2014年8月7日木曜日

【STAP騒動の解説 260802】剽窃論 第二章 法律と内規(著作権法と剽窃の内規)(その2)




剽窃論 第二章 法律と内規
(著作権法と剽窃の内規)(その2)


2.  理研の内規
最初に、理研が「研究不正」としている内規を参考にしたい。
「第2条 この規程において「研究者等」とは、研究所の研究活動に従事する者をいう。
 2 この規程において「研究不正」とは、研究者等が研究活動を行う場合における次の各号に掲げる行為をいう。ただし、悪意のない間違い及び意見の相違は含まないものとする。
(1)捏造  データや研究結果を作り上げ、これを記録または報告すること。
(2)改ざん 研究資料、試料、機器、過程に操作を加え、データや研究結果の変更や省略により、研究活動によって得られた結果等を真正でないものに加工すること。
 (3)盗用  他人の考え、作業内容、研究結果や文章を、適切な引用表記をせずに使用すること。」
研究不正としての「捏造(ねつぞう)」や「改竄(かいざん)」についても整理したいが論点を絞るほうが良いので、ここでは「盗用」だけを取り上げたい。
理研の規則では、「他人の考え、作業内容、研究結果や文章」を「適切な引用表記をせずに使用すること」と「盗用=剽窃」になる。今回のSTAP事件では、この条項に反するとして処分の対象になったのだが、この規則はどのように評価するべきだろうか?
まず「引用しなければならないもの」として、「他人の考え」、「作業内容」、「研究結果」、それに「文章」とある。直ちに「不適切な内規」であることがわかる。 つまり、「他人の考え」というのは、読んでそのまま理解すると、理研やこの世の中に生きていたり、すでに亡くなっている人のすべての頭の中にある「考え」ということになる。
すべての人の頭の中にあることを「引用」するという方法はどういう方法がありうるだろうか? 古今東西の歴史上の人物や現在、生きている人のすべてにアンケートをだし、「これから次のことを論文に書こうと思っているが、それに関して現在もしくは過去に貴殿の頭脳に考えとしてある場合、ご連絡ください」と聞き、その結果を網羅しなければならない。
このことからわかるが、前節に整理した著作権法が「表現されたもの」という制限を置いているのは、表現されていなければ引用する具体的な方法がないからである。おそらくこの規定は文章が不適切で、「理研の従業員が、理研内部の研究会で発言などから知った他人の考えを盗み取るようなことはいけない」というようにきわめて限定された状況を想定しているのだろう。それでも「具体的な発言」などがなく、相手の「考え」を推定するのはたとえ小さい組織の中でも困難であると思われる。
また、「作業内容」では、たとえば「酸性溶液をピペットで採取し」という作業内容を書くときに、このような手段は「常用」のものであるから、多くの人が実施している。それを引用しなければならないということになると、同じ作業をした人のことをすべて引用しなければならないのでこれも非現実的である。
したがって、この規則(第3項)を根拠に理研の論文を審査したら、すべての論文が「不正」になるのは間違いない。すべての論文が不正になる規則を使用して、ある人が任意にその既定の中の一部だけを、特定の相手に対して適応するというのは、明らかに法律的な考えにも、公序良俗にも反する。「自分の嫌いな人を有罪にできる」という規則になるので、この条文自体が「盗用」の範囲を決めていないと言える。
ところで、研究不正に関する盗用について公表しているのは、文化庁と文科省などの政府機関であり、「理研の内規はそれらの規則に準じている」と言われる。しかし、すでに日本政府(監督官庁の文化庁)などの方針ははっきりしており、芸術、音楽などを含む知的財産の盗用については著作権法に従うとしている。
これについて政府の研究不正の概念を書いている平田容章さんの「研究活動にかかわる不正行為」によると、「著作権法の保護の対象は「思想又は感情を創作的に表現したもの」(著作権法2条)であるため、他の研究者等の研究成果やアイデアに基づく記述が論文にあったとしても、他者の著作物と同一又は実質的に同一の表現である、又は翻案であると認められない限り、著作権及び著作者人格権の侵害にはならない。」とし採用しており、したがって「研究不正」は法的な決まりではないと結論している。
その結果、研究機関ごと(文科省、東大、京大、理研など)に独自に「研究不正」を決めていて、その内容はほとんど理研と同じである。そこで「無期限に他人の頭に浮かんだアイディアを論文や著作に書いたら研究不正になる」という実施不可能なことが現在の「研究不正の判断の基礎」になっている。このようなことが起こったのは、学会がもともと「アウトロー」の体質を持っていることによると考えられる。
ここでいう「アウトロー」とは次の特徴を持つ。
1.法律より自分たちの内部の掟を優先する、
2.掟はあいまいで、どんなときにも適応できるので、嫌いな奴を処分することができる、
3.権力の方(罰する方)に入っていれば罰せられることはない。
実際にも、2014年のSTAP事件の時には、著者が複数いて誰が執筆し、だれが最終修正をしたかを明らかにせず、小保方さんだけを調査した。後に査読後の最終修正を若山さんが他の共著者の了解を得ずにしたことが明らかになった。また調査委員長が同じ種類の「不正」をしたが、委員長は辞任だけで済んでいる。
この種の専門学会では年配の男性か、もしくは女性の研究者が「**は最低の倫理である」というような抽象的な理由で自らの考えを主張することが多い。そしてそれは、「社会の中での著作物」ということではなく、「仲間うちの掟」の色彩が強く、それがこのような非論理的な結果を生んでいると思われる.
理研は上記の「研究不正の3つの内規」のほかに、研究不正への加担ということで、研究不正を見逃すこと、研究不正に加担することを挙げている。2014年のSTAP事件では、同じ立場の著者のうち、「バッシングしやすい女性だから」ということだけで、若山、丹羽、(故)笹井氏は小保方さんより年齢、地位、経験などから論文の責任はより重いとするのが常識的だろう。
その意味で、もし論文の責任を追及するなら小保方さんではなく、第一に若山、(故)笹井さん、第二に丹羽、第三に小保方であることは明らかだが、現実は小保方さんだけが調査委員会にかけられ、不正とされた。実に不当であり、まさに「貶めたい人を任意に貶められる」という規則であることが示された。
次に、不正を見逃し、不正に加担したという意味では、大々的な記者会見を行った理研、担当理事、理事長も合わせてほぼ同じ罪だ。このようにゆがんだ規則は不合理な処分を産む原因になると考えられる。

(平成26年8月2日)

武田邦彦

(出典:武田邦彦先生のブログ



2014年8月6日水曜日

【STAP騒動の解説 260806】 剽窃論 第二章 法律と内規(著作権法と剽窃の内規) (その1の2)



【STAP騒動の解説 260806】
剽窃論 第二章 法律と内規
(著作権法と剽窃の内規) (その1の2)



2-2  著作権の例外とその意味


著作権の使用については若干の例外があり、上記の「政府などの公的機関の著作物」や、下記の「学校における使用」、「非営利での利用」がある。


(教育上の利用など(条文の一部の例外規定は法律を参照のこと)
「第三十五条  学校その他の教育機関において教育を担任する者及び授業を受ける者は、その授業の過程における使用に供することを目的とする場合には、公表された著作物を複製することができる。(後略)」


「第三十八条  公表された著作物は、営利を目的とせず、かつ、聴衆又は観衆から料金を受けない場合には、公に上演し、演奏し、上映し、又は口述することができる。(後略)」


「同条4  公表された著作物は営利を目的とせず、かつ、その複製物の貸与を受ける者から料金を受けない場合には、その複製物の貸与により公衆に提供することができる。」


この三つの条文は当たり前のように思われるが、著作権というものを理解するうえで重要である。つまり、著作権は個人の権利のほうが「人間本来の権利」として与えられているのではなく、もともとは「知的財産」として人類共通のものなので、教育や非営利などの場合、その権利をもとめることはできないという意味がある。


第三十八条は「上演、演奏、上映、口述」などが対象ではあるが、同条4も加えると、「営利を目的としない場合、たとえ著作物であっても自由な利用が許される」とできる。厳密な法解釈ではなく、法の趣旨という意味では、著作権は認めるけれど、非営利の場合には、著作権を主張できないので、法律に基づいて教育研究上の内規などを決めるときには、著作権法そのものよりやや緩やかにするのが妥当であることがわかる。


たとえば論文は、提出するときに著者の方から経費を払い、副生物も著者は販売しないから、著者が著作権を持つわけではない。商業的な雑誌に論文を掲載する場合は、著作権を著者から出版社などに移転することがあるが、もともと著作権のない論文の場合、商業的に取り扱うから著作権を生じるかという問題がある。


またたとえば博士論文のようなものは教育が主眼であり、もちろん非営利の研究目的であり、さらには有償で配布することはほとんどない。したがって、たとえその論文が「思想又は感情に基づいた創作物」であっても、教育研究関係で使用する限りは、少なくともその内部において自由に使用できると解釈するべきだろう。


また、早稲田大学の委員会が博士論文の中での剽窃を、著作権法に準じて「許されない」としているのは、博士論文が営利に属すると解釈しているのか、もしくは学者や弁護士にありがちではあるが、「人類の共通財産」より、個人の権利の制限が主眼となり、「自主規制のやりすぎ」や「過度の潔癖症」が判断の理由になっている可能性もあり、その論拠を明らかにしていかなければならないだろう。


この剽窃論で示すように、他人の書いたものをどのように利用するかという問題は、知の所有権、個人の名誉、閉鎖的だったころの特権階級としての学会の伝統、論文の厳密性を保つうえで必要な掟などが混在していると考えられる。


最後に、著作権は人間本来の権利ではないので「期限付き」であることを示す。
 「第五十一条 の2  著作権は、著作者の死後五十年を経過するまでの間、存続する。」


となっている。もともと25年だった保護期間が50年に伸びたのは、アメリカの商業団体の要請であり、日本でも「著作権は長く保護されなければならない」という考え方が正しいのかどうか、さらに論じる必要がある。


「正しいとは何か」という私の問いからいえば、論文を書くにあたって守るべきこと、社会が論文の著者に求めることは著作権法の範囲にとどめたほうがトラブルが少ないと私は考えている。


もし著作権法で保護されること以外の要求をするのであれば(つまり、著作権がないものも使っていけないとか引用しなければならないというような内規=現在の理研や多くの大学の内規=を決める場合は、「人類共通の財産」を少なくし「個人の権利」を多くするのが適切かという理論的な研究が必要で、それには「研究費をどこから出すか」の問題も含まれている。

(平成26年8月6日)

武田邦彦

(出典:武田邦彦先生のブログ




2014年8月5日火曜日

【STAP騒動の解説 260802】 剽窃論 第二章 法律と内規(著作権法と剽窃の内規) (その1)



【STAP騒動の解説 260802】
剽窃論 第二章 法律と内規
(著作権法と剽窃の内規)(その1)


第二章では、第一章で具体的な事例を考えた後、それでは著作権法や理研の内規などがどのように決まっているかについての基礎的な知見を得ることにする。

6.著作権法
日本の著作物は著作権法で守られる。著作物はそれを利用するときには引用が必要である。それでは著作権法では現実にどのように定義され、運用されているのだろうか?
まず、「著作物」の定義は第二条でなされている。
 「第二条 の一  著作物 思想又は感情を創作的に表現したものであつて、文芸、学術、美術又は音楽の範囲に属するものをいう。    二  著作者 著作物を創作する者をいう。」
一般的には「著作物」とは「著作されたものすべて」と錯覚されているが、厳密に剽窃などを論じるときには、著作物は上記の定義に入るものだけである。つまり、「著作物」と呼べるのは、「思想又は感情を創作的に表現は感情」に基づくものでなければならないので、「事実の記載」や「事実の描写」したものは著作物ではない。
このように著作物を狭く定義していること、つまり「人類が作り出した知の財産」のうちの一部しか認めていないのは、次章に整理するが「人間の知の財産は広く社会で活用すべきである」という考え方からきている。つまり「個人の所有権」が万能の時代なので、錯覚している人がいるが、昔から人類には「個人の所有権」より崇高だと考えられているものがあり、それが「共有財産」であり、著作物は一般的には人類共通の財産としている。
第二に「創作的」ということで、創作とは、1)今までになかったこと、2)事実ではなく想像で作ること、の2つがある。ここで一般的には物理や生物など自然を対象とする学問の著述物(自然科学のもの)はすべて除かれる。というのは、自然科学は「自然を明らかにいること」だから、自然科学が明らかにするものは、すべて「太古の昔から自然の中にあるものがほとんど」だからである。
工学的なものは新幹線、航空機など「太古の昔にはなかった」というものが多いので、創作的ともいえるが、このような工業製品は著作権ではなく、工業所有権で守られるのが普通である。その場合は「記載事項」ではなく、「特許請求の範囲」で厳密に権利の及ぶ範囲が決められる。
また科学は「創作」で何かを作ると、対象が自然現象だから「捏造」になることが多く、やはり著作権にはなじまない。そこで、愛知大学の時実象一教授が「図書館情報学」(2009)で書かれているように、「学術論文に掲載されている事実やデータには著作性が無いと考えてよい」ということになるし、さらに実験結果などは、「実験結果の記述は誰が書いても同じような記述になると考えられる」という判例(大阪高裁2005年4月28日)のような判断になるのである。
さらに著作権法は、「表現したもの」という限定を置いている。著作物とは書籍、論文のように言語で書かれたものや音楽などのように表現されたものだけに限られ、「私の頭の中にあるもの」のような表現されていないものは対象とならない。人間の創造物はもともと頭の中に浮かぶものだから、着想の権利は表現される前に存在するが、そうなると、「すでに考えがあった」と言えば権利は無限大になるので、表現したものに限定されている。
次に「引用」であるが、それは著作権法の第三十二条から始まる。
 「第三十二条  公表された著作物は、引用して利用することができる。(後略)」
条文自体は自明なので繰り返して説明する必要はないが、特に注意を要するのは「引用しなければならないのは、著作物(著作権があるもの)」であり、著作権のないものは引用をする必要はない。
私は会社の研究者から大学へ移るときに、著作権法と判例を勉強した。それまでは会社の知的財産部がチェックしてくれるので問題はなかったが、大学に入ったら、おそらく著作権でなにか問題があるかもしれないと考えたからだった。だから法律を勉強して、自然科学の論文は基本的には著作権はないと認識し、さらに、引用するのは自分の論文が厳密になり、読者が原典を調べることができるからと考えて極力、引用はしたが、まさか引用しなければ盗用とは思っていなかった。
小保方さんも記者会見で言っていたが、法律に書いてなく、大学の規則が明示されていなければ、研究室の徒弟制度の中で暗黙の掟を学んでいくしかない。その中には、早稲田大学で言われていたと思われる「コピペはOK」などのものも混在しているので、なにが正しいかは不明瞭である。時には「私の恩師がそういっていた」という類もあるが、学問的厳密さからいえば、「恩師は正しい」とは限らないと考えなければならない。
もともと「あるグループ内の掟」というのはアウトローの考え方で、法律のように社会全体で守らなければならないものを軽視し、仲間内の掟を最重要に考えるという傾向があり、学問のように自由でオープンな社会にはそぐわないと考えられる。
著作権に関する子供への教育では「書いた人の気持ちを尊重しよう」というのが多いが、それとともに「知の財産は人類共通です」という説明もいる。また新聞社などは法令を拡大解釈して「すべての記事は著作権がある」としているが、これも公共性を持つ新聞社としては「知る権利」とのバランスをとる必要があろう。
とかく著作権というものは「権利を持つ側」の論理が優先しがちだが、著作物を読む方も「共通の知を持つ権利」があり、そちらの方が強いことを主張し続ける必要がある。

(平成26年8月2日)

武田邦彦

(出典:武田邦彦先生のブログ




2014年8月3日日曜日

【STAP騒動の解説 260803】 剽窃論 第一章 若干の具体的事件 (その3)



【STAP騒動の解説 260803】
剽窃論 第一章 若干の具体的事件(その3)


5.  第一章の整理この章では過去の剽窃事件を4つ取り上げて簡単なまとめを行った。学術的な書物の普通の章立て(書く順番)は、基礎から積み上げていくので、最初に具体例が出ることは少ない。しかし、「真理は現場から」という私の考えに沿って、まずは剽窃の現場の一部を整理していた。

この4例からわかることは、1)他人の著述などを利用することは多く、利用しなければ学術的な著作はできないし、進歩も遅れる、2)どのように他人の著述を利用すればよいか(何を引用すべきか、どのように引用するべきか)ははっきり決まっていない(後に著作権から見ると決まっていることを示す)、3)全体として曖昧で組織や人によって判断が違うところが多い、という特徴があることがわかる。

その典型的なものの一つにSTAP関連で、早稲田大学の委員会が報告書要旨の最後に書いた次の文章が混乱をよく示している。


ここには「転載元」を示さずに、「他人作成の文書を自己が作成した文章のように」利用するのは、「論文等」において「決して許されない」とある。

学問は厳密性を第一にするので、その学問を罰するのだから、特に厳密性が必要である。つまり審査の対象となる論文の厳密性を判定するのだから、自らが厳密でなければならないのは当然でもある。その意味で、まず「転載元」というのは、論文、報告書、社内報告、出版されていないもの、著作権のないアメリカ政府の文章などどのような範囲かが不明であること、第二に、「著作権のない文章でも引用をしなければならない」とか「報告書やネットの情報はどうするか」について、学生は事前に知らされていないという曖昧さがある。

つぎに、「他人が作成した文章を自己が作成した文章のように使う」との表現は、そのまま読むと「とんでもないこと」のように思うけれど、自分の書いた文章で、特に事実に類することは一言一句、読んだものと同じことが多い。たとえば「**というドイツの教育大臣が」という文章はだれが書いても同じ文章になってしまう。

そうすると、他人の文章を読んでから自分の頭で別の文章にしなければならないが、それが可能かどうかは書くものによる。また最近では「孫引き」(もともとの文章を複数の人が書く)が多いので、もしかすると自分の文章と同じ文章があるかもしれない。小保方さんが使ったNIHの文章はもともと自由に使えるものだが、さらにNIHの文章自体がどこかの文章をまねて作られている可能性が高い。このようなことは時々、裁判になることもあるが、「実験結果など事実を記載する場合、だれが書いても同じ文章になる」という理由で、文章が似ているからといって問題ではないという判決になる。著作権は「思想又は感情に基づく創作物」だから、事実記載のものに及ぶのかはかなりの議論が必要だ。

また、「論文等」では許されないけれども、ブログやレポート、社内報などはよいのか、それとも厳密に剽窃が禁じられるのは、「査読付き論文」に限るのかも不明である。この論文とは正式に「学術論文」と名の付くものなのか、それとも「査読付き学術論文」なのか、反対に「外部に発表する書類の記載事項」に限るのかでも大きく違う。このブログでも教育の節で論じるが、教育中に書く「卒業論文」ははたして「論文」か、さらには「学生本人の著述物」なのかもまだ合意されていない。

最後に「許されない」という表現があるが、誰が「許さない」と決めたのかという問題である。私の著書「正しいとは何か」には、正しい、つまり何が許されないかは、宗教や道徳を別にすると、倫理(相手に聞く)、法律(社会の約束)という二つしかなく、それ以上の基準を任意に決めるのは社会を混乱させるか、あるいは野蛮な社会ということになる。

ここで、「倫理」は一般的に道徳のように考えられていて、道徳は「孔子様が言った」ということが基本だが、倫理は「倫」は相手という意味であり、相手が了解するかどうかで決まる。つまり相手の理(ことわり)だから、倫理の黄金律は「相手のしたいことをしなさい」、もしくは「相手のしてほしくないことをしてはいけない」というものである。

論文引用の場合、相手は「読者」と「原著者」であるが、読者は参考にするために引用元が書いてある方が便利だということだけなので、「許されない」ということではない。また、原著者は著作権のある範囲でしか引用を求められないので、原著者も引用を求めることはない。ということは、「他人の書いたものの無断使用」は、「誰がだめというのか」という主体者がはっきりしない。おそらく、「同じ文章を使われる人」ということになるが、第一章の国立研究所長の剽窃問題の場合、引用はしていないが原著者は同意をしている。

つまり、「許されない」というのは早稲田大学の委員会が任意に決めたものだから、その場合は、「なぜ、許されないのか」を論理的に述べ、それについての一般的な合意を得る必要がある。

この第一章はイントロダクションなので、現場の状態を理解し、概要をつかむにとどまるが、それでも「剽窃」とか、「やってはいけない」ということが実にあいまいで、難しい内容を含んでいることを指摘して終わることにする。

(平成26年8月3日)

武田邦彦

(出典:武田邦彦先生のブログ





2014年8月2日土曜日

【STAP騒動の解説 260731】 剽窃論 第一章 若干の具体的事件 (その2)



【STAP騒動の解説 260731】
剽窃論 第一章 若干の具体的事件(その2)


 3.京極国立研究所長事件

2010年、朝日新聞が「国立研究所長の盗用」として約23年前に京極所長が書いた論文の一部に「他人の論文の盗用」、「使い回し」があったと報じた。日本の福祉関係研究の主要な学者であったこともあり、報じたのが朝日新聞ということで、多くのメディアが追従した。

この事件は彼が厚生省社会局専門官であった時代に、複数の専門家に社会福祉の国際比較を依頼、その報告書から抜き出したものだった。彼は国が調査を依頼して、その結果提出された報告書は「論文」とは違い、それを自由に利用してよいと認識し、研究者にもその旨を口頭で了解を取って利用したので、引用しなかった。

事件は単純で、名誉棄損の裁判になり、朝日新聞側が謝罪する内容で和解しているが、本人は大学の学長でもあり、名誉は著しく低下し、その残念な気持ちを次のように述べている。

「最後に、私は、厳格なキリスト者である恩師・隅谷三喜男の弟子である私の研究者人生において、他人の論文はもちろん、アイディアですら無断引用したことはなく、むしろ、先行者の文献をできる限り引用注などで表記するよう最大限の配慮を行ってきたことは自負しているところであり、また、見識ある研究者の間では、他の福祉系研究者と比べて、かかる配慮が私の論文の大きな特徴であることは周知されているものと認識しております。

これは、私の著作集を垣間見ていただくだけでも明らかです。それだけに、本件記事が大きく報道されたことによって、私がどれほどに悔しい思いをしたか、私の社会的な評価がどれだけ低下したかは、図り知れないところであります。」(京極さんのホームページより)

この事件はいわゆる「盗用」という場合に、それが「論文」のように公的にある要件(査読や出版など)を満たしている文章だけなのか、それともある組織の部内に提出されたものも含むのかという曖昧なところから起きたものである。

そしてSTAP事件でも見られたように、「論文」、「盗用」、「使い回し」などの扇情的な用語が事実とは違う形で新聞紙上の載り、事実をよく見ないメディが追従するということが行われた。

(注) 私が書いたこの文章はかなり私自身の文章の部分が多いが、京極さんのコメントは「無断引用」(京極さんにここに引用することを断っていない)である。

これは私が長い執筆生活で、最初の頃はこのような場合、いちいち、ご本人やご遺族のアドレスや住所を調べ、ご本人の了解を取ろうとしていたが、ほぼ99%はご返事がなかったり、住所がわからなかったり、亡くなっている場合にはご遺族がわからなかったりする場合がほとんどだった。そこで10年ほど前から「無断引用」させていただき、何かのご連絡があれば、そこで承諾を得たり、承諾が得られなければ削除しようとしている。

私は10年で膨大な書籍やブログなどを出しているが、まだご連絡を受けたことがない。私の感じでは、よほど誹謗中傷にわたらなければ、日本の文化の場合、意図的であると相手が思わない範囲では、むしろ問い合わせても「何を問い合わせてきているか理解できない。良いに決まっているじゃないか」ということが多いようである

4. STAP細胞事件

2014年におこったSTAP細胞事件には、二つの剽窃疑惑があった。一つは著者の一人である小保方春子さんの早稲田大学時代の博士論文の剽窃、またネイチャーに掲載された論文の一部の文章が他の論文の記載と類似しているという指摘である。

早稲田大学の方は正式な委員会も開かれたが、「不正であるが、審査に問題があった」ということで博士号の取り消しはされなかった。またネットでは、早稲田大学の博士論文では剽窃は日常的であるとして、小保方さんが所属していた常田研究室のほか、西出、武岡、逢坂、平田、黒田の6研究室で、24名の学生が特定されていて、さらに増えるとされている。

つまり早稲田大学では論文の記述に他人の論文を使用することが行われていて、特に審査はなされていなかったと考えられる。この件について審査に当たった教授などの発言がないので、まだ不明な部分が多い。

博士号の主査は基本的には“D○合”と言われる特別な資格を持つ教授又は准教授しかできないので、かなり学問的にはレベルが高い。それに普通は5人の合議で行われ、一人は学外者が入る。また論文審査、口頭試問、公聴会(学外の誰でも参加できる)を経て、最終的には教授会が認定する(学長は授与だけ)。

このようなことから現在進行形ではあるが、早稲田大学は「他人の論文の使用」を「不正ではない」と考えていたと考えられる。なお、小保方さんが盗用したとされるNIH(アメリカ国立衛生研究所)の文章は著作権がない。これはアメリカ著作権法105条で、連邦政府の著作したものには著作権がないとされているからである。ふつうに考えれば、著作権のないものは「自由に使用してよい」ということなので、早稲田大学で使用したと思う。

ただ早稲田大学の委員会は、「アメリカの著作権法では著作物ではないが、日本の著作権法では政府の著作には著作権があるので、それはアメリカにも及ぶ」という奇妙な論理が説明されている。

(注) ここでは、直接的に私が文章を写したり、ほぼそのままの内容になっているところはないが、早稲田大学の博士論文に剽窃があるという情報については、「弁護士ドットコム」というサイトの孫引きである。著作権法的には問題はないと思うが(後に著作権法については整理する)、このブログのようなものが「剽窃をしてはいけない論文」であるかどうかは不明である。

つまり、京極さんの場合も「報告書と論文」の違いがあり、この場合は、「ブログ記事と論文」の差である。私も論文を書くときには(あまり本意ではないが)引用をするが、一般書籍やブログのような場合は引用しない。「引用する」と言っても、「引用の作法」があり、著者、雑誌名、巻号、ページ、発行年などを記載する必要がある。

また近年、すこし変わってきたが学会の多くはネットからの情報を引用として認めないことがある。これはネットの情報の信頼性が低いことと、ネットは不意に情報を見ることができなくなるという特徴があるからだ。しかし、すでにネットで提供される情報は多く、それを引用できないというのはかなり問題も含んでいる。


(平成26年7月31日)

武田邦彦

(出典:武田邦彦先生のブログ



2014年7月31日木曜日

【STAP騒動の解説 260731】 剽窃論 第一章 若干の具体的事件 (その1)



【STAP騒動の解説 260731】
剽窃論 第一章 若干の具体的事件(その1)



(このシリーズはブログをはじめて、「論文をネットに掲載する」というものの初めての試みです。通常、私が各論文よりはやわらかいのですが、ブログの文章から見ると専門的です。でも、音声ではできるだけ一般的な説明をしたいと思っています。この論文が「論文として引用対象になるか」という試みでもあります。もしお暇があれば少し聞いていただき、内容、難しさなどご感想をおよせください。


用語:剽窃=盗用=コピペ)


1.シャバン教育大臣事件
シャバンさん(女性で名前で呼べばアネッテさん)がドイツ連邦の教育大臣だったとき、すでに32年ほど前にチェッセルドルフ大学に出した博士論文に多数の剽窃があるとの投書があり、2012年、大学は直ちに調査を開始したが、剽窃は重大な個所ではないとした。この時、大学があまり大きな問題にしたくなかったのか、それとも本当に微細なことだったのかは不明である。
ところが、告発側はかなり執念深かったようで、自ら調べて剽窃が50か所、92ページに及ぶことを指摘した。なにしろ現役の教育大臣だったこともあって、「人格と良心」というタイトルのついた博士論文を再度、調査し、剽窃が故意になされたとした。論文のタイトルが「人格と良心」であり、問題になったのはその論文の剽窃(研究不正)であることからも、人々の興味を引いたことも理解できる。
さらに、一般人ならこれで終わったと思われているが、現職の教育大臣で大学の名誉教授でもあったことから、野党から追及され、窮地に陥った彼女は辞表をメルケル首相に提出、メルケル氏は涙ながらに辞任を認めた。政治の世界に博士論文の剽窃が問題になったこともあって、その後、今度は逆に野党の筆頭議員シュタインマイヤ氏が法学の博士論文に剽窃の疑義が問題になっている。
(注) この記事はどこかの報告書または論文を見て、私が理解したところをまとめて書いているが、事実をそのまま書いてある報告書なので、原報告書とこの私が書いた文章とは酷似している可能性がある。しかし、事実を記載している文章を見て、それをたとえ「自分の文章」として書き換えたとしてもその主要部分は同じになる。
もし、私がこの元の文章を探して、そのままコピーしてもあまり変わらないだろう。このように、原文のままコピーしたのと、それを見て自分が書き直したものと、ほとんど同じの場合、それが剽窃(盗用)に当たるかは、この剽窃論の中で明らかにしていきたいと思う。

2.ユホン・ソウル大学教授事件
ユホン教授は認知症の研究で有名でソウル大学医学部に所属している。彼がファーマコロジカルレビューという科学誌に2002年9月掲載された論文には600の引用文献が示されていたが、論文の2ページ第3節の文章で本来引用すべきだった論文を落としていた。
これを気が付いたのは大学院生だと言われているが、ユホン教授は学術誌側の自主的に申し出ていたが、学術誌側は「掲載されたときに抜けていた」ということで剽窃(盗用)と判断した。
600の引用文献を引いて論文を書く際に、1つでも落としたら不正論文となったことについて、ユホン教授が韓国のソウル大学であることから、アメリカ薬理学会が特別に厳しく判定したのではないかとも言われている。どのぐらいのミスまでが許されるのか、判定の基準は定かではない。
2014年のSTAP論文事件と似たところがあるが、STAP論文の場合には80枚の図表で3枚の写真が問題になった。著者はケアレスミスを主張し、判定は不正となった。基準があいまいで、人間が間違えをすることがあり、かつ査読委員がこのような間違いに対して責任を持たないということで、今のところ、剽窃の判断や基準に未熟なところがあることを示している。
なお、ユホン教授の論文は、アルツハイマーに与えるあるたんぱく質の機能を世界で初めて明らかにしたものとして高く評価されている。内容が立派な論文で、600の引用文献のうち、1つを落としたら不正論文になって取り下げになることとのバランスも問題になるだろう。
また一般的に言って、かなり高度で複雑な論文の場合、関連研究が増えてくるので引用数も多くなる。引用も直接的な論文引用と、「孫引き」と言ってある論文が引用しているので、オリジナリティをどちらに求めたらよいかがわからないようなケースもある。
(注)この事件の場合も、私はあるニュースを見て書いたので、原文と文章が似通ったところがある。しかし、そこを無理に変えると事実に違うことになるので、「剽窃」の危険はあるが、事実を重視した。オリジナルを引用しないのは、オリジナルがはっきりしないこともあるが、もともとこのような場合に剽窃に当たるかについてもこの論の中で整理を進めたいと思っている。

(平成26年7月31日)

武田邦彦

(出典:武田邦彦先生のブログ







2014年7月28日月曜日

NHKスペシャル「調査報告 STAP細胞 不正の深層」で驚いたこと

昨日、2014年7月27日(日) 午後9時00分~9時49分のNHKスペシャル「調査報告 STAP細胞 不正の深層」をテレビで見ました。

放送内容全般については、特に目新しいものは無かったのですが、一つだけ驚いたことがあります。

それは、小保方さんと笹井氏との電子メールの内容が一部紹介されたことです。

メール内容は、ごく一般的なものでしたが、電子メールの内容をテレビで公開することが許されるのでしょうか?

NHKは「通信の秘密」を侵しているのではないでしょうか?


主な関係法令


■日本国憲法
第二十一条
 集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する。
 2 検閲は、これをしてはならない。通信の秘密は、これを侵してはならない。

■犯罪捜査のための通信傍受に関する法律
通信の秘密を侵す行為の処罰等)
第三十条
 捜査又は調査の権限を有する公務員が、その捜査又は調査の職務に関し、電気通信事業法(昭和五十九年法律第八十六号)第百七十九条第一項又は有線電気通信法(昭和二十八年法律第九十六号)第十四条第一項の罪を犯したときは、三年以下の懲役又は百万円以下の罰金に処する。

■電気通信事業法
(検閲の禁止)
第三条
 電気通信事業者の取扱中に係る通信は、検閲してはならない。

(秘密の保護)
第四条
 電気通信事業者の取扱中に係る通信の秘密は、侵してはならない。
2 電気通信事業に従事する者は、在職中電気通信事業者の取扱中に係る通信に関して知り得た他人の秘密を守らなければならない。その職を退いた後においても、同様とする。

第六章 罰則
第百七十九条
 電気通信事業者の取扱中に係る通信(第百六十四条第二項に規定する通信を含む。)の秘密を侵した者は、二年以下の懲役又は百万円以下の罰金に処する。
2 電気通信事業に従事する者が前項の行為をしたときは、三年以下の懲役又は二百万円以下の罰金に処する。
3 前二項の未遂罪は、罰する。


通信の秘密とは
通信の秘密(つうしんのひみつ)とは、個人間の通信(信書・電話・電子メールなど)の内容及びこれに関連した一切の事項に関して、公権力がこれを把握すること、および知り得たことを第三者に漏らすなどを禁止することであり、「通信の自由(つうしんのじゆう)の保障」と表裏一体の関係にあるといえる。また、不特定多数への表現・情報の伝達にあたる検閲の禁止と対として考えられる場合も多い。(出典:wikipedia



◆追記2014/08/03
NHKスペシャルの「通信の秘密」に関して問題提起をしているブログとして、「一研究者・教育者の意見」がありました。このブログでは、その他にも非常に鋭い分析と考察が行われています。

例えば、以下のような考察記事があります。

笹井先生と小保方さんのメールを公開するのは通信の秘密に違反するし、さらに男女の声で語らせるというやり方も嫌らしい。柳田充弘先生はこの点以外にも、「実験ノートの開示」の問題も指摘されており、結論として「人権的にも倫理的にもまったく問題ないのだろうか」とツイートされていた。私もまったく同意見だ。これは「放送倫理・番組向上機構」に通報した方がよいほど悪質な話ではないだろうか。

また、理研上席研究員の石井俊輔先生と、山梨大学の若山照彦教授についても、次のような記事があります。(抜粋)

つまり、石井先生は、本来委員会が調査すべき内容を「調査の対象外」とし、そしておそらく政治的な圧力に流されて、調査を短期間で終了させたという、不正を調査する委員長としてあるまじき行為を行った人間なのだ。これが危機において「いい人」が行う行動の一つの例だ。
若山教授は真面目で誠実であるが故に追いつめられ、結果的に小保方さんを疑わせる行動を取ってしまったのだ。
若山教授に同情すべき点は多いが、さりとて若山教授が、結果的には「僕の研究室から提供するマウスでは絶対にできない」と嘘を言ったことは否定できない事実でもある。

そして、結論として、
STAP騒動以来、研究の不正を取り扱う研究公正局の設置がしばしば言及されるが、そのような組織は研究の不正に対処するだけでなく、当事者や調査委員の「いい人」が大きな過ちを犯すことを防ぐためにも必要であろう。

その他、日本学術会議幹事会の声明と日本分子生物学会の声明の違いや、早稲田大学の論文調査委員会についての考察もあります。

私は、小保方さんの学位についての考察には共感できませんが、それ以外の考察には共感しました。


◆追記2014/08/03
哲学者=山崎行太郎のブログ『毒蛇山荘日記』では、NHKスペシャル「STAP細胞不正の深層」報道にこそ「捏造疑惑」あり!!!  と批判されていますね。


◆追記2014/08/15
Business Journal 大宅健一郎
NHK、STAP問題検証番組で小保方氏捏造説を“捏造”か 崩れた論拠で構成、法令違反も

Openブログ 南堂久史(ホームページ
◆ NHK の違法行為(STAP)


◆追記2014/08/16
小保方さんへの魔女狩り行為




◆追記2014/08/17
2014年08月10日 大槻義彦の叫び
STAP細胞、笹井博士を抹殺してしまったのは誰








2014年7月27日日曜日

【STAP騒動の解説 260327】  教育者がどんな時でも死守しなければならないこと・・STAPと教育



【STAP騒動の解説 260327】 教育者がどんな時でも死守しなければならないこと・・STAPと教育



教育者たるもの、どんな時でも命を懸けて守らなければならないもの、それは「教え子の名誉」だ。教育の責任はすべて教師にある。教えを受けた子供にはない。


STAP論文の関連で、早稲田大学がかつて認めた博士論文の審査を改めて外部に頼むとの報道があった。なんということか!!


・・・・・・・・・


中学校の時、定期試験で国語の答案を書いて先生に提出し、90点をもらって卒業したとする。その答案が保存され、公開され、ある時に、その答案の内容が「ある有名な文学者の作品の盗用」であったことが分かった。本人はすでに30歳で社会で活躍していたが、学校に呼び出されて卒業が取り消されたことを告げられる。


卒業生:「えっ! 卒業取り消し?! だって、先生が・・・それに僕は盗用したのではありません。僕の頭の中に文章が入っていたので、それを書いたのだと記憶しています・・・先生はどういっておられるのですか?」


学校:「先生はすでにご退職され、記憶もない。でも、ちゃんと証拠が残っている」


・・・・・・・・・


こんな日本は嫌だ。生徒がどんな答案を書こうが、先生が90点をつければ90点なのだ。そして、もしその答案に問題があれば、責任は90点をつけた先生にあり、生徒は教育中なので、責任は問われない。



教育とは「成果を残す」ことではなく、本人の実力をあげることだ。だから、基本的には教育が終わったら、本人に関することはすべて捨てても良い。本人が記念に持っておきたいと言うなら本人に渡せばよい。


この教育の原理原則は、小学校から大学、さらに大学院博士課程まで変わらない。提出した作品はどんなものでも、所有権は教育を受ける方にはなく、教育をしたほうにある。


大学でも採点の権限はすべて先生にあり、それは普段の試験でも、論文でも同じである。学生は博士論文の成果を自分のものにしたいなら、普通の学術論文として提出する必要がある。捨てるのはもったいないので、卒論などを図書館に保管することがあるが、それは「少しでも役に立てば」ということである。


法治国家では「法や規則はすべての人に平等」でなければならない。優れた答案や論文だから本人の責任を問うたり、中学校なら良いけれど博士論文はだめという「村の掟」を作ってはいけない。


また博士論文は、本人提出→主任教授の訂正指示→副査の先生の訂正指示→審査会→公聴会→教授会 というプロセスを経る。本人は提出した後は指示に従って修正するだけだから、社会的責任と言う点では、修正を強制される学生に責任を問うことはできず、主任教授、副査、公聴会に出た社会人、教授会にあり、本人にはない。権限なきところに責任もない。


また、学問としては、本人、そして主任教授、さらに副査の先生が意見を述べる必要があり、もしその意見を聞く必要があるとしたら、大学ではなく教授会である。大学は会社でも役所でもない。「上のものが責任を取る」ということは大学ではない。むしろ教授が採点した結果を学長が変更したら、そちらが罪になる。


教授は自分の授業を受けた「学長の息子」を「学長命令」に反して落第させることができる。このような専門職の業務の場合に、学長が責任を取る必要もない。学長が責任を取るのは、教授に任命したからでもない(教授の決定は教授会)、学校の経営などに関する「学長権限内」のことしかできない。


だから、今回の報道が正しければ、早稲田大学は権限を違反し、教育の基本中の基本(学生の責任を問わない)に反している。日本人の常識、マスコミの冷静で正しい報道に期待したい。


早稲田大学は直ちにステートメントを取り消すか、あるいは新しい教育論を説明してからにするとよい。大学は教授の保護者ではない。大学は過去の学生の瑕疵を責める権限もない。教授を保護して学生を罰するなら、大学を解散しなければならない。

(平成26年3月27日)

武田邦彦

(出典:武田邦彦先生のブログ





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