2014年8月15日金曜日

【STAP騒動の解説 260804】 剽窃論 第二章 法律と内規(著作権法と剽窃の内規)(その5)




剽窃論 第二章 法律と内規
(著作権法と剽窃の内規)(その5)



5.教育と剽窃


これまで学問領域での剽窃を取り扱ってきたが、この節では「教育における剽窃」を整理してみたいと思う。STAP事件が起こったとき、テレビは「教育での剽窃」、「論文の剽窃」をほぼ同じく取り扱っていた。テレビカメラが学生にインタビューして「先生から必ず引用しろ、コピペはダメだ」と厳しく言われたという映像が流れ、そのあとに「だから、論文もコピペはとんでもない」と続く。実に非論理的だった。


このようなことが起こるのは、教育と研究の差がわかっていないこと、教育より研究が「上位」だから、教育で注意されることを研究する人が守らないでどうするのだという世俗的なことが背景にあると考えられる。


小学校の教育は基本的にはコピペを許さない。それは自分で字を書くこと、文章を書く力を養うことなど、基礎的な「訓練」が必要だからだ。お習字を学ぶときに隣の子供の作品をコピーして先生に提出すると怒られる。それは「お習字で書いたもの」を必要としているのではなく、書いたものは価値がないのだが、書く過程が教育だからだ。


ところが、会社では昨年の入社式次第をコピーしてそれに今年の年だけを書き直すのは「よいこと」である。つまり上手な人が書いた昨年の入社式の式次第は有効に利用すべきであり、わざわざ時間を使って下手な人が作り直す必要はない。そんなことをしたら上司が「少しは頭を使え」と怒るだろう。


教育でコピペが嫌われるのは、「訓練」であり、「作品」には意味がないからだ。事実、私が試験をして学生から膨大な解答を集める。そこには素晴らしい論述もあるが、採点して必要なものだけは取っておくが大半の学生の解答は捨ててしまう。実にもったいないが、教育は学生が論説を書くときに完結してしまうからだ。


私は美術大学で20年ほど教鞭をとった。ある時、学生に課題を出したら素晴らしい作品が提出された。なにしろ美術は学生だから下手な作品をつくるということはない。モーツアルトの5歳、7歳の曲は高く評価されている。あまりによい作品でひょっとしたら値段がつくのではないかと思ったので大学に聞いてみたら、「学生に出した課題で提出された作品の所有権は先生にありますから、先生が価値があると思ったら先生のものです」と言われた。


確かに、学生の作品に勝手に教師が手を加えることがある。作品の指導という意味では、学生の作品が学生の所有物であると、指導することができないこともある。先生の所有なら「こうしたほうが良い」と先生が作品に手を加えることができる。


普段の試験や課題の解答や作品でもこのようなことが多いのだから、卒業論文、博士論文になるとさらにややこしくなる。卒業論文や博士論文は学生から提出されると、普通は主査の先生(指導教官)が見て、学生に修正を求める。特に卒業論文は一人の学生にとって人生初めての論文だから、文章、図表、論理、構成、引用、謝辞にいたるまで指導が必要だ。だから事細かに指導する。


先生が学生に指導するとき、もし学生が修正箇所の多くで「修正しません」と言った場合、論文が通らず卒業できないことになる。すでに就職などが決まっている学生は論文が通らずに就職もできず、学資がなければ退学ということになる。だから、先生の修正の指示はほぼ守る必要があるし、それは学校教育全体も同じである。


ということは普通の卒業論文も先生が所有権を持っていて、学生の名前がそこに書かれているのは単に「最初はこの人が書いた」というぐらいの意味しか持っていない。


ここで注意しなければならないのは、初歩的な議論では「その研究は学生がしたのだから、先生がとるのはズルい」ということが言われるが、学問は作業ではない。最近の実験の作業の多くが自動化されたから、このような議論の延長線上には「実験器具に卒業免状を与える」という奇妙なことになる。


博士論文の場合はやや趣が違うが、基本的には同じである。不十分な博士論文が提出されると、主査の教官は修正を指示する。そしてほとんどすべての場合、学生が修正に応じなければ合格しない。私の場合、主査の先生はOKしたが、副査の先生のおひとりが論文の一部の記述の修正を求めた。私は「これは研究の中心だから修正することはできない」と頑張り、主査の教授がなんとか話をつけてくれたことがあり、私は文章を修正し、概念や理論式は修正しなかった。具体的には「・・・考えられる」という文章を「・・・とも考えられる」と修正した。論文を提出する人が「考えられる」と言っているのだから、それでよいようにも思うが、副査の先生は「学問的に考えられない」という判断だった。それも正しい。


卒業論文や博士論文については、修正をせずに提出されたものが合格なら合格、不合格なら不合格とする方法もあり、その場合は、論文の所有権、著作権、著者としての権限を学生が持つことになるが、その場合は不合格がかなり多くなる。現実とは違う。


ところで、剽窃という意味では全く違うことも教育では考える必要がある。たとえば、「できるだけ多くの資料を探して、早く・・・のレポートを提出せよ。情報の出典は必要があれば記載せよ」という課題を出したとする。一般社会では、自分の調べたものを論文として出すなどということは少ないので、先生は学生が一般社会でできるだけ内容の良い調査を早くできるための訓練をさせることがある。


このような場合、先生はコピペを奨励し、特に図表などはそのまま切り貼りさせる。たとえば、「最近のハイブリッドカーのメカニズムの進化」というレポートを学生に求めたとき、学生が「図表の著作権」などを考えて、切り貼りができなければレポートを作ることはできない。あくまで将来、社内などで使うことを目的とし、かつレポートが提出されれば学生に発表させ、みんなで現状を深く理解するためだから、「剽窃」などは関係がない。


著作権法では教育で使う場合は原則として自由だが、著作権のないものには制限がかかるという逆の関係にある。STAP事件の場合も、著作権のないアメリカ国立機関NIHの文章をコピペして「盗用」、研究不正とされた。著作権がないということは「自由に使ってください」という意味なのに、そういわれて使ったら罰せられたという例だ。またこの時、指導教官が「緒言などは創造性がないから、著作権のないものはコピペしたり、図表は書き換えなくてもよい」と指示したとすると、教官の指示に従ったら「研究不正」と言われたということになる。


博士論文も含めて教育中の作品の所有権は先生にあり、提出した時に不十分だったり、合格作品(論文など)が不適切だからと言って取り消すことはできない。もし社会的制裁を加えるなら、先生が退職するべきである。

(平成26年8月4日)

武田邦彦

(出典:武田邦彦先生のブログ


2014年8月14日木曜日

【STAP騒動の解説 260810】STAPの悲劇を作った人たち(3) 2番目は学問より政治が好きな学者たち




STAPの悲劇を作った人たち(3) 
2番目は学問より政治が好きな学者たち


先回の記事にまとめたように、理研の調査報告書ほど奇妙なものはありませんでしたが、1)論文は複数の著者で書いていて、故笹井さんが中心になって執筆したとされているのに小保方さんだけを研究不正の調査対象にしたこと(筆頭著者が責任を持つというのは特定の学会の掟に過ぎない)、2)不正とされた写真2枚はすでに調査委員会が調査を始める前に自主的に小保方さんから提出されているのに其れに触れずに不正としたこと、3)写真を正しいものに入れ替えても論文の結論や成立性は変わらないこと、4)理研の規則には「悪意のないときには不正にはならない」と定めているのに「悪意がなくても悪意とする」としたこと、などが特に奇妙でした。


そして、調査結果に対して不服があれば再調査するとしておきながら、再調査はしないとしたり、調査委員長がSTAP論文と同じミスをしていたのに辞任だけで研究不正とはしなかったことなど、実に不誠実な経過をたどったのです。


しかし、その後の展開もさらに奇妙なものになったのです。2014年5月にSTAP事件に関する理研の最終報告書がでると、メディアは「論文の不正が確定した」と報道し、さらに論文が取り下げられると「これですべてゼロになった」としたのです。つまりメディアと理研で、研究者を不正として非難を展開し、論文を取り下げざるを得ないようにし、2014年7月2日にSTAP事件は、論文が取り下げられたことによって、
1)不正が確定し、
2)もともと何もなかったことになった。
 のです。しかし、その後、さらに社会は奇妙な方向に進みます。それは
3)STAP細胞の再現性が得られれば良い、
4)STAP論文にさらに別の不正がある、
 と言い始めたのです。この奇妙な仕掛けをした人はまだ特定できませんが、もともとこの事件はSTAP論文にあり、その論文が取り下げられたことで「ゼロになった」としたのですから、STAP細胞があるかどうか、つまり研究が成功したかどうかも問題ではありません。


(もちろん、「再現実験」などは科学的にあまり意味のないことで、価値のある研究ほど論文の再現性には時間がかかりますし、再現性があるかどうかは科学的価値とは無関係です。)


ですから、日本社会が正常なら、STAP研究は社会の目から遠く離れて、また2013年までのように「理研内で静かに研究ができる」という環境に戻ったのです。今頃、笹井さんも小保方さんも通常の生活に帰り、理研かあるいは別の場所で研究を続けていたでしょう。


小保方さんは研究は順調で、論文にケアレスミスはあったけれど、ウソやダマシはないと言っていましたし、笹井さんも記者会見や取材で「自分のチェックが甘く論文に欠陥があったことは責任があるが、研究は順調だ。論文に示された4本のビデオからも研究が有望であることがわかる」ということを言っておられました。


ところが、この経過の中で再び火の手が上がったのです。それが、若山さん、メディアの登場していた研究不正に関する専門家と言われる人たち、そして分子生物学会を中心とする学者や日本学術会議でした。私はメディアに登場する専門家の方の論文を調べてみましたが、暗闇の中で苦しく創造的な研究の経験のある人はおられませんでした。


その中で、若山さんは何が目的であったかはっきりしませんが、共同研究者でなければわからないような日常的で小さなことを何回かにわたってメディアに暴露を繰り返しました。特に「マウスが違っていた」とか、「小保方さんがポケットにマウスを入れて研究室に入ることができる」など、研究内容より人格攻撃と思われることを言われたのにはびっくりしました。


私は研究者が身内をかばう方が良いと言っているのではなく、犯罪も被害者もなく、論文も取り下げたのですから、研究の内部の人だけが知っている細かいことを言う必要がないのです。特にマウスの問題は若山さんのほうが間違っていました。


次に、研究不正の専門家ですが、理研内部の人、東大東工大グループと称する匿名の人、京都大学の人、それに医学部出身者を中心にして、きわめて厳しいコメントが続きました。すでに理研の調査が終わり、「不正が確定した」とし(わたしはそう思わないが)、論文が取り下げられ、もしくは取り下げの手続きが進んでいるのですから、その論文の欠陥をさらに追及したところでまったく意味がありません。


また、論文を執筆したのは最初は小保方さんと錯覚されていましたが、すでに3月ごろには笹井さんが中心になって書き直したことがわかっていましたし、若山さんの力では論文が通らないので、笹井さんの知識をもって論文をまとめたこともわかっていたのです。研究不正の専門家は研究不正という点では知識があると思いますが、研究そのものについてははるかに笹井さんのほうが力があると考えられますから、普通の学者なら「私より力のある人が書いたものだから」と遠慮するのが普通です。


それに加えて分子生物学会が学会としての声明を出しました。3月11日の理事長声明をはじめとして、7月4日の第3次声明が続き、論文が撤回された後も、「不正の追及」をするように理研に求めました。この声明に答えて、学会幹部も声明を出しました。たとえば大阪大学教授が理事長声明を支持することを社会に向かって表明し、「STAP論文はネッシーだ」という趣旨の発言もあったと伝えられています。


学問というのは「坊主憎けりゃ袈裟まで憎い」というような不合理を排するものですし、STAP論文で指摘されているのは(ネットの匿名を除いて)、「写真2枚のミスと1枚の加工」だけであり、「その裏に理研の腐敗体質がある」かどうかは不明なのです。理事長声明はSTAP論文に関する研究に大きな不正があったとして、理研にその返答を求めていますが、学会が伝聞によってある特定の研究者や研究機関を批判するのは、好ましくないことです。


学会は学問的に間違っていることを明らかにすることはその役目の一つですが、組織の運営や研究者個人の人生にも活動を及ぼすものではありません。普通なら笹井さん、若山さん、小保方さんの発表を聞きに行って、自分が疑問に思うことを質問するとか、学会単位なら、研究者を丁寧に研究会にお呼びして、ご足労をお詫びし、疑問点を質問するということをします。


このような活動は「学者は学問的なことに興味がある人」だからで、「運営、管理、虚偽などには興味がなく、また自分の研究時間を犠牲にしてそんなものに関係する時間も惜しい」のが普通です。


私は、ネットの人、理研内部の人、研究不正の専門家という人たち、それに分子生物学会の学者の方は学問には興味がなく、管理運営などにご興味があるということなら、学会から去っていただき、別の仕事をされたらよいと思うのです。学問は比較的簡単で、人を批判しなくても自分でよい仕事をすれば、みんなは評価してくれるからです。


「学者なのにいやに政治家のようだな。自然より人間に興味があるのかな?」というのが私の感想です。この人たちがSTAPの悲劇に加担することになりました。

(平成26年8月10日)

武田邦彦

(出典:武田邦彦先生のブログ




2014年8月12日火曜日

【STAP騒動の解説 260804】 剽窃論 第二章 法律と内規(著作権法と剽窃の内規) (その4)




剽窃論 第二章 法律と内規
(著作権法と剽窃の内規)(その4)



5. 文科系学問の剽窃と文理融合


剽窃の問題では、歴史学のような人文科学や経済学のような社会科学と、自然科学の間に大きな認識の差があるように感じられる。一般的にいわゆる文科系の論文や書籍では、自然科学者から見ると、膨大な引用文献、さらには引用文献についての注釈などがついている。


自然科学でも「引用の目的」ははっきりしないが、他の科学の分野とともに考える場合は、さらに複雑になる。自然科学の論文で引用する目的は、1)著作権のある書物などの引用(法律的な引用・・・ほとんどない)、2)仲間内の仁義上の引用(無断で他人の論文のデータなど使うと悪いから、あるいは所属する機関の内規などで決まっているから)、3)読者がデータの出所に関してさらに調べたいという場合のサービス、4)自らが使ったデータや理論式の信ぴょう性を上げるため、5)引用文献数が少ないと格好が悪いから、などがある。


私自身は、所属する大学などの内規は見たことがないでの、自分の経験や仲間内の「飲み方」などでみんなが言っていることを参考にして、主として3)を意識している。私はやや考えがあって、4)を重視していないが、科学者の中には4)のために引用している人も多いように思う。


つまり、自分自身の先行論文や他人のデータなどを使うとき、その実験条件などを書くには紙面の制限から許されないので、読者の人には不親切ではあるけれど、引用文献を示すことによって「そちらを見てください」という意味で引用することが多い。これについては神経質な学会が多く、他人のデータの説明をすると「そんなものは引用に示せ」と査読委員が言ってくる場合がほとんどだ。


現在のようにネットが発達し、ほとんどの論文がネットで見ることができる場合はよいが、少し前まで、引用文献を示されても、現実にそれを参照するのが実に大変だった。大きな大学にいれば学術雑誌のいくらかは図書館にあったが膨大な製本した黒くて重い本を取り出し、その中から該当する論文に到達するのは労力のいることで、いつも気が重かった。小さな大学などでは「取り寄せ」が必要で、手元に来るまでかなりまたなければならない時もあった。


でも最近ではネットの発達で文献をすぐ見ることができるし、場合によっては引用文献を見るより、自分で検索したほうが適切な論文を見つけることも多い。論文に引用されている文献はその著者が「これが良い」と思って引用しているものだが、ネットの検索ではキーワードで拾われる文献はすべて表示されるからである。


私は数年前から論文を引用するのがばからしくなっていた。自分が引用するときに、ネットで検索して自分がかつて読んだ文献を探し、それを書く。それなら文献を引用するのではなく、著者やネットで検索するときのキーワードを示す方が良いからだ。


ところが、人文科学や社会科学では、引用する文献自体がその論文の論理構成を作るうえで必須な場合がある。つまり、「歴史的事実」(歴史学)、「社会的活動データ」(経済学)も不確かな場合があり、研究者自らが採取したデータではないことが多い。そうなると、一つの論文を完成するのに、実質的に他人の思考結果やデータを利用しないと論理が成立しない。そこで、「引用文献は命である」という自然科学とは全く違う考えが述べられる。


また、自然科学でも同じだが、学問は常に事実認識やその解釈が学者によって大きくことなり、それが大学の系列や恩師弟子といった人間的関係によって補強されるので、常に(恒常的に)グループ化、派閥、いがみ合いがある。特に学者は人間的に狭量な人も多いので、他人の考えの価値を認めず、憎しみ合うことが多い。


このような「学説の対立」があるので、その中で引用がさらに大切になることもある。つまり、もともと学問的にあってはいけないことをカバーするために、これもあまり望ましくない「引用過多」が起こるということも頻繁である。


人文科学や社会科学分野での「文献」は、その論文を理解するうえで必要なものであればよいので、たとえばキリスト教の聖書に文献が引用していないから、聖書は学問的にもつまらない書籍だということでもない。そこに記載されていることが十分に根拠があり、新規性を持ち、価値の高いものであれば、それだけで立派な学問的進歩であり、そこに引用があるかどうかは全く別である。


もし、ある一人の学者が、日本史の分野で新しく素晴らしい解釈に思い付き、それを「歴史的事実を引用しない」で、「鎌倉時代には・・・いうことがあり、江戸時代には・・・であり」と記述し、それに素晴らしい解釈をつけたとする。多くの歴史学者がその新しい着眼点に驚き、新しい歴史学が拓かれるということもあるだろう。それに相当するのが自然科学では1953年のDNA論文であり、ほぼ1ページで単に「DNAは二重らせん構造であり、鎖の上の塩基が水素結合を作っている」という文章だけで、「生命の神秘、進化の秘密、遺伝子操作、新しい生物の合成、病気の治療方法の発見・・・・」などのもとになった。


もし、この論文が「引用なし、根拠なし、再現性の方法が書いていない」など論文の本質とは無関係のことで雑誌への掲載が認められず、それから20年たって、同じ内容の論文が、世俗的な苦労をいとわず、性格的にきちんとした学者が書いて論文として認められたら、世俗的なことができる学者が発見者になるという間違った事態が起こる。


私は人文系、社会系、自然系にまたがるテーマ、世間でいう文理融合のテーマを研究することがあるが、自然系の学会に出しても、社会系の学会でも拒絶される。それは「その村の掟とは違うレベルの低い論文」ということになるからだ。ところが、現実にそのような論文を出すと「査読委員がいないから他の雑誌に出してくれ」と言われる。しかし、そんな雑誌はない。つまり、新しい分野には雑誌はないからだ。かつてのように学問が細分化されていなければ「学問誌」とか、「科学誌」というものがあったが、今では学問があまりに細分化され、特定の分野の中にジッと閉じこもり学問の発展的な進歩を阻害している人が大きな顔をする時代でもある。


人文系や社会系の学者は「引用しないなど研究者ではない」という人が多く、それも激しく非難するが、それが「論文の論理構成上必要」というなら「剽窃」や「盗用」ではない。つまり、引用してもしなくても、ある事実や解釈が書かれていて、それを読んだ人が理解できれば、それを引用するかどうかは論理構成で問題にならないからである。


人文系や社会系は、「俗人的情報」を必要としているという面もある。たとえば歴史家「トインビーが・・・言っている」や「ケインズが・・・している」という文章からトインビーやケインズを除くと、意味が変わってくる。つまり、トインビーの「文章」は文章で表現しているのが不十分でトインビーがそういったならこういう意味、ケインズの言葉なら違う意味ということになる面がある。


これは人文系、社会系で、文章力が不足している、もしくは言語の欠陥があるまま使用していることを意味している。また自然科学では、理論式やデータは大切であるが、文章はほとんど意味がない。アインシュタインやワトソンがどのような文章を書いたかが参照されることはなく、アインシュタインの式やワトソンのスケッチが自然科学の成果だからである。


機会があったら社会科学の人にあって、社会科学や人文科学でなぜ引用が必要かを聞きたいと思っている。

(平成26年8月4日)

武田邦彦

(出典:武田邦彦先生のブログ



2014年8月10日日曜日

【STAP騒動の解説 260808】 STAPの悲劇を作った人たち(2) 最初の人は理研




STAPの悲劇を作った人たち(2) 最初の人は理研



先回のこのシリーズで、STAP事件の報道が放送法に適合していたかという整理から、もともとこの事件は「論文を書いた著者」たち、あるいはその「組織である理研」しか当事者(野次馬ではなく、一般の日本社会の概念で「外野」ではない人。ほぼ利害関係者にあたる)がいなかったのではないか、それ以外の「当事者」はNHKなどが作り上げた特別な人たちではなかったかというところまで書きました。


それでは2014年の1月から笹井さんが自殺をされる8月までの実質6か月(半年)間、放送法第4条の4に記載された「意見が対立している問題」というのはいったい何だったのか、それを整理してみたいと思います。


まず研究をして論文を発表した人たちは当事者です。日本の報道では著者のうち、最初から小保方さんだけを特別に扱っていましたが、それは組織体である理研が小保方さんを区別したこと、NHKなどがその判断をそのまま踏襲したことだけで、学問的に言えば著者は同じ立場と言えます(筆頭著者が責任を持つというのは村の掟で、どこにも書いていません。責任著者というのは一部の雑誌で使われています)。


次に理研ですが、研究を支えてきた組織ですから、やはり当事者です。理研は当初から組織としてはやや常識的ではない振舞をしていました。自ら企画して記者会見をし、論文がネイチャーに投稿されて1週間ぐらいすると、ネットで論文の不備が指摘されました。しかし、この時点で指摘されたことは、写真3枚と小保方さんの個人的なこと(卒業論文の不備)で、論文全体が撤回に相当するような欠陥ではありませんでした。


しかし、この段階で当事者の理研は、記者会見を開き、ノーベル賞を受賞した理事長が「頭を下げて謝罪」をしました。ここでこの事件は、大きくこれまでの日本の常識を逸脱し、その後の「錯覚」を加速させたと考えられます。論文の不備を指摘したのはネットの匿名の人ですから、普通なら理研の担当部長クラスの人が故笹井さんらに電話をして、「論文が不備だという声があるけれどどうか」という問い合わせをしたでしょう。


その後の故笹井さん、小保方さんの記者会見などによると、「研究は先進的なものであり、論文には不備はあったが、不正はない」と言っているのですから、理研の調査や記者会見が行われたころは、「理研内部の当事者は研究には問題はないと言い、ネットが炎上している」という状態だったのです。この段階で理研がなにかの声明を出すとしたら、「STAP論文についてネットなどで疑義が呈されているが、論文は価値のあるものであり、著者らも問題はないとしている。理研としては念のため理研内で調査を行う予定である」というぐらいでしょう。


実際、理研は2013年初頭から「若山、小保方」の研究で論文が拒絶されたことから、故笹井さんを研究に参加させ、2013年4月には特許を出願しています。また、故笹井さんは2014年5月ごろの取材に対して、「論文を作成し始めてから、繰り返し若山、小保方さんと議論を重ねた」と言っていますが、新たに研究に参加した人が、それまで研究していた人と十分な議論をすることも当然です。


つまり理研は1年半ほどの間、理研のエース級の研究者だった故笹井さんにSTAP細胞の論文や研究の進展を任せ、それが新しい研究センターへつながるように進めていたことを示しています。その中心的な論文の一つがネットから指摘があったからと言って、方針が変わるのも不思議です。理研としては、論文評価にあたって信頼できる人は、第一に故笹井さんであり、第二に特許を申請するときにその担当をした弁理士(特許出願担当)であり、第三にネイチャー査読委員だったはずです。その研究が基礎になっている論文の80枚ある写真のうち、2枚に違うものが入っていたとしても、全体の研究に影響が及ぶはずもありません。


理研は笹井さんを信頼して副センター長に起用していましたし、この方面では日本の第一人者として世界の評価も高かったのです。その人が執筆した論文をネットで指摘されたからと言って理研が信頼をなくするということになると、「笹井さんより実力が低い他人(ネット)が、「1年間にわたって笹井、若山、小保方が検討を重ねた論文」について、発表後、1週間も経たないうちに指摘したほうが正しい」と理研が判断したことになるからです。


つまり、STAPの悲劇を作った最初の人は「理研」だったことがわかります。理研が普通の研究機関にように、1)謙虚に批判は受け止め、2)なにが問題だったかを調べ、3)十分な科学的根拠をもって調査をする、ことをしていれば、STAP事件そのものは「ネットの炎上」だけで終わったでしょう。


ところが理研が「調査委員会」なるものを作り、不完全な規則を使い(このブログの剽窃論に詳しい。実施不可能な内規で捏造や剽窃とした)、論文の不備が問題になっている(小保方さん個人の問題ではない)のに著者のうち理由を示さずに小保方さんだけを理研は調査対象にしたのです。さらに調査が行き届かないうちに中間報告をして、その中でたとえば実験ノートが提出されていないのに、提出されたと委員長が記者会見でウソまで言ったのです。


この段階で、社会はあまりに不合理に進む理研の調査に疑問を持ちつつ、これほどの不合理が続くのであれば、表面的に発表されること以外になにか大きな間違いがあったのではないか、それが理事長の記者会見の異様ともいえる表情に表れているのではないかと勘繰り始めたのです。


つまり、理研は「もともと無いものをあることにした」という意味で、当事者のいない事件を創作し、それを引き継いだのがNHK、毎日新聞、そして関西系のテレビ番組などでした。

(平成26年8月8日)

武田邦彦

(出典:武田邦彦先生のブログ


2014年8月9日土曜日

【STAP騒動の解説 260802】 剽窃論 第二章 法律と内規(著作権法と剽窃の内規)(その3)




剽窃論 第二章 法律と内規
(著作権法と剽窃の内規)(その3)


 3.自然科学の論文とその内容

科学には、人文科学、社会科学、そして自然科学があるが、ここではそれぞれの例として、歴史学、経済学、物理学を取り上げる。
 歴史学   歴史的事実を明らかにして、解釈を与える。
 経済学   経済的事実を明らかにして、解釈を与える。
 物理学   物理的事実を明らかにして、解釈を与える。

時々刻々、場所によっても違いはあるが、「事実」は基本的には1つしかない。そして解釈も基本的には「もっとも真実に近い解釈」が1つあるだけで、それに近づくために人間の能力の範囲で複数の解釈が生まれるが、最終的には1つを目指している。ただ、歴史学は事実の観測手段が複雑で、価値観と結びつきやすく、経済学は研究対象とする人間社会の変化が複雑で、今のところ、「学問が事実の変化に追いつくことはできない」という状態である。つまり、歴史学では、将来、過去に起こった歴史的事実を遠方の星からの反射波を分析して確定する(たとえば、1000光年かなたの星の反射光は2000年後に地球に到達するので、この技術ができれば2000年前の事実を確定できる)手段が生まれるまでは、事実の確定は難しいだろう。 

また経済学では社会のすべての人の行動をビッグデータで解析できるようになったら、推定が減って諸説は一つの解釈にまとまると考えられる。現在の状態はちょうど、コンピュータで天気予報をしようとしても、計算が終わるまでに翌日になってしまうという状態に似ている。このように、どの分野でもほぼ類似の活動をしているが、現実に使われている手法はかなり異なる。現実に「引用」、「盗用」ということでは大きく考え方も現実的な方法も異なるので、まずは整理や議論が拡散しないために物理学からスタートすることとしたい。

具体的な例として、1905年にアインシュタインが出した有名な3論文(相対性原理や光電効果など)、1953年にワトソンとクリックが出したDNA論文(ネイチャーに掲載)、この論文(文理融合論文で、ネットにだすもの)、さらに先日、私がテレビで使った画像を用いたい。

まず、1905年のアインシュタインの相対性原理の論文であるが、アインシュタインが提案し、まだ議論のある頃には、「アインシュタインが***としている場所と時間を含む方程式は・・・」というような学術論文がでて、その時には論文は引用されている。つまり、1)公開されてからしばらくの間、2)その結果について議論がある期間、に限って引用されていたが、相対性原理が普遍的な原理として認められたあとは、「アインシュタインの相対性原理によれば」と記載されて、論文は引用されなくなる。さらに原理として定着したあとは、「アインシュタインの」という個人名が抜けて、単に「相対性原理によれば」と記載される。

現代では、なにも記載せずに「質量とエネルギーの関係は、mc2=Eであることから」と書く。すでに論文引用も発見者も、そして原理の名称も表示しない。このことから、「他人が論文で明らかにしたもの」を引用するかどうかは、発表されて議論がある時代、議論がなくなったがまだその村(学会)に十分に知られていない時代、さらに社会的にも認知されていて名称などを示す必要がない程度になった場合、などによって異なることがわかる。

しかし、初期の状態から原論文を引用しなくてよい次の段階に入るかの規則はなく、単に「村の雰囲気」で決まる。それで問題にならなかったのは、1)アインシュタインの相対性原理論文が著作権や特許権を持っていないこと、2)アインシュタインが権利を主張していないこと、3)あまりに専門的だったので感情的な反応がなかったこと、4)そのうち定説となったこと、が原因だったと思う。いずれにしても学問がもとめる「普遍的なこと」とは遠いことだ。

ところで、物理を学んだ私の感じでは、物理学の勉強や研究でアインシュタインの論文を参照したことはなかった。すでに多くの基礎物理学の書籍に偉い先生が丁寧に解説してくれているので、それを勉強してアインシュタインの概念と式を学んだ。

その後、複数の論文で質量とエネルギーの関係の説明および式を使ったが、引用することはなかった。引用するとしても、私が勉強した教科書を引用するのか、それともアインシュタインの原著を引用するのかは判断できなかった。このようなとき、普通は教科書を引用するのだが、その逆の経験もあった。

ある時に、ダーウィンの原著の中の一節を引用したので、原著を引用欄に書いた。出版時期は1870年ぐらいと思う。そうしたら、査読の時に査読委員から「原著を引用しても、それを見ることができないから、読者が参照できるものを引用しなさい」と言われて困ったことがある。実は引用は英語で、英語で直接引用することが大切だったが、日本では日本訳しか普通には手に入らないからだ。

つまり、この場合、査読委員は私が引用した「内容」はダーウィンがオリジナルだということで引用するのではなく、読者が参考になるためにということで、「引用」のもう一つの意味を言っている。つまり、剽窃を防ぐには引用すればよいというが、引用には二つの意味があり、一つは著者への敬意、一つは読者の参考だ。そのどちらを指しているのかが不明確なのである。

さらに、DNAの構造は膨大な書籍の中に1953年にワトソンとクリックがネイチャーの論文で示した「二重らせん構造」が使用されている。書籍のほとんどは彼らの論文を引用していない。それは「DNAの二重らせん構造」は「公知の事実」と思われているので、「無断で利用してよい」と「暗黙の掟」で思っているからに過ぎない。

もちろんDNA論文は著作権もないし、特許権も申請されていないので、法的には問題がないが、論文を引用しないで「DNAはらせん構造だから」と書くのは剽窃にあたる。そうするとほとんどの書物が剽窃として「研究不正」にあたるだろう。

次にぐっとレベルが下がって、「この論文」(武田邦彦著、ネット掲載)を取り上げてみたい。この論文はそのレベルはともかく、私が書いて公開したものだ。しかし、この論文には多くの「他人の考え、文章」が示されている。だから、この論文を書いた瞬間(つまり、私の考えをパソコンに表示した瞬間)から、もし剽窃について他人が同じ「考え」をどこかに書いたら、それは剽窃に当たるから「研究者として許すことができない」と断罪しなければならない。

でも、研究不正の専門家は、「武田が自分の頭に浮かんだものなどわからないじゃないか。それにネットに掲載したからといってその全部に目を通すことはできない」というだろう。つまり政府や理研の規則にある「他人の考えを引用せずに使うことは剽窃」というのは、なにか別の意味を持つ制限を持っていることは明らかである。

もう一つ、この論文はなにも引用していない。アインシュタインもワトソン・クリックも、理研の規則集も無断で使っている。ということはこの論文は剽窃に満ち満ちているが、そのことで私がこの文章をネットに出すと、「剽窃」として罰せられるのだろうか? 私を剽窃の罪で調査するのは私の所属する大学だろうか? 著作権なら著作権者がいるから私が無断で利用すると「損害」を受けるからあるいは著作権者が訴えると思うが、この論文でアインシュタインが損害を受けるわけではない。だれも訴えても得をしない。

もし、この論文を私が所属する大学が審査する場合、その目的はなんだろうか? 誰にも損害は与えていないが、教育上の配慮で老教授の自由な論評の欠陥を調査して、教授会で議論するということをすると、かなり時間の浪費のように思われる。それは社会的に正しいことだろうか??

さらに最後に私はテレビで「未来の科学」をお話しすることがある。そこでは、顔認証による自由な預貯金の払い出しや改札のように、すでに誰かが着想しているものもあるが、一つ一つはテレビでお話をする時に、「これは誰の着想」などと引用しない。また私独自に「こんなものはできるだろう。なぜなら物理学でここまでは分かっているから」という新しい材料や機器を創造して示しているが、それが現実になった時に発明者は私のテレビ放送を引用してくれるのだろうか?

「他人の考え」というのは、映像や文章そのものではない。その映像や文章によって示された科学的概念やデータから導き出されて新しく発見された現象などである。それらは「思想又は感情に基づく創造物」ではないので著作権はないが、「剽窃」に当たる。

2014年に問題になった理研の調査は「自然科学領域における剽窃」に関するものであり、日本の多くの学者(少なくともメディアが取り上げた学者)は「他人の考えや文章を引用なしに使うのは許されない。そんなことは学者にとって当たり前のことだ」と言ったが、ここまでの検討で明らかになったように、それは「狭い仲間内で、査読付き論文に書かれているか、権威のある人が書いたもので、仲間の間の仁義から許されざるもの」ということと推定される。

しかし、「仲間」、「権威」、「仁義」のいずれも「学問」とはかなり距離が遠いので、結局、その人その人で任意に「やってはいけないこと」を決めていると考えられ、厳密で正確、感情を排する自然科学では、あいまいな制限をする方が「許されないもの」と考えられる。

(平成26年8月2日)

武田邦彦

(出典:武田邦彦先生のブログ



2014年8月8日金曜日

【STAP騒動の解説 260808】 STAPの悲劇を作った人たち(1) 放送法の意味




STAPの悲劇を作った人たち(1) 放送法の意味



(先日、このブログで笹井さんの自殺について扱ったが、あまりに可哀想な事件が起こったことから、記事の調子がこのブログの趣旨(常に前向き)と少し違ったので、いったん下げてキチンと論述することにした。内容としては同じである)


NHKは国民の預託を受けて放送業をしていますが、その時に国民と約束したことがあります。それが放送法で、特にその第4条が重要です。
 一  公安及び善良な風俗を害しないこと。
 二  政治的に公平であること。
 三  報道は事実をまげないですること。
 四  意見が対立している問題については、できるだけ多くの角度から論点を明らかにすること。


放送はNHKでも民法でも基本的には同じですが、特にNHKは国民から強制的に受信料をとり、日本人全員が良質な放送を見たり聞いたりできるように特別なシステムを持っていますので、良い方向を向けば国民にとっては有意義なことになりますが、間違ったことをしたらその被害はものすごいものになります。


だから、第4条に定められた4つの最低条件は、民放にも及びますが、まずはNHKが絶対に守る必要があるもので、この条件を守るからこそNHKというものが存在できるともいえます。


7月27日のNHKスペシャル、STAP事件を扱ったこの番組は第4条に大きく悖る(もとる、反する)もので、STAPの悲劇を招いた直接的原因になったと考えられます。NHKスペシャルは第4条の一、三にも反していますが、特にここでは“四”の重要性について整理をしてみたいと思っています。


社会生活を送っていると、時々、不意にトラブルに巻き込まれることがあります。それは自分が原因していることもあれば、他人から仕掛けられることもあります。日常的な小さなトラブルはともかく、社会的に問題になるようなことが起これば、その内容はともかく、日本人が相互に約束したこと(法律で決まっていること)によって裁判所で和解か判決を受けて処理できるという確信があります。


このような日本社会の基本を守ることは、NHKはもとより一国民としてもとても重要なことは言うまでもありません。“一”に書かれた「善良は風俗」というのをあまり大きく拡大してはいけませんが、まずは「法律を守ること」や「相手をゆえなく侮辱すること」などが大切でしょう。


ところが、ある特定の人が法律にも訴えずに、全国民にある個人の名誉に関係することを一方的に放送したり、報道されたりしたら、とんでもないことになります。幸福で平和な生活を一瞬にして特定の人の為に奪われることになります。そんな場合でも被害を受けたほうが裁判に訴えることができますが、NHKのような巨大な組織を相手に裁判を起こすこと自体が難しいのです。


まず、裁判になると訴えた一個人の方は仕事もできず、体力も消耗し、お金もかかります。一方、NHKの方は裁判担当弁護士をお金で雇い、大勢の人が分担し、それにかかった費用は受信料から支払うことができます。これでは形式だけ「もしNHKが一個人の名誉を傷つけたら裁判に訴えればよい」と言っても、それは形式だけであって、現実性のない話になります。


そこで、NHKという組織を置く前提として、この4つの項目を守ることをNHKは国民と約束即しているのですが、特に“四”は重要です。「意見が対立している問題については、できるだけ多くの角度から論点を明らかにすること」です。


この条文はとても大切(法律ですから、国民とNHKの約束なので、もともと「大切」とか「大切ではない」ということはなく、すべて「大切」)です。日本国民が法律で罰せられる場合は、キチンとした手続きがあり、十分な弁明の機会が与えられます。日本の裁判は「起訴されたら有罪」というところがあり、「裁判は死んだ」とも言われていますが、それでも弁明の機会は与えられます。


しかし、NHKがある特定の個人を葬ろうと思ったら、「放送」という権力を使って、手続きなしに個人を葬ることができます。そんなことをされたら、日本という自由で人権がある国に住んでいるとは言えなくなります。もしそんなことをNHKがしたら、日本は「NHK独裁国家」になり、いつ何時、社会的に葬り去られるか、あるいは精神的な圧力を受けて自らの命を絶たなければならない羽目に陥ります。


NHKは政治団体でもなく、宗教団体でもなく、もしくは教育機関でもありません。単に国民がNHKという情報提供機関を作って、できるだけ正確な情報の提供を求め、それによって国民が正しく考えられるシステムを作ったに過ぎないのです。


STAP事件の当事者は、(故)笹井さん、小保方さん、丹羽さん、それに若山さんであり、この人たちと「意見が対立している人」というのは、「現在の日本にはいません」!! だからNHKがSTAP事件を報じるときには、研究者の言っていることを報じることはあり得ますが、STAP事件を批判している人のことを報じることはあり得ないのです。


STAP事件発生以来、当事者というのは、「STAPの研究者」、「理研」、それにかなり拡大すれば「文科省」ぐらいで、あとは「外野」、つまり「利害関係者」ではありません。それにもかかわらず、NHKが7月27日のNHKスペシャルで、仮想的な「反撃グループ」を中心に据えて、当事者のことを報じないというあり得ないことをして、当事者としての研究者に大きな打撃を与え、因果関係はまだはっきりしないものの、その直後に研究者の自殺を招いたことは日本社会にとってどうしても解明しなければならないことです。

(平成26年8月8日)

武田邦彦

(出典:武田邦彦先生のブログ



2014年8月7日木曜日

【STAP騒動の解説 260802】剽窃論 第二章 法律と内規(著作権法と剽窃の内規)(その2)




剽窃論 第二章 法律と内規
(著作権法と剽窃の内規)(その2)


2.  理研の内規
最初に、理研が「研究不正」としている内規を参考にしたい。
「第2条 この規程において「研究者等」とは、研究所の研究活動に従事する者をいう。
 2 この規程において「研究不正」とは、研究者等が研究活動を行う場合における次の各号に掲げる行為をいう。ただし、悪意のない間違い及び意見の相違は含まないものとする。
(1)捏造  データや研究結果を作り上げ、これを記録または報告すること。
(2)改ざん 研究資料、試料、機器、過程に操作を加え、データや研究結果の変更や省略により、研究活動によって得られた結果等を真正でないものに加工すること。
 (3)盗用  他人の考え、作業内容、研究結果や文章を、適切な引用表記をせずに使用すること。」
研究不正としての「捏造(ねつぞう)」や「改竄(かいざん)」についても整理したいが論点を絞るほうが良いので、ここでは「盗用」だけを取り上げたい。
理研の規則では、「他人の考え、作業内容、研究結果や文章」を「適切な引用表記をせずに使用すること」と「盗用=剽窃」になる。今回のSTAP事件では、この条項に反するとして処分の対象になったのだが、この規則はどのように評価するべきだろうか?
まず「引用しなければならないもの」として、「他人の考え」、「作業内容」、「研究結果」、それに「文章」とある。直ちに「不適切な内規」であることがわかる。 つまり、「他人の考え」というのは、読んでそのまま理解すると、理研やこの世の中に生きていたり、すでに亡くなっている人のすべての頭の中にある「考え」ということになる。
すべての人の頭の中にあることを「引用」するという方法はどういう方法がありうるだろうか? 古今東西の歴史上の人物や現在、生きている人のすべてにアンケートをだし、「これから次のことを論文に書こうと思っているが、それに関して現在もしくは過去に貴殿の頭脳に考えとしてある場合、ご連絡ください」と聞き、その結果を網羅しなければならない。
このことからわかるが、前節に整理した著作権法が「表現されたもの」という制限を置いているのは、表現されていなければ引用する具体的な方法がないからである。おそらくこの規定は文章が不適切で、「理研の従業員が、理研内部の研究会で発言などから知った他人の考えを盗み取るようなことはいけない」というようにきわめて限定された状況を想定しているのだろう。それでも「具体的な発言」などがなく、相手の「考え」を推定するのはたとえ小さい組織の中でも困難であると思われる。
また、「作業内容」では、たとえば「酸性溶液をピペットで採取し」という作業内容を書くときに、このような手段は「常用」のものであるから、多くの人が実施している。それを引用しなければならないということになると、同じ作業をした人のことをすべて引用しなければならないのでこれも非現実的である。
したがって、この規則(第3項)を根拠に理研の論文を審査したら、すべての論文が「不正」になるのは間違いない。すべての論文が不正になる規則を使用して、ある人が任意にその既定の中の一部だけを、特定の相手に対して適応するというのは、明らかに法律的な考えにも、公序良俗にも反する。「自分の嫌いな人を有罪にできる」という規則になるので、この条文自体が「盗用」の範囲を決めていないと言える。
ところで、研究不正に関する盗用について公表しているのは、文化庁と文科省などの政府機関であり、「理研の内規はそれらの規則に準じている」と言われる。しかし、すでに日本政府(監督官庁の文化庁)などの方針ははっきりしており、芸術、音楽などを含む知的財産の盗用については著作権法に従うとしている。
これについて政府の研究不正の概念を書いている平田容章さんの「研究活動にかかわる不正行為」によると、「著作権法の保護の対象は「思想又は感情を創作的に表現したもの」(著作権法2条)であるため、他の研究者等の研究成果やアイデアに基づく記述が論文にあったとしても、他者の著作物と同一又は実質的に同一の表現である、又は翻案であると認められない限り、著作権及び著作者人格権の侵害にはならない。」とし採用しており、したがって「研究不正」は法的な決まりではないと結論している。
その結果、研究機関ごと(文科省、東大、京大、理研など)に独自に「研究不正」を決めていて、その内容はほとんど理研と同じである。そこで「無期限に他人の頭に浮かんだアイディアを論文や著作に書いたら研究不正になる」という実施不可能なことが現在の「研究不正の判断の基礎」になっている。このようなことが起こったのは、学会がもともと「アウトロー」の体質を持っていることによると考えられる。
ここでいう「アウトロー」とは次の特徴を持つ。
1.法律より自分たちの内部の掟を優先する、
2.掟はあいまいで、どんなときにも適応できるので、嫌いな奴を処分することができる、
3.権力の方(罰する方)に入っていれば罰せられることはない。
実際にも、2014年のSTAP事件の時には、著者が複数いて誰が執筆し、だれが最終修正をしたかを明らかにせず、小保方さんだけを調査した。後に査読後の最終修正を若山さんが他の共著者の了解を得ずにしたことが明らかになった。また調査委員長が同じ種類の「不正」をしたが、委員長は辞任だけで済んでいる。
この種の専門学会では年配の男性か、もしくは女性の研究者が「**は最低の倫理である」というような抽象的な理由で自らの考えを主張することが多い。そしてそれは、「社会の中での著作物」ということではなく、「仲間うちの掟」の色彩が強く、それがこのような非論理的な結果を生んでいると思われる.
理研は上記の「研究不正の3つの内規」のほかに、研究不正への加担ということで、研究不正を見逃すこと、研究不正に加担することを挙げている。2014年のSTAP事件では、同じ立場の著者のうち、「バッシングしやすい女性だから」ということだけで、若山、丹羽、(故)笹井氏は小保方さんより年齢、地位、経験などから論文の責任はより重いとするのが常識的だろう。
その意味で、もし論文の責任を追及するなら小保方さんではなく、第一に若山、(故)笹井さん、第二に丹羽、第三に小保方であることは明らかだが、現実は小保方さんだけが調査委員会にかけられ、不正とされた。実に不当であり、まさに「貶めたい人を任意に貶められる」という規則であることが示された。
次に、不正を見逃し、不正に加担したという意味では、大々的な記者会見を行った理研、担当理事、理事長も合わせてほぼ同じ罪だ。このようにゆがんだ規則は不合理な処分を産む原因になると考えられる。

(平成26年8月2日)

武田邦彦

(出典:武田邦彦先生のブログ



2014年8月6日水曜日

【STAP騒動の解説 260806】 剽窃論 第二章 法律と内規(著作権法と剽窃の内規) (その1の2)



【STAP騒動の解説 260806】
剽窃論 第二章 法律と内規
(著作権法と剽窃の内規) (その1の2)



2-2  著作権の例外とその意味


著作権の使用については若干の例外があり、上記の「政府などの公的機関の著作物」や、下記の「学校における使用」、「非営利での利用」がある。


(教育上の利用など(条文の一部の例外規定は法律を参照のこと)
「第三十五条  学校その他の教育機関において教育を担任する者及び授業を受ける者は、その授業の過程における使用に供することを目的とする場合には、公表された著作物を複製することができる。(後略)」


「第三十八条  公表された著作物は、営利を目的とせず、かつ、聴衆又は観衆から料金を受けない場合には、公に上演し、演奏し、上映し、又は口述することができる。(後略)」


「同条4  公表された著作物は営利を目的とせず、かつ、その複製物の貸与を受ける者から料金を受けない場合には、その複製物の貸与により公衆に提供することができる。」


この三つの条文は当たり前のように思われるが、著作権というものを理解するうえで重要である。つまり、著作権は個人の権利のほうが「人間本来の権利」として与えられているのではなく、もともとは「知的財産」として人類共通のものなので、教育や非営利などの場合、その権利をもとめることはできないという意味がある。


第三十八条は「上演、演奏、上映、口述」などが対象ではあるが、同条4も加えると、「営利を目的としない場合、たとえ著作物であっても自由な利用が許される」とできる。厳密な法解釈ではなく、法の趣旨という意味では、著作権は認めるけれど、非営利の場合には、著作権を主張できないので、法律に基づいて教育研究上の内規などを決めるときには、著作権法そのものよりやや緩やかにするのが妥当であることがわかる。


たとえば論文は、提出するときに著者の方から経費を払い、副生物も著者は販売しないから、著者が著作権を持つわけではない。商業的な雑誌に論文を掲載する場合は、著作権を著者から出版社などに移転することがあるが、もともと著作権のない論文の場合、商業的に取り扱うから著作権を生じるかという問題がある。


またたとえば博士論文のようなものは教育が主眼であり、もちろん非営利の研究目的であり、さらには有償で配布することはほとんどない。したがって、たとえその論文が「思想又は感情に基づいた創作物」であっても、教育研究関係で使用する限りは、少なくともその内部において自由に使用できると解釈するべきだろう。


また、早稲田大学の委員会が博士論文の中での剽窃を、著作権法に準じて「許されない」としているのは、博士論文が営利に属すると解釈しているのか、もしくは学者や弁護士にありがちではあるが、「人類の共通財産」より、個人の権利の制限が主眼となり、「自主規制のやりすぎ」や「過度の潔癖症」が判断の理由になっている可能性もあり、その論拠を明らかにしていかなければならないだろう。


この剽窃論で示すように、他人の書いたものをどのように利用するかという問題は、知の所有権、個人の名誉、閉鎖的だったころの特権階級としての学会の伝統、論文の厳密性を保つうえで必要な掟などが混在していると考えられる。


最後に、著作権は人間本来の権利ではないので「期限付き」であることを示す。
 「第五十一条 の2  著作権は、著作者の死後五十年を経過するまでの間、存続する。」


となっている。もともと25年だった保護期間が50年に伸びたのは、アメリカの商業団体の要請であり、日本でも「著作権は長く保護されなければならない」という考え方が正しいのかどうか、さらに論じる必要がある。


「正しいとは何か」という私の問いからいえば、論文を書くにあたって守るべきこと、社会が論文の著者に求めることは著作権法の範囲にとどめたほうがトラブルが少ないと私は考えている。


もし著作権法で保護されること以外の要求をするのであれば(つまり、著作権がないものも使っていけないとか引用しなければならないというような内規=現在の理研や多くの大学の内規=を決める場合は、「人類共通の財産」を少なくし「個人の権利」を多くするのが適切かという理論的な研究が必要で、それには「研究費をどこから出すか」の問題も含まれている。

(平成26年8月6日)

武田邦彦

(出典:武田邦彦先生のブログ




2014年8月5日火曜日

【STAP騒動の解説 260802】 剽窃論 第二章 法律と内規(著作権法と剽窃の内規) (その1)



【STAP騒動の解説 260802】
剽窃論 第二章 法律と内規
(著作権法と剽窃の内規)(その1)


第二章では、第一章で具体的な事例を考えた後、それでは著作権法や理研の内規などがどのように決まっているかについての基礎的な知見を得ることにする。

6.著作権法
日本の著作物は著作権法で守られる。著作物はそれを利用するときには引用が必要である。それでは著作権法では現実にどのように定義され、運用されているのだろうか?
まず、「著作物」の定義は第二条でなされている。
 「第二条 の一  著作物 思想又は感情を創作的に表現したものであつて、文芸、学術、美術又は音楽の範囲に属するものをいう。    二  著作者 著作物を創作する者をいう。」
一般的には「著作物」とは「著作されたものすべて」と錯覚されているが、厳密に剽窃などを論じるときには、著作物は上記の定義に入るものだけである。つまり、「著作物」と呼べるのは、「思想又は感情を創作的に表現は感情」に基づくものでなければならないので、「事実の記載」や「事実の描写」したものは著作物ではない。
このように著作物を狭く定義していること、つまり「人類が作り出した知の財産」のうちの一部しか認めていないのは、次章に整理するが「人間の知の財産は広く社会で活用すべきである」という考え方からきている。つまり「個人の所有権」が万能の時代なので、錯覚している人がいるが、昔から人類には「個人の所有権」より崇高だと考えられているものがあり、それが「共有財産」であり、著作物は一般的には人類共通の財産としている。
第二に「創作的」ということで、創作とは、1)今までになかったこと、2)事実ではなく想像で作ること、の2つがある。ここで一般的には物理や生物など自然を対象とする学問の著述物(自然科学のもの)はすべて除かれる。というのは、自然科学は「自然を明らかにいること」だから、自然科学が明らかにするものは、すべて「太古の昔から自然の中にあるものがほとんど」だからである。
工学的なものは新幹線、航空機など「太古の昔にはなかった」というものが多いので、創作的ともいえるが、このような工業製品は著作権ではなく、工業所有権で守られるのが普通である。その場合は「記載事項」ではなく、「特許請求の範囲」で厳密に権利の及ぶ範囲が決められる。
また科学は「創作」で何かを作ると、対象が自然現象だから「捏造」になることが多く、やはり著作権にはなじまない。そこで、愛知大学の時実象一教授が「図書館情報学」(2009)で書かれているように、「学術論文に掲載されている事実やデータには著作性が無いと考えてよい」ということになるし、さらに実験結果などは、「実験結果の記述は誰が書いても同じような記述になると考えられる」という判例(大阪高裁2005年4月28日)のような判断になるのである。
さらに著作権法は、「表現したもの」という限定を置いている。著作物とは書籍、論文のように言語で書かれたものや音楽などのように表現されたものだけに限られ、「私の頭の中にあるもの」のような表現されていないものは対象とならない。人間の創造物はもともと頭の中に浮かぶものだから、着想の権利は表現される前に存在するが、そうなると、「すでに考えがあった」と言えば権利は無限大になるので、表現したものに限定されている。
次に「引用」であるが、それは著作権法の第三十二条から始まる。
 「第三十二条  公表された著作物は、引用して利用することができる。(後略)」
条文自体は自明なので繰り返して説明する必要はないが、特に注意を要するのは「引用しなければならないのは、著作物(著作権があるもの)」であり、著作権のないものは引用をする必要はない。
私は会社の研究者から大学へ移るときに、著作権法と判例を勉強した。それまでは会社の知的財産部がチェックしてくれるので問題はなかったが、大学に入ったら、おそらく著作権でなにか問題があるかもしれないと考えたからだった。だから法律を勉強して、自然科学の論文は基本的には著作権はないと認識し、さらに、引用するのは自分の論文が厳密になり、読者が原典を調べることができるからと考えて極力、引用はしたが、まさか引用しなければ盗用とは思っていなかった。
小保方さんも記者会見で言っていたが、法律に書いてなく、大学の規則が明示されていなければ、研究室の徒弟制度の中で暗黙の掟を学んでいくしかない。その中には、早稲田大学で言われていたと思われる「コピペはOK」などのものも混在しているので、なにが正しいかは不明瞭である。時には「私の恩師がそういっていた」という類もあるが、学問的厳密さからいえば、「恩師は正しい」とは限らないと考えなければならない。
もともと「あるグループ内の掟」というのはアウトローの考え方で、法律のように社会全体で守らなければならないものを軽視し、仲間内の掟を最重要に考えるという傾向があり、学問のように自由でオープンな社会にはそぐわないと考えられる。
著作権に関する子供への教育では「書いた人の気持ちを尊重しよう」というのが多いが、それとともに「知の財産は人類共通です」という説明もいる。また新聞社などは法令を拡大解釈して「すべての記事は著作権がある」としているが、これも公共性を持つ新聞社としては「知る権利」とのバランスをとる必要があろう。
とかく著作権というものは「権利を持つ側」の論理が優先しがちだが、著作物を読む方も「共通の知を持つ権利」があり、そちらの方が強いことを主張し続ける必要がある。

(平成26年8月2日)

武田邦彦

(出典:武田邦彦先生のブログ




2014年8月3日日曜日

【STAP騒動の解説 260803】 剽窃論 第一章 若干の具体的事件 (その3)



【STAP騒動の解説 260803】
剽窃論 第一章 若干の具体的事件(その3)


5.  第一章の整理この章では過去の剽窃事件を4つ取り上げて簡単なまとめを行った。学術的な書物の普通の章立て(書く順番)は、基礎から積み上げていくので、最初に具体例が出ることは少ない。しかし、「真理は現場から」という私の考えに沿って、まずは剽窃の現場の一部を整理していた。

この4例からわかることは、1)他人の著述などを利用することは多く、利用しなければ学術的な著作はできないし、進歩も遅れる、2)どのように他人の著述を利用すればよいか(何を引用すべきか、どのように引用するべきか)ははっきり決まっていない(後に著作権から見ると決まっていることを示す)、3)全体として曖昧で組織や人によって判断が違うところが多い、という特徴があることがわかる。

その典型的なものの一つにSTAP関連で、早稲田大学の委員会が報告書要旨の最後に書いた次の文章が混乱をよく示している。


ここには「転載元」を示さずに、「他人作成の文書を自己が作成した文章のように」利用するのは、「論文等」において「決して許されない」とある。

学問は厳密性を第一にするので、その学問を罰するのだから、特に厳密性が必要である。つまり審査の対象となる論文の厳密性を判定するのだから、自らが厳密でなければならないのは当然でもある。その意味で、まず「転載元」というのは、論文、報告書、社内報告、出版されていないもの、著作権のないアメリカ政府の文章などどのような範囲かが不明であること、第二に、「著作権のない文章でも引用をしなければならない」とか「報告書やネットの情報はどうするか」について、学生は事前に知らされていないという曖昧さがある。

つぎに、「他人が作成した文章を自己が作成した文章のように使う」との表現は、そのまま読むと「とんでもないこと」のように思うけれど、自分の書いた文章で、特に事実に類することは一言一句、読んだものと同じことが多い。たとえば「**というドイツの教育大臣が」という文章はだれが書いても同じ文章になってしまう。

そうすると、他人の文章を読んでから自分の頭で別の文章にしなければならないが、それが可能かどうかは書くものによる。また最近では「孫引き」(もともとの文章を複数の人が書く)が多いので、もしかすると自分の文章と同じ文章があるかもしれない。小保方さんが使ったNIHの文章はもともと自由に使えるものだが、さらにNIHの文章自体がどこかの文章をまねて作られている可能性が高い。このようなことは時々、裁判になることもあるが、「実験結果など事実を記載する場合、だれが書いても同じ文章になる」という理由で、文章が似ているからといって問題ではないという判決になる。著作権は「思想又は感情に基づく創作物」だから、事実記載のものに及ぶのかはかなりの議論が必要だ。

また、「論文等」では許されないけれども、ブログやレポート、社内報などはよいのか、それとも厳密に剽窃が禁じられるのは、「査読付き論文」に限るのかも不明である。この論文とは正式に「学術論文」と名の付くものなのか、それとも「査読付き学術論文」なのか、反対に「外部に発表する書類の記載事項」に限るのかでも大きく違う。このブログでも教育の節で論じるが、教育中に書く「卒業論文」ははたして「論文」か、さらには「学生本人の著述物」なのかもまだ合意されていない。

最後に「許されない」という表現があるが、誰が「許さない」と決めたのかという問題である。私の著書「正しいとは何か」には、正しい、つまり何が許されないかは、宗教や道徳を別にすると、倫理(相手に聞く)、法律(社会の約束)という二つしかなく、それ以上の基準を任意に決めるのは社会を混乱させるか、あるいは野蛮な社会ということになる。

ここで、「倫理」は一般的に道徳のように考えられていて、道徳は「孔子様が言った」ということが基本だが、倫理は「倫」は相手という意味であり、相手が了解するかどうかで決まる。つまり相手の理(ことわり)だから、倫理の黄金律は「相手のしたいことをしなさい」、もしくは「相手のしてほしくないことをしてはいけない」というものである。

論文引用の場合、相手は「読者」と「原著者」であるが、読者は参考にするために引用元が書いてある方が便利だということだけなので、「許されない」ということではない。また、原著者は著作権のある範囲でしか引用を求められないので、原著者も引用を求めることはない。ということは、「他人の書いたものの無断使用」は、「誰がだめというのか」という主体者がはっきりしない。おそらく、「同じ文章を使われる人」ということになるが、第一章の国立研究所長の剽窃問題の場合、引用はしていないが原著者は同意をしている。

つまり、「許されない」というのは早稲田大学の委員会が任意に決めたものだから、その場合は、「なぜ、許されないのか」を論理的に述べ、それについての一般的な合意を得る必要がある。

この第一章はイントロダクションなので、現場の状態を理解し、概要をつかむにとどまるが、それでも「剽窃」とか、「やってはいけない」ということが実にあいまいで、難しい内容を含んでいることを指摘して終わることにする。

(平成26年8月3日)

武田邦彦

(出典:武田邦彦先生のブログ





2014年8月2日土曜日

【STAP騒動の解説 260731】 剽窃論 第一章 若干の具体的事件 (その2)



【STAP騒動の解説 260731】
剽窃論 第一章 若干の具体的事件(その2)


 3.京極国立研究所長事件

2010年、朝日新聞が「国立研究所長の盗用」として約23年前に京極所長が書いた論文の一部に「他人の論文の盗用」、「使い回し」があったと報じた。日本の福祉関係研究の主要な学者であったこともあり、報じたのが朝日新聞ということで、多くのメディアが追従した。

この事件は彼が厚生省社会局専門官であった時代に、複数の専門家に社会福祉の国際比較を依頼、その報告書から抜き出したものだった。彼は国が調査を依頼して、その結果提出された報告書は「論文」とは違い、それを自由に利用してよいと認識し、研究者にもその旨を口頭で了解を取って利用したので、引用しなかった。

事件は単純で、名誉棄損の裁判になり、朝日新聞側が謝罪する内容で和解しているが、本人は大学の学長でもあり、名誉は著しく低下し、その残念な気持ちを次のように述べている。

「最後に、私は、厳格なキリスト者である恩師・隅谷三喜男の弟子である私の研究者人生において、他人の論文はもちろん、アイディアですら無断引用したことはなく、むしろ、先行者の文献をできる限り引用注などで表記するよう最大限の配慮を行ってきたことは自負しているところであり、また、見識ある研究者の間では、他の福祉系研究者と比べて、かかる配慮が私の論文の大きな特徴であることは周知されているものと認識しております。

これは、私の著作集を垣間見ていただくだけでも明らかです。それだけに、本件記事が大きく報道されたことによって、私がどれほどに悔しい思いをしたか、私の社会的な評価がどれだけ低下したかは、図り知れないところであります。」(京極さんのホームページより)

この事件はいわゆる「盗用」という場合に、それが「論文」のように公的にある要件(査読や出版など)を満たしている文章だけなのか、それともある組織の部内に提出されたものも含むのかという曖昧なところから起きたものである。

そしてSTAP事件でも見られたように、「論文」、「盗用」、「使い回し」などの扇情的な用語が事実とは違う形で新聞紙上の載り、事実をよく見ないメディが追従するということが行われた。

(注) 私が書いたこの文章はかなり私自身の文章の部分が多いが、京極さんのコメントは「無断引用」(京極さんにここに引用することを断っていない)である。

これは私が長い執筆生活で、最初の頃はこのような場合、いちいち、ご本人やご遺族のアドレスや住所を調べ、ご本人の了解を取ろうとしていたが、ほぼ99%はご返事がなかったり、住所がわからなかったり、亡くなっている場合にはご遺族がわからなかったりする場合がほとんどだった。そこで10年ほど前から「無断引用」させていただき、何かのご連絡があれば、そこで承諾を得たり、承諾が得られなければ削除しようとしている。

私は10年で膨大な書籍やブログなどを出しているが、まだご連絡を受けたことがない。私の感じでは、よほど誹謗中傷にわたらなければ、日本の文化の場合、意図的であると相手が思わない範囲では、むしろ問い合わせても「何を問い合わせてきているか理解できない。良いに決まっているじゃないか」ということが多いようである

4. STAP細胞事件

2014年におこったSTAP細胞事件には、二つの剽窃疑惑があった。一つは著者の一人である小保方春子さんの早稲田大学時代の博士論文の剽窃、またネイチャーに掲載された論文の一部の文章が他の論文の記載と類似しているという指摘である。

早稲田大学の方は正式な委員会も開かれたが、「不正であるが、審査に問題があった」ということで博士号の取り消しはされなかった。またネットでは、早稲田大学の博士論文では剽窃は日常的であるとして、小保方さんが所属していた常田研究室のほか、西出、武岡、逢坂、平田、黒田の6研究室で、24名の学生が特定されていて、さらに増えるとされている。

つまり早稲田大学では論文の記述に他人の論文を使用することが行われていて、特に審査はなされていなかったと考えられる。この件について審査に当たった教授などの発言がないので、まだ不明な部分が多い。

博士号の主査は基本的には“D○合”と言われる特別な資格を持つ教授又は准教授しかできないので、かなり学問的にはレベルが高い。それに普通は5人の合議で行われ、一人は学外者が入る。また論文審査、口頭試問、公聴会(学外の誰でも参加できる)を経て、最終的には教授会が認定する(学長は授与だけ)。

このようなことから現在進行形ではあるが、早稲田大学は「他人の論文の使用」を「不正ではない」と考えていたと考えられる。なお、小保方さんが盗用したとされるNIH(アメリカ国立衛生研究所)の文章は著作権がない。これはアメリカ著作権法105条で、連邦政府の著作したものには著作権がないとされているからである。ふつうに考えれば、著作権のないものは「自由に使用してよい」ということなので、早稲田大学で使用したと思う。

ただ早稲田大学の委員会は、「アメリカの著作権法では著作物ではないが、日本の著作権法では政府の著作には著作権があるので、それはアメリカにも及ぶ」という奇妙な論理が説明されている。

(注) ここでは、直接的に私が文章を写したり、ほぼそのままの内容になっているところはないが、早稲田大学の博士論文に剽窃があるという情報については、「弁護士ドットコム」というサイトの孫引きである。著作権法的には問題はないと思うが(後に著作権法については整理する)、このブログのようなものが「剽窃をしてはいけない論文」であるかどうかは不明である。

つまり、京極さんの場合も「報告書と論文」の違いがあり、この場合は、「ブログ記事と論文」の差である。私も論文を書くときには(あまり本意ではないが)引用をするが、一般書籍やブログのような場合は引用しない。「引用する」と言っても、「引用の作法」があり、著者、雑誌名、巻号、ページ、発行年などを記載する必要がある。

また近年、すこし変わってきたが学会の多くはネットからの情報を引用として認めないことがある。これはネットの情報の信頼性が低いことと、ネットは不意に情報を見ることができなくなるという特徴があるからだ。しかし、すでにネットで提供される情報は多く、それを引用できないというのはかなり問題も含んでいる。


(平成26年7月31日)

武田邦彦

(出典:武田邦彦先生のブログ



2014年7月31日木曜日

【STAP騒動の解説 260731】 剽窃論 第一章 若干の具体的事件 (その1)



【STAP騒動の解説 260731】
剽窃論 第一章 若干の具体的事件(その1)



(このシリーズはブログをはじめて、「論文をネットに掲載する」というものの初めての試みです。通常、私が各論文よりはやわらかいのですが、ブログの文章から見ると専門的です。でも、音声ではできるだけ一般的な説明をしたいと思っています。この論文が「論文として引用対象になるか」という試みでもあります。もしお暇があれば少し聞いていただき、内容、難しさなどご感想をおよせください。


用語:剽窃=盗用=コピペ)


1.シャバン教育大臣事件
シャバンさん(女性で名前で呼べばアネッテさん)がドイツ連邦の教育大臣だったとき、すでに32年ほど前にチェッセルドルフ大学に出した博士論文に多数の剽窃があるとの投書があり、2012年、大学は直ちに調査を開始したが、剽窃は重大な個所ではないとした。この時、大学があまり大きな問題にしたくなかったのか、それとも本当に微細なことだったのかは不明である。
ところが、告発側はかなり執念深かったようで、自ら調べて剽窃が50か所、92ページに及ぶことを指摘した。なにしろ現役の教育大臣だったこともあって、「人格と良心」というタイトルのついた博士論文を再度、調査し、剽窃が故意になされたとした。論文のタイトルが「人格と良心」であり、問題になったのはその論文の剽窃(研究不正)であることからも、人々の興味を引いたことも理解できる。
さらに、一般人ならこれで終わったと思われているが、現職の教育大臣で大学の名誉教授でもあったことから、野党から追及され、窮地に陥った彼女は辞表をメルケル首相に提出、メルケル氏は涙ながらに辞任を認めた。政治の世界に博士論文の剽窃が問題になったこともあって、その後、今度は逆に野党の筆頭議員シュタインマイヤ氏が法学の博士論文に剽窃の疑義が問題になっている。
(注) この記事はどこかの報告書または論文を見て、私が理解したところをまとめて書いているが、事実をそのまま書いてある報告書なので、原報告書とこの私が書いた文章とは酷似している可能性がある。しかし、事実を記載している文章を見て、それをたとえ「自分の文章」として書き換えたとしてもその主要部分は同じになる。
もし、私がこの元の文章を探して、そのままコピーしてもあまり変わらないだろう。このように、原文のままコピーしたのと、それを見て自分が書き直したものと、ほとんど同じの場合、それが剽窃(盗用)に当たるかは、この剽窃論の中で明らかにしていきたいと思う。

2.ユホン・ソウル大学教授事件
ユホン教授は認知症の研究で有名でソウル大学医学部に所属している。彼がファーマコロジカルレビューという科学誌に2002年9月掲載された論文には600の引用文献が示されていたが、論文の2ページ第3節の文章で本来引用すべきだった論文を落としていた。
これを気が付いたのは大学院生だと言われているが、ユホン教授は学術誌側の自主的に申し出ていたが、学術誌側は「掲載されたときに抜けていた」ということで剽窃(盗用)と判断した。
600の引用文献を引いて論文を書く際に、1つでも落としたら不正論文となったことについて、ユホン教授が韓国のソウル大学であることから、アメリカ薬理学会が特別に厳しく判定したのではないかとも言われている。どのぐらいのミスまでが許されるのか、判定の基準は定かではない。
2014年のSTAP論文事件と似たところがあるが、STAP論文の場合には80枚の図表で3枚の写真が問題になった。著者はケアレスミスを主張し、判定は不正となった。基準があいまいで、人間が間違えをすることがあり、かつ査読委員がこのような間違いに対して責任を持たないということで、今のところ、剽窃の判断や基準に未熟なところがあることを示している。
なお、ユホン教授の論文は、アルツハイマーに与えるあるたんぱく質の機能を世界で初めて明らかにしたものとして高く評価されている。内容が立派な論文で、600の引用文献のうち、1つを落としたら不正論文になって取り下げになることとのバランスも問題になるだろう。
また一般的に言って、かなり高度で複雑な論文の場合、関連研究が増えてくるので引用数も多くなる。引用も直接的な論文引用と、「孫引き」と言ってある論文が引用しているので、オリジナリティをどちらに求めたらよいかがわからないようなケースもある。
(注)この事件の場合も、私はあるニュースを見て書いたので、原文と文章が似通ったところがある。しかし、そこを無理に変えると事実に違うことになるので、「剽窃」の危険はあるが、事実を重視した。オリジナルを引用しないのは、オリジナルがはっきりしないこともあるが、もともとこのような場合に剽窃に当たるかについてもこの論の中で整理を進めたいと思っている。

(平成26年7月31日)

武田邦彦

(出典:武田邦彦先生のブログ







2014年7月28日月曜日

NHKスペシャル「調査報告 STAP細胞 不正の深層」で驚いたこと

昨日、2014年7月27日(日) 午後9時00分~9時49分のNHKスペシャル「調査報告 STAP細胞 不正の深層」をテレビで見ました。

放送内容全般については、特に目新しいものは無かったのですが、一つだけ驚いたことがあります。

それは、小保方さんと笹井氏との電子メールの内容が一部紹介されたことです。

メール内容は、ごく一般的なものでしたが、電子メールの内容をテレビで公開することが許されるのでしょうか?

NHKは「通信の秘密」を侵しているのではないでしょうか?


主な関係法令


■日本国憲法
第二十一条
 集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する。
 2 検閲は、これをしてはならない。通信の秘密は、これを侵してはならない。

■犯罪捜査のための通信傍受に関する法律
通信の秘密を侵す行為の処罰等)
第三十条
 捜査又は調査の権限を有する公務員が、その捜査又は調査の職務に関し、電気通信事業法(昭和五十九年法律第八十六号)第百七十九条第一項又は有線電気通信法(昭和二十八年法律第九十六号)第十四条第一項の罪を犯したときは、三年以下の懲役又は百万円以下の罰金に処する。

■電気通信事業法
(検閲の禁止)
第三条
 電気通信事業者の取扱中に係る通信は、検閲してはならない。

(秘密の保護)
第四条
 電気通信事業者の取扱中に係る通信の秘密は、侵してはならない。
2 電気通信事業に従事する者は、在職中電気通信事業者の取扱中に係る通信に関して知り得た他人の秘密を守らなければならない。その職を退いた後においても、同様とする。

第六章 罰則
第百七十九条
 電気通信事業者の取扱中に係る通信(第百六十四条第二項に規定する通信を含む。)の秘密を侵した者は、二年以下の懲役又は百万円以下の罰金に処する。
2 電気通信事業に従事する者が前項の行為をしたときは、三年以下の懲役又は二百万円以下の罰金に処する。
3 前二項の未遂罪は、罰する。


通信の秘密とは
通信の秘密(つうしんのひみつ)とは、個人間の通信(信書・電話・電子メールなど)の内容及びこれに関連した一切の事項に関して、公権力がこれを把握すること、および知り得たことを第三者に漏らすなどを禁止することであり、「通信の自由(つうしんのじゆう)の保障」と表裏一体の関係にあるといえる。また、不特定多数への表現・情報の伝達にあたる検閲の禁止と対として考えられる場合も多い。(出典:wikipedia



◆追記2014/08/03
NHKスペシャルの「通信の秘密」に関して問題提起をしているブログとして、「一研究者・教育者の意見」がありました。このブログでは、その他にも非常に鋭い分析と考察が行われています。

例えば、以下のような考察記事があります。

笹井先生と小保方さんのメールを公開するのは通信の秘密に違反するし、さらに男女の声で語らせるというやり方も嫌らしい。柳田充弘先生はこの点以外にも、「実験ノートの開示」の問題も指摘されており、結論として「人権的にも倫理的にもまったく問題ないのだろうか」とツイートされていた。私もまったく同意見だ。これは「放送倫理・番組向上機構」に通報した方がよいほど悪質な話ではないだろうか。

また、理研上席研究員の石井俊輔先生と、山梨大学の若山照彦教授についても、次のような記事があります。(抜粋)

つまり、石井先生は、本来委員会が調査すべき内容を「調査の対象外」とし、そしておそらく政治的な圧力に流されて、調査を短期間で終了させたという、不正を調査する委員長としてあるまじき行為を行った人間なのだ。これが危機において「いい人」が行う行動の一つの例だ。
若山教授は真面目で誠実であるが故に追いつめられ、結果的に小保方さんを疑わせる行動を取ってしまったのだ。
若山教授に同情すべき点は多いが、さりとて若山教授が、結果的には「僕の研究室から提供するマウスでは絶対にできない」と嘘を言ったことは否定できない事実でもある。

そして、結論として、
STAP騒動以来、研究の不正を取り扱う研究公正局の設置がしばしば言及されるが、そのような組織は研究の不正に対処するだけでなく、当事者や調査委員の「いい人」が大きな過ちを犯すことを防ぐためにも必要であろう。

その他、日本学術会議幹事会の声明と日本分子生物学会の声明の違いや、早稲田大学の論文調査委員会についての考察もあります。

私は、小保方さんの学位についての考察には共感できませんが、それ以外の考察には共感しました。


◆追記2014/08/03
哲学者=山崎行太郎のブログ『毒蛇山荘日記』では、NHKスペシャル「STAP細胞不正の深層」報道にこそ「捏造疑惑」あり!!!  と批判されていますね。


◆追記2014/08/15
Business Journal 大宅健一郎
NHK、STAP問題検証番組で小保方氏捏造説を“捏造”か 崩れた論拠で構成、法令違反も

Openブログ 南堂久史(ホームページ
◆ NHK の違法行為(STAP)


◆追記2014/08/16
小保方さんへの魔女狩り行為




◆追記2014/08/17
2014年08月10日 大槻義彦の叫び
STAP細胞、笹井博士を抹殺してしまったのは誰








2014年7月27日日曜日

【STAP騒動の解説 260327】  教育者がどんな時でも死守しなければならないこと・・STAPと教育



【STAP騒動の解説 260327】 教育者がどんな時でも死守しなければならないこと・・STAPと教育



教育者たるもの、どんな時でも命を懸けて守らなければならないもの、それは「教え子の名誉」だ。教育の責任はすべて教師にある。教えを受けた子供にはない。


STAP論文の関連で、早稲田大学がかつて認めた博士論文の審査を改めて外部に頼むとの報道があった。なんということか!!


・・・・・・・・・


中学校の時、定期試験で国語の答案を書いて先生に提出し、90点をもらって卒業したとする。その答案が保存され、公開され、ある時に、その答案の内容が「ある有名な文学者の作品の盗用」であったことが分かった。本人はすでに30歳で社会で活躍していたが、学校に呼び出されて卒業が取り消されたことを告げられる。


卒業生:「えっ! 卒業取り消し?! だって、先生が・・・それに僕は盗用したのではありません。僕の頭の中に文章が入っていたので、それを書いたのだと記憶しています・・・先生はどういっておられるのですか?」


学校:「先生はすでにご退職され、記憶もない。でも、ちゃんと証拠が残っている」


・・・・・・・・・


こんな日本は嫌だ。生徒がどんな答案を書こうが、先生が90点をつければ90点なのだ。そして、もしその答案に問題があれば、責任は90点をつけた先生にあり、生徒は教育中なので、責任は問われない。



教育とは「成果を残す」ことではなく、本人の実力をあげることだ。だから、基本的には教育が終わったら、本人に関することはすべて捨てても良い。本人が記念に持っておきたいと言うなら本人に渡せばよい。


この教育の原理原則は、小学校から大学、さらに大学院博士課程まで変わらない。提出した作品はどんなものでも、所有権は教育を受ける方にはなく、教育をしたほうにある。


大学でも採点の権限はすべて先生にあり、それは普段の試験でも、論文でも同じである。学生は博士論文の成果を自分のものにしたいなら、普通の学術論文として提出する必要がある。捨てるのはもったいないので、卒論などを図書館に保管することがあるが、それは「少しでも役に立てば」ということである。


法治国家では「法や規則はすべての人に平等」でなければならない。優れた答案や論文だから本人の責任を問うたり、中学校なら良いけれど博士論文はだめという「村の掟」を作ってはいけない。


また博士論文は、本人提出→主任教授の訂正指示→副査の先生の訂正指示→審査会→公聴会→教授会 というプロセスを経る。本人は提出した後は指示に従って修正するだけだから、社会的責任と言う点では、修正を強制される学生に責任を問うことはできず、主任教授、副査、公聴会に出た社会人、教授会にあり、本人にはない。権限なきところに責任もない。


また、学問としては、本人、そして主任教授、さらに副査の先生が意見を述べる必要があり、もしその意見を聞く必要があるとしたら、大学ではなく教授会である。大学は会社でも役所でもない。「上のものが責任を取る」ということは大学ではない。むしろ教授が採点した結果を学長が変更したら、そちらが罪になる。


教授は自分の授業を受けた「学長の息子」を「学長命令」に反して落第させることができる。このような専門職の業務の場合に、学長が責任を取る必要もない。学長が責任を取るのは、教授に任命したからでもない(教授の決定は教授会)、学校の経営などに関する「学長権限内」のことしかできない。


だから、今回の報道が正しければ、早稲田大学は権限を違反し、教育の基本中の基本(学生の責任を問わない)に反している。日本人の常識、マスコミの冷静で正しい報道に期待したい。


早稲田大学は直ちにステートメントを取り消すか、あるいは新しい教育論を説明してからにするとよい。大学は教授の保護者ではない。大学は過去の学生の瑕疵を責める権限もない。教授を保護して学生を罰するなら、大学を解散しなければならない。

(平成26年3月27日)

武田邦彦

(出典:武田邦彦先生のブログ




【STAP騒動の解説 260726】  日本の若い人は科学者にならない方が良い



【STAP騒動の解説 260726】
日本の若い人は科学者にならない方が良い



STAP事件の推移を見るにつけ、私は日本の若い人はもう科学者にならない方が良いと思うようになりました。科学の研究というのはとても辛いもので、大学生活でもいわゆる文科系の学生が講義をさぼったりしている時に、土日でも大学で実験をしなければなりません。


今回の小保方さんも、早稲田大学の学生がNHKのニュースで次のように言っていました。


「ほぼ必ず」というのですから、1か月に1回ぐらいは日曜日にいなかったという感じでしょう。実際にもそうです。そうして夢を追い、大学院に進み、アメリカに留学し、そして博士号をとる。その間、家族もかなりの応援をしなければ科学者にはなれません。


一方、サラリーマンになるなら大学をそこそこ勉強して卒業して、そのあとは給料をもらい、時には上司に誘われて飲みに行ったり、「行きたくない」と断ったりして入ればそこそこの生活ができます。


しかし、科学者は博士号をとって研究機関に入っても2年ぐらいは無給だったり、ポスドクという不安定な立場で教授や指導者の手下になって雑用をこなさなければなりません。その間を縫って実験をし、夜の夜中に論文を書いていきます。学会も出なければなりませんが、旅費も思うようにはでないのです。


若い頃の論文は欠点だらけなので、普通は査読を通過するには至らず、書いてはダメ、書いてはダメという日々を過ごします。そしてやっと通った論文に少しでもミスがあると、叩きに叩かれ、論文を出すときにはまったく協力してくれなかった「専門家」という人たちが、論文がでたらすぐ欠点を追究してきます。


さらに論文が少しでも社会に評価されたら、大変です。NHKの記者が追まわし、女性なら女子トイレにまで追っかけてきます。本人が犯罪を犯したわけでもないのに、まるで犯罪人扱いになります。


また、科学の世界には多くの「掟」があり、それはどこにも書いてないので、一つの研究室にできるだけ長くいて、先生の雑用をこなして少しずつ教えてもらうしかないのです。うっかり「著作権法とその判例」などを勉強して、「知的所有権を正しく守る論文」など書こうものなら「剽窃・盗用」と罵倒され、時によっては無給でも散々な目に遭うことがあります。


そんな時には博士課程の恩師や、職場の教授などはまったくあてになりません。事件が起こるとどこかに隠れてしまいますが、それはもともと教授などは一人一人で身を守っていかなければならないので、逃げる習性がついてしまっているからです。


さらに社会も許してくれません。社会の人の多くは「未知のもの」などと取り組んだこともなく、普通は「規則通りにやればよい」という社会ですし、何か問題が起きれば組織が守ってくれるから、たとえ善意でも科学者の苦悩は理解できないのです。


確かに科学は人の魂を揺さぶり、やりがいのある仕事ですが、これほど日本社会が硬直化し、バッシング社会になり、論理が通らないので、すでに限界を超えていると思います。「研究のような感じで研究ではない」という普通のことならなんとかできますが、「新しい分野」を拓こうとすると、その経験がなく、自分の仕事が暇で、他人を批判するのが生きがいという人が大量にいますので、つぶされてしまうでしょう。


高校生、大学生でこれから科学者になろうとしている人は、時代が悪いので、やめた方が良いと私は思います。悲惨な目にあいますから。NHKがSTAP事件の番組の取材で小保方さんを追まわし、負傷させ、しかも番組の宣伝までやっているのを見て、私は「日本の科学に若者を進ませてはいけない」と強く感じました。


実験をしたり、論文を書いたりした経験があるとわかるのですが、それも未知の分野のものの場合、その苦労、失敗、ミスは多いのです。親御さんの含め、今の時代は未知の科学に進ませることはお子さんの不幸になる可能性が高いと思います。


まだ、ケアレスミスしかわかっていないのに、「稀代の詐欺師」などともいう人がいます。本当に若い人にとっては人生を失うかも知れず、進路としては危険がありすぎると思います。


(平成26年7月26日)

武田邦彦

(出典:武田邦彦先生のブログ






2014年7月26日土曜日

【STAP騒動の解説 260725】  NHK:「公序良俗」に反する組織は存在できないし、協力してはいけない



NHK:「公序良俗」に反する組織は存在できないし、協力してはいけない



いうまでもなく私たちの日本社会で守らなければならないもっとも重要なことは「公序良俗」に反しないことだ。やや抽象的ではあるが、これが社会の基本である。道端で弱っている人がいれば手を差し伸べる、泥が入ったのを見たらそのラーメンをそのまま人が食べるのを見ていてはいけない、人に声をかけたり何かを聞いたりしたとき相手が嫌がったら「失礼しました」と引き下がる・・・など、どの法律に触れるという前に私たちが守らなければならない社会の基本的規範だ。


法律を出すまでもないが、(民法第90条公の秩序又は善良の風俗に反する事項を目的とする法律行為は、無効とする。)とか(放送法第四条  一  公安及び善良な風俗を害しないこと(放送内容))などがある。


2014年7月、NHKはSTAP事件の報道をするにあたって、取材班が小保方さんを急襲した。まずオートバイが逃げる小保方さんを追いかけまわし、ホテルに逃げ込んだ彼女をエレベーターで両脇をカメラマンがはさんで動けないようにし、さらにトイレに駆け込んだら一緒にトイレに入って個室に隠れた小保方さんの前で外部と携帯電話で連絡を取り、監禁状態にした。小保方さんは負傷し全治2週間だった。


NHKは抗議を受けて深夜の午前0時に謝罪に訪れた。NHKはパパラッチになった。私たちはパパラッチに受信料など払う必要はないし、もし払ったら「犯罪集団にお金を払う」ということで公序良俗に反する。


小保方さんは犯罪人ではない。理研という組織の一従業員であり、一般人だ。これほどのことは政治家でも芸能人でも許されないことだ。謝罪して済む問題ではない。報道局長の辞任は当然だが、予定されている番組は中止、さらにNHKはもし十分な説明ができなければこの際、解散するしかない。


こんな組織が何を放送しても私は全く見る気もないし、まして「お金を払う」ことは絶対にできない。これは小保方さんの研究に不備があるかどうかなどとまったく無関係だ。毎日新聞の個人攻撃と言い、NHKのパパラッチ行為といい、日本社会はどうしてしまったのだ!!


(平成26年7月25日)

武田邦彦

(出典:武田邦彦先生のブログ



武田邦彦、NHKスペシャルの行き過ぎた小保方晴子さん取材に憤る 2014/7/25







2014年7月24日木曜日

【STAP騒動の解説 260723】    (毎日新聞追補)   共同研究者は研究を知らないのか?



(毎日新聞追補)共同研究者は研究を知らないのか?



STAP事件で、かなりの人が「私は研究内容を知らないけれど、共同研究者として名前を連ねた」と言っています。これは「詐欺」ですから、この発言だけで学会から追放ということになります。もちろん毎日新聞ももしそんなことをいった人がいたら、そちらを追究する必要があります。


ところが、現在の日本の学会、特に「お金と名誉にまみれている学会」(ほとんど)はこんな簡単な「倫理」すら守られていないのが現状です。今回のことで論文には査読があるということを知った人が多いと覆いますが、論文を出すと数回の査読を受けます。


査読委員は批判的に論文を読むのが役割ですから、厳しい「批判的意見」が述べられます。これに対して、どう答えるか、どの部分をなおすか、どのデータを追加したり削除したりするかは「全著者」に聞かなければなりません。


私は「実体的に研究に参加し、内容を理解し、討論に参加できる」という人しか共同研究者にはしなかったので、いつも査読結果が来ると、その結果と私や私のところの若手が作った答弁と回答案を共同著者に送ります。そうすると必然的に時間がかかりますが、学会の方から「早く返事をしろ」と言ってきます。そんなとき、いつも「共著者全員の了解を取っているので」と返事します。


つまり、共著者になっていて研究に参加していないか、内容を知らない人を入れるのが「村の掟」なのです。著作権のないものをコピペしてはいけないというように、掟で支配されています。まず第一に「お世話になった先生や先輩」は欠かさずに入れて、その次には「前に自分が参加していない論文に名前を出してくれた人」を入れます。


そうすることによって、自分の論文数が増えます。今は官僚が研究費を支配している(もしくは御用学者の東大教授)ので、論文数を増やしておかないと研究費が来ないのです。官僚や東大教授は日本の科学を発展させたいとか、倫理を守りたいと思ってはいないので(自分の権限が増えることが第一目的)、論文著者数が10名ぐらいになっても平気ということです。


また「引用数」というのが問題で、他人が自分の論文を引用してくれる方が点数が上がるので、仲間が多い方が有利になります。そこでボス先生を中心にして仲間を増やします。しばらくその仲間に入っているとそのうちボス先生から「かわいいやつ」ということで、青虫(研究費)がいただけます。アウトローの世界のようですね。


理研や東大、京大のようにお金が中心の研究機関では「著者になることの貸し借り」が日常的で、その結果、若山さん、笹井さんなど一流の先生が「論文内容は知らない」という発言を平気ですることになっています。


もし、毎日新聞が誠意のある新聞で日本の研究のことを心配して記事を作っているなら、今回のSTAP事件での取材対象は全く違っていたでしょう。


(平成26年7月23日)

武田邦彦

(出典:武田邦彦先生のブログ




2014年7月23日水曜日

【STAP騒動の解説 260723】  「毎日新聞の暴力行為」に関する削除と見解(1) 疑問と質問




「毎日新聞の暴力行為」に関する削除と見解
(1)疑問と質問


毎日新聞がSTAP事件に関して執拗に小保方批判を続けていることは多くの人がご存知ですが、先日(2014年7月21日)に全国版1面上部にスペースを4分の1ほどとって、一個人の過去のことに関して個人攻撃の記事を掲載するに至って、先日、とりあえずこのブログでも警告を出しました。それはこのままで放置すると、「善良な一個人」が「社会のある事件」で叩きのめされるという現代の日本にあってはいけないことになってしまう可能性があったからです。


ナチス時代のドイツ。家に突然、憲兵がやってきて家族の一人をしょっ引き、それがもとでその家族は悲惨な生活を強いられるということが、現代の日本で起こっているからです。私が最初の論評を削除したのは、このブログの目的にもあります。


現代の日本社会がひずみを持っていることは多くの人が感じることですが、その一つの原因に私は「合意より反目」の方向に進む傾向があると思っています。そこで、毎日新聞の記事も「まずは相手の立場(毎日新聞の立場)」にたって整理をしてみて、合意が得られなければその時はさらに進展させるという手順が必要と考えたのです。


このSTAP事件は最近の日本社会の価値観、責任感などと比較すると隔絶に違うものでした。その要点をまとめると次のようになります。


一.主として実験をした人が学生や若手の研究者であっても、その人と一緒に教授やそのクラスの指導者が共著者になっている論文については、疑念があったりすると教授などが直接受け答えするのが普通です。私の場合も、学生や若手が研究したものはできるだけその人の功績を前面に出すために論文の筆頭著者は若手にして、私は後ろのほうに名前を出させてもらいます。


このような場合、私が共著者になるのは学問的にも倫理的にも問題はありません。むしろ、私が実験を指示したり、実験内容をともに検討してきた時には、「実施した人(作業した人)」より「頭脳を使った人」を中心にするのが学問の常道だからです。


したがって、今回の場合、小保方さんは無給研究員として今回の論文の主たる部分を実験し、その時には「世界の若山さん」が共同で研究をし、3回目の論文の作成が始まったときには「京都大学教授から理研に転籍した笹井さん」が指導したのですから、マスコミも質問があれば若山さん、笹井さんに質問するのが普通です。


この点は、小保方さんの博士論文でも同じで、博士論文の出来が悪いとか、博士に相当しないなどという疑問があったら、それは指導教授の問題であって、学生が提出した論文の内容が学生の責任になることなどありません。ここでも、指導教授はまったくマスコミに登場せず、メディアもあたかも論文の問題は小保方さんという学生(当時)の問題にしたということは日本社会のこれまでの教育のやり方と全く違います。


毎日新聞は現在でも基本的には小保方さんを攻撃のターゲットにした批判記事を出していますが、この理由は何なのでしょうか? 一つは最初から毎日新聞が間違ったので、それを訂正するのが気が向かないというなら、それはあまり感心した報道姿勢ではありません。


二.次に、今回の論文が社会的に注目されたのは、理研が大々的な記者会見をしたからで、それに無非難に乗ったメディアの責任もありますが、まずは理研の問題です。理研は組織として記者会見をしたのですし、そこには笹井、若山さんが同席して、一緒に説明をした(小保方さんの発表を補充することはあっても、反論などはなかった)のですから、これも普通に考えれば、理研、笹井、若山さんに「なぜ、欠点のある研究発表を自ら積極的にやったのか」が問題になるのも当然です。


また、いわば主犯と思われる理研が、被害者の一人でもある小保方さんに対して「調査委員会」を作り、「2枚の写真の入れ違いと1枚の写真の加工」だけを問題にして調査を打ち切り、その後、「改革委員会」が「世界三大不正」とコメントしたことについての大きな矛盾について、メディアは理研側にたって、調査委員会の結論がでると「小保方さんの不正確定」と完全に理研側に立っていることも不思議なことです。


もともと小保方さんの手元には実験した2枚の写真があったのですし、それに入れ替えても結論が変わらないのですから、ケアレスミスに間違いないのです。さらに調査員会委員長が同じミスで辞任に追い込まれたのに、小保方さんだけを不正としたことについて毎日新聞は追及をしていません。


三.報道は公平を期さなければなりませんし、一個人を批判するときには「自分の情報発信力=毎日新聞の発行部数と専属の記者の給料の支払元など」と一個人の力のバランスを保つ必要があります。このような考え方は近代国家ではあまりに当然で、ある時に、ある新聞かテレビが「あいつをやっつけよう」と決意し、大々的なキャンペーンを張ったら、社会はスキャンダルとして受け取り、その人は人生を失うでしょう。


私たち社会はそんなために大新聞を持っているわけではありません。毎日新聞と小保方さんでは力の差は歴然としています。また毎日新聞の一連の記事、さらには7月21日の朝刊の記事の問題点は、報道が公平ではないということです。STAP事件の報道をするのはある意味で意味があるのですが、その時には必ず両面から見た報道が必要です。


今回の場合、「掲載を放棄した論文」の「査読過程のデータの処理の仕方」ですから、もともとは公開されるべきものではなく(新聞でも草稿段階で不適切な表現を使ったものをわざと白日の下に晒して、その記事を書いた記者を糾弾するということはなく、あくまで最終的に新聞に掲載されたものだけを問題にするはずです。その点で、今回の記事は個人を誹謗中傷するばかりではなく、ルール違反でもあります)、入手手段もきわめて不透明です。


情報の入手先に関する秘匿はメディアの権利でもありますが、今回のように「特定の情報から特定の個人だけを批判することを続ける」という場合は別でしょう。


また、毎日新聞の1面の上段に4分の1ほどのスペースを取ったということは、「小保方さんを日本社会から抹殺する価値はそれほど大きい」という毎日新聞の意思を示しています。記事は論文の批判に終始していますが、もしその背後に理研の闇などがある場合、それを直接、記事にすべきです。それなら私たちは毎日新聞を支持できます。


今回のことはなぞが多く、ここに疑問点を書きましたので、関係者は「合意を得るために」、毎日新聞の意図(本人たちは自分たちのしたことが正しいという確信があるはずですから、現在までの記事では、小保方さんの欠陥を繰り返し報道し、彼女を社会から葬り去るために膨大な紙面を使うだけの価値があると考えていると受け取られる)を明らかにすべきです。


議論はそれからです。


(平成26年7月23日)

武田邦彦

(出典:武田邦彦先生のブログ




2014年7月22日火曜日

調査報告 STAP細胞 不正の深層 NHKスペシャル

STAP細胞問題の論文不正や組織の隠ぺい体質の実態に迫る番組がNHKスペシャルで放送される。独自資料を専門家と分析。

NHKスペシャル
初回放送
2014年7月27日(日)
午後9時00分~9時49分

今月2日、英科学誌ネイチャーは、新型万能細胞の作製に成功したとして世界的な注目を集めたSTAP細胞の論文を取り下げたと発表。研究成果は白紙に戻った。

日本を代表する研究機関である理化学研究所で起きた史上空前と言われる論文の捏造。改革委員会は、熾烈な研究費獲得競争の中で、理研が“スター科学者”を早急に生み出すために論文をほとんどチェックせずに世に送り出した実態や、問題が発覚した後も幕引きを図ろうとする理研の隠蔽体質を断罪。

STAP細胞の存在そのものが“捏造”された可能性について、更に検証を進めるべきだと提言した。しかし執筆者の小保方晴子研究ユニットリーダーは徹底抗戦。

真相は何か、背景に何があるのか、全容の解明には至っていない。番組では、独自に入手した資料を専門家と共に分析。関係者への徹底取材を通して論文の不正の実態に迫る。

更に、捏造論文がなぜ世の中に喧伝されるに至ったのか、その背景を探っていく。(出典:NHKスペシャル)


今回のSTAP論文は作成時に些細なミスがあるだけで、詳細に調査をしていれば論文不正に当たらない。

理研の不正な調査委員会が、速い幕引きを狙って「個人的な論文不正である」と発表しただけで、裁判で不正と確定している訳では無い。小保方氏サイドは論文不正とされたことに承服していない。

「不正の深層」という標題については、理研サイドの「不正の深層」ということであれば納得できる。公正な報道を期待したい。

毎日新聞は、公共の大新聞でありながら、一般人(小保方氏)をバッシングしており、偏った報道が多く、凶器のペンになっている。こちらの方がむしろ社会的に問題だ。




2014年7月21日月曜日

【STAP騒動の解説 260708】   科学の楽しみ(5)   厳しくはチェックしないが、少しは仲間でチェックしよう



科学の楽しみ(5)  厳しくはチェックしないが、少しは仲間でチェックしよう


自然を研究して、自分の意思で自由に発表したり、論文を書いたりする。発表するにも論文を書くにもお金がいるし(発表はおおよそ交通費、宿泊費、参加費などで5万円から10万円、論文は印刷代を含めて7万円ぐらい)、見返りはないのだから、そんなことでケチをつけられたり、批判されたらたまらない。


面倒だから発表などしたくない・・・という人が歴史的にもいて、ニュートンの時代のイギリス貴族のキャビンディッシュである。彼は偉大な発見をいくつもしたが、世間との関係ができるのをいやがって生涯、一つも発表しなかったという剛の者である。


でも普通の人は自分のやったことを自慢したいこともあり、仲間に批判されたい(そうしないと独善に陥るから研究が進まない)という気持ちもあって発表する。学会発表なら面と向かうので、それで良いが論文は一方向なので、「査読」をしようじゃないかということになった。


学会が論文の査読委員を選んで、その人達に提出された論文を審査する。昔はベテランの学者が選ばれたが、最近では若い人もやっている。審査の目的は「あらを探す」とか「再現性のないものはダメ」ということではなく、「最低の記述がされて、論理性があるか」と言うことぐらいをチェックする。その時に誤字脱字なども見てくれる。


なにしろ、論文を出す人も無償、査読委員も無償(少なくとも私は数10年、報酬をいただいたことはない)の世界だから、悪いこともしないし、批判もほどほどである。仕事としてやっているわけでもなく、単なる興味のグループがすることなのだから。


この手続きを踏んだ論文を「査読つき論文」という。だから「科学的に正しい」ということではない。地球温暖化が話題になったとき、「査読つき論文」という言葉が流行った。「査読つき論文を多く出している人は信用できる」と科学と関係の無い人が言って、困った物だった。査読つき論文など簡単で、自分たちで「温暖化学会」のような物を作り、そこに論文を出せば、いくらでも「査読つき論文」などできるからだ


ところで、20世紀も過ぎてくると、学問も商業的になり、ネイチャーのような「商業誌」が「学会誌」より偉くなる。というのは学会誌は儲けなどに関係がないので、「皆が注目するかどうか」に関係なく論文を掲載する。それに対して商業誌は「売れるかどうか」で論文を決めるようになった。そうなるとその方が面白いので、だんだん商業誌が有名になる。STAP事件も商業誌だ。


仲間内で論文をチェックして、科学の道を究めようというのはずいぶん変質した。でも現在でも変質しているのは、普通の学者ではなく、文科省のお金や地位を狙っている御用学者、賞を取りたいと名誉欲が非常に強い学者などであり、一般の学者は学問的興味で一所懸命に研究している人が多い。でも、新聞記者とおつきあいをしている学者はおおむね、名誉欲が強く、ワインが好きな場合が多い。


科学に興味の無い人は、「報酬がなくて努力するはずはない」と確信しているが、そうでもない。多くの学者は報酬とは関係なく、興味に基づいて研究をしている。私の感じでは、世間が学問の世界に入ってくると、まさに「悪貨、良貨を駆逐する」という具合に、悪い学者が指導層にいって、ますます学問の世界が汚れ、それだけ進歩しなくなる。


それは「自由な魂」と「謙虚な気持ち」を失うからに他ならない。私は32歳の時、ふとした機会に「自分は外に飲みに行くより、部屋で論文を読んでいた方が楽しい」という自分の奇妙な性格に気がついたことで、学者としての人生を歩んできた。 今でも、知らないことを知り、判らないナゾが解けることに無常の喜びを感じる。


この世には音楽を聴くのが楽しくて仕方が無い、小説を読むのが好きでたまらないという人はいないのだろうか?? 誰もが儲かるため、名誉を得るために音楽を聴き、小説を読み、スポーツをしているのだろうか? わたしはそうではないと思う。でもそんな人が目立って、その世界を破壊しているような気がする。


江戸末期、日本に来た外国人は、日本人の職人が「それがどのぐらいの儲けになるのか、どのぐらい世間が認めてくれるかとは全く関係なく、ただ自分が満足するまで一心不乱に作品に取り組み、決して止めない」と記述している。まさに我々も職人なのだ。


(平成26年7月8日)

武田邦彦

(出典:武田邦彦先生のブログ




2014年7月17日木曜日

小保方晴子さんの博士論文「学位取り消しに該当しない」  早稲田大学が調査結果を発表 (STAP関連)

2014年07月17日 16時55分
(出典:弁護士ドットコム

「理化学研究所の小保方晴子ユニットリーダーの「博士論文」をめぐり、海外サイトなどの文章や画像の盗用が疑われていた問題で、早稲田大学の調査委員会(委員長・小林英明弁護士)は7月17日、小保方リーダーの行為は学位取り消しにあたらないとする調査結果を公表した。」


当然ですね。下記の解説で、より理解できると思います

【STAP騒動の解説 260317】
コピペは良いことか悪いことか? (1)基礎知識

【STAP騒動の解説 260318】
コピペは良いことか悪いことか? (2)学術論文の内容は誰のものか?

【STAP騒動の解説 260321】
コピペは良いことか悪いことか? (3)・・・「村の掟」で罰する人たち

【STAP騒動の解説 260327】
教育者がどんな時でも死守しなければならないこと・・STAPと教育

2014年07月17日 18:29 弁護士ドットコム
<小保方博士論文>「不正あったが学位取消に該当せず」早大調査委・配布資料(全文)




2014年7月16日水曜日

【STAP騒動の解説 260327】  教育者がどんな時でも死守しなければならないこと・・STAPと教育





教育者がどんな時でも死守しなければならないこと・・STAPと教育



教育者たるもの、どんな時でも命を懸けて守らなければならないもの、それは「教え子の名誉」だ。教育の責任はすべて教師にある。教えを受けた子供にはない。


STAP論文の関連で、早稲田大学がかつて認めた博士論文の審査を改めて外部に頼むとの報道があった。なんということか!!


・・・・・・・・・


中学校の時、定期試験で国語の答案を書いて先生に提出し、90点をもらって卒業したとする。その答案が保存され、公開され、ある時に、その答案の内容が「ある有名な文学者の作品の盗用」であったことが分かった。本人はすでに30歳で社会で活躍していたが、学校に呼び出されて卒業が取り消されたことを告げられる。


卒業生:「えっ! 卒業取り消し?! だって、先生が・・・それに僕は盗用したのではありません。僕の頭の中に文章が入っていたので、それを書いたのだと記憶しています・・・先生はどういっておられるのですか?」


学校:「先生はすでにご退職され、記憶もない。でも、ちゃんと証拠が残っている」


・・・・・・・・・


こんな日本は嫌だ。生徒がどんな答案を書こうが、先生が90点をつければ90点なのだ。そして、もしその答案に問題があれば、責任は90点をつけた先生にあり、生徒は教育中なので、責任は問われない。


教育とは「成果を残す」ことではなく、本人の実力をあげることだ。だから、基本的には教育が終わったら、本人に関することはすべて捨てても良い。本人が記念に持っておきたいと言うなら本人に渡せばよい。


この教育の原理原則は、小学校から大学、さらに大学院博士課程まで変わらない。提出した作品はどんなものでも、所有権は教育を受ける方にはなく、教育をしたほうにある。


大学でも採点の権限はすべて先生にあり、それは普段の試験でも、論文でも同じである。学生は博士論文の成果を自分のものにしたいなら、普通の学術論文として提出する必要がある。捨てるのはもったいないので、卒論などを図書館に保管することがあるが、それは「少しでも役に立てば」ということである。


法治国家では「法や規則はすべての人に平等」でなければならない。優れた答案や論文だから本人の責任を問うたり、中学校なら良いけれど博士論文はだめという「村の掟」を作ってはいけない。


また博士論文は、本人提出→主任教授の訂正指示→副査の先生の訂正指示→審査会→公聴会→教授会 というプロセスを経る。本人は提出した後は指示に従って修正するだけだから、社会的責任と言う点では、修正を強制される学生に責任を問うことはできず、主任教授、副査、公聴会に出た社会人、教授会にあり、本人にはない。権限なきところに責任もない。


また、学問としては、本人、そして主任教授、さらに副査の先生が意見を述べる必要があり、もしその意見を聞く必要があるとしたら、大学ではなく教授会である。大学は会社でも役所でもない。「上のものが責任を取る」ということは大学ではない。むしろ教授が採点した結果を学長が変更したら、そちらが罪になる。


教授は自分の授業を受けた「学長の息子」を「学長命令」に反して落第させることができる。このような専門職の業務の場合に、学長が責任を取る必要もない。学長が責任を取るのは、教授に任命したからでもない(教授の決定は教授会)、学校の経営などに関する「学長権限内」のことしかできない。


だから、今回の報道が正しければ、早稲田大学は権限を違反し、教育の基本中の基本(学生の責任を問わない)に反している。日本人の常識、マスコミの冷静で正しい報道に期待したい。


早稲田大学は直ちにステートメントを取り消すか、あるいは新しい教育論を説明してからにするとよい。大学は教授の保護者ではない。大学は過去の学生の瑕疵を責める権限もない。教授を保護して学生を罰するなら、大学を解散しなければならない。


(平成26年3月27日)

武田邦彦

(出典:武田邦彦先生のブログ





【STAP騒動の解説 260708】   科学の楽しみ(4)   好意で発表



科学の楽しみ(4) 好意で発表



科学の楽しみを3回に分けてお話をしました。この世は効率、お金、期限、対人関係などにまみれていますが、科学は世間とは一歩離れて、「真理の探究」をやっています。そうすると世間とはうまくいかないので、科学の世界で「掟」を決めていました。本当はまったく自由でも良いのですが、歴史的に少しずつ自然発生的に掟がありました。


まず、何かを研究して新しいことが判ったら、それを「社会」ではなく、「仲間」に発表します。それが「学会発表や学術論文」です。学会発表は仲間が聴き、学術論文は仲間しか読みません。学会に出るのに交通費もいるし、参加費を1万円ぐらいとられます。学会誌をとるのも1年に1万円ぐらいです。だから仲間しか見ません。


科学の成果は人類共通のものですから、オープンにした方が良いのに、仲間だけに発表するのは、2014年(今回)のSTAP事件のようになって、酷い仕打ちを受けるからです。科学は「自然を明らかにする」ことを目的としているのに、世間は「お金、利権、効率」などを目的にしているからです。普通は次のような批判を浴びます。


1)まだ、未完成じゃないか!
2)何の役に立つのか!
3)写真を張り間違っているじゃないか!
4)再現性はあるのか!
5)俺の結果と違う!
6)ウソじゃないか!


などです。今回もある学者が「論文を読んでも、実験ができない!」と批判していましたが、私がテレビなどで説明したように20世紀最大の発見と言われ、ノーベル賞をもらったDNA論文は1ページでポンチ絵があるだけです。「未完成」というのは科学では問題にならないのですが、一般社会では「立派な論文なのに作り方が厳密に書いていない」などと言われることがあります(批判した先生は研究をされていない人です。)


また科学は「役に立つ」ことを目的にしているのではなく、「真実」に近づくことですから役に立つかどうかなど100年後にしか判らないのです。でも、私はある学会に論文を出したら、査読委員から「この論文は何の役にも立たない」というコメントで拒絶されたことがあります。特に産業界の人が査読委員に当たると「科学は役に立つ物」という意識があるようです。


「写真が張り間違っているじゃないか!」というのはある程度、まともな指摘なのですが、私たちはあまり気にしません。もちろん、間違いがない方が良いのですが、私たちは「欠点を指摘するため」に論文を読むわけではなく、「なにか新しいことを教えてもらいたい」と思っているからです。


今回も、若山さん、笹井さん、小保方さんが「ご厚意」で論文を出していただいたので、STAP細胞というのを知ることができたわけで、あくまで彼らの親切心であって、義務ではありません。「こちらが論文の提出を命じて、出てきた論文をチェックする」というのではなく、彼らが「好意で私たちに教えてくれた」というものですから、間違いがあっても、そんなことを指摘することすら普通は遠慮します。


まして再現性があるか(これは第一回でお話をしました)、俺の結果と違う(最初のうちだからいろいろなデータがある。そのうち、一つになる)などはあまり関心もありません。まして「ウソ」などはまったく気にもしません。もともと「義務、お金」などで発表しているのではなく、「好意」なのですから、ウソをつく必要が無いからです。


それでも、人間ですから、長い年月(100年ぐらい)には数件のウソがありますが、そんなことを日常的に気にしても仕方が無いのです。また、自然は最終的にはウソをつきませんから、しばらくしたら自然にウソは判ります。だから、論文がウソかどうかを調べるより、しばらくほかっておいた方が効率的にウソを見分ける事ができます。


このように仲間内なら、今回のSTAP事件で問題にされていることは、問題にはならず、おそらく小保方さんは普通に研究を続けていたと思います。そして、もし研究がウソなら、次の論文は出てこないでしょうし、他の人も関心を失っていくでしょう。つまり何もなかったように消えていって、さして労力もかからなかったと思います。


論文の間違いを指摘した人は、科学者のようですが、むしろどういう人で何が目的なのか、私には少し理解できないところがあります。


(平成26年7月8日)

武田邦彦

(出典:武田邦彦先生のブログ





2014年7月14日月曜日

【STAP騒動の解説 260707】  科学の楽しみ(3)   温暖化とタバコ


科学の楽しみ(3)  温暖化とタバコ



科学者は物事をどう見るのだろうか? 一般の人が「人間界のこと」を見ているとしたら、科学者は「自然界」を見る。さらに研究者は「未知の自然界」に挑戦しているので、そこは「意外なこと」だらけだ。でも、意外なことがなければ研究をしても「予想されること」や「あたりまえの事」が判るだけだから、面白くない。


そうなると科学の研究者は常に「意外なこと」に遭遇することになる。このシリーズの第一話は「ある駅のダイヤ」の話をした。一週間、ずっと1時から3時まで10分おきに列車が来たので、翌週も来ると思ったら全く来ない。なぜ、こんなことが起こるのかというと、ダイヤを決めているのが自然だから、人間の予想や最適なこととは無関係だからだ。


ある鋭い弁護士が、STAP細胞があれば事件は解決すると発言しているのを見て、自然に関係する事件に巻き込まれたら助からないとゾッとした。科学は再現性がない等と言っても「厳密な科学にそんなことはあり得ない」と言われて終わりだろうからである。ダイヤの話が少しでも役に立てばと思っている。


第二話は「結果と原因」だが、学生が陥りやすい間違いを例にしてお話をした。今回は、社会人が陥りやすいもので「自分の損得」や「社会の空気」が「事実」に優先して、相反する判断をすることを示したい。

このグラフは空気中のCO2濃度と世界の都市部の平均気温をプロットしたものである。20世紀に入って石油や石炭を燃やしたので、CO2が増えて都市部の気温が上がったと説明される。そして多くの人が「CO2が増えると温暖化するのだな」と強く信じる。

本当は、このグラフだけでCO2が増えたら温暖化するなどと思うはずもない。というのは、いろいろ考えられるからだ。
1)太陽活動が盛んになっているのではないか?
2)雲が少なくなって地表が暖められているのではないか?
 何しろ、地球の気温を支配する要因は数多いのだから、一つだけをとって「それが原因だ」と言っても少なくとも科学者は納得することができない。ところが一般の人が騙されるのは、さらに次のような科学的ではないことが入るからだ。


1)政府が言っている。
2)NHKが言っている。
3)アメリカ人が言っている、ドイツ人も言っている。
4)みんなが言っている。
5)専門家(事実は一部の専門家だが、NHKが片方しか出さない)が言っている。
6)石油ストーブを焚くと温かい。


これらはすべて「科学的ではない」ことだから、正しい判断をするために何の助けにもならない。科学は多数決でも、権力でもないからだ。たとえば「自分は科学者ではないから、専門家が言えばそう思わざるを得ない」という話があるが、これは「自分には判らない」と言っているのだから、「判らないことは口に出さない方が良い」と忠告してあげたい。


それでもどうしても科学者の判断を参考にしたいというなら、学問的な議論の場を作って、中立的にそれを聞いて判断するという方法もあるが、現在のIPCCのように「温暖化が起こるという学者だけを選んだ秘密会」の結果だけを聞いても、それは科学ではない。

次のグラフはこれで、「喫煙率が下がるほど、肺がんが増える」というものだ。地球温暖化ではCO2が増えると温暖化すると判断した人が、今度はこのグラフを見ると「おかしい?そんなはずはない」と言う。科学は思想でも損得でも、社会現象でもないので、グラフは常に同じ見方をしなければならない。地球温暖化は儲かるからCO2と関係があるといい、タバコの煙は嫌いだからこのグラフはウソと言うというのでは、「科学の衣を着て人を騙す」と言うことになる。


しかし、さらに言い訳がある。それは「温暖化は専門家が言っているし、タバコは医師が違う事を言っている」というものだ。これにはトリックがある。自分の気に入るグラフが出てくると、それを採用する理由として専門家を出してきて、自分の先入観と異なるグラフの場合は、専門家が違う事を言っているということで、受け入れない。それなら最初から、グラフを見ない方が良い。


このようなことは学生でも起こる。6月ぐらいから卒業研究を始め、やっと12月になってまとめようとしているときに相反するデータが出る。そうすると、「このデータは間違っている」と主張する。「なぜ間違っていると思うの?」と聞くと、「間違っている。先生、これは間違っています」という。


実際には、相反するデータが出ただけで、どちらが間違っていると言うことではない。「自分が卒業するためには、このデータを間違っているとしてください」といっているだけだ。私が「自然は複雑だから、相反するデータは出るよ。それを含めて論文を書いたら」というと、その力がないので、動揺し、頑張る。それが人間というものだ。


・・・・・・・・・


自然に対して人間はとても小さな存在だ。だから人間は常に錯覚し、間違う。でもそれが人間だから仕方が無い。人間ができることは、「人間が小さい」ということを知っている事だ。そしてその中で最大限の努力だけはできるという謙虚な気持ちがあって始めて科学は進歩する。


再現性があるとか、厳密で正しいのが科学だ、という人は自然の上に人間がいると思っている浅はかな人に見える。


(平成26年7月7日)

武田邦彦

(出典:武田邦彦先生のブログ





2014年7月13日日曜日

【STAP騒動の解説 260606】 官房長官と理研調査委員会の記者会見





官房長官と理研調査委員会の記者会見



「説明してみんなにわかってもらいたい」という気配がまったく感じられないのが、官房長官のいつもの記者会見と、理研の調査委員会で前調査委員長が写真の(不正)使用で退任した後、代わりに委員長になった弁護士の人である。


もし、この世に政府が二つあり、それぞれの政府に官房長官がいて、どちらかわかりやすい方に予算を分配する仕組みなら(普通の町の商売)、にこにこ笑い、わかりやすい説明を試みるだろう。でも、官房長官は一人だし、彼の給料が国民から支払われていることはとうの昔に頭の中にはないように見える。


アメリカのように陽気で民主主義が根についているところのスポークスマンはほぼ笑顔で、愛想もよい。最近では中国も少しずつ女性のスポークスマンなどを使っているが、まだ「教えてやるぞ」という気配が感じられる。


一方、理研の調査委員長は、税金を使った理研の研究に不正があったかも知れないという時の責任者だから、調査については理研を代表してお詫びの気持ちでいっぱいのはずであるし、不正があってはいけないという気持ちも持っているはずである。


特に前委員長がこともあろうに、写真の不正を糾弾する責任者が不正な写真の使用をしていたということで辞任したのだから、かなり腰が低いかと思ったら、説明は不親切、一見して傲慢な顔つきだった。ぶっきらぼうの説明で「国民にわかってもらいたい」というのではなく、「できるだけ話したくない」という態度に終始していた。


若い研究員が80枚ある論文の写真を3枚、ミスしたというだけで調査を打ち切り、不正をしたのは若い研究員個人だけと言ったのに、現在の状態はそれどころか、政府、理研、関係学会が総出で、なにか「日本国の研究不正」に取り組んでいる。もし、「日本国の研究不正」に取り組む方が正しいなら、逆に「小保方さんの写真の取り違え」などは個人の問題だから、それで調査を終了して小保方さんだけを、写真3枚のとりちがえだけで処分するというのは実に奇妙だ。


・・・・・・・・・


「説明責任」という時代、「民主主義」のものと日本でもあり、懇切丁寧に多くの人の疑問に答え、政府は政府の方針が国民に伝わるように力を尽くし、理研は不祥事をわびてできるだけ正確に国民に理解してもらわなければならないのは当然でもある。


憲法改正論議もそうであり、原発再開問題でも同じだが、まだ日本は近代化されていないので、どうしても「上に立つもの」とか「天下り」という意識があり、政府の上層部や国の機関の人が、税金を使っていることに対する正しい認識を持てないようである。


おそらくは日本では民主主義は、その考え方を輸入したもので、戦い、あるいは血を流して獲得したものではないので、なかなか身にしみるには時間が必要なのかも知れない。でも、「国民が判断するのだから、国民にできるだけ多くの情報を丁寧に伝える」ということに力を注ぎ、国民の合意の元で日本の力を結集できるようにしてもらいたいものである。


特に、スポークスマンの立場にいる人(官房長官や理研の説明に当たる人)は、まず第一に「どんなことがあってもウソをつかないこと」、「丁寧に説明すること」について十分な配慮をして、我慢強く新しい日本を作る努力をして欲しい。


たとえば、秘密保護法にしても、集団的自衛権にしても、多くの国民が「よくわからない」と言っているのだから内閣としては可能な限り説明の機会を作るべきだろう。また理研は、笹井、若山、丹羽、小保方さんの役割や、現実の研究状態など、普通の人にわかりやすく、包み隠さず(理研は特に隠す必要がない)、説明をすることを望んでいる。


理解できないことが山積みになるのは、選挙で代議士を選出するという議会制民主主義というものと反するけれど、それを補充する役割を持っている新聞やテレビはどうしているのだろうか?


(平成26年6月9日・・・日付は最初に執筆した日を示しています。掲載日は自動的に記録されるのと、その間での調査、修正がわかるからでもあります。)

武田邦彦

(出典:武田邦彦先生のブログ





2014年7月10日木曜日

【STAP騒動の解説 260706】   科学の楽しみ(2)   「結果」と「原因」


科学の楽しみ(2)
 「結果」と「原因」



STAP事件をキッカケにして「科学とは何か?」、そして「科学の楽しみとは」ということに少し触れてみたくなった。第一回は「未知の世界」というのがどういうものか、なぜ科学の論文で「再現性」を求めないのかについて書いた。


第二回目は、学生が良く陥る「原因と結果」である。たとえば、学生に「人間の筋肉の量は何によって決まるかを調べてくれ」と言うと、学生は身の回りのネットなどで手軽に調べられる資料で調べてグラフにしても持ってくる。そのグラフが次のような関係だったとする。


学生が提出したグラフには横軸が年齢、縦軸が筋肉量で、20歳から筋肉は徐々に減少している図が書かれていた。そして学生は「先生、筋肉は年齢によって減少します」と説明する。


そうすると私が「そうかな。このグラフだけではそんなことは判らないと思うけれど」と言うと、学生は血相を変えて「先生!ハッキリと年齢が原因で筋肉量が減ることが判るじゃないですか!実際に僕の身の回りを見ても・・・」と必死になる。


このグラフは「現在の日本人の年齢と筋肉の関係を調べたら年齢とともに筋肉が減ることが判った」というだけで、「年齢によって筋肉が減少する」ということを示しているものではないが、この差は学生には判らない。


学生は単にネットで手に入りやすいデータを調べて、グラフにしてきただけで、しかも「年齢とともに筋肉が減少する」というのは「自分のこれまでの先入観」や「日常的な感覚」にあうから、これで先生がOKしてくれると思ったのだろう。


学生の人ばかりではなく、一般の人も何かのグラフと先入観が一致すると、それを信じる傾向がある。しかし科学者は慎重なので、この段階ではまだペンディングだ。そして、学生には「年齢によらずに同じ負荷を筋肉に与えた実験はないだろうか?」と聞く。


このような追加の調査を言うと、サボりの学生はいやがる。彼は事実を知りたいのではなく、早く課題を終わりたいからだ。本当に事実を知りたいという学生はほとんどいないが、もしいればさらに調べてくれる。そうしてグラフを持ってくる。


「先生、やはり年齢とともに筋肉は落ちるようですね。同じ負荷をかけている場合は、少し減り方が少なくなりますが」と言う。私はそれでも納得していない。「そうだね。かなり減少率が変わったね。同じ負荷の場合、なぜ年齢が違うと筋肉の減り方が変わるのだろうか?」と学生に聞く。この場合のサボりの学生なら「先生は面倒なことを言うな」という顔をする。


私は学生を一流の科学者に育てたいから、さらにいう。「すまないけれど、スポーツ選手の筋肉の減り方を調べてみてくれないか?」


その結果がこのグラフだ。意外なことにスポーツ選手は年齢によって筋肉の減少が大きく、特に30才を超えると急激に減少する。実に奇妙だ。スポーツ選手は鍛えているのだから、筋肉は普通の人より減り方が少ないはずなのに逆に大きいし、年齢によって大きく変化している? そこで、少し専門的な論文集を学生に渡してヒントを与える.自分自身もその結果がどうなるかわからない。


学生が最後に持ってきたグラフがこれだ。かなりゴチャゴチャしてきたが、ようやく一段落する所まで来た。これが真実かどうかは不明だが、このぐらい解析すれば次の研究に役立つ。


筋肉には普通の生活に使う範囲のものと、人間の体の全体に見られることだが、能力一杯に出すときの筋肉とに分けることができる。その区別をして見ると、筋肉に同じ負荷をかけた場合、日常的な生活に使う筋肉の量は年齢によらないが、スポーツなど特別に鍛えてつけた筋肉は同一の負荷をかけても年齢とともに減少し、特に30才以後はその傾向が強いことが判った。


つまり、私たちの経験から来る常識(年齢とともに筋肉の衰えを感じる。スポーツ選手も30を超えると成績が落ちる)から、最初のグラフ(年齢とともに筋肉が落ちる)のは当然で、歳を取ると筋肉が減るのはやむを得ないように感じる。


ところがさらに調べて行くと、実は日常的な筋肉は、若い頃の方がスポーツや力仕事をするから筋肉が減らず、歳を取るとサボるから筋肉が落ちるということがわかる。さらにスポーツに使うような「普通にはない余分な筋肉」は、20台ならまだ何とかなるが、30を過ぎると低下することが判る。


できるだけ少ない労力で筋肉の衰えを理解しようとすると学生のようになる。でも科学者は効率も義務も関係ない。そして「ああ、そうか!筋肉が年齢によって衰えると思うのはこういうことか!!」ということが判る.その楽しみが科学なのだ。


自然現象というのは難しいものだ。でもそれだから面白い。でも「なんでも早くかたづけたい」と思う人は科学には向いていないし、もしかすると科学者はある程度、偏執狂であり、常識を疑わう人の方が適正があるかも知れない。職人が自分の作品に満足するまでやるように、科学者は自分の頭脳が完全に満足するまでは疑問を持ち続けるものだ。


(平成26年7月6日)

武田邦彦

(出典:武田邦彦先生のブログ






2014年7月9日水曜日

【STAP騒動の解説 260705】  科学の楽しみ(1)  「未知の世界」はどんなものか



科学の楽しみ(1)
 「未知の世界」はどんなものか



かなり高名で見識もある弁護士さんが「STAP論文は再現性があるかで決まる」と言っておられた。その論説を読んでみると、やはり弁護士さんは法律の世界だから、「人間が作った法律、人間が運営している社会、人間のすること」の範囲で、厳密に考えておられることが判った。


STAP論文の価値は「再現性」では決まらない。そのことを科学の言葉ではなく、人間が作った対象物(社会や法律、経済など)を相手にしている人にどのように説明すれば判ってもらえるか、それを考えていたところ、もしかするとこの説明で判ってもらえるのではないかと思い、書いてみた。


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ある人が「鉄道の駅」から徒歩10分か20分ぐらいの所に住んでいたが、生まれて30歳になるまで何回、駅に行っても列車はこなかった。30歳の誕生日になって列車に乗ってみようかと思い、午後の2時に駅に行ってみたら、10分ほど待ったら列車がきた(新発見)。


次の日は少し遅れて、2時12分頃に駅に着いてもやはり10分ほど待ったら、列車が来た。そんな感じで1週間を過ごし、毎日、列車に乗ることができた(本人の確信)。日曜日に皆に呼び掛けて「これから、列車で移動しよう。その方が便利だ。10分も待つと列車が来る」と言って、月曜日から列車に乗ることになった(論文を出した段階)。


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月曜日が来て、午後2時に皆で駅にいって列車を待ったが、10分待っても、1時間待っても列車は来ない。ついに日暮れになった。なにか事故でもあったのかと思い、火曜日も皆で行ったが、また列車は来ない。おかしい? 先週は毎日、10分ほど待ったら来たのに??と言いながら、その日も引き上げた。そしてそれから毎日、何時に行っても列車は来ない日が続いた(世間の批判の段階)。


その人はすっかり信用を失い、誰も相手にしなくなった。そして、もう、列車は来なくなったと思っていたら、1ヶ月ほど経ったら、列車の音がする。慌てて駅にいったら列車が発車した後だった。・・・どうなっているのだろうか??


実はこの列車は1ヶ月に第一週には1時から3時まで運行するダイヤで、しかも次の月は第二週、さらに次の週は第三週とずれていくことが判った。でも、そのことが判ったのは、駅の側に見張りを置いて1年ほど経った時だった。それから数10年間、駅に監視員を置いて、ダイヤを詳細に調べてみると、1ヶ月に1週間だけ1時から3時に列車が来るのは10年に一度になっていることも判ってきた(自然の判明)。


かくして、最初に幸運にも列車に乗った時から50年をへて、やっと「列車に乗るにはどのタイミングで言ったら乗れるか」という再現性が得られるようになった。


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つまり、再現性実験とは「運行ダイヤが判らない列車に乗る」ようなもので、最初の一週間に偶然に乗ることができたからと言って、「ダイヤの全体像」(新しく発見された自然の摂理)が判るまでは「再現性はない」のだ。それでも「あるタイミングで行けば列車に乗れる」というのは事実で、「全体像が判らない時期に再現性がないということは、そのことが事実ではない」というのとは全く違う・・・このことは私のようなベテランの自然の研究者は痛いほどわかっている事である。


しかし、法律家は判らないだろう。人間があらかじめ作った法律に基づいて、その枠から出ないのだから、論理は正確になるが、「人間が作ったものではない未知のもの」とはどういうものかについての経験が無いからである。


人間は自然のごく一部しか知らない。そのことを科学者は知っているから傲慢ではない。「再現実験をすればSTAP論文の評価ができる」というのは私にはあまりにも傲慢に見える。


科学者は新しいものを発見し、馬鹿にされ、再現性がないと言われ、不運な一生を送る。それは人間が「自分は何でも判っている」と思う傲慢な心で、私たち科学者は毎年、この事実に叩かれる。でも、日本の科学者はアメリカで全体像が判ってから、細かいところの研究をする。だから「研究は厳密に実証できる」と思っている。でも、それは全体像がすでに判っているからである。


(平成26年7月5日)

武田邦彦

(出典:武田邦彦先生のブログ





2014年7月8日火曜日

小保方研究ユニットリーダーが参加する「STAP現象の検証計画」の進め方

小保方研究ユニットリーダーが参加する「STAP現象の検証計画」の進め方について、理化学研究所から次の発表がなされています。

『平成26年4月1日に公表した「STAP現象の検証計画」に、小保方研究ユニットリーダーを参加させることを6月30日に決定し、7月2日にマスコミ向けのブリーフィングを実施しましたが、その時に使用した資料を掲載します。』

小保方研究ユニットリーダーが参加する「STAP現象の検証計画」の進め方(PDF)


早くSTAP現象の再現を実現して、真実を明らかにしてもらいたいと思いますね。

しかし、科学の最先端の研究では、簡単に再現できないこともあるので、その場合のことを心配します。最後まで闘ってもらいたいですね。必ず何処かで再現できると思います。







2014年7月2日水曜日

小保方さん理研に出勤「STAP証明の一歩 頑張る」(14/07/02)

小保方リーダーが理研に出勤 STAP検証へ「頑張ってきます」 Obokata arrives at Riken







2014年7月1日火曜日

文科省、おまえもか?! 非論理的なSTAP事件評価


文科省、おまえもか?!
 非論理的なSTAP事件評価



文科省が「STAP事件が起こったことを契機に研究不正を減らす政策」を始めることになった。その内容はネットからの指摘に注意すること、研究不正を防ぐために若手の教育などを始めることなどであるが、もっとも二つの重要なことが抜けている。
1)今回の事件が「大きな不正事件」だったのか?
2)研究不正がなぜ起こるのか?
 の2つが抜けている。学力も知力もある人たちが検討したのだから、おそらく「故意に重要な部分を除いた」と考えられる。報道もされないので、ここで考えてみたいと思う。


まず第一に、このブログでも何回も書いたが、小保方さんの論文(笹井さん、若山さんも同じ責任著者)は80枚の写真と4本のビデオと文章出できていて、そのうち写真3枚が貼り違えたというもので、理研の内規には触れたかも知れないが(科学論文としては問題なし。ネイチャーも通っている)、写真を正しいものに代えても結論が変わらないのだから、意図的な不正ではない。


「不正」と結論した理研の調査委員会の方が「不正」である。


しかし、なにか大きなものが背後にあるのだろう。理研は税金で研究している公的な機関だ。もし大きな不正があるなら、その不正を明らかにしてから、対策を練るべきだ。外人が「三大不正と言った」という言葉を引用した改革委員会の不見識もさることながら、日本の科学のトップが自分たちだけの情報で事件を左右し、かつ日本の将来を決める科学の政策を決めようとしている。


まずは、三大不正に相当する不正とはいったい何なのか、それを明らかにしなければならない。若気の至りで少しのミスをした人がいるから、日本の科学技術政策の一部を変更するというのはいかにも不明瞭である。


第二に、もともと研究は企業なら製品を、大学なら公知を目指してやるもので、その中に「国の研究費」という特殊な分野が入り込んできた。それをあたかも科学の研究の一般系として政策を決めるのは、日本の科学技術を破壊すると考えられる。


「国の税金を使い、その結果を自分の出世と研究費にする」という理研、東大、京大などの研究態度が今日の不正や「実験ノートが必要」と言うことを生んでいるのであり、多くの科学者は科学に純粋に献身している。


マスコミはこの問題を小保方さん個人や、理研内部の権力闘争としてではなく、日本の科学の正しい発展のために、見識ある報道と論評を求めたい。また学会のトップは学問の世界の指導者として立派な言動を求める。


科学は秘密や駆け引き、権力者だけの密談などを嫌うものである。


(平成26年6月29日)

武田邦彦

(出典:武田邦彦先生のブログ





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