科学利権からの離脱(2)
学者はなぜ「論文」を出すのか?
先回このシリーズで示したように、「国のお金をもらった研究の成果は公知」、「会社のお金でやった研究は特許と製品で会社の収益」であって、理研が言っているような「税金を使って研究をして、その成果を個人が採る」などということはもともとあり得ないのです.
でも、なぜこれほどまでに日本の学問の世界は汚染されたのでしょうか? さらに理研は特殊法人の資格を取って、「国民の税金を使い、年俸1億円の研究者を雇いたい」としてきたのです。
お金で何かを推進しようとしたら、「お金が欲しい人」が熱心になり、その結果「不正を防止する方法が必要」で、「膨大なチェック機構が求められ」、その結果、「ほとんど何も成果がない」と言うことになるのはこれまでの学問の歴史が示しています.
つまり会社で研究すれば、経営陣や上司が厳しく「研究資金と成果」を見て、ダメとなればヤメさせますし、自分勝手なことができないのも当然です.それは「会社のお金をムダにしない」ために必要なことです。
それに対して、理研では「お金は税金」、研究は「自由」、論文発表も「自由」(理研が小保方論文を出すのを認めたかどうか不明。会社なら提出前にできあがった論文を知的財産部に提出して許可を得る)、さらに理研に反対する記者会見を従業員が勝手に開くことができる、正式に入社して1年目の社員の不祥事(もし不祥事なら)に、上司などが誰も責任を取らない、ということですから、まさに「欲呆け研究所」と言うことができます。
その組織が「公知の論文などの文章をコピペしたら「盗用」」という独自の規則を決めたのも奇妙です.これは日本学術会議の指針を参考にしたものですが、これは「著作権を持つもの」に限定されますから、理研が対象とするものは範囲に入りません.
もし、公園のベンチを利用すると同じにしなければ人類の科学に貢献できないということで、論文に出したものが「公知」になっているのに、科学の進歩を妨げる規則を決めているのですから、驚きます。
この際、日本の科学界は徹底的に論理を正し、日本と人類の科学的発展を求め、村の掟を排除し、正しい学問の道筋を示してもらいたいものです.
ところで、これまで暗黙の村の掟だった「論文業績」をどのようにするか、これも議論を要することです。
研究者が研究資金と地位をもらって研究を始め、普通の場合はしばらくすると、しかるべき成果が出ます。でもその「成果を論文にしろ」という命令も強制力も持っている人はい無いので、サボりの研究者は論文を書きません.そうすると税金を使って研究した成果が国民に還元されないので、研究者が論文を書く何らかの「モチベーション」が要ります。
というのは、「論文を出す」というのは、結構、大変で、今回のSTAP論文でも判るように、英語で10ページほどの文章を書き、グラフや表をそろえ、計算間違いなどがないかを繰り返しチェックし、さらに引用文献を調えるのに共著者がいれば3ヶ月ぐらいはかかります。
さらに学会によって提出する様式をそろえるのも大変で、しかも提出すると5万円から10万円ほどの掲載料をとられ、さらに意地の悪い「査読」を通過しなければなりません。だから論文を出さない研究者も現実には多いのです。
選挙に出る人が「世のため」と言って土下座しているのと同じで、本当は自分に大きな得にならないと、地位が保証されている大学教授が論文を出すことはありません。
つまり、「少なくとも5年に数報の論文を出さないと地位が上がらない」とか、「優れた雑誌に論文を出したら、大きな研究費をもらえる」という方式がとられるようになっています。
現代の社会では「学者の学問的誠意に任せることはできない」と管理側(大学当局、文科省、その他の研究管理組織)が考えるようになったのですが、その一つの原因が学長とか国の委員になりたい学者は「権力志向」であることにもよっています。まさに100年前にマックス・ウェーバーが「職業としての学問」になったと嘆いた通りになっているのです。
そこで、「論文をでっち上げれば研究費がもらえる」と言うことになり、「研究不正」が起こる可能性が出てきました.京都大学の山中先生が「実験ノートは不正を見つけるため」と言われたのはこのことですが、実に哀れな研究現場の状態です。
だいぶ整理が進んできましたので、多くの人がSTAP事件の本質に迫るようになり、また「実験ノート」が「不正防止」という学問とは無縁のことで求められ、挙げ句の果てに研究もしていない「科学倫理」を専門とするという奇妙な人たちの食い物になっている現状も次第に判ってきました。
「学問の世界に議論が不足している」というのは学問そのものとも相容れないのですが、学者はややこしいところがあり、胸襟を開いて議論し、合意をえるのが不得意でもあります。そのうちに徐々に「学問は嫌いだが、管理は好き」という人たちにすっかりやられてしまったというのが現状でもあります。
(平成26年5月25日)
武田邦彦
(出典:武田邦彦先生のブログ)