2014年5月20日火曜日

科学利権からの離脱 (1) 研究の変質




科学利権からの離脱 (1) 研究の変質


大学で研究する時、まず日本社会は私に「学問の自由」をくれる。どういう研究をするか、研究の方法をどうするか、いつ諦めるか・・・すべての自由が私に与えられる。研究をするものとしてこの自由はかけがえのないものだ。それを憲法が与えてくれている。


次に研究資金として「税金」をいただく。国立大学は給料も含めて、研究費もほとんど全部が税金で、私立大学でも授業料を先生の研究費に投じるのはむつかしいので、いろいろなところから「公的資金」を獲得して研究する。自分のお金で研究している人はほとんどいない。


だから、大学で研究して成果を出したら、それは「自分のしたいことをさせてもらった」ということで社会に恩返しをする。それが発表であり論文だ。このことによって社会は新たな「知」を獲得し、それを利用して発展する。これを「公知にする」という。


この図は、3種類の研究とその成果の帰属を整理してみたもので、会社の研究の場合は、研究ではテーマを指定され、会社の資金で研究する。だから成果がでたら、特許を取り、製品を作る。研究の自由はある程度あるが、会社の都合で研究を途中で止めろと言われればそれに従うことになる。


でも、大学の研究も、会社の開発も、つじつまがあっている。大学では、学問の自由と税金をもらったのだから、成果を自分のものにするのは良くない。それでも立派な業績を上げると表彰されたり、教授になったりするので、自分にも十分に返ってくる。


会社でも研究で会社の収益に貢献したら、やや出世に有利だし、良い仕事をするチャンスも増える。それなりにつじつまが合っていて、報われている。それに対して、今度事件をおこした理研はかなりひどく、社会的な悪ともいえる状態だ。


学問の自由をもらい、国民の税金を使い、自由に研究して成果が出ると、特許と論文を出し、それでまた給料や待遇が上がる。そんな「矛盾したシステム、わがままシステム」だから、不正も起こるし、「実験ノート」も必要となる。


今回の事件が、「自由とお金」をもらった人が、その成果も「自分もの」にしようとする理研そのものの考え方があまりにも図々しいことによる。こんなことは普通の社会にはないが、それに気が付かないのは「俺たちは頭が良いのだから、お金をもらおうが、自由を得ようが、そんなことは当たり前だ」と言う傲慢な心があるからだ。


人が知恵をつけるのは、自分を見つめることができ、頭が下がってくることだ。「稲穂は実るほど首を垂れる」と言うことでなければ、頭に何を詰めても意味がない。立派な学問を積み、成果を上げてもふんぞり返るなら、本当は頭の中が空っぽであることを示している。


しかし、今回の理研のことで、大学の学者が「コピペが悪い(公知ではない)」、「実験ノートが必要だ」と言ったのは、残念ながら大学の研究も、いまや「立身出世と研究資金獲得、ただでヨーロッパに行く」と言うことを目的とし、それでも「自分のお金で研究するのは嫌だ」ということになるからだ。


それではなぜ成果が自分のものになるのに、自分のお金を出したがらないかと言うと、「俺は頭が良いから、世間は俺にそのぐらいはするべきだ」と言う傲慢な心があるからだ。


科学の研究を「科学利権」から遠ざけていかないと、日本人は学者に無駄な税金を投入することになる。


(平成26年5月20日)
武田邦彦

(出典:武田邦彦先生のブログ







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