Wed, 04 Nov 2015
小保方晴子氏のコメントに対する本学の見解について
早稲田大学の決定に対する小保方晴子氏のコメントについて
早稲田大学は、2015年11月2日、小保方晴子氏の博士学位の取消しに関する記者会見を行いました。この直前に、小保方氏は、代理人を通じて、本学の処分に対するコメントを発しておりますが、そこには事実と異なるいくつかの点と誤解と思われる指摘がありますので、以下に主要な4点について本学としての見解をお示しいたします。
第一に、小保方氏は、前回の学位は正式な審査過程を経たうえで授与されたものであるにもかかわらず、今回の論文訂正において訂正論文が博士に値しないとされたことは、前回の授与時の判断と大きくかい離する結論であると主張されています。
しかし、小保方氏が審査対象となったものとは異なる論文を提出したことを受けて、本学は昨年10月6日の決定をもって、再度の論文指導などを行ったうえで、本来提出されるべきであった論文になるよう訂正を求めた次第です。したがって、2011年に実施された学位審査の基準と今回の決定に至る論文訂正の水準は、本質において何ら変わることなく、ただ「博士学位にふさわしい」論理的説明が科学的根拠に基づいて行われているかという点に尽きます。残念ながら、今回の論文指導は、小保方氏の事情によって十分な時間を取ることができず、指示された訂正作業を完了できないままに猶予期間が満了するに至ったということであり、本学として審査の基準を変えたわけではありません。むしろ、博士学位にふさわしい論文としての水準を低く設定するようなことがあれば、学位授与機関としての本学の博士論文審査の信頼性が問われることになると同時に、小保方氏ご本人の研究に対する信頼性も揺らぐことが危惧されるのであり、それはご本人にとっても不本意であろうと思われます。
第二に、担当教員によって「今回は合格する可能性はとても低い」、「博士として認めることのできないのは一連の業界の反応を見ても自明なのではないか」とのコメントがあり、学術的な理由とはかけ離れ、社会風潮を重視して結論を導いたと主張されています。
しかし、これらのコメントは前後の文脈を無視した引用であり、前者は、指導教員が、最初の面談で、「提出すれば必ず合格するというわけではないので、合格できるよう修正していきましょう」と言ったことを指していると推定されます。後者は、「不明瞭な疑惑がひとつでもある場合、またそれを解消する姿勢が著者に見られない場合、信頼できる博士および論文として認めるのは難しいことは、昨年の一連の業界の反応を見ても自明なのではないか。」という改訂稿に対する指摘の一部だと思われます。これはまさしく博士学位論文においては科学的根拠や論理的記述が十分に行われることが必要であることを指摘したもので、予断をもって指導に臨んだことを意味しません。
第三に、入院中、加療中での修正作業となり、思考力・集中力などが低下しており博士論文に能力を発揮できる健康状態ではないとの診断書を大学に提出していたが、心身への状況配慮などは一切なされなかったと主張されています。
確かに、小保方氏から診断書は2回提出されていますが、2回目は本学の側から提出を依頼したものです。本学は、むしろ論文指導が小保方氏の健康状態に大きな影響を与え、取り返しのつかない状況に至ることを慮り、それゆえに医師の診断結果を考慮しながら対応することを常に心がけてまいりました。医師より医学的観点から論文指導の停止を求められ、それに従うこともやむを得ないと考えながら、その範囲内でご本人の論文訂正をされたいという意思を実現すべく努力をしてきたところです。通常は、指導教員の側が学生を訪ねて指導を行うことはありませんが、小保方氏の健康状態に対する特別な配慮をもって、これを実施いたしました。
第四に、修正論文提出後、一回のやり取りだけで不合格の判定をされ、それに対する意見も聞く耳を全く持たない状況であり、当初から不合格を前提とした手続きであったと主張されています。
しかし、会見でも明らかにしたように、指導教員等は3回にわたり小保方氏のもとを訪れて直接の指導をし、また、20通を超えるメールのやり取りや電話によって、論文の訂正に係る指導が行われており、事実、小保方氏からは最初の草稿以降に3回改訂稿が提出されております。
本学としては、小保方氏と争うことは全く考えていません。小保方氏の指摘のように「社会風潮を重視した結論」を出すのであれば、1年前に博士学位の取消しを即時に実施したでしょう。しかし、本学は「教育の場として学生の指導と責任を放棄しない」という信念から、「一定の猶予期間(概ね1年間)を設けて再度の博士論文指導、研究倫理の再教育を行い、論文訂正させ」ると決定をし、本年に至る論文指導を行ってきたところです。小保方氏もご自身のすぐれない健康状態のなかで最大限の努力をされ、また本学の指導教授も例外的な配慮を払いながら指導を行ってまいりました。しかし、残念ながら、両者の努力が十分な結果を得るに至らないまま猶予期間が満了してしまいました。それは、教育の場としての本学にとっても辛い結果ではありますが、これは学問の府として揺るぎない基準をもって博士学位にふさわしい論文を評価するとの姿勢の帰結でもあります。
早稲田大学は、学位授与機関としての信頼を回復すべく、また同時に教育機関としての責任を全うできるよう、今後も努力してまいります。
(出典:
早稲田大学インフォメーション )
以上の見解を読むと、早稲田大学の責任逃れのように思えますね。
つまり、早稲田大学では、博士論文指導を途中で放棄したということですか? それも学生の責任にして。
これだけ社会的問題になった博士論文であるならば、何故、何年かかろうとも最後まで指導しないのでしょうか?
早稲田大学は、自らの責任を放棄していますね。責任逃れですね。
早稲田大学には、本当にガッカリしました。
下記の動画は、昨年の3月のものですが、この考え方に共感しますね。
学生が書いたものが不完全の時、それは学生の「責任」か?
教授が学生に与えたテーマで、学生が教授の指導のもとに研究をして、その成果がノーベル賞や学会賞のレベルに達した時、賞を受賞するのは学生でしょうか、先生でしょうか?
この問題は非常に難しい問題で、まだはっきりした答えはでていませんが、これまでの慣習では、テーマと研究方法を指示した教授が「頭脳」であることから、賞をもらうのは先生ということになっています。このようになるために学会では「学生賞」のようなものを作って、学生にも賞を与えることがあります。
「学生がやったのだから、学生が賞を取るべきだ」という意見も強いのですが、学問というのは「作業」ではなく、「頭脳活動」なので、学生とか先生という立場を考えずに、発明発見についての「頭脳の寄与度」を比較すると、どうしても先生の方が寄与が大きいということになってしまうからです。
また、大学でも学部時代の場合の学生実験や講義のレポートというのは、研究論文とは全く違います。研究というのは「研究をする時には正解が分からない」というものですから、そこに頭脳活動が入りますが、学生実験や講義のレポートは「最初から正解が分かっていて、正解なら100点、白紙なら0点で、その間は理解度や努力による」という教育です。
教育と研究は全く違います。教育は「わかっていることを教える」ことと、「本人の能力を高めること」に目的がありますから、全員が同じレポートを提出して模範解答と同じで、全員が100点を取るのが理想的教育と言うことになります。
これに対して研究はテーマを決める先生が「どうなるかわからない」ということですから、本質的に違います。この中で日本では理工系の大学4年生が行う「卒論」というのは人生初めて「研究」の真似事をして、将来に備えるというもので、中間的です。
理工系大学の4年生が卒論をするのは日本が独特で、欧米では珍しいというか20%程度と思います。卒論が学生から提出されると、教師は地獄の苦しみを味わいます。なにしろ文章はまずい、図表はダメ、文献引用などはさらにひどく、考察を書けない学生が多いということになります。
それは大いに結構で、だからこそ先生が丁寧に指導し、一応の研究論文の体裁を整え、発表練習を繰り返し、夜中までつきあい、やっと卒業にこぎつけます。
最終的に提出された学生の論文は図書館に入りますから、立派な学術論文なのですが、その成立過程から言いますと、学生の作品というより先生の作ったものに近いのですが、教育ですからそれでよいのです。
教育を受けているときには、美術大学でも理工系の大学でも、このようなプロセスは同じですから、美術大学でも提出された作品の所有権は先生になります。
また、レポートのコピペが良いかどうかは、その時の教育の目的によります。自分で書くことが「教育上大切」な時には教師はコピペを認めませんが、素早く世界の情報を集めてまとめることが目的の時にはコピペを推奨します。その時に資料の利用先が引用を表示することを求めている場合は引用することを指示し、自由な使用を認めているときには引用は特に求めません。それもルールを教えるための教育的な決まりになります。
結論として、学生が書いたものに問題があっても、それは学生の責任ではないことは明確です。
いずれにしても、教育では三つの原理原則があります。
1.あくまでも本人の成長が第一で、研究成果などは第二、
2.不出来だからと言って本人を罰さない、
3.学問としての科学は、お金、地位、名誉などと無関係で、世間的な所有権なども関係なく、その成果はすべて人類共通の財産である。
(平成26年3月16日)
武田邦彦
(出典:
武田邦彦先生のブログ)