2014年4月6日日曜日

STAP事件簿01 2013年正月






STAP事件簿01 2013年正月




(STAB事件は今、進行中ですが、日本文化(学問、教育、若者)のために大切なことなので、整理をしておきます)


STAP事件簿は、今(2014年4月)からさかのぼること約1年3か月、つまり2013年の正月から始めることとする。



正月明けから理研の発生再生総合研究センター(発生センターと呼ぶ)の首脳部は重要な決定をしようとしていた。それは数か月先、できれば3月か4月までに、STAP細胞についての「理研の特許」と「ネイチャーに掲載されるような論文」を出すことを決めなければならなかったからだ。



「木を見て森を見ず」にならないように、この事件簿ではできるだけ詳細にわたることを避けて、物事の本質に迫りたいと思うので、この会議の細かい発言や人物像はここでは割愛して、先に進む。



国際特許を出しても、論文を出しても、いずれ1年から2年ほどの間に公開されるので、ほぼ同時期に出すのが適当だ。つまり、特許だけにすればお金だけ、論文を出せば名誉だけ、と言うことだから「お金と名誉」の二つが必要な理研としてはどうしても二つは出さなければならない。



しかし、特許の方は「権利を持つのは組織」で「発明者は二の次」であるし、論文はその逆で「名誉を受けるのは個人」で「組織は二の次」である。



また特許というのは、「自然科学」と「社会の法律的権利」というかなり専門領域の違うものを結び付けなければならないので、それをつなぐために、実験担当者(小保方さん?)、上司(笹井さん?)、理研の弁理士(執筆者)で共同して行い、理研の知的所有権の部署にも十分な説明を上司の方からすることになった。



(この事件簿で?がついているのは、公式な発表がないことから確認が取れていないもの、警察の捜査が必要なものなどのものである)



理研以外にSTAP技術の権利を主張するアメリカ・ハーバード大学との提携機関である「ブリガム女性病院」、日本の「東京女子医大」などがあるので、そことの合意を測りながら、国際特許を出願することになった。



理研のデータについては小保方さんを中心とした実験チームが出して、上司と弁理士が説明を受け、弁理士が代筆して第一案を出して来たら、それを理研の発生センターで検討し、合わせて日米の関係先に検討してもらうことになった。



現場はさっそく作業に入り、弁理士が発生センターに来て、実験の様子やデータ、打ち合わせを行い、知的財産部では、アメリカと女子医大との間で、これまでの成果に対する貢献割合を決めて、特許になった時のお金の取り分などの協議に入った。



特許の方が動き始めたとき、小保方さんや上司などの現場サイドはさらに忙しくなった。というのは、特許と論文のデータなどの中身は同じだったが、ネイチャーに論文を出すとすると、どのような構成で行くか、英文の作成、写真や図表の整備などが必要なので、それはそれで並行して現場チームが担当した。



そして、運命の論文が2013年3月10日、旧陸軍記念日にネイチャーに投稿された。論文の表紙には、”Received 10 March 2013” となっている。つまり、論文の原稿が小保方さんからネイチャーに送られて、ネイチャーの担当者が投稿されたことを確認したのが3月10日だったということが分かる。



続いて、2013年4月24日に特許が出願された。正月から3か月、理研や関係機関の多くの人が努力した、「特許と論文」はこうして提出され、発生センター長、知的財産部署長、そしておそらくは理研理事長から「世紀の発見と工業所有権の申請」についてねぎらいの言葉があり、これが理研の今後の「発展」(学問的発展ではないが)に大きな意味を持つことが関係者で確認されたであろう。



そして、5月の連休には一仕事を終わった人たちがしばらくぶりの休みを取り、ゆっくりと骨を休めた。



理研の記者会見で私が不信感を持っているのは、特許と論文がほぼ同時にでてきて内容も同じと考えられるのに、「理研が出した特許」には触れず、「個人が出した論文」だけを問題にしたということです。



普通には「同じな内容の特許を出していて、それは理研が出した(主体者は組織としての理研)ものだから、論文に記載されているのは事実である。」と言うはずだからです。


(平成26年4月6日)


(録音を聴いてみると弁理士のことを弁護士と言っているところがありました。すみません)


武田邦彦








2014年4月4日金曜日

【STAP騒動の解説 260404】 ぬかりはないが何も出てこない人と、ぬけているがひらめく人




ぬかりはないが何も出てこない人と、ぬけているがひらめく人



人間は万全でもなく、すべてをカバーできる人も少ない。とかく、うっかり屋さんは良い成果を生むけれど、何から何まで気を配ることができる人は創造的なことは苦手と言うことが多い。


多くの学生を育てるうえで、最も大切なことは、その人なりの個性を生かして長所を伸ばすことだ。間違いが多い学生で、だらしない学生もいるけれど、何かに夢中になって他のことがおろそかになる「赤ちゃん型」の学生も多い。そのような学生は機械や電機などの分野では特に伸びるように感じられる。


赤ちゃんは何にでも興味を示し、やる気満々である。これに対してミスのないしっかり者の大人の中には、確かに抜かりはないが面白い結果は期待できない人もいる。


もともと日本社会はミスを咎める傾向があるが、最近のマスメディアやネットを見ていると、悪いほうの日本文化が発達して、ミスを咎める傾向がある。まさに「角を矯めて牛を殺す」と言うことが現実レベルになってきたように感じられる。


ミスをする人を見て「そんなこと信じられない」と言う人が同時に「奇想天外な着想」ができるかというと正反対のように思う。


まして、科学の分野では「成果は人類共通のたから」であり(公知・・・「こうち」と読む)、決して発見者の所有物ではない。「所有物概念」がはっきりしているのは「世俗的な考えの人」で、科学そのものに興味があると、つい人のものも自分が使ってよいと思うのが普通で、しかも法律的にも正しい。


「コピペしてはいけない!」などと、違法(科学の成果を無断で使う人を非難すること)を教える人は、自分自身が所有権を重視するお金にまみれた人だが、そのような人に「平和への道」を閉ざされたくない。


(参考)著作権法
  • 著作物とは「思想または感情に基づき、創造的な表現物」である。
  • 著作したものの引用が必要なのは、その著作が著作物である場合だけである。

(平成26年4月4日)
武田邦彦

(出典:武田邦彦先生のブログ






2014年4月1日火曜日

「小保方さんは悪くない!」  武田邦彦がSTAP細胞問題を徹底解説!

この問題が、この先どのようになっていくのか分かりませんが、
武田邦彦先生の解説を聞くと真実が見えて来ますね。

今後も引き続き、この問題について解説して戴きたいと思います。

その1 (4月1日収録)

その2 (4月1日収録)

その3 (4月1日収録)

その4 (4月1日収録)

【STAP騒動の解説 260401】 公道、公園、公海、公知・・・それこそ私の学問のプライド




公道、公園、公海、公知・・・それこそ私の学問のプライド



公道は誰かが土地を提供し、誰かが苦労して整地し、舗装しただろう。でもいったん「公道」として使われれば、誰がいつ、無断で使ってもとがめられない。それはその国の国民の共通の財産だからだ。


公園、公海・・・人類には「所有権」があり「制限」があるものと、「人類共通の財産」がある。かつての入会権も同じだ。


そして、人間の頭脳が生み出した知的なもの・・・学問、芸術、スポーツもまた人類共通の財産であり、だれでもが自由に使える(公知という用語が使用される)。まさに公の道、公の知である。


「シライ」という体操の飛び方がある。それは若き白井選手が編み出し、披露したものだ。でも翌日、他の人がシライを演じても良い。スポーツは人類に共通の財産だからである。


私はなぜ学問を職業として選んだかというと、この世は「所有」がすべてだが、その世で「所有の無い世界」で私は人生を送ろうとした。だから、私の成果は誰が使っていただいても良いので、著作権を主張していないし、大学で研究するようになってから、多くの特許を企業が出したが、私自身は出していない(私の発明を企業などが特許にしただけ)。


この世には、「人類共通の財産」がなければ成立しないし、それが多ければ多いほど平和に近づくと私は思ってきた。平和主義の人はぜひ、私の活動を支持して欲しい。


今、STAP論文のことで、学問は危機に瀕している。学問がお金、利権、名誉などにまみれたら人類は損失をする。2つの例外だけ(著作権と工業所有権)を認めて、あとはオープンなのだ。


著作権は「思想、感情に基づき」、「創造であり」、「表現されたもの」の3条件が必要だ。だから、文学作品などは感情に基づいているが、自然科学(物理や生物学など)以外でも、思想、感情ではないものは多いのではないかと思う。


学問が世の利権にまみれ、コピペしていけない、引用元を示さなければならない(道路を歩く時に誰かに断らなければいけない)というのは学問の冒とくでもあり、また法律違反ですらある。


(平成26年4月1日)
武田邦彦

(出典:武田邦彦先生のブログ







2014年3月31日月曜日

【STAP騒動の解説 260331】 学生の錯覚・・・普段の社会の仁義と科学の世界




学生の錯覚・・・普段の社会の仁義と科学の世界



ある読者の方から、「どうしてそんなに小保方さんを擁護するのか」、「武田の言い方が単なる擁護から共同研究者などへの批判へと変わっている」、さらに「武田は小保方さんのパトロンではないか」とのメールをいただきました。


ご返事は出しておきましたが、この読者の方が錯覚されるのは無理からぬことです。私が科学の教育をしてきて、矛盾を感じ、悩んできたことそのものだからです。


日本の大学の理科系の学部では、4年になると「卒業研究」で各研究室に配属になります。サボりの学生もいますが、結構、熱心に研究をする学生も多いのが事実です。


ところが、真面目な学生ほど、一つの特徴があります。それは「自分」と「他人」を区別することです。最初の症状は、レポートを書くときに「自分のデータ」だけを使って書こうとします。同じ研究室ですから、類似のデータを研究室の別の学生も測定していて、それを加えたほうがはるかに前に進むのに、どうしても「自分」にこだわるのです。


そんな学生は「自分」にこだわるがゆえに、実験も良くするのですが、自分にこだわるのです。


武田「なぜ、自分のデータでなければいけないのだ?」


学生「だって・・・・」


学生は、小さいころから、「自分のことは自分でやりなさい」、「人のものを盗んではいけません」、「他人のものは他人のもの」、「汚いことをしてはいけません」などと言われてきて、正直に自分の力で生きてきたのでしょう。だから「自分」にこだわっているのです。


現世の社会は、全てもものが「誰かの所有物」です。国土、自分が住む土地、家、家の中のもの、すべて「所有者」がいます。食べる時にもお金を払わなければなりませんし、電車も切符が必要です。すべてのものは「所有者」が決まっていて、もしそれをもらう場合はお金などが必要なのは当然の社会で生活をしています。


でも、学問は違います。もともと、人間の「知、情、体」から生まれる「知、芸、武」は人類共通の財産でした(武とはスポーツのこと)。学問、芸術、スポーツは誰に所属することもなく、所有者もいなかったのです。


それが、18世紀になって例外を設けることにしました。一つは「著作権」、もう一つが「工業所有権」です。これらは所有権ですが、厳重な制限があります。著作物というのは、「誰かが書いたもの」ではなく、著作権法で「思想又は感情を創作的に表現したものであって、文芸、学術、美術又は音楽の範囲に属するもの」とされていて、権利として認められるには次の事項をすべて満たしていることが必要です。


 ①「思想又は感情」に基づいているもの(単なるデータは対象外)
 ②思想又は感情を「表現したもの」(アイデア等は対象外)
 ③思想又は感情を「創作的」に表現したもの(「事実」は対象外)
 ④「文芸、学術、美術又は音楽の範囲」に属するもの(工業製品等は対象外)


また「工業所有権」は自分が権利にしたい範囲を明確に示し、特許庁に申請して認められたものに限定されます。これも「書いたから」とか「出版したから」という理由では権利はありません。


つまり、現在でも「人間の知恵の産物」のうち、単なるデータや、アイディア、思想や感情を表現したもの以外、学術など以外は、「誰が実験しても、誰が書いたり、出版したりしても」なんの制約もなく共通に使用しても良いのです。


また、著作権法第32条には、「公表された著作物は、引用して利用することができる・・・」とあり、引用元を示さなければならないのは、「著作物」に限定されるので、思想や感情に基づかないものは引用も必要がありません。


私はこの制限をとても誇りに思ってきました。つまり、科学は人間にとってとても大切なものだから、その成果は「人類共通の財産」であり、所有権などの世俗の権利とは違う神聖なものだ・・・それが私が科学に人生をかけた大きな理由だったのです。


スポーツの感動が人類共通の財産であり、オリンピックは勝つためではないというクーベルタン男爵の思想と同じです。


だから私自身は、世の中にあるもので「思想や感情に基づかず、創作でもなく、特許も申請されていないもの」については「所属なし」で、自由に使い、引用もしないのを原則としてきました。自分の著作物も同じです。


でも、世の中には科学を「お金儲け、収入、名誉、地位、所有物」のためにやっている人がいて、その人たちからクレームが来るので、面倒だから引用したり、使用したりをしないようにしてきましたが、私には苦痛でした。


この世には、世俗的なことも必要だが、崇高なものが残されていても良いというのが私の考えです。そして現実に法令でも残っているのです。ただ、法令に違反して科学の利権を主張する不届きものが多い(圧倒的)というのが残念です。


でも、マックスウェルは20世紀初頭(100年ほど前)、「学問が世俗にまみれてしまった」と書いています(「職業としての学問」(岩波文庫))


これをストレートに学生に教えると、学生は戸惑います。その理由は、
1)あまりにも常識に反する(世俗社会と違いすぎる)、
2)これまで教えられた世俗社会の道徳と違う(潔くない)、
3)他人に罵倒されるのが嫌だ(学生にあるまじきと言われる)
ということで、学生はせっかく崇高な科学の道に進んだのに、世俗にまみれてしまうのです。


科学の成果は、お金でも名誉にも関係なく、発見発明した人の所有物でもなく、人類共通の財産だ。それをよく著作権法、知的財産という特殊な分野を作り、一般的な知の自由を守ってくれたというのが私の感者の気持ちで、それを支えに私は学問をやってきました。


・・・・・・・・


かくして、私が「科学の世界では「自分」はないよ。私たちは自然に対して小さな存在だ。だから、自分のデータと他人のデータを区別するような力はない。全力を尽くして人類がもっている知識をすべて使い、ベストな考察をしてくれ」と言うと、学生はあまりのカルチャーの差にキョトンとしています。


そしてもし学生が私の言葉を理解して、自分と他人の区別をしないようになると素晴らしい科学者になるのですが、同時に激しくバッシングされます。だから学生に間違ったことを少し教えます。


今回のSTAP論文の誤解のほとんどは、社会が科学を利権レベルに引き摺り下ろそうとしていることに原因があると感じられます。残念でたまりません。


(平成26年3月31日)
武田邦彦

(出典:武田邦彦先生のブログ







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