2014年5月31日土曜日

【STAP騒動の解説 260525】科学利権からの離脱(2) 学者はなぜ「論文」を出すのか?





科学利権からの離脱(2)
学者はなぜ「論文」を出すのか?



先回このシリーズで示したように、「国のお金をもらった研究の成果は公知」、「会社のお金でやった研究は特許と製品で会社の収益」であって、理研が言っているような「税金を使って研究をして、その成果を個人が採る」などということはもともとあり得ないのです.


でも、なぜこれほどまでに日本の学問の世界は汚染されたのでしょうか? さらに理研は特殊法人の資格を取って、「国民の税金を使い、年俸1億円の研究者を雇いたい」としてきたのです。


お金で何かを推進しようとしたら、「お金が欲しい人」が熱心になり、その結果「不正を防止する方法が必要」で、「膨大なチェック機構が求められ」、その結果、「ほとんど何も成果がない」と言うことになるのはこれまでの学問の歴史が示しています.


つまり会社で研究すれば、経営陣や上司が厳しく「研究資金と成果」を見て、ダメとなればヤメさせますし、自分勝手なことができないのも当然です.それは「会社のお金をムダにしない」ために必要なことです。


それに対して、理研では「お金は税金」、研究は「自由」、論文発表も「自由」(理研が小保方論文を出すのを認めたかどうか不明。会社なら提出前にできあがった論文を知的財産部に提出して許可を得る)、さらに理研に反対する記者会見を従業員が勝手に開くことができる、正式に入社して1年目の社員の不祥事(もし不祥事なら)に、上司などが誰も責任を取らない、ということですから、まさに「欲呆け研究所」と言うことができます。


その組織が「公知の論文などの文章をコピペしたら「盗用」」という独自の規則を決めたのも奇妙です.これは日本学術会議の指針を参考にしたものですが、これは「著作権を持つもの」に限定されますから、理研が対象とするものは範囲に入りません.


もし、公園のベンチを利用すると同じにしなければ人類の科学に貢献できないということで、論文に出したものが「公知」になっているのに、科学の進歩を妨げる規則を決めているのですから、驚きます。


この際、日本の科学界は徹底的に論理を正し、日本と人類の科学的発展を求め、村の掟を排除し、正しい学問の道筋を示してもらいたいものです.


ところで、これまで暗黙の村の掟だった「論文業績」をどのようにするか、これも議論を要することです。


研究者が研究資金と地位をもらって研究を始め、普通の場合はしばらくすると、しかるべき成果が出ます。でもその「成果を論文にしろ」という命令も強制力も持っている人はい無いので、サボりの研究者は論文を書きません.そうすると税金を使って研究した成果が国民に還元されないので、研究者が論文を書く何らかの「モチベーション」が要ります。


というのは、「論文を出す」というのは、結構、大変で、今回のSTAP論文でも判るように、英語で10ページほどの文章を書き、グラフや表をそろえ、計算間違いなどがないかを繰り返しチェックし、さらに引用文献を調えるのに共著者がいれば3ヶ月ぐらいはかかります。


さらに学会によって提出する様式をそろえるのも大変で、しかも提出すると5万円から10万円ほどの掲載料をとられ、さらに意地の悪い「査読」を通過しなければなりません。だから論文を出さない研究者も現実には多いのです。


選挙に出る人が「世のため」と言って土下座しているのと同じで、本当は自分に大きな得にならないと、地位が保証されている大学教授が論文を出すことはありません。


つまり、「少なくとも5年に数報の論文を出さないと地位が上がらない」とか、「優れた雑誌に論文を出したら、大きな研究費をもらえる」という方式がとられるようになっています。


現代の社会では「学者の学問的誠意に任せることはできない」と管理側(大学当局、文科省、その他の研究管理組織)が考えるようになったのですが、その一つの原因が学長とか国の委員になりたい学者は「権力志向」であることにもよっています。まさに100年前にマックス・ウェーバーが「職業としての学問」になったと嘆いた通りになっているのです。


そこで、「論文をでっち上げれば研究費がもらえる」と言うことになり、「研究不正」が起こる可能性が出てきました.京都大学の山中先生が「実験ノートは不正を見つけるため」と言われたのはこのことですが、実に哀れな研究現場の状態です。


だいぶ整理が進んできましたので、多くの人がSTAP事件の本質に迫るようになり、また「実験ノート」が「不正防止」という学問とは無縁のことで求められ、挙げ句の果てに研究もしていない「科学倫理」を専門とするという奇妙な人たちの食い物になっている現状も次第に判ってきました。


「学問の世界に議論が不足している」というのは学問そのものとも相容れないのですが、学者はややこしいところがあり、胸襟を開いて議論し、合意をえるのが不得意でもあります。そのうちに徐々に「学問は嫌いだが、管理は好き」という人たちにすっかりやられてしまったというのが現状でもあります。


(平成26年5月25日)

武田邦彦

(出典:武田邦彦先生のブログ




2014年5月28日水曜日

小保方晴子氏、STAP細胞論文1本の撤回に同意







若山教授の行動が、いつも不自然に感じるのは、私だけでしょうか?

若山教授が今回のSTAP騒動の火元のように思いますね。
理研も若山教授の件は、調査しないと決定したので、もっと大きな何かの秘密があるように感じます。



2014年5月19日月曜日

STAP事件簿決定的瞬間 掲載を拒絶された論文の公開



STAP事件簿決定的瞬間
 掲載を拒絶された論文の公開



学術論文は、研究者が執筆し、学会や雑誌社に提出する。提出された論文は直ちに査読委員に回され、審査を受ける。つまり査読委員は社会に先駆けて「新しい知見」を見るので、仮に査読委員に悪意があれば、審査を遅らせて、その一方で、自分で研究したり、学会で一足先に発表すればノーベル賞も取れる。極端なケースでは論文を拒絶して、査読委員が通りやすい論文にして自分が出すということもありうる。


しかし、査読委員は「そんなことをしない」という信用のおける一流学者に依頼される。査読委員は論文を読んでも、それに関係することを一切しないという信用がある人が担当する。


一方、不運にして論文が査読委員によって拒絶された場合、著者はそれを秘密にする。というのは、またしっかりした論文にして提出されるのが普通であるし、もともと拒絶された論文内容を人に知らせることは恥をかくことにもなるので、出したということ自体も言わないのが普通である。これは「隠す」というのではなく、基本的には欠陥があるから拒絶されているのだから、社会に出すべきではないものだからだ。


ところが、今回、2回目の理研の調査委員会の記者会見の時、小保方さんが2012年7月に出したというサイエンスに投稿して拒絶された論文が表に出てきた。こんなことはあり得るはずもない。拒絶された論文を公表するには、小保方さんの同意が必要であるが、同意したという説明はなかったように思う。


拒絶された「絶対に表には出してはいけない」という論文を理研に出したのは若山さんと言われているが、真偽の方は不明である。もし共著者の若山さんが小保方さんに無断でこの論文を理研に出したとすると、これは犯罪になるかどうかは別にして、コピペどころではない学者として「あるまじき行為」であることは間違いない。


新しい事実が「論文」と言う形にならずに社会に出るということの損失もともかくながら、仲間で論文を出して拒絶されたということ自体が不名誉であるし、ましてその内容や審査過程のことは著者の所有物のようなものだからだ。つまり、理研の調査委員会は、実質的に不法な手続きで手に入れた証拠をもって「悪意」の判定をしたことになる。


またこの拒絶論文が若山さんから提出されたとすると、査読経過が小保方さんから若山さんに転送されていたことを示しており(転送しなければ若山さんの手元にもないはず)、そこで若山さんが十分の時間でチェックができたし、同じく2か月の準備期間があった笹井さんも知っていた動かぬ証拠である。


「不正の写真」と知っていながら若山、笹井さんのベテランが、再度、ネイチャー論文に使用したとすると、調査委員長が言ったとおり、「誰が評価しても不正」ということだから、わかっていたことになる。そうなると、その後の展開から見ると、論文を故意に不正に作り、それが掲載されたときに不正を暴露し、小保方さんを貶めたとしか考えることができない。


このような不名誉を挽回するために、また理研が膨大な税金を使っていることを考えると、若山、笹井氏は積極的に事実の説明をしなければならない。これは小保方さんのもとで実験をしていた人たちにも言えることである。あなたたちも科学者なのだから、個人を捨てて科学の進歩に身をささげてほしい。


(平成26年5月14日)
武田邦彦

(出典:武田邦彦先生のブログ





2014年5月18日日曜日

STAP事件の現状を見て思うこと (STAP論文は不正か?、STAP特許は?、小保方さんの発見は?、理研の経営陣の責任は?



論文が不正ならば、特許も不正です。
つまり、論文(小保方さん)が不正ならば、特許(理化学研究所)も不正となります。

論文は問題があったとしても、読まなければ良いだけのことです。
しかし、特許は法律に違反する可能性があるので問題が大きいと思います。

特許法で、(詐欺の行為の罪)第百九十七条 詐欺の行為により特許、特許権の存続期間の延長登録又は審決を受けた者は、三年以下の懲役又は三百万円以下の罰金に処する。となっています。

特許の審決を受けるまでの猶予はありますが、道義的な問題があります。
従って、論文が不正ならば、特許を出願した理化学研究所の方が、より大きな不正を犯していることになります。

理研が特許を取り下げないで、論文については取り下げ勧告するということは、STAP細胞の発明は正しいが、論文の書き方が悪かったということです。

そして、理研内で再現実験に成功したら、理研のシニア研究者が論文を出して、研究者としての名誉は貰う、と言っているように思えます。
(小保方さん抜きでは、成功しないと思いますが・・・。簡単に成功しないからこそ大発見なのです)


一連の問題を、一般常識で考えてみると、小保方さんの論文作成ミスに比べて、理研の経営陣の経営判断ミスの方が、同じミスでも国民への被害が大きいと言わざるを得ません。

つまり、論文の作成ミスや論文作成時の不正があったとしても、日本の国民にとっては、多少の間接的な被害はありますが、それほど大きな被害はありません。

論文が正しければノーベル賞もので、STAP細胞が国民に夢と希望を与えてくれます。
論文が正しくなければ、残念だけれども、引き続き研究を行って、STAP細胞を見つけて欲しいと、ほとんどの人が思っています。


一方、論文疑惑への対応による理研経営陣の経営判断ミスは、今回のようなSTAP騒動を引き起こし、日本の科学研究を混乱させて、30歳の若い研究者を追放すると共に、国内トップクラスの数人の研究者を窮地に追い込み、国益を大きく損ねています。

また、この問題対応に関する費用や損害は、すべて税金であり、税金の無駄遣いも甚だしいのです。
しかも、まだ問題は解決しておらず、今後、法廷闘争などがあれば、より税金の無駄遣いが発生するのです。

どうして、このような事になってしまったのでしょうか?


原因はいくつもあるでしょうが、経営陣の経営判断ミスが、最も大きな原因だと思います。

論文疑惑の調査において、今回は突発的な問題であったので、3月14日の「STAP細胞 研究論文の疑義に関する調査の中間報告」までは、普通に考えて違和感はありませんでした。

ところが、4月1日の「STAP細胞 研究論文の疑義に関する最終報告」は、あまりにも拙速であり、「小保方研究員の研究不正行為があった」との結果報告には、本当にビックリしてしまいました。社会も180度ひっくり返りました。

この時、まだ調査時間は十分にあったはずなのに、数ヵ月かけて十分な調査と、社会への影響についての多方面から分析、検討を行って、最終的に経営判断をすれば良かったのにと、非常に残念に思います。

つまり、小保方さんが「不服申し立て」をするような状況での発表は、差し控えるべきであったのです。
普通の会社では考えられないことです。大きな経営判断ミスと言わざるを得ません。

何故、経営陣は拙速にも、このような結果を発表したのか非常に不思議です。


何らかの「政治的な圧力」、「特定国立研究開発法人の認定」、「研究不正のガイドライン見直し」、などと関係があったとしか思えません。あるいは、もっと大きな秘密の問題があるのかも知れません。

この重大な結果発表によって日本国内だけでなく、世界的にも驚くような事態になることが、なぜ理解できなかったのでしょうか?、それとも理解していて発表したのでしょうか?

何故、理研内でもっと小保方さんや共著者の研究者に、よく聞き取り調査を行って、全員が納得できる形にした報告をすることが出来なかったのでしょうか。

STAP細胞という世紀の発見に比べて、若い研究者の論文の作成ミスなどは些細な問題であり、最終報告の発表方法を工夫すれば、不正ではなく初歩的ミスとして発表することも出来たと思います。

一般常識のある人なら、今回の大発見を考慮すれば、論文の不正やミスを責める人は少なかったと思います。

一部の批判があったとしても、これほどの問題にはならなかったのです。

どこの世界でも、人の粗探しをする人はいるものです。
また、善意で研究不正を追及している人もいるとは思いますが、今回の論文内容の素晴らしい点を考慮すれば、一般社会は許すものです。

人間は誰でも、若い時にはミスをしているのです。
つまり、理研が不正だと決め付けなければ、小保方批判がこんなにも出ることは無かったのです。

小保方批判が出るということは、最終的には、それ以上の批判を、理研が受けるということに気付かないことが、問題を大きくしてしまったように思います。

つまり、理研内の所員を経営陣が切り捨てるという形の処分は、日本人としての心が許せないのです。
経営陣が批判を受ける覚悟を持って、理研内の若い研究者を庇う方が自然であり納得できるので、社会は受け入れやすかったのです。

2014年05月18日
多賀 松男





2014年5月14日水曜日

「STAP細胞論文問題」 田原総一朗のタブーに挑戦!(2014年4月16日放送分) 

(動画公開日: 2014年05月17日)

鋭い問題把握と分析を行い、それに基づき取材を行うことで、正しい解説が出来るのだと納得しました。田原氏は最初に、次のように話しています。

僕は80歳です。僕はラッキーだなと思います。
僕が現役でやるのは、才能はまったく無いんだけど、

一つだけね、人一倍強いものがある。
それは好奇心ですね。

その好奇心の強さで、今まで現役でやって来ていると思います。
今でもね、新聞は6紙をとっています。

何故6紙をとるかと言うと、それぞれ記事を見て、疑問点、
必ず新聞には疑問がある。問題がある。

その問題を、疑問点を探しだすと、その一次情報、
その新聞が、その記事を書いたもとになる一次情報に取材する。

それがね、一番の楽しみなんですよ。
僕はまたね、趣味というものが、まったく無い人間でね、趣味はね人に会うことなんですよ。

幸か不幸か、人に会うことが今、仕事になっちゃってるから、だから、まあ趣味が仕事になったのは、とってもラッキーで良いことなんだけど、逆に言うとそれ以外は何にも趣味がない。






2014年5月12日月曜日

【STAP騒動の解説 260402】 罪は理研にあり・・・悪意の組織が弱い個人へのリンチ!





罪は理研にあり
・・・悪意の組織が弱い個人へのリンチ!


小保方さんの論文で、理研が「不正」だと言った箇所は主として2つあるが、まず第一に、「取り違えた画像」については、


【外部からまったく指摘がなかった時期に、小保方さんが間違いに気が付いて、ネイチャーと理研に報告している。報道されているように「外部からの指摘」でわかったものではない。】


むしろ良心的だ。私ならこのぐらい小さなミスなら、報告しないかも知れない。でも、自分の論文で出版されてしまった後でも、間違ったところを気が付くことは時々ある。その場合、すでに提出して出版されているので、すぐには訂正できないが、次の論文や学術発表などで修正していく。特に、かなり査読で修正した論文は修正途中で間違いに気が付くが、出したらそのまま通ってしまったという場合、ミスがかなりあるのが普通だ。


第二点目は、酸処理したものの画像だが、
【錯覚して使った単純ミスだ】と小保方さんが言っているし、
【酸処理した正しい画像は小保方さんが持っている】

のだから、それに代えればよいだけのことだ。


「使うべき写真」が自分のパソコンにあるのに、間違って別の写真を使ってしまったことを「捏造」と言うのは間違っている。事情を知らない新聞記者が「使いまわし」という悪意のある言葉を使ったので、多くの人が誤解したが、そうではなく、自分のパソコンに入っている写真を間違えて使っただけだ。


それに「正しい画像」があるのに、捏造のために「間違った画像」を使って自分の評判を悪くしたいということなどするはずもなく、論理性もない。正しい画像がないので、別の写真を使ったと多くの人が思っているが、それは誤報だ。


その他のところも著者には著者の考えがあるので、それを尊重しなければならない。つまり、「不正研究」というのは、盗用、改竄、捏造の3つだが、「盗用」というのは読んで字のごとく他人のものを盗んだ場合で、もし他の人の論文の文章の一部が使われていても、公知(だれでも利用でき、引用の必要がない)のものだから問題はない。自分の家の前の公道を歩いて罰せられることはない。


理研の記者会見を聴くと、理研の方が罪を犯している。多くの人は「個人は悪いことをするが、組織は悪いことをしない」という前提だから、「小保方さんがこういった」と言っても「それは嘘だろう」と思うことがあるが、「理研が判断した」というと正しいと思う。


でも、理研も所詮、決める時には個人が決める。だからウソもつくし、保身もする。今回の場合、第一点目の「小保方さんが自分で気が付いて、雑誌社(ネイチャー)と理研に申し出た」というところを「論文を出してから言ったのだから、故意(不正)だ」と判断した。完全に理研の「ウソ」の判断だ。


もう一点は「正しい図がパソコンにある」と言っているのに、「それを使わなかったのは故意だ」とこれも理研がウソの判断をしている。


また、本人が意図的ではないと言っているのに、どういう判断で意図的(不正)としたかということを説明していない。一つは自分で申請しているのだから意図的ではなく、もう一つは正しい図を使えたのに間違っただけだから、これも不正ではない。


それを説明せずに一方的に記者会見を開き、一個人を誹謗(不正研究で、盗用、改竄、捏造があった)とするのはリンチであり、犯罪である。「本人が、反論があったらどうするか」という質問に「異議申し立てがある」と冷たく言った。理研は真実を明らかにしたいと思っていないことを示している。


ところで、このような単純ミスは咎められる場合と、本人の打撃で済む場合がある。なにか他人に対して積極的な行動をしている場合、たとえばタクシーの運転手が運転を誤って事故を起こした場合、そのミスは許されない。


しかし、フィギャースケートの選手が回転で着地した時に転んでも、ミスはミスだが咎められない。フィギャースケートの場合も「回転を見たくて、遠くから切符を買ってきた」という人もいるだろうけれど、そんな文句は通じない。


論文も嫌なら読まなければ良いし、読んでも「ああ、そうか」ぐらいに思うのが普通なので、論文のミスは著者の罰点になるだけで、もちろん「不正」ではない。むしろ2014年4月1日の理研の記者会見で、不正を働いたのは「理研側」と誤報を続けたマスコミである。


日本人はいつからこんなに権威主義になったのだろう。これでは日本国憲法で定められた基本的人権は簡単に組織によって覆される。そして社会はNHKなどのマスコミの「組織側報道」によって、国民は判断を誤り、個人をバッシングする。嫌な社会だ。


(平成26年4月2日)
武田邦彦

(出典:武田邦彦先生のブログ






2014年5月11日日曜日

【STAP騒動の解説 260326】30歳の研究者の標準的レベルはどのぐらいか?





30歳の研究者の標準的レベルはどのぐらいか?



STAP細胞の論文の一部に間違いがあったということで、日本中が大騒ぎした。この論文の筆頭者(論文の共著者の最初に書いてある人)が30歳の研究者であることで話題になった。「女性」か「男性」というのはあまり関係がないこの問題について、考えてみたい。


30歳の研究者というのはどのぐらいの実力かということを日本社会は理解していないように思うので、著者をかばうとかそういう詰まらないことではなく、研究者と言うのはどういうものかについて少し紹介したい。


博士課程を終わるのが最短で28歳だから、30歳の研究者は研究を始めたばかりの人である、

普通の30歳の研究者がNatureに論文を投稿することはまず不可能である、

普通の(Natureよりレベルが低い)英語の論文を一人で作成して、投稿し、査読(審査)に耐えて掲載に至ることは不可能と考えられる、

普通は教授やそのレベルの経験を積んだ指導者が横にいて、査読結果(2、3度くる)が来るたびに、査読委員の文章を読み、打ち合わせる、

30歳の研究者が独自に査読委員の質問や訂正要求に応じることができるのはレベルの低い学術誌だけで、このレベルの場合、質問の意味がわからない、どうして答えたらよいかわからない、というのが普通だ。


こうして少しずつ研究者は育っていく。研究者に必要なのは、「ミスなく論文を出す」ということではなく、まずは「着想や実力を上げていく」ということで、普通は40歳ぐらいになればある程度、独立して研究と投稿ができるようになる。



(学術分野ではつねに「故意は考えない」という原則がある。故意のものは自然科学でも時々あるが、その人の一生のうち、ほぼ明らかになるので、一つ一つを警察のようにチェックする必要はないし、研究は意外なことなので、チェックする方法もない。 最近、佐村河内氏と比較されることがあるが、故意があるかないかは決定的に違うし、難しさも違う。)



(平成26年3月26日)
武田邦彦
(出典:武田邦彦先生のブログ










【STAP騒動の解説 260321】 コピペは良いことか悪いことか(3)・・・「村の掟」で罰する人たち





コピペは良いことか悪いことか(3)
・・・「村の掟」で罰する人たち


大東亜戦争で日本は敗北し、指導者は白人の手によって罰せられた。でも、時間の経過は次の通り。

1)戦争が始まった日   1941年12月  8日
2)国際軍事裁判憲章   1945年  8月  8日
3)戦争が終わった日    1945年  8月15日
4)極東軍事裁判条例   1946年  1月19日
5)判決            1948年11月  4日


戦争が起こる前には「戦争犯罪」と言うはなかったが、戦争が終わる直前に「国際軍事裁判憲章」というのができ、戦争が終わってから裁判条例が発効し、判決が3年後に行われる。


これについてはさすがの白人側で戦勝国のイギリスの内閣官房長官だったハンキー卿が「世界人権宣言第十一条、行われた時には国際法でも国内法でも犯罪とされてなかった行為について有罪とされることはない」という世界人権宣言を引用した、「東京裁判は世界人権宣言の規定と相容れず、退歩させた」と述べた。


このように「法律で決まっていないことを事後に決めて罰する」というのは、絶対にやってはいけないことで、むしろ「罰したほうが重罪」です。日本人の中の多数の反日派の方が、このイギリス人より反日的であるのは明白です。


ところで、今回のSTAP細胞事件では、同じことが繰り返されている。


愛知大学の時実象一教授は著書「図書館情報学」(2009)の中で、「学術論文に掲載されている事実やデータには著作性が無いと考えてよい」と記載している。また、大阪高裁は2005年4月28日の判決で、「実験結果の記述は誰が書いても同じような記述になると考えられる」として学術論文の創作性を否定した判例を出している。著作権に関する最高裁の判決も「創造性のあるものに限る」としている。


それなのにマスコミやネットでは「コピペするとはなんということか!」と怒りの声が満ち溢れている。おそらくは自分が学校にいる時に先生が「コピペするな」と言ったのに、隠れてコピペして心がやましいのだろう。コピペ自体は悪い行為ではなく、先生が禁止したことをやるのが悪いので、論理を取り違えている。


確かに、学問の世界(村)の指導(掟)では、他人の文章やデータを利用するのを潔しとしない風潮がある。それは、「学問の成果は人類共通の財産である」という意識が低く、自らが学問を地位、名誉、お金等のために実施しているから、他人も同じと思うからだ。学問の世界では「自分」というものはない。


今度の論文事件ではもう一つ、面白い現象があった。それは私のことだが、ある放送局で私が解説したことが話題になり、「武田教授、仰天発言」と書かれていた。その記事を見たら、コピペや写真の取り違いがどのような意味で悪いのかは示さずに、私が言ったことが自分の考えの中になかった!だから仰天した!!とある。


いったい、情報というのは「わかっていること」を知るためか、「今までわかっていないこと」を知るのかというと、後者、つまり「わかっていないことを知るために情報に接する」なのに自分の知らないこと、自分が間違っていると考えることを聴くと「仰天」する。


日本の報道は、正しいことを報道するのではなく、みんなが知っていて空気ができていること(空気)を報道する。それでは報道を聴いても意味がないし、自分の考えが間違っていてもそのまま「愚」で終わる。


特に学問と言うのはじっくりと「自分と考えの違う人のことを聴く」ことにある。学問の世界にいる人、日本のために、若い人のために、勇気をもって声を上げてください。


(平成26年3月21日)
武田邦彦
(出典:武田邦彦先生のブログ





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