2014年4月16日水曜日

STAP事件簿17 STAP細胞が無くても論文は立派





STAP事件簿17 STAP細胞が無くても論文は立派



自然科学の論文は、時に新しいことを示したものに「価値のあるもの」、「立派なもの」、「成立するもの」がある。用語はなかなか適したものがないので、最初に「定義」を示しておきたい。



「価値がある」というのは、論文としても立派であり、最終的に学問や人間社会に有用だったもの。
「立派なもの」とは、論文としては新しい見方を示しているが、最終的には学問の進歩に大きな貢献はできなかったというもの。
「成立する」というのは、論文としての要件が整えられていて、査読委員が査読(審査)したときには「価値がある可能性がある」と認められたもの、である。



結論を言えば、STAP論文は、今のところ、「価値があり、立派で、成立する」と考えられる。でも、日本社会はいま、「価値がなければ成立しない」と言っている(STAP細胞があったら論文としてOK)ようだ。



私は現在、「価値があるかどうかは少し長い目でみなければならないが、立派な論文であるのは間違いない。もちろん、査読を通っているのだから成立する」と考えているが、世論は「価値がある」と「成立する」を混同しているようだ。



ひとつ例を取ろう。
天動説(天体は地球の周りをまわっている)という考えだったころ、一人の学者が小さくできたばかりに望遠鏡で星を観察したら、奇妙な動きをする星が数ケあった。その動きを数式にして検討したところ、「私たちの地球はある星のグループに属していて、その中心は木星だ」という論文を出したとする。



それからしばらくして、その論文を見た若い学者が、計算間違いがあるのではないかと思って、もう一度、計算してみたら、式の立て方に一部問題があり、どうも「太陽が中心ではないか」との見解を発表した。



それから300年たって、人類は人工衛星を打ち上げ、太陽系の外から写真を撮ってみると、太陽の周りに地球も木星もまわっていることが確実に分かった・・・学問はこのように進む。



この時、最初に「間違った論文」を書いた人が学者として偉いのか、それとも計算式の間違いを発見した人が偉いのかはむつかしい。もともと星を観察して、天動説に疑問を持ち、不完全だがそれを指摘した人がいないと、正しい計算ができる人は望遠鏡を持っていないこともある。



自然は人間より大きくてすぐれている。だから、自然を研究するときには最初から「自然は人間の知恵より大きく複雑だ」と言うことが前提だ。だから自然科学者は謙虚である。



STAP論文では、「外部からの刺激で細胞が初期化されることがある」と言う指摘だけで十分で、その作り方などは全く必要がない。そんなことを求めたら、人工衛星が打ちあがるまで、地動説を出すことができないということになる。



もしSTAP細胞があるなら、論文は極めて高い価値を持ち、もしSTAP細胞がないか、何の役にも立たず、学問的な意味もなければ、立派な論文と言うことになる。いずれも論文を取り下げるとかそういう問題ではないし、研究者の資質などはすでに立派であることは証明されている。



(平成26年4月16日)
武田邦彦

(出典:武田邦彦先生のブログ








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