2014年4月22日火曜日

STAP事件簿理研編(1) 迷惑の原因は誰が作ったのか?





STAP事件簿理研編(1)
 迷惑の原因は誰が作ったのか?




なにか事件が起きたとき、その人が所属する団体(会社など)は、その事件で被害を受けた人に対して「会社として謝罪する」と言うことがある。その時は「このたび・・・を起こしまして・・・」と謝ることが多い。



今回の場合では「本来はネイチャーに論文を出しただけなので、格別、社会にご迷惑をおかけしたのではないのですが、理研が派手に記者発表をしたために、皆様に過大のご期待を・・・」というようなことになるだろう。



ネイチャーに論文がでることはあるので、それを派手に宣伝しなければ学術論文の一つとして扱われるので、格別「ご迷惑」をおかけすることはない。でも今度の場合、「理研」という組織が大々的に発表したので、テレビも新聞も「理研だから大きなことなのだろう」と思い、その発見に理研自体が疑問を持っているなど思いもしない。



だから、マスコミもマスコミだが、もし社会が迷惑を蒙ったとしたらそれは「理研だから信頼性がある」と思わせた理研の方であることは間違いない。



ところが、こともあろうに小保方さんの論文の「書き方」を理研自体が咎める記者会見をして、「悪意があるかもしれないので、調査委員会を作る」と言った。調査委員会を作るならまずは「派手な記者会見を提案した人、承認した人」を調査しなければならない。



次に、理研はほぼ同じ内容に特許を出している。特許というのは研究者が出すものではなく、組織が出すものだから、論文がおかしければ特許をまずは取り下げなければならないし、そんな特許を認めた人が理研の中にいる(この種の特許には一千万円を超える経費がいる)ので、税金を無駄使いした責任は重大だ。



つまり、理研は理事長まででて、何をわびたのか、論文がおかしければ特許はどうしたのかを最初に説明する必要があった。これだけでも理研にはなにか犯罪のにおいがする。



(平成26年4月22日)
武田邦彦
(出典:武田邦彦先生のブログ





2014年4月19日土曜日

STAP事件簿後日譚 論文の不備を誰がわかったのか?





STAP事件簿後日譚
 論文の不備を誰がわかったのか?




正確な日時は次第に明らかになっていくと思うけれど、STAP論文が掲載されたのが1月29日。ネットで最初の「欠点の指摘」があったのが、確か2月4日で6日しかたっていない。これが2月14日でも16日だから、「出てすぐ」には変わりはない。



世界中で毎日、多くの論文がでるが、主要なものだけで100ケ以上はある。その中で、このネイチャーの論文に注目し、掲載された日に論文を読み、80ケもある画像をすべてチェックし、ビデオを検査し、文章にコピペがないかを見て、論文引用(40ケほど)、図表の説明、その他の記述を全部読み、理解するだけでも2,3日はかかる。



そのうえ、小保方さんの博士論文はPDFで入手できると聞いたことがあるが、そうなると博士論文にでている図とネイチャーの80枚のうちの2枚が類似しているということは「図のデジタル情報」からはわからず、目で見ないと類似しているかどうか不明である。



さらにPDFから電子化したファイルを作り、そこに書かれた文章が世界のどこかにある文章と類似していることを知るためには、電子化の作業がかなり大変である。



もともと、STAP論文は、2012年に若山先生の指導の下で小保方さんが書いてネイチャーに投稿し、拒絶(リジェクト)されている。そこからのものだから、小保方さん、若山先生、笹井さんという一流の当該研究の研究者が2年ほど見ていて、さらにこれも世界一流の査読委員(複数)でやるネイチャーで10か月ほどの査読を経ている。



つまり世界でもっとも「間違いに気が付きそうな4,5人」が10か月から2年、綿密に見て、修正している時に気が付かなかった欠点をわずか、6日から16日程度の間にわかることは不可能である。



「査読」というのはその分野で最も学力、経験のある学者が複数で綿密に見て、おかしいところを指摘して修正する。私も経験があるが、私が見る分野は世界の学者の名前、その人の文章の特徴、これまでのデータなど全部、頭に入っているから、ちょっとでも類似のものがあったり、画像がおかしかったりしたらすぐわかる。



図表がどのような形で提供されたかは不明だが、私が論文を投稿するときには手持ちの図表、画像のもっとも鮮明なものを提供する。またもし不鮮明の場合、「鮮明なものを出すように」と求められる。



中心的な専門家4,5名が1年ほど綿密に見てわからないものを、関係外の人が1,2週間でわかるはずもない。



つまり、1月29日にSTAP論文が掲載されることをあらかじめわかっていて、またこの論文の不備や小保方さんの研究の欠点もわかっていて、あらかじめ指摘する準備を整えていたとしか考えられない。



そうすると、指摘したほうが何らかの犯罪を犯している可能性が高く、犯罪を犯して指摘したことを無批判にマスコミが拡大したということになると、またまた取材の信頼性を調査せずに国民をだますことになった佐村河内氏の事件と類似になる。



もし身内に「論文を作成している時には間違いを指摘せず、博士論文までよく知っていて、本人が不十分なところを突く」という人がいたら、これはなかなか防ぐことはできないし、データの入手などで不正が行われたことは十分に考えられる。



「不正を指摘する」というと、指摘する方は善人で、指摘される方は悪人と言う先入観があるが、逆の場合も大いにありうる。まして、理研の調査委員会が肝心な点2か所(1か所は実験ノートがあるのに、2冊しかないと言ったこと。もう一つは「差し替える写真が提出されている」のに、それを言わなかった)の明らかなウソを言っている点が気になる。



つまり、もともと理研は小保方さんを守る立場にあるのに、逆にウソをついても小保方さんの「不正」を指摘した。指摘した2か所はどう考えても「意図的」ではないが、それを「悪意」と言った。



また、笹井さんは「STAP現象は確かだが、仮説の段階」と言い、京都大学の先生はそれを受けて「仮説は論文にならない」と言った。普通の論文は仮説が書いてあるのだから、このチームプレーと思われる非学問的な言動も実に不思議である。



疑念は小保方さんではなく、理研の委員会、ネットで指摘した人、それに損害をうけていないのにでたらめを言ってまで徹底的に批判している京都大学の先生などにある。



また早稲田大学の博士論文を審査し、合格させた先生方がまったく登場しないのも理解できない。



せっかくの素晴らしい論文をここまで貶めるのは、単に「善意」とは思えない節が多すぎる。この際、STAP事件を報道し、小保方さんを非難したマスコミは自らのプライドをかけて、「ソース」と「組織」を徹底的に取材してもらいたいものである。



この内容はシアターテレビジョンのご厚意で、無料でユーチューブで見ることもできます。



(平成26年4月19日)
武田邦彦
(出典:武田邦彦先生のブログ






2014年4月18日金曜日

【続・小保方さんは悪くない!】 武田邦彦がSTAP細胞問題を徹底解説!

武田先生の解説は、いつも非常に理解しやすく的確ですね。

その1 (4月18日収録)

その2 (4月18日収録)


その3 (4月18日収録)


その4 (4月18日収録)


【STAP騒動の解説 260418】 知の鍛錬(2) 学問とコピペの2:文章は「カス」か「知」か?





知の鍛錬(2) 学問とコピペの2:
文章は「カス」か「知」か?



さて、アインシュタインが私たちに示した知は、1)概念、2)理論式(実験の場合もある)、3)説明、である。学問や人類にとって最も大切なのは「相対性原理と言う概念」であり、さらに「具体的な計算ができる式」である。たとえばエネルギーは次式で示すことができるが、これがあるから太陽光発電のもとになる太陽のエネルギーや熱も計算ができる。


しかし、アインシュタインの「説明」は何らかの意味があるのだろうか? もし、私たちの学力がアインシュタインをはるかに超えていれば、アインシュタインは前回のこのブログに示した式を5,6ケ示して、だから相対的なのだと書けばよいだろう。


でも、私たちは頭が悪い。だから、アインシュタインは「この論文を読む程度の人なら、このぐらいから説明しておく必要があるだろう」と推定して、(本当は不必要だが)解説する。それが論文の「文章」のところだ。


ここは「知の実体」が理論式や観測データ、計算値にある自然科学と、文章に意味のある法律や文学などとの違いと思われる。だから、相対性原理の論文の説明は、アインシュタインが書いても、アインシュタインの知人が彼から話を聞いて書いても、同じ文章になる。だから、文章は「必須のもの」ではないことがわかる。


つまり、科学論文の文章は知的内容の無い単なる説明だから、知としては「カス」の部分である。


また、「知的なもの」で「自分の頭に入り込んだもの」は自分がどういう形でそれを利用しているのか、明示的にわかるものではない。つまり、私が今、「私」と書いたとすると、「私」という字を発明した人、「わたし」と読むと決めた人、自我についての哲学の認識などが前提であって、それも「借用している」ことには相違ない。


つまり、「物品」なら、人の自動車を運転して初めて「人のものを使う」ことになるが、「知恵」は頭脳の中に溶け込んでいるので、区分けすることが難しいという現実問題があり、文章は「理論式やデータを人の文章のかけらを組み合わせて説明に使ったもの」であり、そんな価値のないものを制限するということは人間社会の発達を阻害することにもなる。


問題は、コピペが妥当かどうか、なにをコピペと言うかについて、学会はほとんど何も議論もせず、根拠のある規則(世界平和、人類の発展などとの関係でどのように制限する必要があるかなどとの関係で)が無い状態だということだ。


よく「学問は厳密でなければいけない」という大学者が「なぜ、コピペしていけないのですか?」と聞くと、「いけないものはいけないのだ!とんでもない!」と叫ぶことがある。


小保方さんが会見で言っていたように、「一つの研究室にいなかったので、しきたりを学ぶ機会がなかった」ということ、つまり、研究のやり方にしても、結果のまとめや発表にしても、「職人が親方から学ぶ」というのは現在では前近代的として退けられている。


また、「アメリカではこうだ」と言っても、日本人はすべてのことにアメリカで決まっていることを守らなければならないという声明もない。ただ、村の掟で「コピペはいけない」と決まっている。それは私も知っているが、私は「コピペしたほうが人類の知の成果を利用できるし、権利にしたければ合意に基づく権利(著作権、特許権)が良い」という考えである。


科学論文の他人の文章を使うことが「やってはいけないこと」という理由のある論理と書いてあるものはどこにあるのだろうか? 理由もなく、教会の権威を守るために、女性を魔女として縛り首にしたヨーロッパ中世を思い出す。


(平成26年4月18日)
武田邦彦

(出典:武田邦彦先生のブログ







2014年4月17日木曜日

【STAP騒動の解説 260417】 知の鍛錬(1) 学問とコピペの1:アインシュタイン



知の鍛錬(1) 学問とコピペの1:
アインシュタイン



普段の生活では私たちはややアバウトで、アバウトでなければ毎日を過ごしていく事ができません。でも、学問とか科学の世界はアバウトではダメで、しっかりした論理で進まなければならない。


でも、最近、日常生活もアバウトになると、専門家やマスコミに騙されることが多くなってきた。なにしろ、事実を知らないことを良いことに「ここまではだましてもわからない」という専門家が増え、それは耳触りが良いのでマスコミが使うという悪循環が続いている。


そこで、ここではSTAP事件で問題になったコピペのことを「厳密な論理」で考えてみたいと思う。
・・・・・・・・・


「知の果実」とはどういうものだろうか? 「物」なら「見ればわかる」から簡単で、たとえば、この自動車は誰のものですか?というようなことで、混乱しない。ところが「知の産物」は違う。


知の産物、たとえば論文が示していることは3つある。
1) 新しい知の領域(たとえばアインシュタインの「相対性原理」)
2) 新しい知の領域に達した証拠(アインシュタインが示した理論式、実験データ)
3) 知の領域と証拠の説明(論文や本の文章)


このうち、人類に新しい知恵を与えてくれた概念(相対性原理)は、論文に書かれていることもあれば、書いてないこともある。というのは、一般的に研究者は謙虚であることと、将来のことはわからないという思いが強いので、2)で式の展開を行い、「このような結論を得た。これは・・・である可能性がある」程度に留める。


次に、アインシュタインの相対性原理を導くために考えた式、つまり「人類の知恵」の2)を順序良く示したい。ここに示す一つ一つの式は慣れていないとわからないので、「誰の式か」、「流れはどういうものか」だけに注目していただいて欲しい。


まず、この式が基礎になるが、これは「マックスウェル」という人が19世紀に提案したもので、電磁気学の基礎的な式である。アインシュタインはこの式を使うときにマックスウェルに断っていない。また私も使うけれど、「本人は亡くなっているし、引用もしない」で使う。それはこの式が「公知」だからだ。


次にローレンツ変換というのを使う。これも物理学では有名な手法で、比較的最近(100年ほど前)のものだが、誰も本人に断らずローレンツの論文を引用せずに式を使っている。「公知」だからだ。


もちろん、ニュートンは出てくる。次の式はニュートンの運動方程式で、膨大な物理の論文に使われるが、私はこの式を使うときにニュートンの論文(原著)を引用している例を見たことはない。無断引用するのは「公知」だからだ。


そして、ニュートン、マックスウェル、ローレンツなどの先人の式をコピペ(利用)して、アインシュタインは運動を明らかにし、そして有名な「質量とエネルギーの関係」、つまり「ニュートンの運動方程式の修正版(厳密にいうとニュートンは間違っていたという証明)」をだす。この時にも彼はフーリエ展開をするけれど、フーリエ(相対性原理の80年前に他界している)には断っていない(公知)。


このように科学研究は「先人の知恵」を利用してわずか一歩だけ自分が進むことができる。だから、もし科学的知見が「公知」でなく、「物品」のように所有者がいたら、科学の研究は不可能になる。これが「公知」の存在意義であり、とても重要なことだ。


ここでアインシュタインの例を出したのは、アインシュタインですら、その業績のほとんどは「先人の業績」であり、それが「使える状態(公知)」になっていないと、何もできなかったことが分かる。つまり「公知」があって初めて科学は成果をあげられるのだ。


ここにコピペを持ち出したのは、私は科学の進歩に大切なことだと思っていたが、日本の学者の多くが反対の意見なので、自分としても考え直すことが必要かを知の鍛錬を通じて考えてみようと思ったからだ。


(平成26年4月17日)

(注)掲載してから音声を聴いたら、「テイラー展開」のことを「フーリエ展開」と言い間違っています。また、この記事にはウィキペディアの一部をコピペしていますが、著作権法で定められた「思想又は感情に基づく創作物」ではないと考え、使用しました。

武田邦彦

(出典:武田邦彦先生のブログ






2014年4月16日水曜日

STAP事件簿18 深層(3) 科学の世界の反日日本人





STAP事件簿18 深層(3)
科学の世界の反日日本人




私は、「南京虐殺」というのはフィクション(架空の物語)で、事実は普通の戦争だったという考えだが、中国が「南京虐殺があった」と日本を批判するのは仕方がないと思う。



もともと中国は南京で30万人が虐殺したなどと言っていなかったのに、日本の中の反日日本人(この場合は朝日新聞と本多記者)がはじめて30万人と言ったり報道し、それに日本人自身が追従するのだから、仕方がない。



中国は「日本人が自ら言っている数字を使っているだけ」と言うだろう。明治の日本人は武士の時代の魂があって、礼儀正しく、謙虚だったが、事実でもないことを言って相手の歓心を呼ぼうなどと卑屈でひん曲がった心は持っていなかった。だから、こんな話は出てこない。



戦争に負けて日本社会が大きな心の傷を負ったことは確かだが、自虐史観、相手の顔色を見て何でも言う人たち、自分で判断せず人の言ったことに追従して居丈高になる・・・など悪い癖を身に着けてしまった。



2011年3月12日、午後4時半、福島原発1号機がその1時間前に爆発し、それを定点カメラでとらえた映像を流しながら、NHKのアナウンサーは、原発敷地境界で1時間1ミリシーベルトを超えたことを伝え、次のように言っている。



「東京電力から原子力安全保安院に入った報告によりますと、福島第一原子力発電所の敷地境界付近で放射線を測ったところ、爆発音があったころとされる午後3時29分には1時間に1015マイクロシーベルトでした。この値は一般の公衆が1年間に浴びる放射線の限度量をわずか1時間で受ける量にあたり・・・」



爆発直後、NHKは一般公衆が1年間に浴びる放射線の限度量が1ミリシーベルトであることを知っていた。しかし、その後、政府や福島県などが「規定はない」とか「100ミリまで大丈夫」というと、「1年1ミリの基準」をまったく伝えなくなった。



私自身は学者だからバッシングは別に気にしていないが、ある大手週刊誌が「1年1ミリシーベルト男:武田邦彦」という大きな記事をだし、そこに出てきた関係者は口をそろえて「そんな基準はない」と合唱した。



これも法治国家なのに、「原発事故のためなどに決めておいた1年1ミリシーベルトの限度量」を、事故が起こったらコロッと変えた反日日本人の仕業だった。つまり、日本人が法令で定められた量を被曝して健康に障害がでても「反日」だから何の心の痛みも、日本国に対するプライドもなかったのだ。



今回の事件の火種がどこから出たのかはまだ不明だが、日本人が日本人の優れた論文や若手研究者をわざわざ根掘り葉掘り調べて貶めることはあり得ないので、火種はアメリカか、もしくはまたまた反日日本人が登場したのだろう。



南京虐殺(歴史的になかったことだが)も、本当にあったのなら日本も反省しなければならないので、大いに言ってもらっても良いが、起こってもいないことを、日本をダメにするのに役立つからとでっち上げるのだから相当なものだ。



STAP論文も、小さなミス(南京事件で言えば、普通の戦争で犠牲になる民間人ぐらいの被害)を拡大に拡大して、STAP論文を取り下げろと叫ぶ。論文が取り下げられ、特許が出せなくなり、若手研究員が海外に行ってしまったら、「何も問題がないのに反日の事件をねつ造して、日本にダメージを与える」ということになる。



繰り返すが、本当に論文が問題なら仕方がないが、論文はその価値から言って(価値100とすると)、ミスは1か2ぐらいしかない。第一、ネイチャーの査読委員が価値ある論文だと認めたものをなんでわざわざ日本人が否定しなければならないのか? 



戦争をして、敵国は原爆を落とし、婦女子だけを狙った爆撃をして30万人も殺した(広島長崎はもとより、東京大空襲は第一波で婦女子が怖がるように爆弾を投下し、逃げる方向を予想して第二波は人間だけを殺すことができる焼夷弾を使った。後に日本国からこの司令官に勲章を出した)のに、日本軍が一人の民間人も犠牲にしたらバッシングしているようなものだ。



アメリカはご主人だが、日本は召使いだから、どんなことがあってもアメリカは正義、日本はバッシングという文化がまだマスコミや専門家に残っていることを思うと、慄然とする。



戦争はいけないことであるし、残虐だが、アメリカ軍と日本軍の残虐さは原爆や東京大空襲のように比較にもならない。それでもアメリカの行為を全く批判せず、友軍だけに矛先を向ける朝日新聞。



アメリカ人一人当たりの電気の消費量は、日本人の2倍なのに、日本人の子供に節電を呼びかけて「暑い、暑い」と言わせている朝日新聞。



そして今回、アメリカ人の論文のミスは咎めずに(たとえば温暖化のホッケースティック論文(ウソの論文でアメリカ人が書き、大いに日本の新聞が報道したもの。2009年のクライメートゲート事件でインチキがばれたが、報道せず。そのほか温暖化関係では多くのインチキ論文があったし、影響も大きかったが、アメリカ人だから報道しないという取扱いをした)、邦人のミスだけを根掘り葉掘り追及する朝日新聞。



ああ、いやだ。日本の良さを強弁する必要はないが、誠実、礼儀を守る日本社会に戻りたいものだ。



(平成26年4月13日)
武田邦彦

(出典:武田邦彦先生のブログ









STAP事件簿17 STAP細胞が無くても論文は立派





STAP事件簿17 STAP細胞が無くても論文は立派



自然科学の論文は、時に新しいことを示したものに「価値のあるもの」、「立派なもの」、「成立するもの」がある。用語はなかなか適したものがないので、最初に「定義」を示しておきたい。



「価値がある」というのは、論文としても立派であり、最終的に学問や人間社会に有用だったもの。
「立派なもの」とは、論文としては新しい見方を示しているが、最終的には学問の進歩に大きな貢献はできなかったというもの。
「成立する」というのは、論文としての要件が整えられていて、査読委員が査読(審査)したときには「価値がある可能性がある」と認められたもの、である。



結論を言えば、STAP論文は、今のところ、「価値があり、立派で、成立する」と考えられる。でも、日本社会はいま、「価値がなければ成立しない」と言っている(STAP細胞があったら論文としてOK)ようだ。



私は現在、「価値があるかどうかは少し長い目でみなければならないが、立派な論文であるのは間違いない。もちろん、査読を通っているのだから成立する」と考えているが、世論は「価値がある」と「成立する」を混同しているようだ。



ひとつ例を取ろう。
天動説(天体は地球の周りをまわっている)という考えだったころ、一人の学者が小さくできたばかりに望遠鏡で星を観察したら、奇妙な動きをする星が数ケあった。その動きを数式にして検討したところ、「私たちの地球はある星のグループに属していて、その中心は木星だ」という論文を出したとする。



それからしばらくして、その論文を見た若い学者が、計算間違いがあるのではないかと思って、もう一度、計算してみたら、式の立て方に一部問題があり、どうも「太陽が中心ではないか」との見解を発表した。



それから300年たって、人類は人工衛星を打ち上げ、太陽系の外から写真を撮ってみると、太陽の周りに地球も木星もまわっていることが確実に分かった・・・学問はこのように進む。



この時、最初に「間違った論文」を書いた人が学者として偉いのか、それとも計算式の間違いを発見した人が偉いのかはむつかしい。もともと星を観察して、天動説に疑問を持ち、不完全だがそれを指摘した人がいないと、正しい計算ができる人は望遠鏡を持っていないこともある。



自然は人間より大きくてすぐれている。だから、自然を研究するときには最初から「自然は人間の知恵より大きく複雑だ」と言うことが前提だ。だから自然科学者は謙虚である。



STAP論文では、「外部からの刺激で細胞が初期化されることがある」と言う指摘だけで十分で、その作り方などは全く必要がない。そんなことを求めたら、人工衛星が打ちあがるまで、地動説を出すことができないということになる。



もしSTAP細胞があるなら、論文は極めて高い価値を持ち、もしSTAP細胞がないか、何の役にも立たず、学問的な意味もなければ、立派な論文と言うことになる。いずれも論文を取り下げるとかそういう問題ではないし、研究者の資質などはすでに立派であることは証明されている。



(平成26年4月16日)
武田邦彦

(出典:武田邦彦先生のブログ







STAP事件簿16 (2-0=2、10-2=-4) の日本社会





STAP事件簿16 
(2-0=2、10-2=-4) の日本社会


(今朝は少し、うなされました)


人間には良いところと悪いところがある。人のやることには成功もあるし失敗もある。毎日の生活でもうまくいくときと、何をやってもダメな時がある。



特に人が成長していくときには、「芋蔓式」がすべてだ。つまり子供や若い人にはまだ欠点が多い。でも年配者よりこれから伸びるところもある。だから、欠点を強調せず長所を伸ばすことが大切だ。



三種類の考え方がある。一つは(2-0=2)型で欠点もないが長所も大したことがないという場合。これも大切だがすべてではない。もう一つは(10-2=8)型で欠点が2あっても、長所が10あれば、差引8もあるじゃないかという見方だ。



それより積極的な考えが、(4-2=4)で、長所4、欠点2の場合、長所だけ見て総合4点とする。武田式見方だ。ところが反対に、(4-2=-6)というのもある。これが「最近のマスコミにみられるバッシング主義」で、せっかく長所が4、欠点が2なのに、欠点だけを拡大してマイナス6とするというとんでもない考え方だ。


やめよう!


評価する社会と人のタイプの整理
K:欠点がなければそれでよい(進歩はないが穏やか)
S;そのままの状態を評価(素直な社会)
M:良いところがあればよい(積極的な社会)
B:悪いところがあればよいところは帳消し(現代日本)



(平成26年4月16日)
武田邦彦

(出典:武田邦彦先生のブログ










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