2014年5月14日水曜日

「STAP細胞論文問題」 田原総一朗のタブーに挑戦!(2014年4月16日放送分) 

(動画公開日: 2014年05月17日)

鋭い問題把握と分析を行い、それに基づき取材を行うことで、正しい解説が出来るのだと納得しました。田原氏は最初に、次のように話しています。

僕は80歳です。僕はラッキーだなと思います。
僕が現役でやるのは、才能はまったく無いんだけど、

一つだけね、人一倍強いものがある。
それは好奇心ですね。

その好奇心の強さで、今まで現役でやって来ていると思います。
今でもね、新聞は6紙をとっています。

何故6紙をとるかと言うと、それぞれ記事を見て、疑問点、
必ず新聞には疑問がある。問題がある。

その問題を、疑問点を探しだすと、その一次情報、
その新聞が、その記事を書いたもとになる一次情報に取材する。

それがね、一番の楽しみなんですよ。
僕はまたね、趣味というものが、まったく無い人間でね、趣味はね人に会うことなんですよ。

幸か不幸か、人に会うことが今、仕事になっちゃってるから、だから、まあ趣味が仕事になったのは、とってもラッキーで良いことなんだけど、逆に言うとそれ以外は何にも趣味がない。






2014年5月12日月曜日

【STAP騒動の解説 260402】 罪は理研にあり・・・悪意の組織が弱い個人へのリンチ!





罪は理研にあり
・・・悪意の組織が弱い個人へのリンチ!


小保方さんの論文で、理研が「不正」だと言った箇所は主として2つあるが、まず第一に、「取り違えた画像」については、


【外部からまったく指摘がなかった時期に、小保方さんが間違いに気が付いて、ネイチャーと理研に報告している。報道されているように「外部からの指摘」でわかったものではない。】


むしろ良心的だ。私ならこのぐらい小さなミスなら、報告しないかも知れない。でも、自分の論文で出版されてしまった後でも、間違ったところを気が付くことは時々ある。その場合、すでに提出して出版されているので、すぐには訂正できないが、次の論文や学術発表などで修正していく。特に、かなり査読で修正した論文は修正途中で間違いに気が付くが、出したらそのまま通ってしまったという場合、ミスがかなりあるのが普通だ。


第二点目は、酸処理したものの画像だが、
【錯覚して使った単純ミスだ】と小保方さんが言っているし、
【酸処理した正しい画像は小保方さんが持っている】

のだから、それに代えればよいだけのことだ。


「使うべき写真」が自分のパソコンにあるのに、間違って別の写真を使ってしまったことを「捏造」と言うのは間違っている。事情を知らない新聞記者が「使いまわし」という悪意のある言葉を使ったので、多くの人が誤解したが、そうではなく、自分のパソコンに入っている写真を間違えて使っただけだ。


それに「正しい画像」があるのに、捏造のために「間違った画像」を使って自分の評判を悪くしたいということなどするはずもなく、論理性もない。正しい画像がないので、別の写真を使ったと多くの人が思っているが、それは誤報だ。


その他のところも著者には著者の考えがあるので、それを尊重しなければならない。つまり、「不正研究」というのは、盗用、改竄、捏造の3つだが、「盗用」というのは読んで字のごとく他人のものを盗んだ場合で、もし他の人の論文の文章の一部が使われていても、公知(だれでも利用でき、引用の必要がない)のものだから問題はない。自分の家の前の公道を歩いて罰せられることはない。


理研の記者会見を聴くと、理研の方が罪を犯している。多くの人は「個人は悪いことをするが、組織は悪いことをしない」という前提だから、「小保方さんがこういった」と言っても「それは嘘だろう」と思うことがあるが、「理研が判断した」というと正しいと思う。


でも、理研も所詮、決める時には個人が決める。だからウソもつくし、保身もする。今回の場合、第一点目の「小保方さんが自分で気が付いて、雑誌社(ネイチャー)と理研に申し出た」というところを「論文を出してから言ったのだから、故意(不正)だ」と判断した。完全に理研の「ウソ」の判断だ。


もう一点は「正しい図がパソコンにある」と言っているのに、「それを使わなかったのは故意だ」とこれも理研がウソの判断をしている。


また、本人が意図的ではないと言っているのに、どういう判断で意図的(不正)としたかということを説明していない。一つは自分で申請しているのだから意図的ではなく、もう一つは正しい図を使えたのに間違っただけだから、これも不正ではない。


それを説明せずに一方的に記者会見を開き、一個人を誹謗(不正研究で、盗用、改竄、捏造があった)とするのはリンチであり、犯罪である。「本人が、反論があったらどうするか」という質問に「異議申し立てがある」と冷たく言った。理研は真実を明らかにしたいと思っていないことを示している。


ところで、このような単純ミスは咎められる場合と、本人の打撃で済む場合がある。なにか他人に対して積極的な行動をしている場合、たとえばタクシーの運転手が運転を誤って事故を起こした場合、そのミスは許されない。


しかし、フィギャースケートの選手が回転で着地した時に転んでも、ミスはミスだが咎められない。フィギャースケートの場合も「回転を見たくて、遠くから切符を買ってきた」という人もいるだろうけれど、そんな文句は通じない。


論文も嫌なら読まなければ良いし、読んでも「ああ、そうか」ぐらいに思うのが普通なので、論文のミスは著者の罰点になるだけで、もちろん「不正」ではない。むしろ2014年4月1日の理研の記者会見で、不正を働いたのは「理研側」と誤報を続けたマスコミである。


日本人はいつからこんなに権威主義になったのだろう。これでは日本国憲法で定められた基本的人権は簡単に組織によって覆される。そして社会はNHKなどのマスコミの「組織側報道」によって、国民は判断を誤り、個人をバッシングする。嫌な社会だ。


(平成26年4月2日)
武田邦彦

(出典:武田邦彦先生のブログ






2014年5月11日日曜日

【STAP騒動の解説 260326】30歳の研究者の標準的レベルはどのぐらいか?





30歳の研究者の標準的レベルはどのぐらいか?



STAP細胞の論文の一部に間違いがあったということで、日本中が大騒ぎした。この論文の筆頭者(論文の共著者の最初に書いてある人)が30歳の研究者であることで話題になった。「女性」か「男性」というのはあまり関係がないこの問題について、考えてみたい。


30歳の研究者というのはどのぐらいの実力かということを日本社会は理解していないように思うので、著者をかばうとかそういう詰まらないことではなく、研究者と言うのはどういうものかについて少し紹介したい。


博士課程を終わるのが最短で28歳だから、30歳の研究者は研究を始めたばかりの人である、

普通の30歳の研究者がNatureに論文を投稿することはまず不可能である、

普通の(Natureよりレベルが低い)英語の論文を一人で作成して、投稿し、査読(審査)に耐えて掲載に至ることは不可能と考えられる、

普通は教授やそのレベルの経験を積んだ指導者が横にいて、査読結果(2、3度くる)が来るたびに、査読委員の文章を読み、打ち合わせる、

30歳の研究者が独自に査読委員の質問や訂正要求に応じることができるのはレベルの低い学術誌だけで、このレベルの場合、質問の意味がわからない、どうして答えたらよいかわからない、というのが普通だ。


こうして少しずつ研究者は育っていく。研究者に必要なのは、「ミスなく論文を出す」ということではなく、まずは「着想や実力を上げていく」ということで、普通は40歳ぐらいになればある程度、独立して研究と投稿ができるようになる。



(学術分野ではつねに「故意は考えない」という原則がある。故意のものは自然科学でも時々あるが、その人の一生のうち、ほぼ明らかになるので、一つ一つを警察のようにチェックする必要はないし、研究は意外なことなので、チェックする方法もない。 最近、佐村河内氏と比較されることがあるが、故意があるかないかは決定的に違うし、難しさも違う。)



(平成26年3月26日)
武田邦彦
(出典:武田邦彦先生のブログ










【STAP騒動の解説 260321】 コピペは良いことか悪いことか(3)・・・「村の掟」で罰する人たち





コピペは良いことか悪いことか(3)
・・・「村の掟」で罰する人たち


大東亜戦争で日本は敗北し、指導者は白人の手によって罰せられた。でも、時間の経過は次の通り。

1)戦争が始まった日   1941年12月  8日
2)国際軍事裁判憲章   1945年  8月  8日
3)戦争が終わった日    1945年  8月15日
4)極東軍事裁判条例   1946年  1月19日
5)判決            1948年11月  4日


戦争が起こる前には「戦争犯罪」と言うはなかったが、戦争が終わる直前に「国際軍事裁判憲章」というのができ、戦争が終わってから裁判条例が発効し、判決が3年後に行われる。


これについてはさすがの白人側で戦勝国のイギリスの内閣官房長官だったハンキー卿が「世界人権宣言第十一条、行われた時には国際法でも国内法でも犯罪とされてなかった行為について有罪とされることはない」という世界人権宣言を引用した、「東京裁判は世界人権宣言の規定と相容れず、退歩させた」と述べた。


このように「法律で決まっていないことを事後に決めて罰する」というのは、絶対にやってはいけないことで、むしろ「罰したほうが重罪」です。日本人の中の多数の反日派の方が、このイギリス人より反日的であるのは明白です。


ところで、今回のSTAP細胞事件では、同じことが繰り返されている。


愛知大学の時実象一教授は著書「図書館情報学」(2009)の中で、「学術論文に掲載されている事実やデータには著作性が無いと考えてよい」と記載している。また、大阪高裁は2005年4月28日の判決で、「実験結果の記述は誰が書いても同じような記述になると考えられる」として学術論文の創作性を否定した判例を出している。著作権に関する最高裁の判決も「創造性のあるものに限る」としている。


それなのにマスコミやネットでは「コピペするとはなんということか!」と怒りの声が満ち溢れている。おそらくは自分が学校にいる時に先生が「コピペするな」と言ったのに、隠れてコピペして心がやましいのだろう。コピペ自体は悪い行為ではなく、先生が禁止したことをやるのが悪いので、論理を取り違えている。


確かに、学問の世界(村)の指導(掟)では、他人の文章やデータを利用するのを潔しとしない風潮がある。それは、「学問の成果は人類共通の財産である」という意識が低く、自らが学問を地位、名誉、お金等のために実施しているから、他人も同じと思うからだ。学問の世界では「自分」というものはない。


今度の論文事件ではもう一つ、面白い現象があった。それは私のことだが、ある放送局で私が解説したことが話題になり、「武田教授、仰天発言」と書かれていた。その記事を見たら、コピペや写真の取り違いがどのような意味で悪いのかは示さずに、私が言ったことが自分の考えの中になかった!だから仰天した!!とある。


いったい、情報というのは「わかっていること」を知るためか、「今までわかっていないこと」を知るのかというと、後者、つまり「わかっていないことを知るために情報に接する」なのに自分の知らないこと、自分が間違っていると考えることを聴くと「仰天」する。


日本の報道は、正しいことを報道するのではなく、みんなが知っていて空気ができていること(空気)を報道する。それでは報道を聴いても意味がないし、自分の考えが間違っていてもそのまま「愚」で終わる。


特に学問と言うのはじっくりと「自分と考えの違う人のことを聴く」ことにある。学問の世界にいる人、日本のために、若い人のために、勇気をもって声を上げてください。


(平成26年3月21日)
武田邦彦
(出典:武田邦彦先生のブログ




【STAP騒動の解説 260318】 コピペは良いことか悪いことか(2) 学術論文の内容は誰のものか?





コピペは良いことか悪いことか(2)
 学術論文の内容は誰のものか?



先回、人間の知的財産は基本的には人類共通のものであって、特例として知的所有権(著作権、特許権など)が認められているという話をしました。しかし、「権利を主張する」という限りは他人が「何が権利か」が分からなければなりませんから、「創造物」と「権利として申請(出願)したもの」に限定されることも書きました。



ところが、今回の細胞論文でコピペが問題になったように、「知的財産であっても、コピペしてはいけない」というのが一般的です。また、どこかの大学の先生が「若い人にコピペはいけないこと、他人の論文を引用するときの「倫理」を教えなければならない」と言っておられました。



そうすると「法律」と「村の掟」がまったく違うことを意味しています。法律は勉強すればすぐわかりますが、村の掟は教授などから教えてもらわなければなりませんし、今回の件では早稲田大学では博士論文にコピペを認めています。つまり、「村の掟」ですから、場所や人によって違うということになります。



私も若いころに先生から「村の掟」を教えていただいたので、他人の文章を使うことは許されない、引用するときにはできれば本人の了解を得、できなくても引用元を示すということを徹底的にやってきました。



ところが、50歳ぐらいから少しずつ疑問を感じてきました。まず第一には「知的なもので創造性がなければ、人類共通の財産と言うことになっている」と言うことを知ったこと、第二に、「同じ内容の文章をわざわざ書き直すことは、本当に必要なことだろうか?」、「学問は真実を探求しているのか、それとも本人の名誉、お金、地位のためだろうか?」、「論文を実績として地位、名誉を決めること自体が、ヨーロッパ流の「力の学問」ではないか?」、「「引用する」というのは、論文を出した人への敬意か、それとも読者の参考になるためか?」という疑問が次々と生まれてきたからです。



たとえば、一つの研究で、論文を一つしか出ないということはほとんどなく、10ケぐらいは論文がでます。その時に今度の早稲田大学の博士論文のように、第一章(これまでの世界の研究のまとめ)に相当する「緒言」では、いつも同じことを書きます。だから「コピペ」しても「書き直し」をしても全く同じか、ちょっと変更するぐらいです。



同じ文章をコピペしてはいけないのでしょうか? 手で書くならともかく、パソコンを使えばまったく同じ電子処理です。



少し結論を急ぎますと、私は「コピペがいけない」というのは「教育でペナルティーを課さなければならない」というのと似ているような気がします。教育では、「文章を書く力」を養わなければなりませんから、先生はできるだけ書かせるようにし、生徒は労力を減らそうとします。だから先生が「コピペはダメだよ」と言います。



ところが社会人、例えば会社員だったら、会議に提出する資料をいちいち書き直していたら、上司が「そんなのコピペしろよ」と言うでしょう。



もう一つは「礼儀」を重んじる人がいます。「他人が書いたものを利用するのだから、ちゃんと断れ」というのです。でも、これは「利権のために学問をしている人」の感覚で、キャベンディッシュに代表されるように「自然がどうなっているのかが私の興味で、私が発見したものはもう興味がないので、どうでも良い」というのも学問です。



どちらが正しいか、それほどはっきりはしていないというのが私の見解です。私はこの際、コピペ自由と言うことにして、引用しても良いぐらいにすると、「いったい、科学的な発見は誰のものか」がはっきりしてくると思います。



学問は「コピペはいけないに決まっている!」と言ってよいほど、厳密でなくても良いのでしょうか?



(平成26年3月18日)
武田邦彦
(出典:武田邦彦先生のブログ








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