(小保方さんの記者会見前後で、原稿の順番を変えました。音声では“08”と言っています)


STAP事件では、マスコミや批判する学者の多くに論理があっていないように見える。つまり、



具体的な批判は「論文の書き方」なのに、

研究そのものを止めさせようとしている。


ネイチャー論文の批判は、最初、写真の貼り間違えと写真に手を加えたこと、つまり「論文の書き方」が指摘され、その後、卒業論文のコピペや、実験ノートの不備など、本人の研究姿勢に及んできた。



しかし、論文を読むと、写真の問題はあってもそれは「論文の書き方のうまい下手」、「示している資料の正確性」であり、いわば文章の一部がぬけていたり、「てにおは」が修正されていないという類だ。



写真は70枚ぐらいあって、多くは適切なものが使われているし、説明、文章、文献の引き方などは30歳の研究者としてみれば、上出来の部類だ。



さらに、論文に示されていることは、「細胞がかなり傷む刺激を与えると、分化がリセットされる可能性がある」ということを明確に述べており、研究としては問題はない。



1953年、20世紀の最高のノーベル賞と言われる、ワトソン・クリックのDNA論文は、同じネイチャーに掲載されたものだが、「ノート」で、わずか2ページ。実験方法も(彼らは自分のデータを使ったのではなく、他人のデータがほとんどだったが)、詳細な説明もない。しかし、DNAは二重らせんだ、それが生命の源だという画期的な着想だった。



後にノーベル物理学賞を受賞した日本の江崎玲於奈博士も、たしかフィジカル・レターに簡単な2ページの論文を投稿してノーベル賞を受賞している。私は江崎先生から直接、「この論文で賞をいただいたのです」と言われて渡されて、その簡単な記述にびっくりしたものだ。論文には1枚のグラフがあるだけで、説明はごくごく簡単なものだった。



人間の着想の素晴らしさというものは、詳細がキチンと書かれていることではない。書かれている内容が間違いを含んでいるということでもない。そこに示された考えが「これまで人類がほとんど考えたことではない」というのを少しの事実から導き出すことである。



したがって、それは不確かであり、危ういものではあるが、その後、多くの人が関心を持ち、だんだん膨らみ、やがて巨大な発見や人類の福利に役立つものである。



したがって、「こうしたらできる」とか、「他人が追試してできるような記述」とか、まして「70枚のうちに2枚ほど図を間違って貼った」などということは問題にはならない。



STAP事件は、1)科学の進歩の体験をしていない素人の人たち、2)大騒ぎをしたいマスコミ、3)それに乗って有名になりたく、他人の批判が好きな学者、4)研究をお金や名誉でやっている人、それに、5)よく勉強しなかったので先生のコピペやデータの間違いを叱られた子供や青年、が「火の無いところに煙を立てて、日本の科学に打撃を与えた」と言う事件だった。



(平成26年4月10日)
武田邦彦

(出典:武田邦彦先生のブログ







STAP事件簿12 深層(1)小保方さんは誰に迷惑をかけたのか? 謝るのは記者の方だった!!




STAP事件簿12 深層(1)
小保方さんは誰に迷惑をかけたのか? 
謝るのは記者の方だった!!



2014年4月8日に行われた小保方さんの記者会見では、小保方さんは何回も頭を下げて謝っていた。「自分が未熟だった」という理由だが、小保方さんは誰に、どういう迷惑をかけたのだろうか?「未熟」というのは謝らなければならないことだろうか?



彼女は29歳と言う若い年齢で研究リーダーとして新しい細胞の研究をし、「どうも、外部からの刺激で初期化される細胞があるらしい」ということがわかり、その研究成果をまとめて世界的に有名なネイチャーと言う科学誌に論文を投稿した(2013年3月10日)。



投稿した論文は、まだ研究は途上で、未完成のところもあり、やや不十分な記載もあったが、全体としては価値があると認められて、厳しい査読委員の審査を通って、同年12月20日、アクセプト(掲載可)にまでこぎつけた。論文は「ミスがないから掲載される」のではなく、「その論文のどこかに価値があれば掲載される」という性質のものだ。減点主義ではない。



また、論文を提出するというのは、自分の研究(黙っていれば自分や自分の組織しか知らない)を人類に役立てるために公知(だれでも使える人類共通の財産)にするための行為だから、論文を出すだけで立派だ。普通、企業などは研究成果を論文として出さないので、頭脳活動は人類共通財産にはならず、その会社の利益に結び付く。



さて、ネイチャーに論文が掲載されると、興味のある人が読む。20ページ近い英語の論文だから、専門家しか見ないのが普通である。そして専門家は「将来にわたって事実として認定されるかどうかは不明だが、小保方という研究者が何かをやってこういう結果を得たか」というのを知ることができる。



雑誌への掲載料金は自分が払い、すべての労働対価は自分持ち(組織もち)なので、一般社会になにも迷惑はかけていない。また内容は斬新だが、なんといってもまだ世界的に知られていない人だから、共著者に笹井さん、若山先生、バカンティ教授などがいるので、「ああ、あの研究関係の中の若手が書いたのだな」と思って読む。



この論文を読んだほとんどの人は、1)外部からの刺激で細胞が初期化する可能性があるなということ、2)実験は豊富だが、まだ初期の研究だから少しの間違いや錯覚もあるだろう、3)これからの研究や考え方にかなりの刺激になった、と感じただろう。



そして、とても強く興味を持った学者がいたら、追試をしたり、小保方さんの知恵を拝借してさらに研究をしたいと思った人もいるだろう。でも、人の知恵を借りて始めるのだし、研究がまだ初歩的な段階にあり、書いた人も若いので、全面的に信用した人もいなかったと思う。



論文、特にその中でも画期的な内容を含む論文には間違いが多い。人間の知恵は、自分が目標としているのに甘いから、研究者はとかく自然現象を自分の目標としていることにつなげてしまう傾向にある。だから錯覚しやすいが、それをあまり意識すると今度は必要なことを見落としてしまう。



科学史などを少しでも勉強した人は、新しい発見が本人の強い錯覚によったり、偶然だったりすることを良く知っている。たとえばノーベル賞をもらったポリエチレンの合成の発見では、オートクレーブの端についたわずかなシミが気になった研究者がそれを分析したことから始まる。



サラリーマン的、官僚的な研究では新しいことは見つからないし、まして「誤りのない論文を書こう」と思っていたら、新しい内容の論文はかけない。「完成してから書け」と言う人がいるが、どの段階で完成したと言えるかすら、分からない。



「管理主義」と「発明」はまったく相反する性格を持っているからである。前者は制服が似合い、後者はジーパンがあう。私の経験ではまんべんない気配り、隙の無い仕事、キチンとした人づきあいなどができる人で画期的発明をした人をあまりしらない。でもそのことは「適材適所」から言ってもわるいことではない。それぞれ人間には持ち分があるからだ。



論文は未完成で出始める。そのほうが多くの人が参加できて良い。また超電導でも、DNA構造でも、トンネル効果でも、最初の論文から詳細に書いてあるものはない。「こんなことが起こった」とか「おそらくこうではないか」という学問的提案がだんだん、実ってくるものである。



その点から言って、小保方さんは「社会に大きな貢献をした」、「若い日本人の見本になる一人」であることは間違いないが、決して「迷惑」も「悪いこと」もしていない。記者会見では謝る必要はなく、むしろみんなで立ち上がって、拍手をすべきだった。



学術論文はもともと受動的(読む人が判断する)ものだから、書いた人は査読を通る(査読委員が責任を持つ)ことで問題はないのである。また、科学はウソをつかないから、科学者は原理的に悪意はない。



頭を下げるべきは記者の方だった。小保方さんは日本の若者の見本だったのだから。若い人、ミスを怖がらずに!!



(平成26年4月11日)
武田邦彦

(出典:武田邦彦先生のブログ






STAP事件簿11 世間の参戦(4)「学生は教育中ではない」??





STAP事件簿11 世間の参戦(4)
「学生は教育中ではない」??



今回の事件では、学生が登場した。まず第一に、小保方さんの博士論文、第二にコピペ問題で学生の感想、だった。でも両方とも「学生は教育中ではない」という奇妙な前提だ。



教育中というのは学生がお金を払っている。それに対して研究は本人がお金をもらう。だから、学生と社会人(研究者)は全く違う。これが誤解されていることと、弱いもの(学生)は正しいことを言うという前提で、無条件に学生の言うことを正しいとして判断せずにマスコミが報道した。



学生がコピペしてよいかというのは、科学論文がコピペしてよいかとはまったく違う基準で決まる。もし学生が文章が下手だったり、研究している内容をよく理解していない場合、「コピペしてはいけない」と言うでしょう。また文科系の場合、対象とする文献が「思想又は感情に基づく創作物」であれば、著作権がありますから、「事実を教える」ということでコピペを禁止することもあります。



これらはすべて「教育上の配慮」であって、「社会的にどうすべきか」とは違います。お習字の練習をしている時には先生は全員に書かせますが、職場では字のうまい人が式次第を書きます。職場でも教育中と同じように、「順番に式次第を書きなさい。学校でそう習ったでしょう」という上司はいるでしょうか?



学校は「教育のため」であり、社会は「仕事のため」だから、行動規範から基準から、してはいけないことからすべて違うのです。それを学生に聞いてどうするのでしょうか?



・・・・・・・



また試験の答案、卒業論文、博士論文(学生の作品)は「なんのために作る」のかを忘れた報道も多く見られました。



学生(教育中)の作品は「本人の力を高めるため」に提出させるものであり、研究者の作品は「世のため人のため」に出されるものです。したがって、簡単に言うと、学生の作品は合格したらその場で捨てて良いもので、取っておくとか、作品が良かったかどうかなどは問題がありません。



卒業論文や博士論文などを保存しておくのは慣例でやっているだけで、その必要性についてしっかり論議されたことはないのです。私は大学教育改革に深く関係してきましたが、現代の学生の論文についてその意義などを議論するときには、当然ですが、「修行中」であることが前提です。



そして、学生を合格させるかどうかはすべて先生の判断です。でも卒業論文では学科の先生方の同意、博士論文では副査(4人程度で学外を含む)、公聴会(社会)の承認を必要とします。それでも、問題になった場合、主査の先生が合否の理由を述べるのであって、これもあまりにも当然ですが、本人が合否の理由を説明することはありません。



もともと学生の作品の所有権は先生にありますから、先生が修正を指示することができます。もし学生の所有物なら先生は修正をさせることができません。理系の論文の場合、コピペが良いか悪いかは先生が決めることです。



また私は「科学の産物は人類共通の財産」ということを学生に教えるために、自分と他人のものを区別したがる学生に、「自然に対して忠実になり、人間は忘れろ」と教育します。それと同時に、「社会はお金や所有にまみれていて誤解を招くから引用ぐらいはしておいた方が良い」と世渡りの方法を教えておきます。



つまり現代の社会はあまりに考えずにバッシングする人が多いので、「正義ではないこと」も教えておく必要があるという哀しい現実なのです。今回のSTAPもその通りになりました。



本当は科学は自然に忠実であることですから、人間社会とは違う、それがあるからこそ学問の進歩があるのです。人間社会にまみれた科学はルイセンコの「共産主義で小麦を育てるとよく育つ」となってしまいます。



いずれにしても「教育」と「社会」を混合した今回の事件はまことに残念でしたし、かつ早稲田大学が主任教授も説明せず、教授会も調査委員会を作らないのに、大学が「ネットで問題になっているから」と法律(教育ではない)の専門家である弁護士を立てて調査をするのは大学の破壊です。



早稲田大学の卒業生は、「都の西北」の精神を思い出し、大学に正しい教育に立ち返るように求めてほしいと思います。



(平成26年4月11日)
武田邦彦

(出典:武田邦彦先生のブログ







STAP事件簿10 世間の参戦(3)「科学者もウソをつく」??





STAP事件簿10 世間の参戦(3)
「科学者もウソをつく」??



STAP事件では、「不正な研究」が問題になり、「不正な研究」の定義や、それを防止するための「実験ノート」など、不可解な言葉が横行した。でも、科学に不正があるだろうか?



人はその人が死ぬまでウソを突き通すことができる。だから、科学にもウソがあると多くの人が錯覚するのは無理もない。でも科学には「ウソがない」という原理原則がある。



科学を研究する目的は、1)自然現象を明らかにしたり、それを応用して人類の福利に貢献する、ということか、2)工場などを作ってもうける、と言うことの二つである。いずれも自然科学では「自然」をもとにしている。



人間と違って、自然は常に「正しい結果」を出してくる。だから、自分がデータや論理を「捏造」したら、しばらくして必ず(100%)捏造した結果と違う「正しい結果」が出てくる。捏造したデータで工場を作れば、その工場は動かない。



このことは科学者は誰でも知っているので、少なくとも10年以上は科学者を続けようと思っている人や、事業にしたいと考えている人がねつ造するはずはあり得ない。すぐばれることは100%、間違いないからである。



例外がある。1)大学4年生で卒業すれば終わりという学生が実験をさぼった場合、2)何かの地位を得ればそこで安定するので、とりあえずウソをつく場合、3)補助金をもらいたいなどの理由でウソを言う場合、である。いずれも学問が「お金、名誉、地位」などに関係するからウソをつく。



でも、その割合はものすごく少ないので、チェックするより、自然に消えていくのを待った方が社会としては得策だ。つまり、「他人がやってもできないこと」などはほっておけば自然消滅するし、「工場が運転できないこと」をやっても損が重なるだけだ。



だから、通常、科学は「ウソや悪意はない」として、すべてを行う。その方が、ウソや悪意をチェックする活動より労力が極端に少なくて済むからだ。



もう一つは、私がテレビで解説したように、「論文はそれが素晴らしければ素晴らしいほど、現在の知見から見ると間違っている」からである。天動説が正しいと考えられている時に星のわずかな動きを問題にして計算し、地動説を唱えても「間違い」と判定されるのは確実だ。



かくして、科学の進歩は「ウソや悪意はない」として前に進めたほうが良いということになっている。もちろん、科学史の中には多くのウソがあるが、それは社会的な問題になっても、科学の世界ではなんら不都合はない。時に、化石のウソなどが起きると、それをきっかけにして、別の視点が生まれ学問は発展し、ウソは原理的につき続けないので、その人は没落する。私は長い科学の歴史で、ウソを突き通して人生を成功の裡に終わった人を知らない。



自然はだませないので、100%露見する。私の先輩の一人が研究責任者から社長になってしばらくして、「武田君、社長は楽だね。どうしようもなくなったらだますこともできるけれど、自然はだませないから研究はどうにもならないから」と言われたことを思い出す。



STAP論文が悪意だったなどということはあり得ず、考えなくてよく、かつ動機もない。動機の無い犯罪はない。ただ、むしろバッシングしたマスコミ、専門家、理研首脳部には動機がある。それは、視聴率を上げたい、販売量を増やしたい、ライバルを蹴落としたい、有名になりたい、組織を守りたい、特殊法人の指定を受けたい・・・などがあるからだ。



むしろ、そちらがバッシングは悪意がなかった説明しなければならないだろう。小保方さんが悪意がないことは言う必要もない。私は研究者を守ろうとはしていないが(事実を解説するだけ)、このようなことが起こったら「善意の研究者が社会の悪意で消される」ことが起こり、それこそ社会正義は崩壊する。



(平成26年4月11日)
武田邦彦

(出典:武田邦彦先生のブログ







STAP事件簿09 世間の参戦(2)「あり得ないミス」??






STAP事件簿09 世間の参戦(2)
「あり得ないミス」??



STAP事件では、科学研究の経験がない多くの素人が参戦した。これは良いことだったが、小保方さんはかわいそうなことになった。つまり、リンチ的になったからだ。その一つがコピペでこれは前回に説明した。次に「間違った図など使うなんて、あり得ないミスだ」と言う人が多かった。



でも、これまで長く論文を審査し、またネイチャーなどの有力紙を読んできた私にとっては、今度のSTAP論文ぐらい多くの図と豊富な情報を提供した場合、1や2つはミスがあるのが「普通」で、「ミスがないのはあり得ない」ことだ。



これは私の先生で「歩く教科書」と言われたぐらいの権威のある先生が「武田さん、ミスがない論文を出そうとすると、死ぬまで出せませんね」と言ったことを思い出す。私も万が一にもミスがないようにと思って論文を出すが、まずミスがある。



特に今回は「写真の使い回し」という悪意のある言葉をマスコミが使ったことが問題になった。「使い回し」というと一度、どこかに使ったものを意図的にまた使ったというように聞こえるが、事実は「膨大なデータがパソコンにあり、そこから論文を書くときには「これが適切だ」と思うものを取り出す」ということで、特に数年前のデータなどは時々、錯覚する。



おそらく、「あり得ないミス」という学者は、データが少ないのだろう。一所懸命、研究しデータが多い研究者は常に間違いの恐怖の中にある。彼女が記者会見で、「実はバージョンアップしている間に、どこかで写真を間違えて貼った。そして「正しい写真」を探すのにずいぶん、時間がかかった」と言っていた。私もまったく同じ経験をしたことが多くある。正しいデータが頭に浮かぶのだが、それを見つけることができないことが多い。



また、論文というのは、学会などに提出したら、その論文にミスがないか、論旨はしっかりしているかについて責任を持つのは「査読委員」であり、それを読んだ人が「あり得ないミス」などに気が付くはずもない。それこそ、ミスを見つける人に悪意が必要だ。



ここで、この論文がどんなに良心的なものだったか、図や写真、ビデオはどんなに多かったかを「感覚」でわかってもらうために、いかに問題の論文に使用された図表、ビデオ(一画面だけ切り取っているが、現実の論文には長い実験結果がビデオで示されている)を示す。解像度がわるいので詳細は分からないが、こんなに多い図表や写真、ビデオを使用したのはそれほど多くない。



これだけ良心的な論文をだし、社会に多くの情報を提供した意図が、なぜ、1,2枚の写真を間違えた(私はそのことは論文を読んだ人に絶対に錯覚を与えないと思う)のを問題にしてバッシングするのだろう。おそらく科学に興味がないと思う。


(平成26年4月11日)
武田邦彦

(出典:武田邦彦先生のブログ







2014年4月10日木曜日

STAP事件簿08 世間の参戦(1)「あり得ないコピペ」??





STAP事件簿08 世間の参戦(1)
「あり得ないコピペ」??



STAP事件では、相変わらず日本社会が情緒的で、リンチ的であることが露見した。マスコミの問題だけではない。



それは、「コピペ」が「絶対にしてはいけない悪いこと」というのが前提で事件が進んだことでわかり、その大きな理由の一つが、学生や若い研究者、また文科系の人が「科学の執筆物の著作権と社会への貢献」という勉強も体験もないことが大きかった(未知が野蛮な社会をリードする)。



「コピペが良いことか悪いことか」は「自然科学の著作物」の「権利と名誉」はどうなっているかによる。情緒的な判断や自分勝手な倫理は学問的ではない。

1)18世紀まで「人間の知の活動」の成果は人類共通の財産として常に解放されていた。文学などを含む。学者にとっても自分の業績が人類共通の財産になることが誇りだった(例外はある・ニュートンに代表される)。

2)ヨーロッパ社会の進展とともに、成果の権利について例外を設けたほうが良いということになった。



3)例外は「著作権」と「特許権(意匠権などを含む)」の2つで、それ以外は「人類共通の知」ということで「公知」と言う名前になっている(公道、公海、公園などと同じ。断らなくてもだれでも使ってよい知)

4)現在の日本でも同じで、例外は「著作権」と「特許権」だけである。でも、それはあくまで個人の利益のためではなく、社会の発展のためのベストな選択という意味である。



5)多くの人が誤解しているが、「著作権」というのは「書いたから俺の権利」ではなく、「思想又は感情に基づく創作物で表現されたもの」に限定されている。

7)通常の理科系の著作は、「思想又は感情」に基づいていないし、「創作物」でもないので、著作権はない。裁判の判例もそうである。

8)「著作権がない著作物」は公知であるから引用は不要である(これも多くの人が間違っている。著作権法32条は著作物に限り引用が必要とされている).著者は公知になって無断で利用してくれることを望んでいるはずである。


9)論文を書いたり、ネットに出したりする行為は、もともと「公知にしたい」という意思の表れだから、どんどん無断で使ってよい。それが嫌なら論文やネットに書かなければよいので、自分の頭の中のものを知られたくないという権利は十分に保障されている。


10)理科系の知の成果で、自分の権利にしたければ、特許を申請することができるし、論文を書かずに特許だけ書けばよい。その代り特許では「特許請求の範囲」という権利の範囲を明示して、その審査に合格する必要がある。

11)「倫理」と言う点では、社会の認識と反対だが、無断で引用するほうが倫理的である。つまり「人類共通の財産」を認め「公知」であるという法律に従っているからだ。引用しなければならないというのは法律より村の掟を上位に置く思想だから危険。



なぜ、人類の知の成果は「公知」が原則かと言うと、そのほうが人類全体が繁栄するからという理由と、人類が「自分、自分」というと争いになるので平和に向かうために「共通財産」をそのままにしようという考えがあるから、と言える。



オリンピックも「勝つために参加するのではなく、参加するのが意義がある」と言われるのは、「国別対抗」などにならないようにしている。今でもIOC(国際オリンピック委員会)は「国別メダル数」などは出していない。あれは商業主義のマスコミが集計しているだけだ。



私は論文を出したり、ものを書いたりする時には、「公知になって欲しい。多くの人の参考になれば」と思い、人類共通の財産を提供するつもりであり、決して「自分」ではない。



学者は憲法で学問の自由が保障され、教授は身分まで守られている。その恩返しをするのは日本人として当然だ。もしお金や権利が欲しければ、特許を申請して論文を書かなければ良いのだから、これも簡単なことだ。



ところでこれは数回後に欠く予定だが、「学校の先生がコピペはダメと言った」という学生の話を放映するテレビもテレビだが、「人類共通の財産を故意に使わせない」という先生の意図は「文章が下手だから訓練させる」ということであって、教育上の罰のようなものである。



でも相当な先生でも、論文に権利があると思っているし、「引用しないと失礼」とか「他人の文章を利用するなんて!」という人がいるが、学者なのに論理的にものを考えず、直感的、村の掟優先する人がいるから、いざこざが絶えず、結果的に戦争になる。(人類共通の財産と言うことを理解できず、所有権ばかりを主張している)



その人は公園のベンチに座るときに市役所に申請書をだすのだろうか? 公園のベンチも苦労して作った人がいるのだ。ずいぶん、わかりやすいと思うけれど、著作権法は法律だから自らの倫理観より社会的には優先する。



コピペを批判する学者は「思想または感情に基づいて」理系の論文を「創造」しているのだろうか?


(平成26年4月10日)
武田邦彦

(出典:武田邦彦先生のブログ






STAP事件簿07 私がSTAP論文を読んでみると・・・






STAP事件簿07 私がSTAP論文を読んでみると・・・



私がSTAP論文を読んでみると、なかなかの大作で、図表が70枚ぐらいもある有意義で良い論文と言う印象を受けた。英語のレベルも高く、説明も丁寧、引用文献も多からず少なからず、なかなか優れた論文だ。



なにはともあれ、論文を読んでいくと、厳しい環境の中で生き残った細胞が初期化するのだな、そしてそれから生体が誕生する可能性があるということがわかる。それが真実かどうかではなく、著者はそう考えていることが分かる。論文はそれで十分で、真実が示されているわけではない(人間には不可能)。



基礎的な研究もあり、面白くもあり、さらに将来につながる大きな発見の可能性もあるなという感じだった。これならネイチャーの査読委員も掲載するだろう、世界の科学には大きな貢献をすることは明らかだ。



読んでいるとわたしには「間違った写真」というのはわからなかったし(査読委員もわからなかった)、もし2,3枚の写真が違っていても、この論文で示した新事実にはまったく影響はない。



私が日本の学者でこの論文に批判的な意見が理解できないのは、問題になっている論文は立派な論文で、刺激的であるし、かりに今、問題になっているところを修正してもしなくても、結果として示されていることは変わらないから、「科学的事実としてなにが問題なのだろう?」と思う。



たとえば、小保方さんや共著者の笹井さんなどを「再教育」する必要があるという見地からは、「もう少し慎重に論文を書きなさい」という忠告や指導はあり得るが、笹井さんなどは一流の研究者だから、それも失礼なことだ。



あえて言えば、あまりに親切に説明していることが結果的に小さな欠陥を作った感じもする。ベテランの学者なら写真などは半分も出さなかったと思うけれど、やはり若い研究者は(自分もそうだったが)「説明したい」という気持ちがあって、丁寧に写真などを出す傾向がある。



でも、それも問題はない。データを多く出すというのは危険なことだ。ミスも増えるし、基礎的な段階では「相反するデータ」というのが多くあるので、すべてを出すと論旨が通らない。これは「ウソをつく」とか「隠す」と言うことではなく、「相反するデータのある中で、その研究者はどのように考えているか」が分かればよいからである。



もし、すべてのことが分かってから論文を出したら、他の人はSTAP研究をすることすらなくなり(すべてが分かっているから研究にならない)、しかもそれが一人の人の人生の中で終わるかどうかわからない。



記者会見の後、やや心配な議論は「STAP細胞があればOK,なければダメ」という意見が出てきたことだ。いま、問題になっているのは、「論文の書き方に少し欠陥があった」ということであり、「論文自体が間違っていた」ということではない。



また基礎研究段階では、「これまでの事実から、こう考えられる」ということを「正しく」推論しても、後のそれが間違っていることがある。たとえば、地動説でも、ロケットを宇宙に打ち上げて太陽系を見たわけではなく、小さな望遠鏡で星の動きを見て、惑星の動きは計算してみると太陽の周りをまわっていないとつじつまが合わないと言っているだけだ。



でも最初はそれからスタートして、いろいろな観測をみんなでして、次第に新しい発見が完成していく。最初から「正しいかどうか」などを問うたら学問は成立しない。その意味で、STAP細胞は本当か?という質問は科学の進歩にとってきわめて危険である。


(平成26年4月10日)
武田邦彦

(出典:武田邦彦先生のブログ







STAP事件簿06 暗闇研究と月明かり研究





STAP事件簿06 暗闇研究と月明かり研究



どちらの研究が「正しい研究」かということではないけれど、研究には「暗闇研究」と「月明かり研究」がある。



暗闇研究と言うのは人類がまだ知らないことを手探りで調べていくもので、月明かり研究と言うのは先人がアメリカなどにいて、それを発展させたり、手法を作ったり、最適条件を探すような研究だ。



それ以外にも「昼間研究」というのもある。ある建物を設計するためにまだ不足している「材料疲労特性」を調べる研究で「研究さえすれば、結果がでる」というものだ。今回はこの「昼間研究」は触れないことにする。



私が若いころ、ある大先輩から「武田君はよく真っ暗闇を歩くことができるね。真っ暗闇だと、次に踏み出す一歩が谷底かも知れないから、恐怖心はない?」と聞いてくれた。



その頃、私はアメリカもフランスもチャレンジして失敗した研究に挑戦していた。だから「完全に暗闇」ということはないが、途中までは月明かりがあったけれど、すでに真っ暗闇に突入していた。



そんな研究では二つの恐怖心がある。一つは、「次の一歩で谷底に」という恐怖である。つまり先が見えないのだから、やっているうちに「これまでのことはすべて間違い」というのが分かる可能性がある。そうすると評判を落とし職を失い。



もう一つは、自分が歩いている道はすでに失敗する道で、さっきの分かれ道みたいなところで左に行かないといけないのではないかという研究の方向に対する恐怖である。この場合は、やってもやっても泥沼に入る。



いずれにしても、月明かりもないのだから、一歩一歩、手探りで進み、周囲もまったく理解してくれない。「成功する可能性は?」と言われても「わかりません」と答えるしかないし、「成功したらどういう役に立つの?」と聞かれても、最終的にどんな結果になるかわからないからこれにも答えられない。



それではそんな「真っ暗闇研究」はこれまで誰がやっていたかと言うと、アメリカ人やヨーロッパ人だ。日本の科学者とか東大教授とかいっても、彼らの追従をしてきたに過ぎない。人によっては彼らの理論を理解するだけで精いっぱいと言う学者もいる。



今回のSTAP事件の論評を見ると、「月明かり研究」をした人か、あるいは「研究をしたことがない人」が厳しいことを言っている。月明かり研究なら、研究は研究だが、うっすらと月明かりがあるから、それをたどっていけば目的に達する可能性が高い。不安も少ないし、研究結果がどのようなものになるかはうっすらとわかる。周囲も研究の意味や結果がわかるし、「アメリカに追いつけ」ということで協力してくれる。全然違う。



私の周辺の「真っ暗闇研究」を経験してきた人(その一人は私の大先輩、もう一人は国際的な研究者、さらにお一人は学会のトップだがよく見てきた人)は口をそろえて「武田先生の言っておられることの99%は同意です」と言ってくださった。



STAPに関して言えば、大筋の研究は正しい、論文のうまい下手は研究には無関係、写真の取り違えなど問題はない、基本的にはコピペOK、30歳ではあっぱれ、実験ノートなどいらない・・・ということだ。



特にテレビでコメントしていた、東大教授、名古屋大学教授、大阪大学准教授の方はいずれも「研究者としてありえない」という趣旨のことを言われていたが、それは「月明かり研究者としては」とさらに説明を加えたほうが良かった。


(平成26年4月10日)
武田邦彦

(出典:武田邦彦先生のブログ







2014年4月9日水曜日

STAP事件簿05 小保方さんの記者会見





STAP事件簿05 小保方さんの記者会見



驚くべきことに、2014年4月9日、小保方さんが記者会見を行い、「ご迷惑をかけた」と謝った。本来、謝るようなことは必要ないが、社会が勝手に騒ぎ、勝手に批判したのだから、「悪人」がいるとしたら社会だが。



いずれにしても、彼女はやや感情も動いていたが、論旨はしっかりしていた。



科学的事実自身はなにも問題ない、

論文を提出する際の「村の掟」をあまり知らなかった、

STAP細胞の研究をさらに続けたい

今回の論文は現象を示したにすぎず、今後は作成条件などを進めていきたい。


というものだった。



これまで日本社会は何を騒いでいたのだろうか? 「論文の書き方が悪い」からといって科学的進歩自体を破壊してしまうのが日本社会の目的だったのだろうか?



彼女自身が言ったように「研究とは違うことばかり」という感じは私が論文を読み、長い科学研究の経験とまったく同じ感覚だった。



またこの記者会見のなかで、質問する記者が「ネットで」とか「ソサイアティーは」とか曖昧な根拠を示すことが多かった。つまり、「悪人が善人をバッシングする」という「リンチの社会」がまだマスコミの存在やネットによって日本に横行していることを示している。



会見の中で、理研の策謀も明らかになった。理研は審査委員会のメンバーがたった一度、小保方さんのところに言って「ノートはありますか」と聞き、その場にあったノートをもっていった。そして理研の会見では「3年間で2冊しかノートがない」という理由で、研究が杜撰という結論を出した。



理研こそ、悪意を持つ集団の可能性が高い。日本人は権威に弱いので、個人と理研と言う権威が並ぶと、理研が正しいと仮定する悪い癖がある。もともと実験ノートは「研究とお金」が関係している時だけ必要で、本当の学問にはノートは関係ない。



またテレビでは学生が「自分の卒業論文でもコピペは・・・」というようなことを言っていたが、教育と研究を間違ったり、著作権を知らなかったり、村の掟だったりの方を信じているのは情けない。



私が読んだ感じは、「研究はしっかりしているが、論文を書くのに慣れていない」という感じがした。論文を書いた経験が浅いから、不完全なものは仕方がない。なぜ、日本社会はこれほど間違えるのだろうか。



STAP細胞があっても無くても、小保方さんは立派な研究者だ。



(平成26年4月9日)
武田邦彦

(出典:武田邦彦先生のブログ






2014年4月8日火曜日

STAP事件簿04 ネットの威力と不思議な現象




STAP事件簿04 ネットの威力と不思議な現象


Xデーの後、1か月たたないうちに、STAP論文に対して「火の手」が上がった。そして4月初旬には「論文に不正行為があった」と理研が発表する。このことは「常識」では到底、考えられないことだ。



わずか1か月ほどの間に、STAP細胞の写真、小保方さんの博士論文の第一章の問題などが次々と指摘される。仮に指摘した人が「素人」とすると、驚くべき能力と情報力だ。STAP論文の内容を理解し、写真を見て判断でき、3年前に小保方さんが使った写真を知っていて、さらに博士論文の第一章に使われた文章が、遠くアメリカのネットに出ているものと同じということを指摘したのだから、すごい。



この中でも、コンピュータである程度、突き止められるコピペなどは別にして「不適切な写真」などは普通は専門家でなければわからないからだ。



たとえば私のように生物学も大学時代に専門課程でも学び、学術誌を読んでいる人でも、普通はネイチャーの論文を読み、「へー、こんなことがあるのだな」と思うだけで、そこに示された図が「間違ったもの」ということはわからない。



もちろん、ネイチャーの審査(査読)は厳密であり、かつ専門家中の専門家がやるのだから、それを私が読んでわかるはずもない。それがなぜ「ネットの人」はわかったのだろうか??



また、もう一つの疑問は、小保方さんが「ズルをする人」なら、早稲田大学の友人や先生、理研の仲間が分かっているはずだし、「普通の人」であっても、データを誤魔化すようなことが「集団で仕事をしていてわからない」ということはあり得ない。



NHKのニュースにでた早稲田大学の学生は、「日曜日にも熱心に研究していた」と賛辞を送っている。一連のNHKの放送では、小保方さんの日常が異常だったというものは一つもない。取材が正しく行われたとしたら、その後の取り扱いと全く違う。



大学で学生一人に実験をやらせているときには、「少しおかしいな」と思うことがあるが、2,3人でグループを作っている時にインチキをするということはあり得ないし、できない。



また研究は検討会があり、そこにデータが出てくるので、上司や関係先の人は研究過程ですべてを理解している。もしある時に作為的なことをしたら、つじつまが合わなくなる。なぜつじつまが合わなくなるかと言うと、普段の日常生活のことなら「全体の内容が良く分かっている」からこそゴマ化しもできるが、科学の研究は「次がどうなるか」がわからないので、ウソのつきようがないからだ。



つまり、一緒に研究しているグループの人、上司の人、共同研究の人、理研の人、知的財産担当者、ネイチャーの査読委員、そして私・・・などがすべて理解せずに研究が進み、論文を読んだのに、なぜ「ネットの人」が直ちに論文の欠陥と、普通には見ることができない博士論文を調べることができたのだろうか?



実に不思議である。



(平成26年4月8日)


武田邦彦

(出典:武田邦彦先生のブログ




2014年4月7日月曜日

STAP事件簿03 Xデー



STAP事件簿03 Xデー




2014年の正月。STAP細胞の関係者は忙しかった。なにしろネイチャーに掲載されるSTAP論文が1月末に掲載されることが決定されるわけだから、その時期に合わせてなにかの発表をする必要があるからだ。



どうせ発表するなら、できるだけ派手にやる必要がある。少し前なら、重要論文がでて、それが偶然にもマスコミの目に留まったら、研究者のところに記者が押し掛け、研究者が研究室の奥からでてきてはにかみながら記者の質問に答えるということだったが、今は違う。



研究がお金になるという時代、研究成果をどのぐらい派手に宣伝するかが研究費を獲得する上でも大切になる。研究者はそんな能力も求められる時代なのだ。



そこで、1月末までに、

1)誰を中心にして成果を強調するか。実績のある笹井さんか、あるいは若い小保方さんか?

2)笹井さんならお一人でも大丈夫だが、小保方さんとなると、まだ理研に入って数年なので、笹井さん(副センター長で上司)か、若山先生(共同研究者で教授)も同時に出席させることが必要となる。議論があっただろう。

3)議論の結果、「若い小保方さんを中心にしよう」ということになる。

4)広報部か発生センターの発案で、急いで研究室の壁をピンクに塗り、冷蔵庫にムーミンを貼ることが決まる。(この情報は複数個所から来ているもので、理研はこの疑問に答えなければならない。もともと公的財産である理研の研究室の壁を個人が勝手に塗ることはできないし、ムーミンぐらいは許すかも知れないが、漫画の張り紙や決まっている制服(白衣とか作業衣)以外の「割烹着」などを着ることは普通はむつかしい。もしそのようなことがあったら、杜撰か管理体制と言うことになる。

5)記者会見をするなら、NHKをはじめとしたマスメディアにどのように連絡するのが適当か、反響を大きくするために何を準備しなければならないか、広報部と発生センターとの間で、詳しい打ち合わせがあった。(どちらも自由にはできない)。



かくして2014年1月24日ぐらいには、小保方さん、若山先生、笹井さんなどのスケジュール調整、記者会見場所、記事が出てから理研の首脳部のコメント・・・など必要な数10項目について



広報部と発生センターで最終確認が行われた。



かなり大規模な準備だったということは確かである。



そして、いよいよXデーがくる。2014年1月30日だ。この日から4月の初旬に「論文は不正だった」と言う理研の記者会見までのことはすでに多くの人の知るところとなっているので、ポイントとなるテレビの画面などを参考にして思い出したい。



まず、最初の映像は1月30日のNHKの7時のニュースで「大発見」を報じるもので、次の映像は「リケジョ」という名前を付けてNHKが研究者の人物像を表面に出したものだ。佐村河内氏の場合と同じ手法だった。



次に周辺の研究者や先生で、一人は理研の上司の笹井さん。この人は万能細胞関係の研究では日本の有数の方で、36歳で京大教授になり、その後、理研に移っている。世界的な業績を上げている人と言ってよいだろう。



1月30日の記者会見では、笹井さんは、記者会見で、小保方さん―若山先生―笹井さんと並んで座り、時々、小保方さんの答えが不十分と思った時には小保方さんのマイクを取って自分で回答していた。研究に主導的な役割を果たしていたことは、経歴、実力、立場から当然でもある。



また、NHKでは小保方さんの人物像を詳しく報道したが、その一つが早稲田大学で博士号と取得したことだった。この映像は小保方さんの博士課程の指導教員で、後に博士論文疑惑が出てきたが、現在(2014年4月)の時点で、まだマスコミには出てこられないので、論評できないが、早く何らかの形で博士論文審査の時の考えを公表してもらいたいと思う。



ともかく、こうしてSTAP細胞のXデーは「大成功」で終わった。



(注)著作権の判例では、テレビの画像の一部を切り貼りして使うのは、番組自体を激しく攻撃するような場合を除き、著作権(「思想又は感情に基づき創作的に表現したもの」に該当しない。



(平成26年4月7日)


武田邦彦

(出典:武田邦彦先生のブログ







STAP事件簿02 2013年暮れ


STAP事件簿02 2013年暮れ




2013年の5月の連休もあけて、理研は第二段階に入った。



知的財産担当は連休前に提出した国際特許を今後どうするかの協議を続けていた。国際特許はその後、各国の知的財産を申請するのが普通であるが、方法や戦略は多岐にわたる。



とにかく「お金になる特許」と考えられるので、関係先との調整も含めて慎重に進められてきた。理研としても国庫の研究費を獲得したり、理研100年の計にも影響があるこの特許に強い関心を持っていた。



当時の理研の知的財産に関する重要会議の議事録などが公開されることを望む。



現場では、まず小保方さんが毎日のようにネイチャーからくる「査読結果」に追われていた。論文を出すと数か月で最初の審査の結果が来て、普通は2か月以内ぐらいに返事を出す。



査読は、研究の筋から、文章、さらには語句の修正まで多くの指摘があり、写真などの追加、修正、説明などを求められる。



論文は提出された後、思いがけなく「そのまま通る」ということもあるが、もし「ある程度、杜撰な論文」の場合は、少なくとも数回は査読委員とのやり取りがある。かつては郵送だったのでかなりの時間を要したが、最近はメールで片付くので格段に早くなったが、それでも返事を出すのに1か月ぐらいはかかる。



そこで小保方さんは上司とも相談しながら、査読に対応していた。その間、10名ほどの実験部隊は追加データを取ったり、新しい実験に取り組んだりしていただろう。



その努力が報いられて、投降した論文は、ついに10か月後の暮れも押し迫った2013年12月20日に「アクセプト・・・つまり査読を通過して雑誌への掲載が決定される。上のものでは、"Accepted 20 December 2013"となっているところで、日本語では「2013年12月20日 掲載証人」という意味である。」されたのである!!



論文を提出してもそれが「アクセプト」(掲載可)になるかどうかは一つの賭けだから、研究チームも、上司も、理研首脳部も喜んだに相違ない。



またタイミングも2014年の4月に理研の「特定法人」の指定の時期から言って、その前年の12月だから、最善だ。このような経営的な意味を持つ論文や特許は首脳部はその経過を事細かに知っているのが普通である。



また、日本人は欧米のソサイアティーに深く入り込めないので、「論文を出したら、査読に従う」というのが普通だが、アメリカなどでは、雑誌社の関係者に電話して「急ぐから何とかしてほしい」ぐらいの圧力はかける。



今回の論文はハーバードのバカンティ教授も関与しているし、理研も国際的なネットワークを持っているので、ネイチャーとの事前の折衝もあったと考えても良い。



いずれにしても、ネイチャー論文が2014年の一月末に掲載されえることになり、理研もさらに先のことに動き出すことができるようになった。



特許は公開するまで内容を秘密にしておかなければならないので、「記者会見」のような派手なことはできない。しかし論文は掲載されれば直ちに詳細が分かるので、演出もできる。だから「論文掲載の決定」は組織にとっては重要である。



ところで、ここで論文と特許の著者(発明者)を確認しておきたい。論文の著者(横のコピペ)はすでにマスメディアを通じて明らかなように、小保方さんを筆頭にして、若山教授、笹井さんなどが並んでいるが、特許の発明者にはバカンティ教授を筆頭として、小保方さんは一発明者である。(下のコピペ)



いずれにしても2013年暮れ、理研の関係者は「忘年会と祝賀会」を開いて年を越すことになった。


(平成26年4月7日)


武田邦彦


(出典:武田邦彦先生のブログ




2014年4月6日日曜日

STAP事件簿01 2013年正月






STAP事件簿01 2013年正月




(STAB事件は今、進行中ですが、日本文化(学問、教育、若者)のために大切なことなので、整理をしておきます)


STAP事件簿は、今(2014年4月)からさかのぼること約1年3か月、つまり2013年の正月から始めることとする。



正月明けから理研の発生再生総合研究センター(発生センターと呼ぶ)の首脳部は重要な決定をしようとしていた。それは数か月先、できれば3月か4月までに、STAP細胞についての「理研の特許」と「ネイチャーに掲載されるような論文」を出すことを決めなければならなかったからだ。



「木を見て森を見ず」にならないように、この事件簿ではできるだけ詳細にわたることを避けて、物事の本質に迫りたいと思うので、この会議の細かい発言や人物像はここでは割愛して、先に進む。



国際特許を出しても、論文を出しても、いずれ1年から2年ほどの間に公開されるので、ほぼ同時期に出すのが適当だ。つまり、特許だけにすればお金だけ、論文を出せば名誉だけ、と言うことだから「お金と名誉」の二つが必要な理研としてはどうしても二つは出さなければならない。



しかし、特許の方は「権利を持つのは組織」で「発明者は二の次」であるし、論文はその逆で「名誉を受けるのは個人」で「組織は二の次」である。



また特許というのは、「自然科学」と「社会の法律的権利」というかなり専門領域の違うものを結び付けなければならないので、それをつなぐために、実験担当者(小保方さん?)、上司(笹井さん?)、理研の弁理士(執筆者)で共同して行い、理研の知的所有権の部署にも十分な説明を上司の方からすることになった。



(この事件簿で?がついているのは、公式な発表がないことから確認が取れていないもの、警察の捜査が必要なものなどのものである)



理研以外にSTAP技術の権利を主張するアメリカ・ハーバード大学との提携機関である「ブリガム女性病院」、日本の「東京女子医大」などがあるので、そことの合意を測りながら、国際特許を出願することになった。



理研のデータについては小保方さんを中心とした実験チームが出して、上司と弁理士が説明を受け、弁理士が代筆して第一案を出して来たら、それを理研の発生センターで検討し、合わせて日米の関係先に検討してもらうことになった。



現場はさっそく作業に入り、弁理士が発生センターに来て、実験の様子やデータ、打ち合わせを行い、知的財産部では、アメリカと女子医大との間で、これまでの成果に対する貢献割合を決めて、特許になった時のお金の取り分などの協議に入った。



特許の方が動き始めたとき、小保方さんや上司などの現場サイドはさらに忙しくなった。というのは、特許と論文のデータなどの中身は同じだったが、ネイチャーに論文を出すとすると、どのような構成で行くか、英文の作成、写真や図表の整備などが必要なので、それはそれで並行して現場チームが担当した。



そして、運命の論文が2013年3月10日、旧陸軍記念日にネイチャーに投稿された。論文の表紙には、”Received 10 March 2013” となっている。つまり、論文の原稿が小保方さんからネイチャーに送られて、ネイチャーの担当者が投稿されたことを確認したのが3月10日だったということが分かる。



続いて、2013年4月24日に特許が出願された。正月から3か月、理研や関係機関の多くの人が努力した、「特許と論文」はこうして提出され、発生センター長、知的財産部署長、そしておそらくは理研理事長から「世紀の発見と工業所有権の申請」についてねぎらいの言葉があり、これが理研の今後の「発展」(学問的発展ではないが)に大きな意味を持つことが関係者で確認されたであろう。



そして、5月の連休には一仕事を終わった人たちがしばらくぶりの休みを取り、ゆっくりと骨を休めた。



理研の記者会見で私が不信感を持っているのは、特許と論文がほぼ同時にでてきて内容も同じと考えられるのに、「理研が出した特許」には触れず、「個人が出した論文」だけを問題にしたということです。



普通には「同じな内容の特許を出していて、それは理研が出した(主体者は組織としての理研)ものだから、論文に記載されているのは事実である。」と言うはずだからです。


(平成26年4月6日)


(録音を聴いてみると弁理士のことを弁護士と言っているところがありました。すみません)


武田邦彦








2014年4月4日金曜日

【STAP騒動の解説 260404】 ぬかりはないが何も出てこない人と、ぬけているがひらめく人




ぬかりはないが何も出てこない人と、ぬけているがひらめく人



人間は万全でもなく、すべてをカバーできる人も少ない。とかく、うっかり屋さんは良い成果を生むけれど、何から何まで気を配ることができる人は創造的なことは苦手と言うことが多い。


多くの学生を育てるうえで、最も大切なことは、その人なりの個性を生かして長所を伸ばすことだ。間違いが多い学生で、だらしない学生もいるけれど、何かに夢中になって他のことがおろそかになる「赤ちゃん型」の学生も多い。そのような学生は機械や電機などの分野では特に伸びるように感じられる。


赤ちゃんは何にでも興味を示し、やる気満々である。これに対してミスのないしっかり者の大人の中には、確かに抜かりはないが面白い結果は期待できない人もいる。


もともと日本社会はミスを咎める傾向があるが、最近のマスメディアやネットを見ていると、悪いほうの日本文化が発達して、ミスを咎める傾向がある。まさに「角を矯めて牛を殺す」と言うことが現実レベルになってきたように感じられる。


ミスをする人を見て「そんなこと信じられない」と言う人が同時に「奇想天外な着想」ができるかというと正反対のように思う。


まして、科学の分野では「成果は人類共通のたから」であり(公知・・・「こうち」と読む)、決して発見者の所有物ではない。「所有物概念」がはっきりしているのは「世俗的な考えの人」で、科学そのものに興味があると、つい人のものも自分が使ってよいと思うのが普通で、しかも法律的にも正しい。


「コピペしてはいけない!」などと、違法(科学の成果を無断で使う人を非難すること)を教える人は、自分自身が所有権を重視するお金にまみれた人だが、そのような人に「平和への道」を閉ざされたくない。


(参考)著作権法
  • 著作物とは「思想または感情に基づき、創造的な表現物」である。
  • 著作したものの引用が必要なのは、その著作が著作物である場合だけである。

(平成26年4月4日)
武田邦彦

(出典:武田邦彦先生のブログ






2014年4月1日火曜日

「小保方さんは悪くない!」  武田邦彦がSTAP細胞問題を徹底解説!

この問題が、この先どのようになっていくのか分かりませんが、
武田邦彦先生の解説を聞くと真実が見えて来ますね。

今後も引き続き、この問題について解説して戴きたいと思います。

その1 (4月1日収録)

その2 (4月1日収録)

その3 (4月1日収録)

その4 (4月1日収録)

【STAP騒動の解説 260401】 公道、公園、公海、公知・・・それこそ私の学問のプライド




公道、公園、公海、公知・・・それこそ私の学問のプライド



公道は誰かが土地を提供し、誰かが苦労して整地し、舗装しただろう。でもいったん「公道」として使われれば、誰がいつ、無断で使ってもとがめられない。それはその国の国民の共通の財産だからだ。


公園、公海・・・人類には「所有権」があり「制限」があるものと、「人類共通の財産」がある。かつての入会権も同じだ。


そして、人間の頭脳が生み出した知的なもの・・・学問、芸術、スポーツもまた人類共通の財産であり、だれでもが自由に使える(公知という用語が使用される)。まさに公の道、公の知である。


「シライ」という体操の飛び方がある。それは若き白井選手が編み出し、披露したものだ。でも翌日、他の人がシライを演じても良い。スポーツは人類に共通の財産だからである。


私はなぜ学問を職業として選んだかというと、この世は「所有」がすべてだが、その世で「所有の無い世界」で私は人生を送ろうとした。だから、私の成果は誰が使っていただいても良いので、著作権を主張していないし、大学で研究するようになってから、多くの特許を企業が出したが、私自身は出していない(私の発明を企業などが特許にしただけ)。


この世には、「人類共通の財産」がなければ成立しないし、それが多ければ多いほど平和に近づくと私は思ってきた。平和主義の人はぜひ、私の活動を支持して欲しい。


今、STAP論文のことで、学問は危機に瀕している。学問がお金、利権、名誉などにまみれたら人類は損失をする。2つの例外だけ(著作権と工業所有権)を認めて、あとはオープンなのだ。


著作権は「思想、感情に基づき」、「創造であり」、「表現されたもの」の3条件が必要だ。だから、文学作品などは感情に基づいているが、自然科学(物理や生物学など)以外でも、思想、感情ではないものは多いのではないかと思う。


学問が世の利権にまみれ、コピペしていけない、引用元を示さなければならない(道路を歩く時に誰かに断らなければいけない)というのは学問の冒とくでもあり、また法律違反ですらある。


(平成26年4月1日)
武田邦彦

(出典:武田邦彦先生のブログ








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