2014年7月27日日曜日

【STAP騒動の解説 260726】  日本の若い人は科学者にならない方が良い



【STAP騒動の解説 260726】
日本の若い人は科学者にならない方が良い



STAP事件の推移を見るにつけ、私は日本の若い人はもう科学者にならない方が良いと思うようになりました。科学の研究というのはとても辛いもので、大学生活でもいわゆる文科系の学生が講義をさぼったりしている時に、土日でも大学で実験をしなければなりません。


今回の小保方さんも、早稲田大学の学生がNHKのニュースで次のように言っていました。


「ほぼ必ず」というのですから、1か月に1回ぐらいは日曜日にいなかったという感じでしょう。実際にもそうです。そうして夢を追い、大学院に進み、アメリカに留学し、そして博士号をとる。その間、家族もかなりの応援をしなければ科学者にはなれません。


一方、サラリーマンになるなら大学をそこそこ勉強して卒業して、そのあとは給料をもらい、時には上司に誘われて飲みに行ったり、「行きたくない」と断ったりして入ればそこそこの生活ができます。


しかし、科学者は博士号をとって研究機関に入っても2年ぐらいは無給だったり、ポスドクという不安定な立場で教授や指導者の手下になって雑用をこなさなければなりません。その間を縫って実験をし、夜の夜中に論文を書いていきます。学会も出なければなりませんが、旅費も思うようにはでないのです。


若い頃の論文は欠点だらけなので、普通は査読を通過するには至らず、書いてはダメ、書いてはダメという日々を過ごします。そしてやっと通った論文に少しでもミスがあると、叩きに叩かれ、論文を出すときにはまったく協力してくれなかった「専門家」という人たちが、論文がでたらすぐ欠点を追究してきます。


さらに論文が少しでも社会に評価されたら、大変です。NHKの記者が追まわし、女性なら女子トイレにまで追っかけてきます。本人が犯罪を犯したわけでもないのに、まるで犯罪人扱いになります。


また、科学の世界には多くの「掟」があり、それはどこにも書いてないので、一つの研究室にできるだけ長くいて、先生の雑用をこなして少しずつ教えてもらうしかないのです。うっかり「著作権法とその判例」などを勉強して、「知的所有権を正しく守る論文」など書こうものなら「剽窃・盗用」と罵倒され、時によっては無給でも散々な目に遭うことがあります。


そんな時には博士課程の恩師や、職場の教授などはまったくあてになりません。事件が起こるとどこかに隠れてしまいますが、それはもともと教授などは一人一人で身を守っていかなければならないので、逃げる習性がついてしまっているからです。


さらに社会も許してくれません。社会の人の多くは「未知のもの」などと取り組んだこともなく、普通は「規則通りにやればよい」という社会ですし、何か問題が起きれば組織が守ってくれるから、たとえ善意でも科学者の苦悩は理解できないのです。


確かに科学は人の魂を揺さぶり、やりがいのある仕事ですが、これほど日本社会が硬直化し、バッシング社会になり、論理が通らないので、すでに限界を超えていると思います。「研究のような感じで研究ではない」という普通のことならなんとかできますが、「新しい分野」を拓こうとすると、その経験がなく、自分の仕事が暇で、他人を批判するのが生きがいという人が大量にいますので、つぶされてしまうでしょう。


高校生、大学生でこれから科学者になろうとしている人は、時代が悪いので、やめた方が良いと私は思います。悲惨な目にあいますから。NHKがSTAP事件の番組の取材で小保方さんを追まわし、負傷させ、しかも番組の宣伝までやっているのを見て、私は「日本の科学に若者を進ませてはいけない」と強く感じました。


実験をしたり、論文を書いたりした経験があるとわかるのですが、それも未知の分野のものの場合、その苦労、失敗、ミスは多いのです。親御さんの含め、今の時代は未知の科学に進ませることはお子さんの不幸になる可能性が高いと思います。


まだ、ケアレスミスしかわかっていないのに、「稀代の詐欺師」などともいう人がいます。本当に若い人にとっては人生を失うかも知れず、進路としては危険がありすぎると思います。


(平成26年7月26日)

武田邦彦

(出典:武田邦彦先生のブログ






2014年7月26日土曜日

【STAP騒動の解説 260725】  NHK:「公序良俗」に反する組織は存在できないし、協力してはいけない



NHK:「公序良俗」に反する組織は存在できないし、協力してはいけない



いうまでもなく私たちの日本社会で守らなければならないもっとも重要なことは「公序良俗」に反しないことだ。やや抽象的ではあるが、これが社会の基本である。道端で弱っている人がいれば手を差し伸べる、泥が入ったのを見たらそのラーメンをそのまま人が食べるのを見ていてはいけない、人に声をかけたり何かを聞いたりしたとき相手が嫌がったら「失礼しました」と引き下がる・・・など、どの法律に触れるという前に私たちが守らなければならない社会の基本的規範だ。


法律を出すまでもないが、(民法第90条公の秩序又は善良の風俗に反する事項を目的とする法律行為は、無効とする。)とか(放送法第四条  一  公安及び善良な風俗を害しないこと(放送内容))などがある。


2014年7月、NHKはSTAP事件の報道をするにあたって、取材班が小保方さんを急襲した。まずオートバイが逃げる小保方さんを追いかけまわし、ホテルに逃げ込んだ彼女をエレベーターで両脇をカメラマンがはさんで動けないようにし、さらにトイレに駆け込んだら一緒にトイレに入って個室に隠れた小保方さんの前で外部と携帯電話で連絡を取り、監禁状態にした。小保方さんは負傷し全治2週間だった。


NHKは抗議を受けて深夜の午前0時に謝罪に訪れた。NHKはパパラッチになった。私たちはパパラッチに受信料など払う必要はないし、もし払ったら「犯罪集団にお金を払う」ということで公序良俗に反する。


小保方さんは犯罪人ではない。理研という組織の一従業員であり、一般人だ。これほどのことは政治家でも芸能人でも許されないことだ。謝罪して済む問題ではない。報道局長の辞任は当然だが、予定されている番組は中止、さらにNHKはもし十分な説明ができなければこの際、解散するしかない。


こんな組織が何を放送しても私は全く見る気もないし、まして「お金を払う」ことは絶対にできない。これは小保方さんの研究に不備があるかどうかなどとまったく無関係だ。毎日新聞の個人攻撃と言い、NHKのパパラッチ行為といい、日本社会はどうしてしまったのだ!!


(平成26年7月25日)

武田邦彦

(出典:武田邦彦先生のブログ



武田邦彦、NHKスペシャルの行き過ぎた小保方晴子さん取材に憤る 2014/7/25







2014年7月24日木曜日

【STAP騒動の解説 260723】    (毎日新聞追補)   共同研究者は研究を知らないのか?



(毎日新聞追補)共同研究者は研究を知らないのか?



STAP事件で、かなりの人が「私は研究内容を知らないけれど、共同研究者として名前を連ねた」と言っています。これは「詐欺」ですから、この発言だけで学会から追放ということになります。もちろん毎日新聞ももしそんなことをいった人がいたら、そちらを追究する必要があります。


ところが、現在の日本の学会、特に「お金と名誉にまみれている学会」(ほとんど)はこんな簡単な「倫理」すら守られていないのが現状です。今回のことで論文には査読があるということを知った人が多いと覆いますが、論文を出すと数回の査読を受けます。


査読委員は批判的に論文を読むのが役割ですから、厳しい「批判的意見」が述べられます。これに対して、どう答えるか、どの部分をなおすか、どのデータを追加したり削除したりするかは「全著者」に聞かなければなりません。


私は「実体的に研究に参加し、内容を理解し、討論に参加できる」という人しか共同研究者にはしなかったので、いつも査読結果が来ると、その結果と私や私のところの若手が作った答弁と回答案を共同著者に送ります。そうすると必然的に時間がかかりますが、学会の方から「早く返事をしろ」と言ってきます。そんなとき、いつも「共著者全員の了解を取っているので」と返事します。


つまり、共著者になっていて研究に参加していないか、内容を知らない人を入れるのが「村の掟」なのです。著作権のないものをコピペしてはいけないというように、掟で支配されています。まず第一に「お世話になった先生や先輩」は欠かさずに入れて、その次には「前に自分が参加していない論文に名前を出してくれた人」を入れます。


そうすることによって、自分の論文数が増えます。今は官僚が研究費を支配している(もしくは御用学者の東大教授)ので、論文数を増やしておかないと研究費が来ないのです。官僚や東大教授は日本の科学を発展させたいとか、倫理を守りたいと思ってはいないので(自分の権限が増えることが第一目的)、論文著者数が10名ぐらいになっても平気ということです。


また「引用数」というのが問題で、他人が自分の論文を引用してくれる方が点数が上がるので、仲間が多い方が有利になります。そこでボス先生を中心にして仲間を増やします。しばらくその仲間に入っているとそのうちボス先生から「かわいいやつ」ということで、青虫(研究費)がいただけます。アウトローの世界のようですね。


理研や東大、京大のようにお金が中心の研究機関では「著者になることの貸し借り」が日常的で、その結果、若山さん、笹井さんなど一流の先生が「論文内容は知らない」という発言を平気ですることになっています。


もし、毎日新聞が誠意のある新聞で日本の研究のことを心配して記事を作っているなら、今回のSTAP事件での取材対象は全く違っていたでしょう。


(平成26年7月23日)

武田邦彦

(出典:武田邦彦先生のブログ




2014年7月23日水曜日

【STAP騒動の解説 260723】  「毎日新聞の暴力行為」に関する削除と見解(1) 疑問と質問




「毎日新聞の暴力行為」に関する削除と見解
(1)疑問と質問


毎日新聞がSTAP事件に関して執拗に小保方批判を続けていることは多くの人がご存知ですが、先日(2014年7月21日)に全国版1面上部にスペースを4分の1ほどとって、一個人の過去のことに関して個人攻撃の記事を掲載するに至って、先日、とりあえずこのブログでも警告を出しました。それはこのままで放置すると、「善良な一個人」が「社会のある事件」で叩きのめされるという現代の日本にあってはいけないことになってしまう可能性があったからです。


ナチス時代のドイツ。家に突然、憲兵がやってきて家族の一人をしょっ引き、それがもとでその家族は悲惨な生活を強いられるということが、現代の日本で起こっているからです。私が最初の論評を削除したのは、このブログの目的にもあります。


現代の日本社会がひずみを持っていることは多くの人が感じることですが、その一つの原因に私は「合意より反目」の方向に進む傾向があると思っています。そこで、毎日新聞の記事も「まずは相手の立場(毎日新聞の立場)」にたって整理をしてみて、合意が得られなければその時はさらに進展させるという手順が必要と考えたのです。


このSTAP事件は最近の日本社会の価値観、責任感などと比較すると隔絶に違うものでした。その要点をまとめると次のようになります。


一.主として実験をした人が学生や若手の研究者であっても、その人と一緒に教授やそのクラスの指導者が共著者になっている論文については、疑念があったりすると教授などが直接受け答えするのが普通です。私の場合も、学生や若手が研究したものはできるだけその人の功績を前面に出すために論文の筆頭著者は若手にして、私は後ろのほうに名前を出させてもらいます。


このような場合、私が共著者になるのは学問的にも倫理的にも問題はありません。むしろ、私が実験を指示したり、実験内容をともに検討してきた時には、「実施した人(作業した人)」より「頭脳を使った人」を中心にするのが学問の常道だからです。


したがって、今回の場合、小保方さんは無給研究員として今回の論文の主たる部分を実験し、その時には「世界の若山さん」が共同で研究をし、3回目の論文の作成が始まったときには「京都大学教授から理研に転籍した笹井さん」が指導したのですから、マスコミも質問があれば若山さん、笹井さんに質問するのが普通です。


この点は、小保方さんの博士論文でも同じで、博士論文の出来が悪いとか、博士に相当しないなどという疑問があったら、それは指導教授の問題であって、学生が提出した論文の内容が学生の責任になることなどありません。ここでも、指導教授はまったくマスコミに登場せず、メディアもあたかも論文の問題は小保方さんという学生(当時)の問題にしたということは日本社会のこれまでの教育のやり方と全く違います。


毎日新聞は現在でも基本的には小保方さんを攻撃のターゲットにした批判記事を出していますが、この理由は何なのでしょうか? 一つは最初から毎日新聞が間違ったので、それを訂正するのが気が向かないというなら、それはあまり感心した報道姿勢ではありません。


二.次に、今回の論文が社会的に注目されたのは、理研が大々的な記者会見をしたからで、それに無非難に乗ったメディアの責任もありますが、まずは理研の問題です。理研は組織として記者会見をしたのですし、そこには笹井、若山さんが同席して、一緒に説明をした(小保方さんの発表を補充することはあっても、反論などはなかった)のですから、これも普通に考えれば、理研、笹井、若山さんに「なぜ、欠点のある研究発表を自ら積極的にやったのか」が問題になるのも当然です。


また、いわば主犯と思われる理研が、被害者の一人でもある小保方さんに対して「調査委員会」を作り、「2枚の写真の入れ違いと1枚の写真の加工」だけを問題にして調査を打ち切り、その後、「改革委員会」が「世界三大不正」とコメントしたことについての大きな矛盾について、メディアは理研側にたって、調査委員会の結論がでると「小保方さんの不正確定」と完全に理研側に立っていることも不思議なことです。


もともと小保方さんの手元には実験した2枚の写真があったのですし、それに入れ替えても結論が変わらないのですから、ケアレスミスに間違いないのです。さらに調査員会委員長が同じミスで辞任に追い込まれたのに、小保方さんだけを不正としたことについて毎日新聞は追及をしていません。


三.報道は公平を期さなければなりませんし、一個人を批判するときには「自分の情報発信力=毎日新聞の発行部数と専属の記者の給料の支払元など」と一個人の力のバランスを保つ必要があります。このような考え方は近代国家ではあまりに当然で、ある時に、ある新聞かテレビが「あいつをやっつけよう」と決意し、大々的なキャンペーンを張ったら、社会はスキャンダルとして受け取り、その人は人生を失うでしょう。


私たち社会はそんなために大新聞を持っているわけではありません。毎日新聞と小保方さんでは力の差は歴然としています。また毎日新聞の一連の記事、さらには7月21日の朝刊の記事の問題点は、報道が公平ではないということです。STAP事件の報道をするのはある意味で意味があるのですが、その時には必ず両面から見た報道が必要です。


今回の場合、「掲載を放棄した論文」の「査読過程のデータの処理の仕方」ですから、もともとは公開されるべきものではなく(新聞でも草稿段階で不適切な表現を使ったものをわざと白日の下に晒して、その記事を書いた記者を糾弾するということはなく、あくまで最終的に新聞に掲載されたものだけを問題にするはずです。その点で、今回の記事は個人を誹謗中傷するばかりではなく、ルール違反でもあります)、入手手段もきわめて不透明です。


情報の入手先に関する秘匿はメディアの権利でもありますが、今回のように「特定の情報から特定の個人だけを批判することを続ける」という場合は別でしょう。


また、毎日新聞の1面の上段に4分の1ほどのスペースを取ったということは、「小保方さんを日本社会から抹殺する価値はそれほど大きい」という毎日新聞の意思を示しています。記事は論文の批判に終始していますが、もしその背後に理研の闇などがある場合、それを直接、記事にすべきです。それなら私たちは毎日新聞を支持できます。


今回のことはなぞが多く、ここに疑問点を書きましたので、関係者は「合意を得るために」、毎日新聞の意図(本人たちは自分たちのしたことが正しいという確信があるはずですから、現在までの記事では、小保方さんの欠陥を繰り返し報道し、彼女を社会から葬り去るために膨大な紙面を使うだけの価値があると考えていると受け取られる)を明らかにすべきです。


議論はそれからです。


(平成26年7月23日)

武田邦彦

(出典:武田邦彦先生のブログ




2014年7月22日火曜日

調査報告 STAP細胞 不正の深層 NHKスペシャル

STAP細胞問題の論文不正や組織の隠ぺい体質の実態に迫る番組がNHKスペシャルで放送される。独自資料を専門家と分析。

NHKスペシャル
初回放送
2014年7月27日(日)
午後9時00分~9時49分

今月2日、英科学誌ネイチャーは、新型万能細胞の作製に成功したとして世界的な注目を集めたSTAP細胞の論文を取り下げたと発表。研究成果は白紙に戻った。

日本を代表する研究機関である理化学研究所で起きた史上空前と言われる論文の捏造。改革委員会は、熾烈な研究費獲得競争の中で、理研が“スター科学者”を早急に生み出すために論文をほとんどチェックせずに世に送り出した実態や、問題が発覚した後も幕引きを図ろうとする理研の隠蔽体質を断罪。

STAP細胞の存在そのものが“捏造”された可能性について、更に検証を進めるべきだと提言した。しかし執筆者の小保方晴子研究ユニットリーダーは徹底抗戦。

真相は何か、背景に何があるのか、全容の解明には至っていない。番組では、独自に入手した資料を専門家と共に分析。関係者への徹底取材を通して論文の不正の実態に迫る。

更に、捏造論文がなぜ世の中に喧伝されるに至ったのか、その背景を探っていく。(出典:NHKスペシャル)


今回のSTAP論文は作成時に些細なミスがあるだけで、詳細に調査をしていれば論文不正に当たらない。

理研の不正な調査委員会が、速い幕引きを狙って「個人的な論文不正である」と発表しただけで、裁判で不正と確定している訳では無い。小保方氏サイドは論文不正とされたことに承服していない。

「不正の深層」という標題については、理研サイドの「不正の深層」ということであれば納得できる。公正な報道を期待したい。

毎日新聞は、公共の大新聞でありながら、一般人(小保方氏)をバッシングしており、偏った報道が多く、凶器のペンになっている。こちらの方がむしろ社会的に問題だ。




2014年7月21日月曜日

【STAP騒動の解説 260708】   科学の楽しみ(5)   厳しくはチェックしないが、少しは仲間でチェックしよう



科学の楽しみ(5)  厳しくはチェックしないが、少しは仲間でチェックしよう


自然を研究して、自分の意思で自由に発表したり、論文を書いたりする。発表するにも論文を書くにもお金がいるし(発表はおおよそ交通費、宿泊費、参加費などで5万円から10万円、論文は印刷代を含めて7万円ぐらい)、見返りはないのだから、そんなことでケチをつけられたり、批判されたらたまらない。


面倒だから発表などしたくない・・・という人が歴史的にもいて、ニュートンの時代のイギリス貴族のキャビンディッシュである。彼は偉大な発見をいくつもしたが、世間との関係ができるのをいやがって生涯、一つも発表しなかったという剛の者である。


でも普通の人は自分のやったことを自慢したいこともあり、仲間に批判されたい(そうしないと独善に陥るから研究が進まない)という気持ちもあって発表する。学会発表なら面と向かうので、それで良いが論文は一方向なので、「査読」をしようじゃないかということになった。


学会が論文の査読委員を選んで、その人達に提出された論文を審査する。昔はベテランの学者が選ばれたが、最近では若い人もやっている。審査の目的は「あらを探す」とか「再現性のないものはダメ」ということではなく、「最低の記述がされて、論理性があるか」と言うことぐらいをチェックする。その時に誤字脱字なども見てくれる。


なにしろ、論文を出す人も無償、査読委員も無償(少なくとも私は数10年、報酬をいただいたことはない)の世界だから、悪いこともしないし、批判もほどほどである。仕事としてやっているわけでもなく、単なる興味のグループがすることなのだから。


この手続きを踏んだ論文を「査読つき論文」という。だから「科学的に正しい」ということではない。地球温暖化が話題になったとき、「査読つき論文」という言葉が流行った。「査読つき論文を多く出している人は信用できる」と科学と関係の無い人が言って、困った物だった。査読つき論文など簡単で、自分たちで「温暖化学会」のような物を作り、そこに論文を出せば、いくらでも「査読つき論文」などできるからだ


ところで、20世紀も過ぎてくると、学問も商業的になり、ネイチャーのような「商業誌」が「学会誌」より偉くなる。というのは学会誌は儲けなどに関係がないので、「皆が注目するかどうか」に関係なく論文を掲載する。それに対して商業誌は「売れるかどうか」で論文を決めるようになった。そうなるとその方が面白いので、だんだん商業誌が有名になる。STAP事件も商業誌だ。


仲間内で論文をチェックして、科学の道を究めようというのはずいぶん変質した。でも現在でも変質しているのは、普通の学者ではなく、文科省のお金や地位を狙っている御用学者、賞を取りたいと名誉欲が非常に強い学者などであり、一般の学者は学問的興味で一所懸命に研究している人が多い。でも、新聞記者とおつきあいをしている学者はおおむね、名誉欲が強く、ワインが好きな場合が多い。


科学に興味の無い人は、「報酬がなくて努力するはずはない」と確信しているが、そうでもない。多くの学者は報酬とは関係なく、興味に基づいて研究をしている。私の感じでは、世間が学問の世界に入ってくると、まさに「悪貨、良貨を駆逐する」という具合に、悪い学者が指導層にいって、ますます学問の世界が汚れ、それだけ進歩しなくなる。


それは「自由な魂」と「謙虚な気持ち」を失うからに他ならない。私は32歳の時、ふとした機会に「自分は外に飲みに行くより、部屋で論文を読んでいた方が楽しい」という自分の奇妙な性格に気がついたことで、学者としての人生を歩んできた。 今でも、知らないことを知り、判らないナゾが解けることに無常の喜びを感じる。


この世には音楽を聴くのが楽しくて仕方が無い、小説を読むのが好きでたまらないという人はいないのだろうか?? 誰もが儲かるため、名誉を得るために音楽を聴き、小説を読み、スポーツをしているのだろうか? わたしはそうではないと思う。でもそんな人が目立って、その世界を破壊しているような気がする。


江戸末期、日本に来た外国人は、日本人の職人が「それがどのぐらいの儲けになるのか、どのぐらい世間が認めてくれるかとは全く関係なく、ただ自分が満足するまで一心不乱に作品に取り組み、決して止めない」と記述している。まさに我々も職人なのだ。


(平成26年7月8日)

武田邦彦

(出典:武田邦彦先生のブログ




2014年7月17日木曜日

小保方晴子さんの博士論文「学位取り消しに該当しない」  早稲田大学が調査結果を発表 (STAP関連)

2014年07月17日 16時55分
(出典:弁護士ドットコム

「理化学研究所の小保方晴子ユニットリーダーの「博士論文」をめぐり、海外サイトなどの文章や画像の盗用が疑われていた問題で、早稲田大学の調査委員会(委員長・小林英明弁護士)は7月17日、小保方リーダーの行為は学位取り消しにあたらないとする調査結果を公表した。」


当然ですね。下記の解説で、より理解できると思います

【STAP騒動の解説 260317】
コピペは良いことか悪いことか? (1)基礎知識

【STAP騒動の解説 260318】
コピペは良いことか悪いことか? (2)学術論文の内容は誰のものか?

【STAP騒動の解説 260321】
コピペは良いことか悪いことか? (3)・・・「村の掟」で罰する人たち

【STAP騒動の解説 260327】
教育者がどんな時でも死守しなければならないこと・・STAPと教育

2014年07月17日 18:29 弁護士ドットコム
<小保方博士論文>「不正あったが学位取消に該当せず」早大調査委・配布資料(全文)




2014年7月16日水曜日

【STAP騒動の解説 260327】  教育者がどんな時でも死守しなければならないこと・・STAPと教育





教育者がどんな時でも死守しなければならないこと・・STAPと教育



教育者たるもの、どんな時でも命を懸けて守らなければならないもの、それは「教え子の名誉」だ。教育の責任はすべて教師にある。教えを受けた子供にはない。


STAP論文の関連で、早稲田大学がかつて認めた博士論文の審査を改めて外部に頼むとの報道があった。なんということか!!


・・・・・・・・・


中学校の時、定期試験で国語の答案を書いて先生に提出し、90点をもらって卒業したとする。その答案が保存され、公開され、ある時に、その答案の内容が「ある有名な文学者の作品の盗用」であったことが分かった。本人はすでに30歳で社会で活躍していたが、学校に呼び出されて卒業が取り消されたことを告げられる。


卒業生:「えっ! 卒業取り消し?! だって、先生が・・・それに僕は盗用したのではありません。僕の頭の中に文章が入っていたので、それを書いたのだと記憶しています・・・先生はどういっておられるのですか?」


学校:「先生はすでにご退職され、記憶もない。でも、ちゃんと証拠が残っている」


・・・・・・・・・


こんな日本は嫌だ。生徒がどんな答案を書こうが、先生が90点をつければ90点なのだ。そして、もしその答案に問題があれば、責任は90点をつけた先生にあり、生徒は教育中なので、責任は問われない。


教育とは「成果を残す」ことではなく、本人の実力をあげることだ。だから、基本的には教育が終わったら、本人に関することはすべて捨てても良い。本人が記念に持っておきたいと言うなら本人に渡せばよい。


この教育の原理原則は、小学校から大学、さらに大学院博士課程まで変わらない。提出した作品はどんなものでも、所有権は教育を受ける方にはなく、教育をしたほうにある。


大学でも採点の権限はすべて先生にあり、それは普段の試験でも、論文でも同じである。学生は博士論文の成果を自分のものにしたいなら、普通の学術論文として提出する必要がある。捨てるのはもったいないので、卒論などを図書館に保管することがあるが、それは「少しでも役に立てば」ということである。


法治国家では「法や規則はすべての人に平等」でなければならない。優れた答案や論文だから本人の責任を問うたり、中学校なら良いけれど博士論文はだめという「村の掟」を作ってはいけない。


また博士論文は、本人提出→主任教授の訂正指示→副査の先生の訂正指示→審査会→公聴会→教授会 というプロセスを経る。本人は提出した後は指示に従って修正するだけだから、社会的責任と言う点では、修正を強制される学生に責任を問うことはできず、主任教授、副査、公聴会に出た社会人、教授会にあり、本人にはない。権限なきところに責任もない。


また、学問としては、本人、そして主任教授、さらに副査の先生が意見を述べる必要があり、もしその意見を聞く必要があるとしたら、大学ではなく教授会である。大学は会社でも役所でもない。「上のものが責任を取る」ということは大学ではない。むしろ教授が採点した結果を学長が変更したら、そちらが罪になる。


教授は自分の授業を受けた「学長の息子」を「学長命令」に反して落第させることができる。このような専門職の業務の場合に、学長が責任を取る必要もない。学長が責任を取るのは、教授に任命したからでもない(教授の決定は教授会)、学校の経営などに関する「学長権限内」のことしかできない。


だから、今回の報道が正しければ、早稲田大学は権限を違反し、教育の基本中の基本(学生の責任を問わない)に反している。日本人の常識、マスコミの冷静で正しい報道に期待したい。


早稲田大学は直ちにステートメントを取り消すか、あるいは新しい教育論を説明してからにするとよい。大学は教授の保護者ではない。大学は過去の学生の瑕疵を責める権限もない。教授を保護して学生を罰するなら、大学を解散しなければならない。


(平成26年3月27日)

武田邦彦

(出典:武田邦彦先生のブログ





【STAP騒動の解説 260708】   科学の楽しみ(4)   好意で発表



科学の楽しみ(4) 好意で発表



科学の楽しみを3回に分けてお話をしました。この世は効率、お金、期限、対人関係などにまみれていますが、科学は世間とは一歩離れて、「真理の探究」をやっています。そうすると世間とはうまくいかないので、科学の世界で「掟」を決めていました。本当はまったく自由でも良いのですが、歴史的に少しずつ自然発生的に掟がありました。


まず、何かを研究して新しいことが判ったら、それを「社会」ではなく、「仲間」に発表します。それが「学会発表や学術論文」です。学会発表は仲間が聴き、学術論文は仲間しか読みません。学会に出るのに交通費もいるし、参加費を1万円ぐらいとられます。学会誌をとるのも1年に1万円ぐらいです。だから仲間しか見ません。


科学の成果は人類共通のものですから、オープンにした方が良いのに、仲間だけに発表するのは、2014年(今回)のSTAP事件のようになって、酷い仕打ちを受けるからです。科学は「自然を明らかにする」ことを目的としているのに、世間は「お金、利権、効率」などを目的にしているからです。普通は次のような批判を浴びます。


1)まだ、未完成じゃないか!
2)何の役に立つのか!
3)写真を張り間違っているじゃないか!
4)再現性はあるのか!
5)俺の結果と違う!
6)ウソじゃないか!


などです。今回もある学者が「論文を読んでも、実験ができない!」と批判していましたが、私がテレビなどで説明したように20世紀最大の発見と言われ、ノーベル賞をもらったDNA論文は1ページでポンチ絵があるだけです。「未完成」というのは科学では問題にならないのですが、一般社会では「立派な論文なのに作り方が厳密に書いていない」などと言われることがあります(批判した先生は研究をされていない人です。)


また科学は「役に立つ」ことを目的にしているのではなく、「真実」に近づくことですから役に立つかどうかなど100年後にしか判らないのです。でも、私はある学会に論文を出したら、査読委員から「この論文は何の役にも立たない」というコメントで拒絶されたことがあります。特に産業界の人が査読委員に当たると「科学は役に立つ物」という意識があるようです。


「写真が張り間違っているじゃないか!」というのはある程度、まともな指摘なのですが、私たちはあまり気にしません。もちろん、間違いがない方が良いのですが、私たちは「欠点を指摘するため」に論文を読むわけではなく、「なにか新しいことを教えてもらいたい」と思っているからです。


今回も、若山さん、笹井さん、小保方さんが「ご厚意」で論文を出していただいたので、STAP細胞というのを知ることができたわけで、あくまで彼らの親切心であって、義務ではありません。「こちらが論文の提出を命じて、出てきた論文をチェックする」というのではなく、彼らが「好意で私たちに教えてくれた」というものですから、間違いがあっても、そんなことを指摘することすら普通は遠慮します。


まして再現性があるか(これは第一回でお話をしました)、俺の結果と違う(最初のうちだからいろいろなデータがある。そのうち、一つになる)などはあまり関心もありません。まして「ウソ」などはまったく気にもしません。もともと「義務、お金」などで発表しているのではなく、「好意」なのですから、ウソをつく必要が無いからです。


それでも、人間ですから、長い年月(100年ぐらい)には数件のウソがありますが、そんなことを日常的に気にしても仕方が無いのです。また、自然は最終的にはウソをつきませんから、しばらくしたら自然にウソは判ります。だから、論文がウソかどうかを調べるより、しばらくほかっておいた方が効率的にウソを見分ける事ができます。


このように仲間内なら、今回のSTAP事件で問題にされていることは、問題にはならず、おそらく小保方さんは普通に研究を続けていたと思います。そして、もし研究がウソなら、次の論文は出てこないでしょうし、他の人も関心を失っていくでしょう。つまり何もなかったように消えていって、さして労力もかからなかったと思います。


論文の間違いを指摘した人は、科学者のようですが、むしろどういう人で何が目的なのか、私には少し理解できないところがあります。


(平成26年7月8日)

武田邦彦

(出典:武田邦彦先生のブログ





2014年7月14日月曜日

【STAP騒動の解説 260707】  科学の楽しみ(3)   温暖化とタバコ


科学の楽しみ(3)  温暖化とタバコ



科学者は物事をどう見るのだろうか? 一般の人が「人間界のこと」を見ているとしたら、科学者は「自然界」を見る。さらに研究者は「未知の自然界」に挑戦しているので、そこは「意外なこと」だらけだ。でも、意外なことがなければ研究をしても「予想されること」や「あたりまえの事」が判るだけだから、面白くない。


そうなると科学の研究者は常に「意外なこと」に遭遇することになる。このシリーズの第一話は「ある駅のダイヤ」の話をした。一週間、ずっと1時から3時まで10分おきに列車が来たので、翌週も来ると思ったら全く来ない。なぜ、こんなことが起こるのかというと、ダイヤを決めているのが自然だから、人間の予想や最適なこととは無関係だからだ。


ある鋭い弁護士が、STAP細胞があれば事件は解決すると発言しているのを見て、自然に関係する事件に巻き込まれたら助からないとゾッとした。科学は再現性がない等と言っても「厳密な科学にそんなことはあり得ない」と言われて終わりだろうからである。ダイヤの話が少しでも役に立てばと思っている。


第二話は「結果と原因」だが、学生が陥りやすい間違いを例にしてお話をした。今回は、社会人が陥りやすいもので「自分の損得」や「社会の空気」が「事実」に優先して、相反する判断をすることを示したい。

このグラフは空気中のCO2濃度と世界の都市部の平均気温をプロットしたものである。20世紀に入って石油や石炭を燃やしたので、CO2が増えて都市部の気温が上がったと説明される。そして多くの人が「CO2が増えると温暖化するのだな」と強く信じる。

本当は、このグラフだけでCO2が増えたら温暖化するなどと思うはずもない。というのは、いろいろ考えられるからだ。
1)太陽活動が盛んになっているのではないか?
2)雲が少なくなって地表が暖められているのではないか?
 何しろ、地球の気温を支配する要因は数多いのだから、一つだけをとって「それが原因だ」と言っても少なくとも科学者は納得することができない。ところが一般の人が騙されるのは、さらに次のような科学的ではないことが入るからだ。


1)政府が言っている。
2)NHKが言っている。
3)アメリカ人が言っている、ドイツ人も言っている。
4)みんなが言っている。
5)専門家(事実は一部の専門家だが、NHKが片方しか出さない)が言っている。
6)石油ストーブを焚くと温かい。


これらはすべて「科学的ではない」ことだから、正しい判断をするために何の助けにもならない。科学は多数決でも、権力でもないからだ。たとえば「自分は科学者ではないから、専門家が言えばそう思わざるを得ない」という話があるが、これは「自分には判らない」と言っているのだから、「判らないことは口に出さない方が良い」と忠告してあげたい。


それでもどうしても科学者の判断を参考にしたいというなら、学問的な議論の場を作って、中立的にそれを聞いて判断するという方法もあるが、現在のIPCCのように「温暖化が起こるという学者だけを選んだ秘密会」の結果だけを聞いても、それは科学ではない。

次のグラフはこれで、「喫煙率が下がるほど、肺がんが増える」というものだ。地球温暖化ではCO2が増えると温暖化すると判断した人が、今度はこのグラフを見ると「おかしい?そんなはずはない」と言う。科学は思想でも損得でも、社会現象でもないので、グラフは常に同じ見方をしなければならない。地球温暖化は儲かるからCO2と関係があるといい、タバコの煙は嫌いだからこのグラフはウソと言うというのでは、「科学の衣を着て人を騙す」と言うことになる。


しかし、さらに言い訳がある。それは「温暖化は専門家が言っているし、タバコは医師が違う事を言っている」というものだ。これにはトリックがある。自分の気に入るグラフが出てくると、それを採用する理由として専門家を出してきて、自分の先入観と異なるグラフの場合は、専門家が違う事を言っているということで、受け入れない。それなら最初から、グラフを見ない方が良い。


このようなことは学生でも起こる。6月ぐらいから卒業研究を始め、やっと12月になってまとめようとしているときに相反するデータが出る。そうすると、「このデータは間違っている」と主張する。「なぜ間違っていると思うの?」と聞くと、「間違っている。先生、これは間違っています」という。


実際には、相反するデータが出ただけで、どちらが間違っていると言うことではない。「自分が卒業するためには、このデータを間違っているとしてください」といっているだけだ。私が「自然は複雑だから、相反するデータは出るよ。それを含めて論文を書いたら」というと、その力がないので、動揺し、頑張る。それが人間というものだ。


・・・・・・・・・


自然に対して人間はとても小さな存在だ。だから人間は常に錯覚し、間違う。でもそれが人間だから仕方が無い。人間ができることは、「人間が小さい」ということを知っている事だ。そしてその中で最大限の努力だけはできるという謙虚な気持ちがあって始めて科学は進歩する。


再現性があるとか、厳密で正しいのが科学だ、という人は自然の上に人間がいると思っている浅はかな人に見える。


(平成26年7月7日)

武田邦彦

(出典:武田邦彦先生のブログ





2014年7月13日日曜日

【STAP騒動の解説 260606】 官房長官と理研調査委員会の記者会見





官房長官と理研調査委員会の記者会見



「説明してみんなにわかってもらいたい」という気配がまったく感じられないのが、官房長官のいつもの記者会見と、理研の調査委員会で前調査委員長が写真の(不正)使用で退任した後、代わりに委員長になった弁護士の人である。


もし、この世に政府が二つあり、それぞれの政府に官房長官がいて、どちらかわかりやすい方に予算を分配する仕組みなら(普通の町の商売)、にこにこ笑い、わかりやすい説明を試みるだろう。でも、官房長官は一人だし、彼の給料が国民から支払われていることはとうの昔に頭の中にはないように見える。


アメリカのように陽気で民主主義が根についているところのスポークスマンはほぼ笑顔で、愛想もよい。最近では中国も少しずつ女性のスポークスマンなどを使っているが、まだ「教えてやるぞ」という気配が感じられる。


一方、理研の調査委員長は、税金を使った理研の研究に不正があったかも知れないという時の責任者だから、調査については理研を代表してお詫びの気持ちでいっぱいのはずであるし、不正があってはいけないという気持ちも持っているはずである。


特に前委員長がこともあろうに、写真の不正を糾弾する責任者が不正な写真の使用をしていたということで辞任したのだから、かなり腰が低いかと思ったら、説明は不親切、一見して傲慢な顔つきだった。ぶっきらぼうの説明で「国民にわかってもらいたい」というのではなく、「できるだけ話したくない」という態度に終始していた。


若い研究員が80枚ある論文の写真を3枚、ミスしたというだけで調査を打ち切り、不正をしたのは若い研究員個人だけと言ったのに、現在の状態はそれどころか、政府、理研、関係学会が総出で、なにか「日本国の研究不正」に取り組んでいる。もし、「日本国の研究不正」に取り組む方が正しいなら、逆に「小保方さんの写真の取り違え」などは個人の問題だから、それで調査を終了して小保方さんだけを、写真3枚のとりちがえだけで処分するというのは実に奇妙だ。


・・・・・・・・・


「説明責任」という時代、「民主主義」のものと日本でもあり、懇切丁寧に多くの人の疑問に答え、政府は政府の方針が国民に伝わるように力を尽くし、理研は不祥事をわびてできるだけ正確に国民に理解してもらわなければならないのは当然でもある。


憲法改正論議もそうであり、原発再開問題でも同じだが、まだ日本は近代化されていないので、どうしても「上に立つもの」とか「天下り」という意識があり、政府の上層部や国の機関の人が、税金を使っていることに対する正しい認識を持てないようである。


おそらくは日本では民主主義は、その考え方を輸入したもので、戦い、あるいは血を流して獲得したものではないので、なかなか身にしみるには時間が必要なのかも知れない。でも、「国民が判断するのだから、国民にできるだけ多くの情報を丁寧に伝える」ということに力を注ぎ、国民の合意の元で日本の力を結集できるようにしてもらいたいものである。


特に、スポークスマンの立場にいる人(官房長官や理研の説明に当たる人)は、まず第一に「どんなことがあってもウソをつかないこと」、「丁寧に説明すること」について十分な配慮をして、我慢強く新しい日本を作る努力をして欲しい。


たとえば、秘密保護法にしても、集団的自衛権にしても、多くの国民が「よくわからない」と言っているのだから内閣としては可能な限り説明の機会を作るべきだろう。また理研は、笹井、若山、丹羽、小保方さんの役割や、現実の研究状態など、普通の人にわかりやすく、包み隠さず(理研は特に隠す必要がない)、説明をすることを望んでいる。


理解できないことが山積みになるのは、選挙で代議士を選出するという議会制民主主義というものと反するけれど、それを補充する役割を持っている新聞やテレビはどうしているのだろうか?


(平成26年6月9日・・・日付は最初に執筆した日を示しています。掲載日は自動的に記録されるのと、その間での調査、修正がわかるからでもあります。)

武田邦彦

(出典:武田邦彦先生のブログ





2014年7月10日木曜日

【STAP騒動の解説 260706】   科学の楽しみ(2)   「結果」と「原因」


科学の楽しみ(2)
 「結果」と「原因」



STAP事件をキッカケにして「科学とは何か?」、そして「科学の楽しみとは」ということに少し触れてみたくなった。第一回は「未知の世界」というのがどういうものか、なぜ科学の論文で「再現性」を求めないのかについて書いた。


第二回目は、学生が良く陥る「原因と結果」である。たとえば、学生に「人間の筋肉の量は何によって決まるかを調べてくれ」と言うと、学生は身の回りのネットなどで手軽に調べられる資料で調べてグラフにしても持ってくる。そのグラフが次のような関係だったとする。


学生が提出したグラフには横軸が年齢、縦軸が筋肉量で、20歳から筋肉は徐々に減少している図が書かれていた。そして学生は「先生、筋肉は年齢によって減少します」と説明する。


そうすると私が「そうかな。このグラフだけではそんなことは判らないと思うけれど」と言うと、学生は血相を変えて「先生!ハッキリと年齢が原因で筋肉量が減ることが判るじゃないですか!実際に僕の身の回りを見ても・・・」と必死になる。


このグラフは「現在の日本人の年齢と筋肉の関係を調べたら年齢とともに筋肉が減ることが判った」というだけで、「年齢によって筋肉が減少する」ということを示しているものではないが、この差は学生には判らない。


学生は単にネットで手に入りやすいデータを調べて、グラフにしてきただけで、しかも「年齢とともに筋肉が減少する」というのは「自分のこれまでの先入観」や「日常的な感覚」にあうから、これで先生がOKしてくれると思ったのだろう。


学生の人ばかりではなく、一般の人も何かのグラフと先入観が一致すると、それを信じる傾向がある。しかし科学者は慎重なので、この段階ではまだペンディングだ。そして、学生には「年齢によらずに同じ負荷を筋肉に与えた実験はないだろうか?」と聞く。


このような追加の調査を言うと、サボりの学生はいやがる。彼は事実を知りたいのではなく、早く課題を終わりたいからだ。本当に事実を知りたいという学生はほとんどいないが、もしいればさらに調べてくれる。そうしてグラフを持ってくる。


「先生、やはり年齢とともに筋肉は落ちるようですね。同じ負荷をかけている場合は、少し減り方が少なくなりますが」と言う。私はそれでも納得していない。「そうだね。かなり減少率が変わったね。同じ負荷の場合、なぜ年齢が違うと筋肉の減り方が変わるのだろうか?」と学生に聞く。この場合のサボりの学生なら「先生は面倒なことを言うな」という顔をする。


私は学生を一流の科学者に育てたいから、さらにいう。「すまないけれど、スポーツ選手の筋肉の減り方を調べてみてくれないか?」


その結果がこのグラフだ。意外なことにスポーツ選手は年齢によって筋肉の減少が大きく、特に30才を超えると急激に減少する。実に奇妙だ。スポーツ選手は鍛えているのだから、筋肉は普通の人より減り方が少ないはずなのに逆に大きいし、年齢によって大きく変化している? そこで、少し専門的な論文集を学生に渡してヒントを与える.自分自身もその結果がどうなるかわからない。


学生が最後に持ってきたグラフがこれだ。かなりゴチャゴチャしてきたが、ようやく一段落する所まで来た。これが真実かどうかは不明だが、このぐらい解析すれば次の研究に役立つ。


筋肉には普通の生活に使う範囲のものと、人間の体の全体に見られることだが、能力一杯に出すときの筋肉とに分けることができる。その区別をして見ると、筋肉に同じ負荷をかけた場合、日常的な生活に使う筋肉の量は年齢によらないが、スポーツなど特別に鍛えてつけた筋肉は同一の負荷をかけても年齢とともに減少し、特に30才以後はその傾向が強いことが判った。


つまり、私たちの経験から来る常識(年齢とともに筋肉の衰えを感じる。スポーツ選手も30を超えると成績が落ちる)から、最初のグラフ(年齢とともに筋肉が落ちる)のは当然で、歳を取ると筋肉が減るのはやむを得ないように感じる。


ところがさらに調べて行くと、実は日常的な筋肉は、若い頃の方がスポーツや力仕事をするから筋肉が減らず、歳を取るとサボるから筋肉が落ちるということがわかる。さらにスポーツに使うような「普通にはない余分な筋肉」は、20台ならまだ何とかなるが、30を過ぎると低下することが判る。


できるだけ少ない労力で筋肉の衰えを理解しようとすると学生のようになる。でも科学者は効率も義務も関係ない。そして「ああ、そうか!筋肉が年齢によって衰えると思うのはこういうことか!!」ということが判る.その楽しみが科学なのだ。


自然現象というのは難しいものだ。でもそれだから面白い。でも「なんでも早くかたづけたい」と思う人は科学には向いていないし、もしかすると科学者はある程度、偏執狂であり、常識を疑わう人の方が適正があるかも知れない。職人が自分の作品に満足するまでやるように、科学者は自分の頭脳が完全に満足するまでは疑問を持ち続けるものだ。


(平成26年7月6日)

武田邦彦

(出典:武田邦彦先生のブログ






2014年7月9日水曜日

【STAP騒動の解説 260705】  科学の楽しみ(1)  「未知の世界」はどんなものか



科学の楽しみ(1)
 「未知の世界」はどんなものか



かなり高名で見識もある弁護士さんが「STAP論文は再現性があるかで決まる」と言っておられた。その論説を読んでみると、やはり弁護士さんは法律の世界だから、「人間が作った法律、人間が運営している社会、人間のすること」の範囲で、厳密に考えておられることが判った。


STAP論文の価値は「再現性」では決まらない。そのことを科学の言葉ではなく、人間が作った対象物(社会や法律、経済など)を相手にしている人にどのように説明すれば判ってもらえるか、それを考えていたところ、もしかするとこの説明で判ってもらえるのではないかと思い、書いてみた。


・・・・・・・・・


ある人が「鉄道の駅」から徒歩10分か20分ぐらいの所に住んでいたが、生まれて30歳になるまで何回、駅に行っても列車はこなかった。30歳の誕生日になって列車に乗ってみようかと思い、午後の2時に駅に行ってみたら、10分ほど待ったら列車がきた(新発見)。


次の日は少し遅れて、2時12分頃に駅に着いてもやはり10分ほど待ったら、列車が来た。そんな感じで1週間を過ごし、毎日、列車に乗ることができた(本人の確信)。日曜日に皆に呼び掛けて「これから、列車で移動しよう。その方が便利だ。10分も待つと列車が来る」と言って、月曜日から列車に乗ることになった(論文を出した段階)。


・・・・・・・


月曜日が来て、午後2時に皆で駅にいって列車を待ったが、10分待っても、1時間待っても列車は来ない。ついに日暮れになった。なにか事故でもあったのかと思い、火曜日も皆で行ったが、また列車は来ない。おかしい? 先週は毎日、10分ほど待ったら来たのに??と言いながら、その日も引き上げた。そしてそれから毎日、何時に行っても列車は来ない日が続いた(世間の批判の段階)。


その人はすっかり信用を失い、誰も相手にしなくなった。そして、もう、列車は来なくなったと思っていたら、1ヶ月ほど経ったら、列車の音がする。慌てて駅にいったら列車が発車した後だった。・・・どうなっているのだろうか??


実はこの列車は1ヶ月に第一週には1時から3時まで運行するダイヤで、しかも次の月は第二週、さらに次の週は第三週とずれていくことが判った。でも、そのことが判ったのは、駅の側に見張りを置いて1年ほど経った時だった。それから数10年間、駅に監視員を置いて、ダイヤを詳細に調べてみると、1ヶ月に1週間だけ1時から3時に列車が来るのは10年に一度になっていることも判ってきた(自然の判明)。


かくして、最初に幸運にも列車に乗った時から50年をへて、やっと「列車に乗るにはどのタイミングで言ったら乗れるか」という再現性が得られるようになった。


・・・・・・・・・


つまり、再現性実験とは「運行ダイヤが判らない列車に乗る」ようなもので、最初の一週間に偶然に乗ることができたからと言って、「ダイヤの全体像」(新しく発見された自然の摂理)が判るまでは「再現性はない」のだ。それでも「あるタイミングで行けば列車に乗れる」というのは事実で、「全体像が判らない時期に再現性がないということは、そのことが事実ではない」というのとは全く違う・・・このことは私のようなベテランの自然の研究者は痛いほどわかっている事である。


しかし、法律家は判らないだろう。人間があらかじめ作った法律に基づいて、その枠から出ないのだから、論理は正確になるが、「人間が作ったものではない未知のもの」とはどういうものかについての経験が無いからである。


人間は自然のごく一部しか知らない。そのことを科学者は知っているから傲慢ではない。「再現実験をすればSTAP論文の評価ができる」というのは私にはあまりにも傲慢に見える。


科学者は新しいものを発見し、馬鹿にされ、再現性がないと言われ、不運な一生を送る。それは人間が「自分は何でも判っている」と思う傲慢な心で、私たち科学者は毎年、この事実に叩かれる。でも、日本の科学者はアメリカで全体像が判ってから、細かいところの研究をする。だから「研究は厳密に実証できる」と思っている。でも、それは全体像がすでに判っているからである。


(平成26年7月5日)

武田邦彦

(出典:武田邦彦先生のブログ





2014年7月8日火曜日

小保方研究ユニットリーダーが参加する「STAP現象の検証計画」の進め方

小保方研究ユニットリーダーが参加する「STAP現象の検証計画」の進め方について、理化学研究所から次の発表がなされています。

『平成26年4月1日に公表した「STAP現象の検証計画」に、小保方研究ユニットリーダーを参加させることを6月30日に決定し、7月2日にマスコミ向けのブリーフィングを実施しましたが、その時に使用した資料を掲載します。』

小保方研究ユニットリーダーが参加する「STAP現象の検証計画」の進め方(PDF)


早くSTAP現象の再現を実現して、真実を明らかにしてもらいたいと思いますね。

しかし、科学の最先端の研究では、簡単に再現できないこともあるので、その場合のことを心配します。最後まで闘ってもらいたいですね。必ず何処かで再現できると思います。







2014年7月2日水曜日

小保方さん理研に出勤「STAP証明の一歩 頑張る」(14/07/02)

小保方リーダーが理研に出勤 STAP検証へ「頑張ってきます」 Obokata arrives at Riken







2014年7月1日火曜日

文科省、おまえもか?! 非論理的なSTAP事件評価


文科省、おまえもか?!
 非論理的なSTAP事件評価



文科省が「STAP事件が起こったことを契機に研究不正を減らす政策」を始めることになった。その内容はネットからの指摘に注意すること、研究不正を防ぐために若手の教育などを始めることなどであるが、もっとも二つの重要なことが抜けている。
1)今回の事件が「大きな不正事件」だったのか?
2)研究不正がなぜ起こるのか?
 の2つが抜けている。学力も知力もある人たちが検討したのだから、おそらく「故意に重要な部分を除いた」と考えられる。報道もされないので、ここで考えてみたいと思う。


まず第一に、このブログでも何回も書いたが、小保方さんの論文(笹井さん、若山さんも同じ責任著者)は80枚の写真と4本のビデオと文章出できていて、そのうち写真3枚が貼り違えたというもので、理研の内規には触れたかも知れないが(科学論文としては問題なし。ネイチャーも通っている)、写真を正しいものに代えても結論が変わらないのだから、意図的な不正ではない。


「不正」と結論した理研の調査委員会の方が「不正」である。


しかし、なにか大きなものが背後にあるのだろう。理研は税金で研究している公的な機関だ。もし大きな不正があるなら、その不正を明らかにしてから、対策を練るべきだ。外人が「三大不正と言った」という言葉を引用した改革委員会の不見識もさることながら、日本の科学のトップが自分たちだけの情報で事件を左右し、かつ日本の将来を決める科学の政策を決めようとしている。


まずは、三大不正に相当する不正とはいったい何なのか、それを明らかにしなければならない。若気の至りで少しのミスをした人がいるから、日本の科学技術政策の一部を変更するというのはいかにも不明瞭である。


第二に、もともと研究は企業なら製品を、大学なら公知を目指してやるもので、その中に「国の研究費」という特殊な分野が入り込んできた。それをあたかも科学の研究の一般系として政策を決めるのは、日本の科学技術を破壊すると考えられる。


「国の税金を使い、その結果を自分の出世と研究費にする」という理研、東大、京大などの研究態度が今日の不正や「実験ノートが必要」と言うことを生んでいるのであり、多くの科学者は科学に純粋に献身している。


マスコミはこの問題を小保方さん個人や、理研内部の権力闘争としてではなく、日本の科学の正しい発展のために、見識ある報道と論評を求めたい。また学会のトップは学問の世界の指導者として立派な言動を求める。


科学は秘密や駆け引き、権力者だけの密談などを嫌うものである。


(平成26年6月29日)

武田邦彦

(出典:武田邦彦先生のブログ




2014年6月23日月曜日

STAP事件後日譚 ムチャクチャな理研の改革委員会・・・やはりまだ整理が必要


STAP事件後日譚 ムチャクチャな理研の改革委員会・・・やはりまだ整理が必要



理研の改革委員会(外部委員による)が2014年6月12日に答申を出し、理研で「広く不正が行われたことを重視して理研の抜本的な改革に乗り出す必要がある」と結論した。あまりに論理性のない答申に私はびっくりしました。


今回の問題は「小保方さんという若い研究員が、論文を出すときに写真を3枚ほど間違えた」ということで、それらは一般的には問題にならない(理研の調査委員長が同じことをしていたことで辞任したことでわかる)が、今回だけは「理研の内規に抵触する」として処分することになったということだけだ。それ以上のことは調査が打ち切られたので「それ以外はなにもなかった」と言うことになった。これは理研の判断である。


ところが、改革委員会は「科学の三大不正事件の一つ」として理研の大改革を提案した。実に奇妙だ。理研は「写真3枚が不適切だった」として調査を打ち切ったのだから、それが理研全体を改革しなければならないなどという話ではない。


もし、論文か研究に組織的な不正(この不正とは理研の内規で言う不正ではなく、一般的な科学での不正)があったなら、調査委員会が笹井さん、若山さん、知的財産部、センター長などの関与について調査をして、その結果を受けて改革委員会が判断しなければならない。


改革委員会の答申が本当なら、調査委員会は日本社会に対してウソをついたことになる。論文の問題は小保方さんの不正(理研の不正の定義。一般的ではない)ではなく、複数の人の不正なのに、それを小保方さんだけの不正にしたのだから、はっきりとしたウソだ。


日本社会はウソに対して甘いから、調査委員会は何らかの事情があってウソをついたのだろうと組織の方に味方するが、それでは個人を尊重することはできない。


もし調査委員会が正しく、今回の問題が小保方さんの初歩的ミスによるなら、改革委員会がウソをついていることになる。つまり改革委員会は調査もしないか、調査の権限がなく、結論を出したことになる。もし調査委員会の結果が不十分ならまずは調査委員会の解散と再調査を命じ、その結果によって改革の方向を決めなければならない。


まして、再生センターの解散なども答申の中に入っているが、再生センターの一人が写真をミスしたら、再生センターが解散になると言う実に奇妙なことになっている。


改革委員会は調査もせず、単なる憶測か、文科省の指令で理研の不祥事を結論づけて、「外国が三大不正事件と言っている」という不誠実な表現でSTAP事件の総括を行った。もし小保方さんの写真の貼り間違いだけなら、この発言は日本の科学の信頼性を著しく落とす結果になっている。


ところで改革委員会と平行して、主として理研側からリークされたと考えられる、小保方さんの採用の経緯、経費の使用の仕方の問題、実験室の中の様子など、普通なら組織の外からは見えないことが、内部リークという形で次々と報道され、改革委員会の結論のほぼそれらの「不正なリーク」に基づいている。


ということは小保方さんの「理研の内規での不正」(本当は防いではない)よりも、より上位の人たち、調査委員会、改革委員会、理研理事などの不正の方が遙かに大きく、しかも、事実をそのまま話すことなく、内部リークという形で世論操作を行い、それを毎日新聞が報道するというきわめて暗い方法をとったのは実に残念だった。


毎日新聞がSTAP事件を報道するのは自由だが、その報道態度は一貫して「小保方悪し」に集中しており、理研のリークの仕方、調査委員会の不備、内規と法律の齟齬など、報道が公平を期する配慮を全くしていない。このことについては、糾弾する毎日新聞自体が報道としての不正をしていることになる。


小さな小保方さんのミスを追求する、理研中枢部、調査委員会、改革委員会、内部情報をリークする経理部、知的財産部、元従業員、それに自分は正しく悪いのは小保方さんだけと言い続ける笹井さん、若山さんなど実に醜悪である。


科学利権とはかくのごとく恐ろしいものであり、人の心をむしばみ、税金を無駄に使うことになる。日本社会には何か大きな傷があるのだろう。一人の研究者が書いた一つの論文の写真の貼り間違え(80枚のうちの3枚の軽微な間違い。ビデオ4本は正しいとされている)が「世界を揺るがす科学不正」であり、それは理研の体質がもたらしたものであるとされている。


おそらく、日本人の頭に「論文のミスばかりではなく、もっと悪いことが行われたのに相違ない。そんなことは調べなくても示さなくてもよい。日本村にある空気を作れば、その空気にそって特定の個人を罰し、組織全体に罪を問う。「わかっているじゃないか」と有識者は言う。「何がわかっているのですか?」と聞くと「そんなこと、言いたくない。わかっているじゃないか!」と怒鳴る。さらに聞いてみると、ネットの情報や理研のリークだけだ。


理研のリークを信じて、理研を解体する。そんな論理はない。研究がおかしいという遠藤さんというよくわからない人が情報を発信する、毎日新聞が理研リークを積極的に報道する、若山さんの前後がつじつまが合わない会見をNHKが整理して伝える・・・そうしてできた空気で「わかっている事実」を拡大に拡大している。単に販売部数を増やすためだけの目的で報道し、それに踊らされているのではないか?

(平成26年6月17日)

武田邦彦

(出典:武田邦彦先生のブログ




2014年6月19日木曜日

【STAP騒動の解説 260610】 なぜ、科学者は「ウソ」を問題にしないか?(2) 「自然」と「新しいこと」の特徴



なぜ、科学者は「ウソ」を問題にしないか?(2) 「自然」と「新しいこと」の特徴



前回、小保方さんと私の会話という形で、論文のミスより、内容に興味がある人はどういう態度で接するかという具体例を示しました。それと現実に1月から5月までに起こったことがあまりにかけ離れていることに私がびっくりしたことが理解されたことと思います。


2回目は、一般的に科学者が「ウソ」を問題にしないことについて、整理をしてみたいと思います。


私たち科学者は、研究して、その成果を学会で発表、まとまってきたら論文に出します。普段は学会にでて自分の研究を発表したり、他の人の研究発表を聞きます。私はこんなことを40年もやってきましたが、未だかつて「その結果は本当ですか、ウソですか」という質問を聞いたことがない。


学会での発表は、「ウソはない」ということを前提として聞く。そんなこと聞いては失礼だと言うこともない。私たちは科学に忠誠を誓っているのだから、もしウソではないかと思えば、「ウソではないか」と聞く必要がある。科学は人間社会の上にあるからである。


研究発表は原則として新しいことだから、「発表を聞く前には自分の頭に入っていない事実」だから、それが「ウソか本当か」など判別できるはずもない。だから、科学の世界では「ウソか本当か」を考えるだけ時間の無駄というものである。


それではまったくウソはないのだろうか? 科学は「研究対象の自然」と「研究する人間」の二つがあり、人間の方はウソをつくことがあるだろうけれど、自然はウソをつかない。だから、もし誰かがウソをついて、その研究がその人だけしかやらなければ永久にそのウソはばれないし、また誰も注目しないのだから、ばれてもばれなくても「意味がないもの」として歴史の中に消えていくだけのことだ。


STAP事件で日本社会が間違ったのは、「日常生活や政治など人間しか介在しないこと」と錯覚したからに他ならない。STAP細胞がウソなら、今後、だれも見向きもしないだろうし、本当ならだんだん、事実が出てくるだろうからである。その方が前向きで、労力も少ない。


人間がすることをいちいち「ウソか本当か」を確かめるとすると、学会にも膨大な「捜査班」を作らなければならない。しかし、「自然」という監察官がいるので、時が経つのを待てば自ずからウソか本当かはわかってくるし、ウソならウソを言った人は学会では誰も信用しなくなるので、罰も受ける。検察官も裁判所もあるので、問題はない。


第一、新発見、研究者の錯覚、ウソは紙一重で、それほど区別できるものではない。新発見でも100年近くは再現性がないものもあれば、研究者は多くのデータから間違いないと(善意で)思ったことが結果的にウソだったと言うこともおおい。なにしろ「新しく困難なこと」に挑戦しているので、難しいのだ。


単純ミスもある。私などは学生に「サンプル瓶には必ず名前を書け」と口酸っぱく言っていた。男子大学生はサボりだから、サンプル瓶に名前を書かず取り間違えることはおおい。また測定器が不調で思わぬ結果を出し、そのときにそれが「すばらしい結果」と思うこともある。あまりに荒唐無稽なら気がつくが、自分が「そんなデータが欲しい」と思っているときに測定器が偶然に壊れて、期待されるようなデータを出すこともある。


それも全部飲み込んで私たちは学会発表を聞く。国内はもとより、世界でも研究仲間はそれほど多くない。同じ研究の最大人数は4000名ぐらいと言われるが、普通は200人とか300人でも多い方だから、一度「ウソ」をついたら、その後は何回発表しても誰も聞いてくれないから意味がない。


また、ウソをつく人はほとんどいないが、それでも2種類の人がいて、卒業を間近にした学生、もう一つがやや頭の調子が悪くなった名誉欲の強い40歳から50歳代の人だ。学生は就職が決まり、万が一卒論を落第すると大変なことになるので、インチキをすることがある。また40歳代50歳代で他人との競争、地位を獲得するなどのことで、将来が見えなくなり、ウソに走る人もいるが、私の経験では最大でもウソは5年ぐらいでバレる。


STAP事件ではこのような私たちの日常生活と全く違う展開をした。多くの日本人が「ウソか本当か?」、あるいは「STAP細胞はあるのか?」などに関心を持った。小保方さんにレベルの低い質問をした記者は今頃恥じているだろうが、「STAP細胞はあります」と小保方さんが答えたのは実に可哀想だ。そんなこと、決まっているじゃないか。論文を提出した人は、その論文が不出来かどうかは別にして、論文の主旨はそう考えているから出している。それを聞いてどうするのか?と記者の頭脳の程度か、日本社会の異常性を感じた。


STAP論文が理研の誰かが仕掛けをしてウソだったこともある。でも、そんなことを詮索するぐらいなら、自分の興味のあることを研究して欲しい。詮索する人はSTAPに興味がないのだから関係ないじゃないか! もし正義感があるなら、小さな正義感ではなく、科学と人間のことを深く考えた正義感(無視)を選択するべきである。


科学に一般社会のしきたりや常識が入り込んだら、科学は進歩が大幅に遅れる。


(平成26年6月10日)

武田邦彦

(出典:武田邦彦先生のブログ




2014年6月15日日曜日

【STAP騒動の解説 260606】 なぜ、科学者は「ウソ」を問題にしないか?(1)  小保方さんとの対話


なぜ、科学者は「ウソ」を問題にしないか?(1)
  小保方さんとの対話



私がSTAP論文を読んだとき、小保方さんが横の机にいたとしましょう。なんと言っても著者が隣にいるのですから、とても便利です。私が読み終わって、


武田 「小保方さん、なかなかおもしろい論文ですね」
 小保方「ありがとうございます」


武田 「ちょっと質問なのですが、この2枚の画像は少し論旨と違うような気がしますが」
 小保方「えっ、そうですか? ちょっと、チェックしてみます・・・・・・」(しばらくして)
 小保方「すみません。先生。少し古い写真と間違えたようです」
 武田 「ああ、そうですか。これですか(小保方さんが示してくれた写真を見て)・・・なるほど、結論などは変わりませんが、正しい方に入れ替えておいた方が良いですよ」
 小保方「すぐ、ネイチャーに連絡してそうします」


・・・・・・・・・


武田 「それはそうと、外部からの刺激で万能性を持つ可能性もあるのですね」
 小保方「ええ、研究はまだまだですが、おもしろいと思います」
 武田 「この研究、小保方さんが理研に入ってまだ無給研究員だった30歳前にやったのですか?」
 小保方「ええ。そうです。若山研究室の時の仕事です」
 武田 「ご立派ですね。写真の取り扱いなどは慎重にした方が良いですが、これからの研究に期待しています」
 小保方「ありがとうございます」


私の興味は「そんな細胞もあるのか」ということであり、写真が少し間違っているかどうかなどということはない。武田「学問は厳密なものだから、これからは写真をしっかり管理して間違えないようにした方が良いですよ」と若い研究者を指導する。私達ベテランの研究者は若い研究者のミスを糾弾するために存在するのではなく、指導し励ますことである。


それに私の興味は学問的なことなので、写真が2枚、3枚間違っていても、論文を取り下げもらっては困る。彼女のアイディアに接することができなくなる方が痛手だ。日本社会は論文が読めなくなる方がうれしいという反応をしたが、私には全く理解できない。


論文に小さなミスがあることは若い研究者にはときどきあることで、良いことではないが、だからといってよってたかって研究者をいじめる気持ちにはまったくならない。むしろ、着想の良い研究をした人は励まし、教育しなければならないし、自分としても興味があるからだ。


その点では、日本の専門家やマスコミが「小保方さんの論文を撤回させられるか」に懸命だったことは実に奇妙だった。


さらに私と小保方さんは少し会話をするだろう。私がこれまで大学院の学生と話してきたように・・・
 武田 「小保方さん、小保方さんは時々、論文やネットの文章をそのままコピペして使うと聞いていますが」
 小保方「はいそうです。その方が効率的ですから。私が書いても、書いたものを使っても同じですから」


武田 「それは正しい認識です。著作権法で定められた文章以外に著作権のあるものはありませんし、科学の論文は著作権法の言う「思想または感情に基づく創作物」でもありませんから、人類共通の公知の財産として大いに利用するのが良いのです」


小保方「でも、ダメだって言う先生もおられるのですが」
 武田 「確かに学会の「村の掟」があって、世間を知らない先生や文化系の人が「公知」というものそのものを知らないこともあります。だから、私は学生に、「本当はどんどんコピペした方が学問の進歩にはよいのだけれど、つまらない非難を浴びないようにできるだけわからないようにコピペしておいた方が良い」と教えています。」
 小保方「そうですか。私も今後、注意してわからないようにコピペします」


悲しい現実です。学問の世界は正しいことを厳密に追求するのに、社会がお金にまみれ、学問の世界もお金にまみれてしまっているので、「公知」をいやがってお金にしたい学者が多いのです。

 (平成26年6月6日)

武田邦彦

(出典:武田邦彦先生のブログ

2014年6月13日金曜日

【STAP細胞】 改革委員会による記者会見【2014/6/12】

【STAP細胞】改革委員会による記者会見【2014/6/12】 ( 1時間46分 )


委員長ならびにメンバーは、立派な方々とは思いますが、「研究不正再発防止のための提言書」には違和感を感じます。

「論文作成ミス」を「研究不正」と決めつけていますが、そもそも今回の件が、本当に研究不正と言えるのでしょうか?

最初から研究不正を前提にした「研究不正再発防止のための提言書」は、検討不足ではないでしょうか?

先ず、理研が組織の責任で特許を出願しているほどのSTAP研究が、一般常識で考えて、一個人の研究不正ということがあり得ますか?

つまり、理研も含めて全員がSTAPはあると考えて行動していたのです。
その結果、STAPの発明は正しいが、論文作成時にミスがあったということが、現在の状況です。

理研の規程で「研究不正」の対象外となる「悪意のない間違い」であるにもかかわらず「研究不正」とされたことに対して、小保方さんサイドは承服していません。

裁判で決着していれば話は別ですが、理研の調査委員会の、一個人に対して「研究不正行為があったという結論」こそが問題なのです。

若い研究者が、論文作成時にミスをすれば、解雇になるほどの罰を受けるということは、一般常識とかけ離れています。

論文とは、そのようなものでしょうか?

ご自分達は、若い時にミスしたことは無いのですか?

それに、論文が取り下げられたから、STAPはもう無いといっている先生の説明も変です。
STAP細胞作成のアイデアこそが論文のキモであることは、科学者でなくても分かります。
一度、公開された論文内容は既に公知となって、アイデアは公開されたのです。


2014年6月12日木曜日

STAP細胞問題 改革委、理研に提言「小保方氏に厳しい処分を」(14/06/12)

小保方さんには、法廷で、論文不正では無いことを明らかにして欲しいと思いますね。
「論文不正」を認めると、それを今度は拡大解釈して「研究不正」だと言う人も出てきますから、困ったものです。



小保方STAP再現実験参加への提言QA
 6/12改革委員会





2014年6月5日木曜日

「超」不明朗なSTAP事件・・・関係者は全員、学問から身を引いてもらいたい




「超」不明朗なSTAP事件
・・・関係者は全員、学問から身を引いてもらいたい



昨日の四大新聞の夕刊にはすべて一面トップで小保方さんが論文取り下げに応じたという記事を掲載していた。テレビでも盛んに報道されていたが、いったい、なんだろうか?


STAP論文は科学論文であり、科学的に問題があった場合は、科学的に何が問題かが明らかになることが先決である。私たち科学者(この場合は自然科学を指している。広い意味の科学には文学(人文科学)なども入る。)は「人」を相手にしたり、まして「人のゴシップ」などは全く関心がない。「人」や「ゴシップ」も大切かもしれないが、科学の世界から切り離してもらいたい。


小保方さんは3年前に理研の若山研究室に無給研究として入り(事実はほとんど説明されていないので、推定を含む)、一年目にSTAP細胞の研究の第一段階を突破して、ネイチャーに論文を出した。若山氏は自らの研究室に小保方さんを招き、研究させていたのだから、その内容も成果も十分に理解している。


研究室では週に一回か、月に一回は研究会をするし、小保方さんが外部で発表するときにはその内容を見ている。論文の共著者で分析など一部を担当した人は別にして、若山ー小保方は同一研究室の上下関係にあるから、すこしでも大学や企業で研究をしたことがある人はこんなことは当たり前のことだ。


もし、若山氏が2年前に小保方さんが論文を出すとき、「実験していない」とか、「データが不自然だ」というなら、論文を出すのを止めさせ、自分が共著者になるのを断るはずである。
しかし現実には2年前にネイチャーとサイエンスという二つの雑誌に投稿している。審査(査読)段階で拒否されているので、余計に内容は理解している。


次に、昨年の1月だから、小保方さんが若山研究室にいるときに、笹井さんが論文作成のためにチームに加わった。その時に誰かが笹井さんに依頼し、笹井さんも京大教授から理研に転身した人だから、実験内容、研究解析状態、データの確実性、査読の経緯、査読委員の反論などすべてに目を通した結果、「自分ならできる」と考えた。このとき、まだ小保方さんは無給研究員である。


小保方さんの業績は理研の中で高く評価されて、4月からリーダーになった。部下もついて本格的な実験が始まり、4月には理研は特許も出した。12月に論文が通り、2014年1月に理研主導で記者会見が行われ、世の注目を浴びた。


しかし、「論文が不出来だった」という指摘をネットから受けて、理研はなぜか狼狽し、調査委員会で「論文が不出来だ」という判定をだした。「研究方法に欠陥があった」とか「研究結果が間違っていた」ということは2014年5月に理研が最終的に調査を打ち切る時点で、明らかになっていない。


つまり、「論文のできが悪いから、論文を掲載する雑誌社(民間の出版社)が掲載を認めても、理研は認められない」ということで取り下げを迫った。理研は取り下げを迫る権限を持っていない。そのときの理由は、3枚の写真のミスであり、残りの77枚の図表や4本のビデオについては適否を述べていない。


実に不明朗だ。理研も、若山氏も、そして笹井さんも学問をする場所、あるいは学者ではない。学者のもっとも基本的な用件は「世間がどう考えようと、自らの学問的判断から「真実」と考えていることをそのまま言う」ということだ。それでなければ学問は成立しない。


マスコミは主として東大・京大などの論理曖昧な学者に聞いて事実を見誤っているが、せめてマスコミらしく、若山氏(上司)、笹井さん(協力者)、小保方さんの部下(実験担当者)などに積極的に取材し、事実を明らかにする行為をするべきだった。


昨日、あるテレビで「若山氏も発言すべきだ」と言っていたが、マスコミとしては不見識だ。記者というのは取材の権利を持っているので、理研の正式発表や、記者会見だけにソースを求めるのではなく、取材によって得られたことを中心として番組を構成するべきだからである。


科学の問題は科学で解明し、解決していかなければならない。それなのに、科学のことがほとんどでないまま、あるいは単なる噂の段階で新聞の一面をスキャンダルとしてでて、ケリがついたようになったのは日本の学問にとって実に大きな損失である。日本学術会議、東大、京大など日本の学問の中枢はいったい何をしているのか? 一説(噂)に「小保方さんは倫理観がない」というのが中枢部から聞こえているが、自分たちだけがわかっている事実を示さないとしたら学者を止めてもらいたい。


それに、「論文が取り下げられたのでSTAP細胞はないことになる」などと荒唐無稽な記事を出している新聞もあったが、「知的財産」というのは一回、見たり聞いたりしたら頭に残っている。消すことはできない。裁判所で「それでも地球は回っている」と言っただけで地動説は残っている。学問は形式、隠蔽、権威などとは無関係である。

(平成26年6月5日)

武田邦彦

(出典:武田邦彦先生のブログ






2014年6月2日月曜日

STAP事件後日譚・・・醜悪な理研と毎日新聞





STAP事件後日譚・・・醜悪な理研と毎日新聞


どうしたことでしょうか? 毎日新聞の特定の女性記者のようですが、毎日のように小保方さんをバッシングする記事を出しています。すでにSTAP事件は理研が「調査委員会を再開しない」と発表して一段落しています。


もともと、この事件は理研(小保方さんではない)が大々的に記者会見をしたことで世間の注目を浴びたものですが、その後、論文に疑義が生じ、社会的な話題を集めました。そして理研が2回、小保方さんが1回、笹井さんが1回記者会見を行い、それぞれ違った見解を示しています。


そして理研が調査委員会を開かないことを表明し、お互いに情報戦は終わりになっています。また小保方さんは法律に違反した犯罪人でもなく、タレントでもありません。単なる一般人の一個人です。


ところが、最近、どういう意図を持っているのかは不明ですが、「すでに終わったことで、一般人」なのに、毎日のように毎日新聞から「理研がリークした小保方さんに不利なこと」が報道されています。


その内容は小保方さん(2013年正式社員で入社一年目)の責任とは考えられない予算の使い方の不都合、論文のさらなるミス(”ミス“としたほうが間違いと思うが)、採用の時の問題(小保方さんに関係がないが印象を悪くすることは確か)などです。


くり返しますが、まず、第一に小保方さんは犯罪人でも、タレントでもなく、普通の一般人で研究者で、しかも理研の従業員です。騒ぎになったのは、単にマスコミが理研の記者会見に幻惑されて1月末に報道しすぎたというだけのことです。彼女の論文に科学的な興味を感じて読んだ人は少ないと思います。多くの人が単にスキャンダルとして見ているのが現状です。


毎日新聞というのは全国紙で、その発信力は絶大です。その絶大な発信力を使って犯罪人でもタレントでもない一個人をここまで執拗にバッシングする意図はどこにあるのでしょうか?


まず、この行為は「社会正義」ではありません。社会正義の最も基礎的なものは「法律」ですから、放送法第四条のように巨大マスコミは「意見の違う時には多角的に」というのが原則ですから、理研の方の情報に重きを置くのは問題です。


また、オウム真理教の松本事件の時に、普通の人がマスコミによって犯人に仕立て上げられたことをキッカケに、一般人の報道についてはかなり改善されてきたのに、小保方さんの件になると、まるで「小保方さんは刑事事件の犯人だ」といわんばかりの報道姿勢です。


コピペにしても、写真の誤用にしても、むしろコピペの方が著作権法に合致しているのですから、法令を守って村の掟を破った人を村の掟を重視する側に大新聞がつくのは不見識です。


放送は中止になりましたが、小保方さんの名前をもじって彼女の人格を傷つけようとしたテレビ局もあり、日本社会が「法律に基づかないリンチ」=子どものイジメとなんら変わりない・・・という状態にあるのは残念です。


また、「理研の規則」のうち、他人の文章をコピペしたことを「盗用」としているのは、理研の規則が法令に違反しているのですから、「理研の規則で罰せられたのだから有罪だ」などということも無く、むしろ法令に違反する規則を決めて、従業員を罰っしようとしている理研の方に辛い姿勢を取らなければならないでしょう。


このように見て行くと、毎日新聞の報道姿勢は、「法令に元ずく正義を軽んじ、自分たちの村の掟、日本の空気、個人のバッシング、イジメを優先する」という実に醜悪なものであることが判ります。


即刻、これまでの報道態度についての見解を示し、軌道修正することを求めます.こんなことではどんな社会問題も解決せず、こじれるだけで日本の大新聞としての存在価値がなくなります。

(平成26年5月28日)

武田邦彦

(出典:武田邦彦先生のブログ




2014年5月31日土曜日

【STAP騒動の解説 260525】科学利権からの離脱(2) 学者はなぜ「論文」を出すのか?





科学利権からの離脱(2)
学者はなぜ「論文」を出すのか?



先回このシリーズで示したように、「国のお金をもらった研究の成果は公知」、「会社のお金でやった研究は特許と製品で会社の収益」であって、理研が言っているような「税金を使って研究をして、その成果を個人が採る」などということはもともとあり得ないのです.


でも、なぜこれほどまでに日本の学問の世界は汚染されたのでしょうか? さらに理研は特殊法人の資格を取って、「国民の税金を使い、年俸1億円の研究者を雇いたい」としてきたのです。


お金で何かを推進しようとしたら、「お金が欲しい人」が熱心になり、その結果「不正を防止する方法が必要」で、「膨大なチェック機構が求められ」、その結果、「ほとんど何も成果がない」と言うことになるのはこれまでの学問の歴史が示しています.


つまり会社で研究すれば、経営陣や上司が厳しく「研究資金と成果」を見て、ダメとなればヤメさせますし、自分勝手なことができないのも当然です.それは「会社のお金をムダにしない」ために必要なことです。


それに対して、理研では「お金は税金」、研究は「自由」、論文発表も「自由」(理研が小保方論文を出すのを認めたかどうか不明。会社なら提出前にできあがった論文を知的財産部に提出して許可を得る)、さらに理研に反対する記者会見を従業員が勝手に開くことができる、正式に入社して1年目の社員の不祥事(もし不祥事なら)に、上司などが誰も責任を取らない、ということですから、まさに「欲呆け研究所」と言うことができます。


その組織が「公知の論文などの文章をコピペしたら「盗用」」という独自の規則を決めたのも奇妙です.これは日本学術会議の指針を参考にしたものですが、これは「著作権を持つもの」に限定されますから、理研が対象とするものは範囲に入りません.


もし、公園のベンチを利用すると同じにしなければ人類の科学に貢献できないということで、論文に出したものが「公知」になっているのに、科学の進歩を妨げる規則を決めているのですから、驚きます。


この際、日本の科学界は徹底的に論理を正し、日本と人類の科学的発展を求め、村の掟を排除し、正しい学問の道筋を示してもらいたいものです.


ところで、これまで暗黙の村の掟だった「論文業績」をどのようにするか、これも議論を要することです。


研究者が研究資金と地位をもらって研究を始め、普通の場合はしばらくすると、しかるべき成果が出ます。でもその「成果を論文にしろ」という命令も強制力も持っている人はい無いので、サボりの研究者は論文を書きません.そうすると税金を使って研究した成果が国民に還元されないので、研究者が論文を書く何らかの「モチベーション」が要ります。


というのは、「論文を出す」というのは、結構、大変で、今回のSTAP論文でも判るように、英語で10ページほどの文章を書き、グラフや表をそろえ、計算間違いなどがないかを繰り返しチェックし、さらに引用文献を調えるのに共著者がいれば3ヶ月ぐらいはかかります。


さらに学会によって提出する様式をそろえるのも大変で、しかも提出すると5万円から10万円ほどの掲載料をとられ、さらに意地の悪い「査読」を通過しなければなりません。だから論文を出さない研究者も現実には多いのです。


選挙に出る人が「世のため」と言って土下座しているのと同じで、本当は自分に大きな得にならないと、地位が保証されている大学教授が論文を出すことはありません。


つまり、「少なくとも5年に数報の論文を出さないと地位が上がらない」とか、「優れた雑誌に論文を出したら、大きな研究費をもらえる」という方式がとられるようになっています。


現代の社会では「学者の学問的誠意に任せることはできない」と管理側(大学当局、文科省、その他の研究管理組織)が考えるようになったのですが、その一つの原因が学長とか国の委員になりたい学者は「権力志向」であることにもよっています。まさに100年前にマックス・ウェーバーが「職業としての学問」になったと嘆いた通りになっているのです。


そこで、「論文をでっち上げれば研究費がもらえる」と言うことになり、「研究不正」が起こる可能性が出てきました.京都大学の山中先生が「実験ノートは不正を見つけるため」と言われたのはこのことですが、実に哀れな研究現場の状態です。


だいぶ整理が進んできましたので、多くの人がSTAP事件の本質に迫るようになり、また「実験ノート」が「不正防止」という学問とは無縁のことで求められ、挙げ句の果てに研究もしていない「科学倫理」を専門とするという奇妙な人たちの食い物になっている現状も次第に判ってきました。


「学問の世界に議論が不足している」というのは学問そのものとも相容れないのですが、学者はややこしいところがあり、胸襟を開いて議論し、合意をえるのが不得意でもあります。そのうちに徐々に「学問は嫌いだが、管理は好き」という人たちにすっかりやられてしまったというのが現状でもあります。


(平成26年5月25日)

武田邦彦

(出典:武田邦彦先生のブログ




2014年5月29日木曜日

【STAP騒動の解説 260514】 バッシング文化と死後30年





バッシング文化と死後30年



私が高校生の頃、父は「クニ、生きている間に評価されてはダメだぞ。死んで30年ぐらいが良い」と教えてくれた。このことは一度、このブログで、また先日、中日新聞や東京新聞が載せてくれた。


社会は「普通の人の集まり」だから、「現在、正しいと思っていることを正しいとする」ということで成立している。人間は一つ一つの言動を「自分が正しい」と思うことに従ってやるのだから、「何が正しいか」が決まっていなければ生活ができない。だから「今、正しいと思っていることに従う」のは当然なのである。


でも、世の中を切り拓く人とか学者はどうだろうか? それらの人たちは現在と違うことをするのだから、当然、「今、正しいと思っていることには従わない」という特殊なことが求められる。おやじは高校生の私にそれを教えてくれたのだ。


その後、私は企業の研究者となった。企業の研究の中では超長期の研究だったから、「世界ができないと言ったこと」にチャレンジすることになったが、それでも「企業」という保護体の中でのことだったから、どんなに奇妙なことを言ってもバッシングを受けることはなかった。事実、企業にいる時には外からのバッシングは企業が防いでくれた。


大学の先生になってから、私は学問の自由を手にして深く社会に感謝し、私のつたない学問的業績はすべてオープンにして恩返しをしてきた。でも学問なので「今、正しいと思っていることと違う」ことだらけだった。


「すべての燃えるものは燃えない」、「人工的に作られたものも命を持たせることができる」、「リサイクルはすれば環境を破壊する」、「CO2は増やしたほうが良い」というようなことだから、これがバッシングされないで済むはずもない。社会と正反対だ。


でも、自分は研究や調査を通じて、それが正しいと思っている。自分が思っているだけで間違っている可能性もあるが、学問と言うのはそれで良い。政治ならいくら正しくても人を説得しなければならないし、商売ならとても役に立ってもお客さんがそう思ってくれないとだめだ。


でも、学問は自分だけでよい。どうせ自然に対しては私たちは小さい。その代り、それが本当になるのは30年後で、その時には私の子供や少しの友人が「あの人は正しかった」と言ってくれれば満足だ。


もし、間違いだったら、「あれはダメだったね」と言ってくれれば良い。その時はできると思ったのだから。


私が「バッシングは平気です」というとみんなびっくりする。「なんと傲慢な人か」、「おかしいんじゃないか、あいつは?」ということになるけれど、それが親父の教えてくれたことであり、私の望みなのだから、始末が悪い。攻める方は一般的な攻撃手段が取れない。


ある時、会社の顧問をしていたが、社長が「ほかの人は簡単だけれど、武田先生は厄介だ。お金で動かないから、どうしたら良いかわからない」と言った。私もお金がいらないということはない。その頃は大学の先生の給料だけだったから、豊かではなかったが、朝ご飯を食べ、電車に乗り、大学で研究をすることができた。別に私の人生にとって十分だった。


そんな私にとってSTAP事件は驚くことばかりだ。どうもお金や名誉のために論文を出している人が多いらしいし、人が親切心で論文を出したのだから、良いところだけを取ればよいのにバッシングしている。それより、小保方さんの論文は上出来で、面白い。でも、競争やお金の中にいる人は欠点が目につくのだろう。


ノーベル賞やオリンピックのメダルを取る人は偉い。私は素直に尊敬する。でも、その人たちは、地位も、名誉もいらないはずだ。自分の好きなことをして世界的なレベルに達したのだから、それで満足しているだろう。もし、足すとしたらお金や地位ではなく、「みんなの尊敬のまなざし」だけではないか?


(平成26年5月14日)
武田邦彦

(出典:武田邦彦先生のブログ






2014年5月28日水曜日

小保方晴子氏、STAP細胞論文1本の撤回に同意







若山教授の行動が、いつも不自然に感じるのは、私だけでしょうか?

若山教授が今回のSTAP騒動の火元のように思いますね。
理研も若山教授の件は、調査しないと決定したので、もっと大きな何かの秘密があるように感じます。



2014年5月27日火曜日

STAP論文新たな疑義 理研は調査せず 2014年5月26日



STAP論文新たな疑義 理研は調査せず



2014/05/26 に公開
STAP細胞の論文のグラフや画像に、新たに見つかった疑義について、理化学研究所は­、一部の著者からすでに論文を取り下げる意向が示されていることを理由に調査は行わな­いことを決めました。

STAP細胞の論文について理化学研究所は、小保方晴子研究ユニットリーダーがねつ造­と改ざんの2つの不正行為を行ったと認定して調査を終了し、これを基に関係者の処分の­検討を進めています。

こうしたなか、先週新たにこれらの不正以外にも複数の画像やグラフに疑義があるとする­調査内容を研究所の別の検証チームがまとめていたことが分かりました。

これを受けて外部の有識者などで作る改革委員会は、研究所に対し正式な調査を求めてい­ましたが、理化学研究所は26日、一部の著者からすでに論文を取り下げる意向が示され­ていることを理由に調査は行わないことを決めました。

専門家「常識的には考えられない」
これについて、研究の倫理問題に詳しい東京大学医科学研究所の上昌広特任教授は「論文­を取り下げるかどうかと不正かどうかの調査は別の話で、常識的には考えられない対応だ­。

まだ表に出ていない不正の構造が隠れている可能性もあり、再発を防ぐためにも調査す­る必要がある。

小保方リーダー以外の著者の責任があいまいにされてしまう可能性もあり­、調査しないと決めた理化学研究所の組織の在り方が問われる」と話しています。

(出典:YouTube revirasu)


2014年5月20日火曜日

科学利権からの離脱 (1) 研究の変質




科学利権からの離脱 (1) 研究の変質


大学で研究する時、まず日本社会は私に「学問の自由」をくれる。どういう研究をするか、研究の方法をどうするか、いつ諦めるか・・・すべての自由が私に与えられる。研究をするものとしてこの自由はかけがえのないものだ。それを憲法が与えてくれている。


次に研究資金として「税金」をいただく。国立大学は給料も含めて、研究費もほとんど全部が税金で、私立大学でも授業料を先生の研究費に投じるのはむつかしいので、いろいろなところから「公的資金」を獲得して研究する。自分のお金で研究している人はほとんどいない。


だから、大学で研究して成果を出したら、それは「自分のしたいことをさせてもらった」ということで社会に恩返しをする。それが発表であり論文だ。このことによって社会は新たな「知」を獲得し、それを利用して発展する。これを「公知にする」という。


この図は、3種類の研究とその成果の帰属を整理してみたもので、会社の研究の場合は、研究ではテーマを指定され、会社の資金で研究する。だから成果がでたら、特許を取り、製品を作る。研究の自由はある程度あるが、会社の都合で研究を途中で止めろと言われればそれに従うことになる。


でも、大学の研究も、会社の開発も、つじつまがあっている。大学では、学問の自由と税金をもらったのだから、成果を自分のものにするのは良くない。それでも立派な業績を上げると表彰されたり、教授になったりするので、自分にも十分に返ってくる。


会社でも研究で会社の収益に貢献したら、やや出世に有利だし、良い仕事をするチャンスも増える。それなりにつじつまが合っていて、報われている。それに対して、今度事件をおこした理研はかなりひどく、社会的な悪ともいえる状態だ。


学問の自由をもらい、国民の税金を使い、自由に研究して成果が出ると、特許と論文を出し、それでまた給料や待遇が上がる。そんな「矛盾したシステム、わがままシステム」だから、不正も起こるし、「実験ノート」も必要となる。


今回の事件が、「自由とお金」をもらった人が、その成果も「自分もの」にしようとする理研そのものの考え方があまりにも図々しいことによる。こんなことは普通の社会にはないが、それに気が付かないのは「俺たちは頭が良いのだから、お金をもらおうが、自由を得ようが、そんなことは当たり前だ」と言う傲慢な心があるからだ。


人が知恵をつけるのは、自分を見つめることができ、頭が下がってくることだ。「稲穂は実るほど首を垂れる」と言うことでなければ、頭に何を詰めても意味がない。立派な学問を積み、成果を上げてもふんぞり返るなら、本当は頭の中が空っぽであることを示している。


しかし、今回の理研のことで、大学の学者が「コピペが悪い(公知ではない)」、「実験ノートが必要だ」と言ったのは、残念ながら大学の研究も、いまや「立身出世と研究資金獲得、ただでヨーロッパに行く」と言うことを目的とし、それでも「自分のお金で研究するのは嫌だ」ということになるからだ。


それではなぜ成果が自分のものになるのに、自分のお金を出したがらないかと言うと、「俺は頭が良いから、世間は俺にそのぐらいはするべきだ」と言う傲慢な心があるからだ。


科学の研究を「科学利権」から遠ざけていかないと、日本人は学者に無駄な税金を投入することになる。


(平成26年5月20日)
武田邦彦

(出典:武田邦彦先生のブログ






2014年5月19日月曜日

STAP事件簿決定的瞬間 掲載を拒絶された論文の公開



STAP事件簿決定的瞬間
 掲載を拒絶された論文の公開



学術論文は、研究者が執筆し、学会や雑誌社に提出する。提出された論文は直ちに査読委員に回され、審査を受ける。つまり査読委員は社会に先駆けて「新しい知見」を見るので、仮に査読委員に悪意があれば、審査を遅らせて、その一方で、自分で研究したり、学会で一足先に発表すればノーベル賞も取れる。極端なケースでは論文を拒絶して、査読委員が通りやすい論文にして自分が出すということもありうる。


しかし、査読委員は「そんなことをしない」という信用のおける一流学者に依頼される。査読委員は論文を読んでも、それに関係することを一切しないという信用がある人が担当する。


一方、不運にして論文が査読委員によって拒絶された場合、著者はそれを秘密にする。というのは、またしっかりした論文にして提出されるのが普通であるし、もともと拒絶された論文内容を人に知らせることは恥をかくことにもなるので、出したということ自体も言わないのが普通である。これは「隠す」というのではなく、基本的には欠陥があるから拒絶されているのだから、社会に出すべきではないものだからだ。


ところが、今回、2回目の理研の調査委員会の記者会見の時、小保方さんが2012年7月に出したというサイエンスに投稿して拒絶された論文が表に出てきた。こんなことはあり得るはずもない。拒絶された論文を公表するには、小保方さんの同意が必要であるが、同意したという説明はなかったように思う。


拒絶された「絶対に表には出してはいけない」という論文を理研に出したのは若山さんと言われているが、真偽の方は不明である。もし共著者の若山さんが小保方さんに無断でこの論文を理研に出したとすると、これは犯罪になるかどうかは別にして、コピペどころではない学者として「あるまじき行為」であることは間違いない。


新しい事実が「論文」と言う形にならずに社会に出るということの損失もともかくながら、仲間で論文を出して拒絶されたということ自体が不名誉であるし、ましてその内容や審査過程のことは著者の所有物のようなものだからだ。つまり、理研の調査委員会は、実質的に不法な手続きで手に入れた証拠をもって「悪意」の判定をしたことになる。


またこの拒絶論文が若山さんから提出されたとすると、査読経過が小保方さんから若山さんに転送されていたことを示しており(転送しなければ若山さんの手元にもないはず)、そこで若山さんが十分の時間でチェックができたし、同じく2か月の準備期間があった笹井さんも知っていた動かぬ証拠である。


「不正の写真」と知っていながら若山、笹井さんのベテランが、再度、ネイチャー論文に使用したとすると、調査委員長が言ったとおり、「誰が評価しても不正」ということだから、わかっていたことになる。そうなると、その後の展開から見ると、論文を故意に不正に作り、それが掲載されたときに不正を暴露し、小保方さんを貶めたとしか考えることができない。


このような不名誉を挽回するために、また理研が膨大な税金を使っていることを考えると、若山、笹井氏は積極的に事実の説明をしなければならない。これは小保方さんのもとで実験をしていた人たちにも言えることである。あなたたちも科学者なのだから、個人を捨てて科学の進歩に身をささげてほしい。


(平成26年5月14日)
武田邦彦

(出典:武田邦彦先生のブログ





2014年5月18日日曜日

STAP事件の現状を見て思うこと (STAP論文は不正か?、STAP特許は?、小保方さんの発見は?、理研の経営陣の責任は?



論文が不正ならば、特許も不正です。
つまり、論文(小保方さん)が不正ならば、特許(理化学研究所)も不正となります。

論文は問題があったとしても、読まなければ良いだけのことです。
しかし、特許は法律に違反する可能性があるので問題が大きいと思います。

特許法で、(詐欺の行為の罪)第百九十七条 詐欺の行為により特許、特許権の存続期間の延長登録又は審決を受けた者は、三年以下の懲役又は三百万円以下の罰金に処する。となっています。

特許の審決を受けるまでの猶予はありますが、道義的な問題があります。
従って、論文が不正ならば、特許を出願した理化学研究所の方が、より大きな不正を犯していることになります。

理研が特許を取り下げないで、論文については取り下げ勧告するということは、STAP細胞の発明は正しいが、論文の書き方が悪かったということです。

そして、理研内で再現実験に成功したら、理研のシニア研究者が論文を出して、研究者としての名誉は貰う、と言っているように思えます。
(小保方さん抜きでは、成功しないと思いますが・・・。簡単に成功しないからこそ大発見なのです)


一連の問題を、一般常識で考えてみると、小保方さんの論文作成ミスに比べて、理研の経営陣の経営判断ミスの方が、同じミスでも国民への被害が大きいと言わざるを得ません。

つまり、論文の作成ミスや論文作成時の不正があったとしても、日本の国民にとっては、多少の間接的な被害はありますが、それほど大きな被害はありません。

論文が正しければノーベル賞もので、STAP細胞が国民に夢と希望を与えてくれます。
論文が正しくなければ、残念だけれども、引き続き研究を行って、STAP細胞を見つけて欲しいと、ほとんどの人が思っています。


一方、論文疑惑への対応による理研経営陣の経営判断ミスは、今回のようなSTAP騒動を引き起こし、日本の科学研究を混乱させて、30歳の若い研究者を追放すると共に、国内トップクラスの数人の研究者を窮地に追い込み、国益を大きく損ねています。

また、この問題対応に関する費用や損害は、すべて税金であり、税金の無駄遣いも甚だしいのです。
しかも、まだ問題は解決しておらず、今後、法廷闘争などがあれば、より税金の無駄遣いが発生するのです。

どうして、このような事になってしまったのでしょうか?


原因はいくつもあるでしょうが、経営陣の経営判断ミスが、最も大きな原因だと思います。

論文疑惑の調査において、今回は突発的な問題であったので、3月14日の「STAP細胞 研究論文の疑義に関する調査の中間報告」までは、普通に考えて違和感はありませんでした。

ところが、4月1日の「STAP細胞 研究論文の疑義に関する最終報告」は、あまりにも拙速であり、「小保方研究員の研究不正行為があった」との結果報告には、本当にビックリしてしまいました。社会も180度ひっくり返りました。

この時、まだ調査時間は十分にあったはずなのに、数ヵ月かけて十分な調査と、社会への影響についての多方面から分析、検討を行って、最終的に経営判断をすれば良かったのにと、非常に残念に思います。

つまり、小保方さんが「不服申し立て」をするような状況での発表は、差し控えるべきであったのです。
普通の会社では考えられないことです。大きな経営判断ミスと言わざるを得ません。

何故、経営陣は拙速にも、このような結果を発表したのか非常に不思議です。


何らかの「政治的な圧力」、「特定国立研究開発法人の認定」、「研究不正のガイドライン見直し」、などと関係があったとしか思えません。あるいは、もっと大きな秘密の問題があるのかも知れません。

この重大な結果発表によって日本国内だけでなく、世界的にも驚くような事態になることが、なぜ理解できなかったのでしょうか?、それとも理解していて発表したのでしょうか?

何故、理研内でもっと小保方さんや共著者の研究者に、よく聞き取り調査を行って、全員が納得できる形にした報告をすることが出来なかったのでしょうか。

STAP細胞という世紀の発見に比べて、若い研究者の論文の作成ミスなどは些細な問題であり、最終報告の発表方法を工夫すれば、不正ではなく初歩的ミスとして発表することも出来たと思います。

一般常識のある人なら、今回の大発見を考慮すれば、論文の不正やミスを責める人は少なかったと思います。

一部の批判があったとしても、これほどの問題にはならなかったのです。

どこの世界でも、人の粗探しをする人はいるものです。
また、善意で研究不正を追及している人もいるとは思いますが、今回の論文内容の素晴らしい点を考慮すれば、一般社会は許すものです。

人間は誰でも、若い時にはミスをしているのです。
つまり、理研が不正だと決め付けなければ、小保方批判がこんなにも出ることは無かったのです。

小保方批判が出るということは、最終的には、それ以上の批判を、理研が受けるということに気付かないことが、問題を大きくしてしまったように思います。

つまり、理研内の所員を経営陣が切り捨てるという形の処分は、日本人としての心が許せないのです。
経営陣が批判を受ける覚悟を持って、理研内の若い研究者を庇う方が自然であり納得できるので、社会は受け入れやすかったのです。

2014年05月18日
多賀 松男





2014年5月15日木曜日

小保方、理化学研究所、STAP細胞論文の不正問題 蓮舫 内閣委員会 (2014年5月13日)

国会参議院 内閣委員会 1/3



国会参議院 内閣委員会 2/3



国会参議院 内閣委員会 3/3



国会参議院内閣委員会 2014年5月13日
水岡俊一(内閣委員長)
羽生田俊(自由民主党)
蓮舫(民主党・新緑風会)
水岡俊一(内閣委員長)
秋野公造(公明党)
江口克彦(みんなの党)
田村智子(日本共産党)
荒井広幸(新党改革・無所属の会)
山本太郎(各派に属しない議員)



2014年5月14日水曜日

「STAP細胞論文問題」 田原総一朗のタブーに挑戦!(2014年4月16日放送分) 

(動画公開日: 2014年05月17日)

鋭い問題把握と分析を行い、それに基づき取材を行うことで、正しい解説が出来るのだと納得しました。田原氏は最初に、次のように話しています。

僕は80歳です。僕はラッキーだなと思います。
僕が現役でやるのは、才能はまったく無いんだけど、

一つだけね、人一倍強いものがある。
それは好奇心ですね。

その好奇心の強さで、今まで現役でやって来ていると思います。
今でもね、新聞は6紙をとっています。

何故6紙をとるかと言うと、それぞれ記事を見て、疑問点、
必ず新聞には疑問がある。問題がある。

その問題を、疑問点を探しだすと、その一次情報、
その新聞が、その記事を書いたもとになる一次情報に取材する。

それがね、一番の楽しみなんですよ。
僕はまたね、趣味というものが、まったく無い人間でね、趣味はね人に会うことなんですよ。

幸か不幸か、人に会うことが今、仕事になっちゃってるから、だから、まあ趣味が仕事になったのは、とってもラッキーで良いことなんだけど、逆に言うとそれ以外は何にも趣味がない。






2014年5月12日月曜日

【STAP騒動の解説 260509】   ショート論評 理研の「規則」は法律違反だ




ショート論評
 理研の「規則」は法律違反だ



2014年5月8日に理研が小保方論文の再審査をしないことを発表したことでテレビ各社は「不正が確定した」と放送したが、正しくは「理研が最終的に不正と判断した」と報道すべきである。やや絶望したが科学の発展のために、反論をしておきたい。


また、小保方さんは個人で、理研は団体だから、それだけの理由で理研が正しく、小保方さんは「理研に善悪を判断される被告人である」とするのは適切ではない。さらに今回の理研の判断は次の3つの点で誤りは歴然としているので、その批判を添加するのがメディアの見識というものだ。


1.理研の規則は法律に違反している
公正な社会を運営するために著作権法と特許法がある。理研の「規則」のうち「盗用」としているのは、著作権法では合法で、むしろ人間の知の発展のために定められた規則だから、理研の「規則」が違法である。実験ノートにしても共著者の責任にしても、どこが決めているのかわからないような村の掟を優先している。研究機関とは言えない。

2.調査委員長が論文不正で辞任したら審査のやり直しが普通
「規則に従って決定したのだから、誰が審査しても同じ」と新委員長が言った。それなら審査委員は誰でも良いことになるが、そんな屁理屈はない。人間の「判断」というのはその人による。私が判断したら不正にはならない。ウソを言うのが調査委員会と言う感じだ。

3.かつて同じ不正をした人が審査委員に複数いる
辞任した委員長は、自ら不正を認めたのだから不正をした人が裁くことはできないし、さらに委員の中に複数の不正者がいる。その人たちが委員会を構成すれば「この事件は早く終わらせたい」という方向で進むに決まっている。


この他にも、「雑だった」ことを「意識的な不正」と言っている。今日の記事を見ると新聞記者は忙しい研究者が雑誌の査読を見過ごすことがあることすら知らない(体験もしていない)のに、「サイエンスの投稿で指摘されていたことを知らないはずはない」という素人判断をしている。それなら笹井さんは気が付いている。


また、総合的な論文の価値とミスのバランスも考えなければならないだろう。理研は特許は取り下げていないし、論文と特許は違うといった。これを真正面から理解すると「発明は正しいが、論文は下手だった」と言っているに過ぎない。それなら多くの若者が論文を書かなくなるだろう。


一体、理研という組織は「何のために研究者は論文を出すのか?」がわかっていない。論文は「公知」のためであり、「個人のお金や名誉や地位」のために書くものではない。このことは根深いので、また適当な機会を見て書きたいが、論文を出しても何の権利も生じないのに、なぜこれほどの問題になり、その真偽が話題になるのか、曲がっている方が正しいほうをバッシングしようとしている。これも村の掟である。


個人的なことは言いたくないが、かつて若山さんが指導者で小保方さんが無給の客員研究員だったのが2年も続いているのに、今回のことでは、ほぼすべての「悪い情報」の出所が若山さんであることが気になる。どうなっているのだろうか?


日本人はかつて「判官贔屓」というほど「弱い者の論理」をよく理解したが、現在ではそれは「長いものに巻かれろ」になった。その典型が「独立国・日本の中にアメリカ軍がいるのも平気」が示している。


(平成26年5月9日)
 武田邦彦

(出典:武田邦彦先生のブログ






【STAP細胞】飯島勲・内閣官房参与が小保方晴子博士を擁護「調査委員会は現代の魔女狩り」



飯島 勲(いいじま いさお、1945年(昭和20年)10月13日 - )は、日本の国会議員秘書。内閣総理大臣秘書官、厚生大臣秘書官、郵政大臣秘書官、衆議院議員公設秘書、内閣官房­参与などを歴任した。駒沢女子大学人文学部客員教授(2007年~2011年)、松本歯科大学歯学部特任教­授。


飯島さんの発言に共感しますね。


【STAP騒動の解説 260402】 罪は理研にあり・・・悪意の組織が弱い個人へのリンチ!





罪は理研にあり
・・・悪意の組織が弱い個人へのリンチ!


小保方さんの論文で、理研が「不正」だと言った箇所は主として2つあるが、まず第一に、「取り違えた画像」については、


【外部からまったく指摘がなかった時期に、小保方さんが間違いに気が付いて、ネイチャーと理研に報告している。報道されているように「外部からの指摘」でわかったものではない。】


むしろ良心的だ。私ならこのぐらい小さなミスなら、報告しないかも知れない。でも、自分の論文で出版されてしまった後でも、間違ったところを気が付くことは時々ある。その場合、すでに提出して出版されているので、すぐには訂正できないが、次の論文や学術発表などで修正していく。特に、かなり査読で修正した論文は修正途中で間違いに気が付くが、出したらそのまま通ってしまったという場合、ミスがかなりあるのが普通だ。


第二点目は、酸処理したものの画像だが、
【錯覚して使った単純ミスだ】と小保方さんが言っているし、
【酸処理した正しい画像は小保方さんが持っている】

のだから、それに代えればよいだけのことだ。


「使うべき写真」が自分のパソコンにあるのに、間違って別の写真を使ってしまったことを「捏造」と言うのは間違っている。事情を知らない新聞記者が「使いまわし」という悪意のある言葉を使ったので、多くの人が誤解したが、そうではなく、自分のパソコンに入っている写真を間違えて使っただけだ。


それに「正しい画像」があるのに、捏造のために「間違った画像」を使って自分の評判を悪くしたいということなどするはずもなく、論理性もない。正しい画像がないので、別の写真を使ったと多くの人が思っているが、それは誤報だ。


その他のところも著者には著者の考えがあるので、それを尊重しなければならない。つまり、「不正研究」というのは、盗用、改竄、捏造の3つだが、「盗用」というのは読んで字のごとく他人のものを盗んだ場合で、もし他の人の論文の文章の一部が使われていても、公知(だれでも利用でき、引用の必要がない)のものだから問題はない。自分の家の前の公道を歩いて罰せられることはない。


理研の記者会見を聴くと、理研の方が罪を犯している。多くの人は「個人は悪いことをするが、組織は悪いことをしない」という前提だから、「小保方さんがこういった」と言っても「それは嘘だろう」と思うことがあるが、「理研が判断した」というと正しいと思う。


でも、理研も所詮、決める時には個人が決める。だからウソもつくし、保身もする。今回の場合、第一点目の「小保方さんが自分で気が付いて、雑誌社(ネイチャー)と理研に申し出た」というところを「論文を出してから言ったのだから、故意(不正)だ」と判断した。完全に理研の「ウソ」の判断だ。


もう一点は「正しい図がパソコンにある」と言っているのに、「それを使わなかったのは故意だ」とこれも理研がウソの判断をしている。


また、本人が意図的ではないと言っているのに、どういう判断で意図的(不正)としたかということを説明していない。一つは自分で申請しているのだから意図的ではなく、もう一つは正しい図を使えたのに間違っただけだから、これも不正ではない。


それを説明せずに一方的に記者会見を開き、一個人を誹謗(不正研究で、盗用、改竄、捏造があった)とするのはリンチであり、犯罪である。「本人が、反論があったらどうするか」という質問に「異議申し立てがある」と冷たく言った。理研は真実を明らかにしたいと思っていないことを示している。


ところで、このような単純ミスは咎められる場合と、本人の打撃で済む場合がある。なにか他人に対して積極的な行動をしている場合、たとえばタクシーの運転手が運転を誤って事故を起こした場合、そのミスは許されない。


しかし、フィギャースケートの選手が回転で着地した時に転んでも、ミスはミスだが咎められない。フィギャースケートの場合も「回転を見たくて、遠くから切符を買ってきた」という人もいるだろうけれど、そんな文句は通じない。


論文も嫌なら読まなければ良いし、読んでも「ああ、そうか」ぐらいに思うのが普通なので、論文のミスは著者の罰点になるだけで、もちろん「不正」ではない。むしろ2014年4月1日の理研の記者会見で、不正を働いたのは「理研側」と誤報を続けたマスコミである。


日本人はいつからこんなに権威主義になったのだろう。これでは日本国憲法で定められた基本的人権は簡単に組織によって覆される。そして社会はNHKなどのマスコミの「組織側報道」によって、国民は判断を誤り、個人をバッシングする。嫌な社会だ。


(平成26年4月2日)
武田邦彦

(出典:武田邦彦先生のブログ






2014年5月11日日曜日

【STAP騒動の解説 260327】 教育者がどんな時でも死守しなければならないこと・・STAPと教育





教育者がどんな時でも死守しなければならないこと・・STAPと教育



教育者たるもの、どんな時でも命を懸けて守らなければならないもの、それは「教え子の名誉」だ。教育の責任はすべて教師にある。教えを受けた子供にはない。


STAP論文の関連で、早稲田大学がかつて認めた博士論文の審査を改めて外部に頼むとの報道があった。なんということか!!


・・・・・・・・・


中学校の時、定期試験で国語の答案を書いて先生に提出し、90点をもらって卒業したとする。その答案が保存され、公開され、ある時に、その答案の内容が「ある有名な文学者の作品の盗用」であったことが分かった。本人はすでに30歳で社会で活躍していたが、学校に呼び出されて卒業が取り消されたことを告げられる。


卒業生:「えっ! 卒業取り消し?! だって、先生が・・・それに僕は盗用したのではありません。僕の頭の中に文章が入っていたので、それを書いたのだと記憶しています・・・先生はどういっておられるのですか?」


学校:「先生はすでにご退職され、記憶もない。でも、ちゃんと証拠が残っている」


・・・・・・・・・


こんな日本は嫌だ。生徒がどんな答案を書こうが、先生が90点をつければ90点なのだ。そして、もしその答案に問題があれば、責任は90点をつけた先生にあり、生徒は教育中なので、責任は問われない。


教育とは「成果を残す」ことではなく、本人の実力をあげることだ。だから、基本的には教育が終わったら、本人に関することはすべて捨てても良い。本人が記念に持っておきたいと言うなら本人に渡せばよい。


この教育の原理原則は、小学校から大学、さらに大学院博士課程まで変わらない。提出した作品はどんなものでも、所有権は教育を受ける方にはなく、教育をしたほうにある。


大学でも採点の権限はすべて先生にあり、それは普段の試験でも、論文でも同じである。学生は博士論文の成果を自分のものにしたいなら、普通の学術論文として提出する必要がある。捨てるのはもったいないので、卒論などを図書館に保管することがあるが、それは「少しでも役に立てば」ということである。


法治国家では「法や規則はすべての人に平等」でなければならない。優れた答案や論文だから本人の責任を問うたり、中学校なら良いけれど博士論文はだめという「村の掟」を作ってはいけない。


また博士論文は、本人提出→主任教授の訂正指示→副査の先生の訂正指示→審査会→公聴会→教授会 というプロセスを経る。本人は提出した後は指示に従って修正するだけだから、社会的責任と言う点では、修正を強制される学生に責任を問うことはできず、主任教授、副査、公聴会に出た社会人、教授会にあり、本人にはない。権限なきところに責任もない。


また、学問としては、本人、そして主任教授、さらに副査の先生が意見を述べる必要があり、もしその意見を聞く必要があるとしたら、大学ではなく教授会である。大学は会社でも役所でもない。「上のものが責任を取る」ということは大学ではない。むしろ教授が採点した結果を学長が変更したら、そちらが罪になる。


教授は自分の授業を受けた「学長の息子」を「学長命令」に反して落第させることができる。このような専門職の業務の場合に、学長が責任を取る必要もない。学長が責任を取るのは、教授に任命したからでもない(教授の決定は教授会)、学校の経営などに関する「学長権限内」のことしかできない。


だから、今回の報道が正しければ、早稲田大学は権限を違反し、教育の基本中の基本(学生の責任を問わない)に反している。日本人の常識、マスコミの冷静で正しい報道に期待したい。


早稲田大学は直ちにステートメントを取り消すか、あるいは新しい教育論を説明してからにするとよい。大学は教授の保護者ではない。大学は過去の学生の瑕疵を責める権限もない。教授を保護して学生を罰するなら、大学を解散しなければならない。


(平成26年3月27日)
武田邦彦
(出典:武田邦彦先生のブログ






【STAP騒動の解説 260326】30歳の研究者の標準的レベルはどのぐらいか?





30歳の研究者の標準的レベルはどのぐらいか?



STAP細胞の論文の一部に間違いがあったということで、日本中が大騒ぎした。この論文の筆頭者(論文の共著者の最初に書いてある人)が30歳の研究者であることで話題になった。「女性」か「男性」というのはあまり関係がないこの問題について、考えてみたい。


30歳の研究者というのはどのぐらいの実力かということを日本社会は理解していないように思うので、著者をかばうとかそういう詰まらないことではなく、研究者と言うのはどういうものかについて少し紹介したい。


博士課程を終わるのが最短で28歳だから、30歳の研究者は研究を始めたばかりの人である、

普通の30歳の研究者がNatureに論文を投稿することはまず不可能である、

普通の(Natureよりレベルが低い)英語の論文を一人で作成して、投稿し、査読(審査)に耐えて掲載に至ることは不可能と考えられる、

普通は教授やそのレベルの経験を積んだ指導者が横にいて、査読結果(2、3度くる)が来るたびに、査読委員の文章を読み、打ち合わせる、

30歳の研究者が独自に査読委員の質問や訂正要求に応じることができるのはレベルの低い学術誌だけで、このレベルの場合、質問の意味がわからない、どうして答えたらよいかわからない、というのが普通だ。


こうして少しずつ研究者は育っていく。研究者に必要なのは、「ミスなく論文を出す」ということではなく、まずは「着想や実力を上げていく」ということで、普通は40歳ぐらいになればある程度、独立して研究と投稿ができるようになる。



(学術分野ではつねに「故意は考えない」という原則がある。故意のものは自然科学でも時々あるが、その人の一生のうち、ほぼ明らかになるので、一つ一つを警察のようにチェックする必要はないし、研究は意外なことなので、チェックする方法もない。 最近、佐村河内氏と比較されることがあるが、故意があるかないかは決定的に違うし、難しさも違う。)



(平成26年3月26日)
武田邦彦
(出典:武田邦彦先生のブログ










【STAP騒動の解説 260321】 コピペは良いことか悪いことか(3)・・・「村の掟」で罰する人たち





コピペは良いことか悪いことか(3)
・・・「村の掟」で罰する人たち


大東亜戦争で日本は敗北し、指導者は白人の手によって罰せられた。でも、時間の経過は次の通り。

1)戦争が始まった日   1941年12月  8日
2)国際軍事裁判憲章   1945年  8月  8日
3)戦争が終わった日    1945年  8月15日
4)極東軍事裁判条例   1946年  1月19日
5)判決            1948年11月  4日


戦争が起こる前には「戦争犯罪」と言うはなかったが、戦争が終わる直前に「国際軍事裁判憲章」というのができ、戦争が終わってから裁判条例が発効し、判決が3年後に行われる。


これについてはさすがの白人側で戦勝国のイギリスの内閣官房長官だったハンキー卿が「世界人権宣言第十一条、行われた時には国際法でも国内法でも犯罪とされてなかった行為について有罪とされることはない」という世界人権宣言を引用した、「東京裁判は世界人権宣言の規定と相容れず、退歩させた」と述べた。


このように「法律で決まっていないことを事後に決めて罰する」というのは、絶対にやってはいけないことで、むしろ「罰したほうが重罪」です。日本人の中の多数の反日派の方が、このイギリス人より反日的であるのは明白です。


ところで、今回のSTAP細胞事件では、同じことが繰り返されている。


愛知大学の時実象一教授は著書「図書館情報学」(2009)の中で、「学術論文に掲載されている事実やデータには著作性が無いと考えてよい」と記載している。また、大阪高裁は2005年4月28日の判決で、「実験結果の記述は誰が書いても同じような記述になると考えられる」として学術論文の創作性を否定した判例を出している。著作権に関する最高裁の判決も「創造性のあるものに限る」としている。


それなのにマスコミやネットでは「コピペするとはなんということか!」と怒りの声が満ち溢れている。おそらくは自分が学校にいる時に先生が「コピペするな」と言ったのに、隠れてコピペして心がやましいのだろう。コピペ自体は悪い行為ではなく、先生が禁止したことをやるのが悪いので、論理を取り違えている。


確かに、学問の世界(村)の指導(掟)では、他人の文章やデータを利用するのを潔しとしない風潮がある。それは、「学問の成果は人類共通の財産である」という意識が低く、自らが学問を地位、名誉、お金等のために実施しているから、他人も同じと思うからだ。学問の世界では「自分」というものはない。


今度の論文事件ではもう一つ、面白い現象があった。それは私のことだが、ある放送局で私が解説したことが話題になり、「武田教授、仰天発言」と書かれていた。その記事を見たら、コピペや写真の取り違いがどのような意味で悪いのかは示さずに、私が言ったことが自分の考えの中になかった!だから仰天した!!とある。


いったい、情報というのは「わかっていること」を知るためか、「今までわかっていないこと」を知るのかというと、後者、つまり「わかっていないことを知るために情報に接する」なのに自分の知らないこと、自分が間違っていると考えることを聴くと「仰天」する。


日本の報道は、正しいことを報道するのではなく、みんなが知っていて空気ができていること(空気)を報道する。それでは報道を聴いても意味がないし、自分の考えが間違っていてもそのまま「愚」で終わる。


特に学問と言うのはじっくりと「自分と考えの違う人のことを聴く」ことにある。学問の世界にいる人、日本のために、若い人のために、勇気をもって声を上げてください。


(平成26年3月21日)
武田邦彦
(出典:武田邦彦先生のブログ




【STAP騒動の解説 260318】 コピペは良いことか悪いことか(2) 学術論文の内容は誰のものか?





コピペは良いことか悪いことか(2)
 学術論文の内容は誰のものか?



先回、人間の知的財産は基本的には人類共通のものであって、特例として知的所有権(著作権、特許権など)が認められているという話をしました。しかし、「権利を主張する」という限りは他人が「何が権利か」が分からなければなりませんから、「創造物」と「権利として申請(出願)したもの」に限定されることも書きました。



ところが、今回の細胞論文でコピペが問題になったように、「知的財産であっても、コピペしてはいけない」というのが一般的です。また、どこかの大学の先生が「若い人にコピペはいけないこと、他人の論文を引用するときの「倫理」を教えなければならない」と言っておられました。



そうすると「法律」と「村の掟」がまったく違うことを意味しています。法律は勉強すればすぐわかりますが、村の掟は教授などから教えてもらわなければなりませんし、今回の件では早稲田大学では博士論文にコピペを認めています。つまり、「村の掟」ですから、場所や人によって違うということになります。



私も若いころに先生から「村の掟」を教えていただいたので、他人の文章を使うことは許されない、引用するときにはできれば本人の了解を得、できなくても引用元を示すということを徹底的にやってきました。



ところが、50歳ぐらいから少しずつ疑問を感じてきました。まず第一には「知的なもので創造性がなければ、人類共通の財産と言うことになっている」と言うことを知ったこと、第二に、「同じ内容の文章をわざわざ書き直すことは、本当に必要なことだろうか?」、「学問は真実を探求しているのか、それとも本人の名誉、お金、地位のためだろうか?」、「論文を実績として地位、名誉を決めること自体が、ヨーロッパ流の「力の学問」ではないか?」、「「引用する」というのは、論文を出した人への敬意か、それとも読者の参考になるためか?」という疑問が次々と生まれてきたからです。



たとえば、一つの研究で、論文を一つしか出ないということはほとんどなく、10ケぐらいは論文がでます。その時に今度の早稲田大学の博士論文のように、第一章(これまでの世界の研究のまとめ)に相当する「緒言」では、いつも同じことを書きます。だから「コピペ」しても「書き直し」をしても全く同じか、ちょっと変更するぐらいです。



同じ文章をコピペしてはいけないのでしょうか? 手で書くならともかく、パソコンを使えばまったく同じ電子処理です。



少し結論を急ぎますと、私は「コピペがいけない」というのは「教育でペナルティーを課さなければならない」というのと似ているような気がします。教育では、「文章を書く力」を養わなければなりませんから、先生はできるだけ書かせるようにし、生徒は労力を減らそうとします。だから先生が「コピペはダメだよ」と言います。



ところが社会人、例えば会社員だったら、会議に提出する資料をいちいち書き直していたら、上司が「そんなのコピペしろよ」と言うでしょう。



もう一つは「礼儀」を重んじる人がいます。「他人が書いたものを利用するのだから、ちゃんと断れ」というのです。でも、これは「利権のために学問をしている人」の感覚で、キャベンディッシュに代表されるように「自然がどうなっているのかが私の興味で、私が発見したものはもう興味がないので、どうでも良い」というのも学問です。



どちらが正しいか、それほどはっきりはしていないというのが私の見解です。私はこの際、コピペ自由と言うことにして、引用しても良いぐらいにすると、「いったい、科学的な発見は誰のものか」がはっきりしてくると思います。



学問は「コピペはいけないに決まっている!」と言ってよいほど、厳密でなくても良いのでしょうか?



(平成26年3月18日)
武田邦彦
(出典:武田邦彦先生のブログ







【STAP騒動の解説 260317】 コピペは良いことか悪いことか?(1) 基礎知識





コピペは良いことか悪いことか?(1)
 基礎知識




ネット社会になり、どこかにあるものをコピペ(コピーアンドペーストの略。あるページをコピーして、それをパソコンで貼り付けること)する文化が一般的になっている。これは良いことだろうか、悪いことだろうか?



今度の細胞論文や博士論文で、コピペがあったというのでマスコミは無条件に「悪いこと」という前提で報道し、理研や学者もそれに追従している。でも本当なのか? 単なる「空気」とか「村の掟」ではないだろうか? 日本は法治国家、近代国家なので、故なきバッシングは望ましくない。



原則: 学問で得られた結果は人類共通の財産だから、だれがどういう形で利用しても構わない。つまり「コピペは自由」で、良いことである。なぜ「良いか」というと、人類共通の財産を積極的に使うことを推奨しているからこそ、人類共通なのだから。



例外: 学問で得られた結果のうち人類共通の財産にしない場合として知的所有権が定められていて、1)著作権(創造物に適応)、2)特許権、3)意匠権、商標権など、がある。
もともと人間が生み出した知的なものは「人類共通の財産」として誰でも使えたのだが、18世紀になってイギリスで著作権が生まれ、続いて特許権も登場した。特許権は、「本来は発明はみんなで利用しても良いのだが、そうすると発明の意欲がなくなるので、「審査をして期限を区切って」権利を与える」という概念で、これは今でも変わっていない。



まずは、「知的財産」について法律(知的財産基本法、平成14年)を見てみよう。
「第2条 この法律で「知的財産」とは、発明、考案、植物の新品種、意匠、著作物その他の人間の創造的活動により生み出されるもの(発見又は解明がされた自然の法則又は現象であって、産業上の利用可能性があるものを含む)、商標、商号その他事業活動に用いられる商品又は役務を表示するもの及び営業秘密その他の事業活動に有用な技術上又は営業上の情報をいう。」(条文はネットからコピペした)



つまり、1)創造的活動、2)自然の法則又は現象であって、産業上の利用可能性があるもの、であることがわかる。自然科学(理学や工学)には創造的活動はない(注1)ので、2)だけになる。そしてそれは何かを書いてネットに出したり、学会の論文として提出しただけではダメだ。



なにしろ「権利」だから、1)権利を主張するのか、2)権利の範囲を示す、必要があり、特許庁に自分の権利を主張する。その時に「権利の範囲」と「産業上の利用可能性」をはっきり書かなければならない。



この問題はさらに議論するが、とりあえず、学会に提出した学術論文には著作権はなく(創造物ではないから(注1))、権利の範囲が明確ではないから特許権もないということだ。だから、コピペは自由と言うことになる。



 (注1)
  • 自然現象の「発見」はもともと自然にあったものだから、もちろん創造性はない。自然現象を利用した「発明」も、現在は「発明は発見である」とされていて、もともと自然にあるものを組み合わせて人間に有用なものにしたのだから、創造性はないと解釈されている。
  • したがって、専門の書籍にも、裁判でも「理系の学術論文には著作権は及ばない」とされている。




(平成26年3月17日)


武田邦彦


(出典:武田邦彦先生のブログ








2014年5月10日土曜日

【STAP騒動の解説 260510】 違和感のある理研の指導者・・・若い研究員を見るのは科学者の本能





違和感のある理研の指導者
・・・若い研究員を見るのは科学者の本能


STAP事件に関する著作権や公知などの論理的なことは、このブログでも書きましたが、私はそれを超えても理研の今回の騒動にはどうしても理解できないことがあります。それは私の経験からくる「指導者の気持ち」です。


今回の論文がやや不出来だった(論文自体は立派だが、一部にミスがある)のは確かです。でも、それが気になるのが年をとった研究者です。私もそうですが、50歳も超えるぐらいの研究者の多くが、心のなかでいつも「若い人を見てやらなければ」という気持ちがあります。


それは義務とかそういうものではなく、ちょうどお母さんが我が子ではない子供がいると気が気ではないという状態と同じです。若いからなにかヘマをするのではないか、という気持ちがあり、ちょっと見て上げたいと常に思っているのです。


たとえば、論文ばかりではなく、小さな学会で発表するときにも「ちょっと練習してみる」とか声をかけるのが普通です。みんなが「学問」に対して興味を持ち、健全な人間関係があれば、自然に「自分の部下だから」と言うことではなく、自由な雰囲気の下でお互いに助け合うからです。


今回の調査委員会の発表では、あまりにも不透明なところが多く見られました。2012年4月に小保方さんと若山さんがネイチャーに投稿して拒絶され、それではということでほぼ同じ内容の論文を同年7月にサイエンスにだし、その査読(審査)過程で写真の切り貼りを指摘された。


当然ではあるが、複数の著者が共同して論文を出すときには、連絡係(この場合は小保方さん)が受け取ったジャーナルからの査読結果は、「必ず」共著者に送る。もし送られてこなければどのように修正しているのか不明ないので、「私は共著者を辞退する」というのが正しい。それも言えないというのだったら、指導者としての職を辞してもらいたい。


調査委員会は「サイエンスの査読段階で注意を受けているので、小保方さんの悪意は証明されている」と言ったが、それなら「笹井さん、若山さんの悪意も証明された」ということであり、もし査読を見ないで共著者に収まっていたなら「詐欺」であり、理研に「論文サギ・・偽った著者」に対する規則がないことを明らかにしなければならない。


また、2つの論文が拒絶されたので、ベテランの笹井さんが論文の再提出に協力したので、笹井さんは当然でもあるが、提出されて拒絶された2つの論文とその査読結果を見たのは間違いない。これは「小保方さんが知っていたはずだ」というより明確だ。


というのは若い研究員は査読結果の意味を正確に把握することはむつかしい。でも笹井さんなら正確に「写真が不適切」という査読委員の意味は理解したに違いない。また、写真の加工は「研究に携わっていない査読委員が短い時間のチェックでわかった」ものだから、当然、「類似研究をしている同一組織の研究に携わり、不完全な論文を良い論文にするという任務を持った笹井さんが約1年間で気が付かないはずはない」ということ、小保方さんはリーダーだから一緒に研究していた人もいるし、一週間に一回ぐらいは研究会もあったのだから、多くの目に触れているはずだ。まさか「まったく実験していない」と言うことはないだろう。


だから、もし今回の論文に不正や悪意があったなら、それは小保方さん、笹井さん、若山さんはもちろん、理研そのものもわかっていて、それが常態であったと考えられる。


また実験ノートが不信を増大させる材料に使われているが、実験をしたかどうかは「小保方さんの部下」に聞けば一度にわかる。つまり、STAP細胞の実験をしたかどうかをなぜ小保方さんの実験ノートだけしか証拠がないのだろうか? 「ユニットリーダー」と言うぐらいだから、部下はいただろうし(一説では10名ぐらい)、まさか素人ではないだろうから、部下の経歴と関与を公表すべきである。


いったい、理研と言うのは大学でもなく、企業でもなく、組織でもない(小保方さんが理研の批判をする記者会見を退職させずにやらせた)、実に奇妙なところだ。納税者としてはこんなところに税金を出すわけにはいかない。


(平成26年5月10日)
 武田邦彦
(出典:武田邦彦先生のブログ





【STAP騒動の解説 260502】 ショート論評 ブログのバッシングに罰金180万円




ショート論評 
ブログのバッシングに罰金180万円



慶応大学で卒業生が先生を恨んでブログで、あることないことを書いてバッシングした。先生はブロバイダーを訴えて人物を特定し、本人の訴訟でバッシングが有罪となった。


「権利」は「義務」が伴い、「節度」が求められるのは当然で、ネット社会ができてから、「匿名」が流行し、それが無視されるようになった。日本流に言えば匿名というのは誠意がなく、自分を守ろうとしているのだから、日本人にあるまじき卑怯な振る舞いだが、まあ、最初は仕方がないだろう。


でも、今回のSTAP事件で「表現の自由」をNHKや朝日新聞が一人の人を社会的に葬ろうと「凶器」として使った。放送法では「見解が違うときには両方の報道を」と決まっているのに、小保方、理研の双方の報道をしなかった。


だから、現在の公共放送などを補正する意味で、ネットが意味を持っているのは確かだが、「良いことをしているのだから、違法も構わない」というのはダメだ。今回の判決に基づいて、私も「ウソをついた匿名のバッシング」については、訴訟を起こしてネット社会の正常化(権利にともなく節度)を確立したい。


それがネットで私たちに与えられる開放感をさらに充実させることができるだろう。


(平成26年5月2日)
武田邦彦

(出典:武田邦彦先生のブログ







2014年5月8日木曜日

STAP論文小保方氏に不正認定 理研「再調査せず」(14/05/08)




これまでの危機管理意識の低い理研の対応からすれば想定通りですが、改めて報道されてみると、ひどい決定ですね。

本人が「悪意のないミス」ですと言っているのに、それを無視する理研の方に悪意があるとしか思えません。

今後、法廷で徹底的に戦って欲しいと思います。





2014年5月2日金曜日

【STAP騒動の解説 260501】 ダーウィンの番犬(第2回) メディアのプロ意識・・報道の自由の乱用を恥じる




ダーウィンの番犬(第2回)
メディアのプロ意識・・報道の自由の乱用を恥じる



放送法には次の規定がある。
第174条 総務大臣は、放送事業者がこの法律又はこの法律に基づく命令若しくは処分に違反したときは、3月以内の期間を定めて、放送の業務の停止を命ずることができる。


また、放送法では有名な条文だが、
第4条 放送事業者は、国内放送及び内外放送の放送番組の編集に当たつては、次の各号の定めるところによらなければならない。
一 公安及び善良な風俗を害しないこと。
二 政治的に公平であること。
三 報道は事実をまげないですること、
四 意見が対立している問題については、できるだけ多くの角度から論点を明らかにすること。
と定められている。


2014年のSTAP事件では、マスメディアは明らかに第4条の四に違反した。つまり、STAP論文を正しいとする小保方さんと、不正だとする理研、京大の2つの意見は明らかに対立していたが、メディアは「不正側」の報道に終始した。


ネットや個人の論評などは、公的報道機関ではないので、その力は限定され、それが故に、放送法の規定が及ばない。しかし、今回はネットが指摘し、個人の専門家が激しく一方的な非難をしたのをそのままほぼ100%受け入れて報道を続けた。


「意見が対立している」というのは、「数」ではなく、もちろん「質」であり、特に今回のように批判されているのが個人である場合、必然的に「多勢に無勢」になる。しかし、当人は明らかに一方の当事者であり、質的には批判側とは対等である。


このことを考えると、マスメディアが放送法に反して個人のバッシングを続けたことになり、国民は正しい情報を均等に得ることができなかった。その結果、報道機関がもっとも大切にしなければならない「表現の自由」が「凶器」となって、一個人を追い詰めた。これは表現の自由を重んじる人たちにとって恥辱以外の何物でもない。


すし職人が仕事に使う包丁で人を殺めることがないように、仕事の道具を凶器に使うほど恥ずかしいことはない。


私は総務大臣から業務停止を求められる前に、NHKをはじめテレビ局が自主的に業務の一部停止をして、自らの非を認めることが、現在のメディアの信用失墜を回復する手段の一つであると思う。


事実は明らかなのだから、ほうかむりせずに、潔く自らを処して欲しい。それこそが報道の心、魂、そして覚悟だろう。


(平成26年5月1日)
武田邦彦

(出典:武田邦彦先生のブログ





2014年4月29日火曜日

【STAP騒動の解説 260429】 ダーウィンの番犬・・・バッシングの均等発信論




ダーウィンの番犬・・・バッシングの均等発信論



STAP事件は、「科学技術立国」と言いながらあまり科学とは縁が遠かった日本社会が初めて「科学」というものを真剣に考えたきっかけにもなった。そこでは、京都大学の先生が「仮説は論文にならない」などと荒唐無稽のことを言われたり、多くの先生が「著作権」をご存じなかったり、日本の学術界の曖昧さを露呈した面もあった。


ところで、この事件は「社会の中の一個人」というものがいかに脆弱であるかも示した。あることでネットの一部の人が騒ぐと、それがたちまちのうちに日本中に広がり、その真偽やソースをあまり確かめることなく、マスメディアは「社会の中の一個人」を葬りさり、所属する団体は冷たく切り離すことがはっきりしたからだ。


そこで、この事件を前向きに転換するために、少しでも日本社会が前進することに役立てようと思う。


私は政府、NHK、東大など強力な組織は批判することがあるが、個人はほとんど批判の対象にしない。これまで個人を批判したのは東大総長、国連大学副学長などだ。それは「自分より発信力の低い人を批判すると、その人が私の批判で打撃を受けることがある」からだ。


言論の自由があっても、それが「凶器」になってはいけない。そのためには、批判する相手が、十分に強力で、体力もあり、地位が揺らがないという前提があると思う。その人がいよいよ社会的に危険になれば警察がでるのだから、「批判」というのは、それよりずっと内輪でなければいけないからだ。


今回のSTAP事件ではネットをはじめ、マスコミが繰り返し、繰り返しかなりの時間をかけて小保方さんという一個人の批判を行った。特に昼のワイドショーのような番組では、怪しげな科学論から研究者としての批判まで、醜悪だった。


でも、今回のことを教訓にして、私は次のことをマスコミとネットに提案したいと思う。
● 一個人を批判する場合は、ネット及びマスコミにおける「総批判時間数」の制限を設ける。
● 一個人を批判するネット及びマスコミは、その個人が反論を希望した場合、批判した時間やページ数と同じ時間やページ数を提供する義務を負う。


なんで言い始めたかと言うと、STAP事件が起きてから、小保方さんを攻撃する人はネットやテレビ新聞の関係者が1000人もいただろうし、それを見た視聴者やネット参加者は膨大な数に上る。その人たちの多くは「こんなにひどいことをしている。小保方でてこい。釈明しろ!」と言う。


別に小保方さんはネイチャーに論文を投稿しただけで、誰にも迷惑をかけていないのだから、「出てこい!」と命令する方がおかしいのだけれど、社会がヒステリー状態になると「そんなことを言ったら失礼ではないか」という日本人の謙虚さなどどこかに行ってしまった。


批判している人はテレビや、新聞、ネットなどさまざまで、その数も多いから、それを小保方さんが反論に回っていたら疲れ果てる。また彼女には彼女の仕事があるから、彼女の人生が最優先で、彼女が「気が向いたら来てください」ぐらいだろう。


「俺が興味があるのだから、彼女の都合など考えなくても良い」ということは私には成立しないように思える。現在はディジタル時代なので時間は簡単に割り当てられるので、「批判時間登録所」をネット上に作り、そこで「一個人の批判時間」の管理を自動的に行うことが可能だと思う。ネットもバッシングばかりではなく、社会がスムースに進むような仕組みもいるだろう。


そして、テレビや新聞などは、放送法で定められている通り、どんなことでも「賛否両論」をバランスよく取り上げること、もし一個人を批判することが多くなれば、その本人、もしくは本人を代弁する人にかならず同程度のスペースを出す必要があると思う。


ダーウィンが進化論を出した時、それまで「人間は神から作られた」と思っていた人からの総攻撃で研究ができなくなったことがあった。その時、必ずしもダーウィンの進化論に全面的に同意していたわけでもないハクスリーが世間のダーウィン・バッシングに対抗して頑張り、戦いを好まなかったダーウィンが社会の批判にさらされるのを防いだ。


後の「ダーウィンの番犬」と呼ばれるハクスリーがダーウィンという静かな研究者を守ったことが、それからのダーウィンにとってとても大切になる。


ダーウィンの進化論から155年を経るが、まだ人間社会は「新しいことをする人をバッシングする」ということから抜け出せていない。でもすでにディジタル社会だから、「STAP番犬」の登場を待つより、もう少しましな方法を取れないかと思う。


(平成26年4月29日)
武田邦彦









PAGE
TOP