2014年8月3日日曜日

【STAP騒動の解説 260803】 剽窃論 第一章 若干の具体的事件 (その3)



【STAP騒動の解説 260803】
剽窃論 第一章 若干の具体的事件(その3)


5.  第一章の整理この章では過去の剽窃事件を4つ取り上げて簡単なまとめを行った。学術的な書物の普通の章立て(書く順番)は、基礎から積み上げていくので、最初に具体例が出ることは少ない。しかし、「真理は現場から」という私の考えに沿って、まずは剽窃の現場の一部を整理していた。

この4例からわかることは、1)他人の著述などを利用することは多く、利用しなければ学術的な著作はできないし、進歩も遅れる、2)どのように他人の著述を利用すればよいか(何を引用すべきか、どのように引用するべきか)ははっきり決まっていない(後に著作権から見ると決まっていることを示す)、3)全体として曖昧で組織や人によって判断が違うところが多い、という特徴があることがわかる。

その典型的なものの一つにSTAP関連で、早稲田大学の委員会が報告書要旨の最後に書いた次の文章が混乱をよく示している。


ここには「転載元」を示さずに、「他人作成の文書を自己が作成した文章のように」利用するのは、「論文等」において「決して許されない」とある。

学問は厳密性を第一にするので、その学問を罰するのだから、特に厳密性が必要である。つまり審査の対象となる論文の厳密性を判定するのだから、自らが厳密でなければならないのは当然でもある。その意味で、まず「転載元」というのは、論文、報告書、社内報告、出版されていないもの、著作権のないアメリカ政府の文章などどのような範囲かが不明であること、第二に、「著作権のない文章でも引用をしなければならない」とか「報告書やネットの情報はどうするか」について、学生は事前に知らされていないという曖昧さがある。

つぎに、「他人が作成した文章を自己が作成した文章のように使う」との表現は、そのまま読むと「とんでもないこと」のように思うけれど、自分の書いた文章で、特に事実に類することは一言一句、読んだものと同じことが多い。たとえば「**というドイツの教育大臣が」という文章はだれが書いても同じ文章になってしまう。

そうすると、他人の文章を読んでから自分の頭で別の文章にしなければならないが、それが可能かどうかは書くものによる。また最近では「孫引き」(もともとの文章を複数の人が書く)が多いので、もしかすると自分の文章と同じ文章があるかもしれない。小保方さんが使ったNIHの文章はもともと自由に使えるものだが、さらにNIHの文章自体がどこかの文章をまねて作られている可能性が高い。このようなことは時々、裁判になることもあるが、「実験結果など事実を記載する場合、だれが書いても同じ文章になる」という理由で、文章が似ているからといって問題ではないという判決になる。著作権は「思想又は感情に基づく創作物」だから、事実記載のものに及ぶのかはかなりの議論が必要だ。

また、「論文等」では許されないけれども、ブログやレポート、社内報などはよいのか、それとも厳密に剽窃が禁じられるのは、「査読付き論文」に限るのかも不明である。この論文とは正式に「学術論文」と名の付くものなのか、それとも「査読付き学術論文」なのか、反対に「外部に発表する書類の記載事項」に限るのかでも大きく違う。このブログでも教育の節で論じるが、教育中に書く「卒業論文」ははたして「論文」か、さらには「学生本人の著述物」なのかもまだ合意されていない。

最後に「許されない」という表現があるが、誰が「許さない」と決めたのかという問題である。私の著書「正しいとは何か」には、正しい、つまり何が許されないかは、宗教や道徳を別にすると、倫理(相手に聞く)、法律(社会の約束)という二つしかなく、それ以上の基準を任意に決めるのは社会を混乱させるか、あるいは野蛮な社会ということになる。

ここで、「倫理」は一般的に道徳のように考えられていて、道徳は「孔子様が言った」ということが基本だが、倫理は「倫」は相手という意味であり、相手が了解するかどうかで決まる。つまり相手の理(ことわり)だから、倫理の黄金律は「相手のしたいことをしなさい」、もしくは「相手のしてほしくないことをしてはいけない」というものである。

論文引用の場合、相手は「読者」と「原著者」であるが、読者は参考にするために引用元が書いてある方が便利だということだけなので、「許されない」ということではない。また、原著者は著作権のある範囲でしか引用を求められないので、原著者も引用を求めることはない。ということは、「他人の書いたものの無断使用」は、「誰がだめというのか」という主体者がはっきりしない。おそらく、「同じ文章を使われる人」ということになるが、第一章の国立研究所長の剽窃問題の場合、引用はしていないが原著者は同意をしている。

つまり、「許されない」というのは早稲田大学の委員会が任意に決めたものだから、その場合は、「なぜ、許されないのか」を論理的に述べ、それについての一般的な合意を得る必要がある。

この第一章はイントロダクションなので、現場の状態を理解し、概要をつかむにとどまるが、それでも「剽窃」とか、「やってはいけない」ということが実にあいまいで、難しい内容を含んでいることを指摘して終わることにする。

(平成26年8月3日)

武田邦彦

(出典:武田邦彦先生のブログ






PAGE
TOP