2014年5月11日日曜日

【STAP騒動の解説 260317】 コピペは良いことか悪いことか?(1) 基礎知識





コピペは良いことか悪いことか?(1)
 基礎知識




ネット社会になり、どこかにあるものをコピペ(コピーアンドペーストの略。あるページをコピーして、それをパソコンで貼り付けること)する文化が一般的になっている。これは良いことだろうか、悪いことだろうか?



今度の細胞論文や博士論文で、コピペがあったというのでマスコミは無条件に「悪いこと」という前提で報道し、理研や学者もそれに追従している。でも本当なのか? 単なる「空気」とか「村の掟」ではないだろうか? 日本は法治国家、近代国家なので、故なきバッシングは望ましくない。



原則: 学問で得られた結果は人類共通の財産だから、だれがどういう形で利用しても構わない。つまり「コピペは自由」で、良いことである。なぜ「良いか」というと、人類共通の財産を積極的に使うことを推奨しているからこそ、人類共通なのだから。



例外: 学問で得られた結果のうち人類共通の財産にしない場合として知的所有権が定められていて、1)著作権(創造物に適応)、2)特許権、3)意匠権、商標権など、がある。
もともと人間が生み出した知的なものは「人類共通の財産」として誰でも使えたのだが、18世紀になってイギリスで著作権が生まれ、続いて特許権も登場した。特許権は、「本来は発明はみんなで利用しても良いのだが、そうすると発明の意欲がなくなるので、「審査をして期限を区切って」権利を与える」という概念で、これは今でも変わっていない。



まずは、「知的財産」について法律(知的財産基本法、平成14年)を見てみよう。
「第2条 この法律で「知的財産」とは、発明、考案、植物の新品種、意匠、著作物その他の人間の創造的活動により生み出されるもの(発見又は解明がされた自然の法則又は現象であって、産業上の利用可能性があるものを含む)、商標、商号その他事業活動に用いられる商品又は役務を表示するもの及び営業秘密その他の事業活動に有用な技術上又は営業上の情報をいう。」(条文はネットからコピペした)



つまり、1)創造的活動、2)自然の法則又は現象であって、産業上の利用可能性があるもの、であることがわかる。自然科学(理学や工学)には創造的活動はない(注1)ので、2)だけになる。そしてそれは何かを書いてネットに出したり、学会の論文として提出しただけではダメだ。



なにしろ「権利」だから、1)権利を主張するのか、2)権利の範囲を示す、必要があり、特許庁に自分の権利を主張する。その時に「権利の範囲」と「産業上の利用可能性」をはっきり書かなければならない。



この問題はさらに議論するが、とりあえず、学会に提出した学術論文には著作権はなく(創造物ではないから(注1))、権利の範囲が明確ではないから特許権もないということだ。だから、コピペは自由と言うことになる。



 (注1)
  • 自然現象の「発見」はもともと自然にあったものだから、もちろん創造性はない。自然現象を利用した「発明」も、現在は「発明は発見である」とされていて、もともと自然にあるものを組み合わせて人間に有用なものにしたのだから、創造性はないと解釈されている。
  • したがって、専門の書籍にも、裁判でも「理系の学術論文には著作権は及ばない」とされている。




(平成26年3月17日)


武田邦彦


(出典:武田邦彦先生のブログ








2014年5月10日土曜日

【STAP騒動の解説 260510】 違和感のある理研の指導者・・・若い研究員を見るのは科学者の本能





違和感のある理研の指導者
・・・若い研究員を見るのは科学者の本能


STAP事件に関する著作権や公知などの論理的なことは、このブログでも書きましたが、私はそれを超えても理研の今回の騒動にはどうしても理解できないことがあります。それは私の経験からくる「指導者の気持ち」です。


今回の論文がやや不出来だった(論文自体は立派だが、一部にミスがある)のは確かです。でも、それが気になるのが年をとった研究者です。私もそうですが、50歳も超えるぐらいの研究者の多くが、心のなかでいつも「若い人を見てやらなければ」という気持ちがあります。


それは義務とかそういうものではなく、ちょうどお母さんが我が子ではない子供がいると気が気ではないという状態と同じです。若いからなにかヘマをするのではないか、という気持ちがあり、ちょっと見て上げたいと常に思っているのです。


たとえば、論文ばかりではなく、小さな学会で発表するときにも「ちょっと練習してみる」とか声をかけるのが普通です。みんなが「学問」に対して興味を持ち、健全な人間関係があれば、自然に「自分の部下だから」と言うことではなく、自由な雰囲気の下でお互いに助け合うからです。


今回の調査委員会の発表では、あまりにも不透明なところが多く見られました。2012年4月に小保方さんと若山さんがネイチャーに投稿して拒絶され、それではということでほぼ同じ内容の論文を同年7月にサイエンスにだし、その査読(審査)過程で写真の切り貼りを指摘された。


当然ではあるが、複数の著者が共同して論文を出すときには、連絡係(この場合は小保方さん)が受け取ったジャーナルからの査読結果は、「必ず」共著者に送る。もし送られてこなければどのように修正しているのか不明ないので、「私は共著者を辞退する」というのが正しい。それも言えないというのだったら、指導者としての職を辞してもらいたい。


調査委員会は「サイエンスの査読段階で注意を受けているので、小保方さんの悪意は証明されている」と言ったが、それなら「笹井さん、若山さんの悪意も証明された」ということであり、もし査読を見ないで共著者に収まっていたなら「詐欺」であり、理研に「論文サギ・・偽った著者」に対する規則がないことを明らかにしなければならない。


また、2つの論文が拒絶されたので、ベテランの笹井さんが論文の再提出に協力したので、笹井さんは当然でもあるが、提出されて拒絶された2つの論文とその査読結果を見たのは間違いない。これは「小保方さんが知っていたはずだ」というより明確だ。


というのは若い研究員は査読結果の意味を正確に把握することはむつかしい。でも笹井さんなら正確に「写真が不適切」という査読委員の意味は理解したに違いない。また、写真の加工は「研究に携わっていない査読委員が短い時間のチェックでわかった」ものだから、当然、「類似研究をしている同一組織の研究に携わり、不完全な論文を良い論文にするという任務を持った笹井さんが約1年間で気が付かないはずはない」ということ、小保方さんはリーダーだから一緒に研究していた人もいるし、一週間に一回ぐらいは研究会もあったのだから、多くの目に触れているはずだ。まさか「まったく実験していない」と言うことはないだろう。


だから、もし今回の論文に不正や悪意があったなら、それは小保方さん、笹井さん、若山さんはもちろん、理研そのものもわかっていて、それが常態であったと考えられる。


また実験ノートが不信を増大させる材料に使われているが、実験をしたかどうかは「小保方さんの部下」に聞けば一度にわかる。つまり、STAP細胞の実験をしたかどうかをなぜ小保方さんの実験ノートだけしか証拠がないのだろうか? 「ユニットリーダー」と言うぐらいだから、部下はいただろうし(一説では10名ぐらい)、まさか素人ではないだろうから、部下の経歴と関与を公表すべきである。


いったい、理研と言うのは大学でもなく、企業でもなく、組織でもない(小保方さんが理研の批判をする記者会見を退職させずにやらせた)、実に奇妙なところだ。納税者としてはこんなところに税金を出すわけにはいかない。


(平成26年5月10日)
 武田邦彦
(出典:武田邦彦先生のブログ





【STAP騒動の解説 260502】 ショート論評 ブログのバッシングに罰金180万円




ショート論評 
ブログのバッシングに罰金180万円



慶応大学で卒業生が先生を恨んでブログで、あることないことを書いてバッシングした。先生はブロバイダーを訴えて人物を特定し、本人の訴訟でバッシングが有罪となった。


「権利」は「義務」が伴い、「節度」が求められるのは当然で、ネット社会ができてから、「匿名」が流行し、それが無視されるようになった。日本流に言えば匿名というのは誠意がなく、自分を守ろうとしているのだから、日本人にあるまじき卑怯な振る舞いだが、まあ、最初は仕方がないだろう。


でも、今回のSTAP事件で「表現の自由」をNHKや朝日新聞が一人の人を社会的に葬ろうと「凶器」として使った。放送法では「見解が違うときには両方の報道を」と決まっているのに、小保方、理研の双方の報道をしなかった。


だから、現在の公共放送などを補正する意味で、ネットが意味を持っているのは確かだが、「良いことをしているのだから、違法も構わない」というのはダメだ。今回の判決に基づいて、私も「ウソをついた匿名のバッシング」については、訴訟を起こしてネット社会の正常化(権利にともなく節度)を確立したい。


それがネットで私たちに与えられる開放感をさらに充実させることができるだろう。


(平成26年5月2日)
武田邦彦

(出典:武田邦彦先生のブログ







2014年5月8日木曜日

STAP論文小保方氏に不正認定 理研「再調査せず」(14/05/08)




これまでの危機管理意識の低い理研の対応からすれば想定通りですが、改めて報道されてみると、ひどい決定ですね。

本人が「悪意のないミス」ですと言っているのに、それを無視する理研の方に悪意があるとしか思えません。

今後、法廷で徹底的に戦って欲しいと思います。





2014年5月2日金曜日

【STAP騒動の解説 260501】 ダーウィンの番犬(第2回) メディアのプロ意識・・報道の自由の乱用を恥じる




ダーウィンの番犬(第2回)
メディアのプロ意識・・報道の自由の乱用を恥じる



放送法には次の規定がある。
第174条 総務大臣は、放送事業者がこの法律又はこの法律に基づく命令若しくは処分に違反したときは、3月以内の期間を定めて、放送の業務の停止を命ずることができる。


また、放送法では有名な条文だが、
第4条 放送事業者は、国内放送及び内外放送の放送番組の編集に当たつては、次の各号の定めるところによらなければならない。
一 公安及び善良な風俗を害しないこと。
二 政治的に公平であること。
三 報道は事実をまげないですること、
四 意見が対立している問題については、できるだけ多くの角度から論点を明らかにすること。
と定められている。


2014年のSTAP事件では、マスメディアは明らかに第4条の四に違反した。つまり、STAP論文を正しいとする小保方さんと、不正だとする理研、京大の2つの意見は明らかに対立していたが、メディアは「不正側」の報道に終始した。


ネットや個人の論評などは、公的報道機関ではないので、その力は限定され、それが故に、放送法の規定が及ばない。しかし、今回はネットが指摘し、個人の専門家が激しく一方的な非難をしたのをそのままほぼ100%受け入れて報道を続けた。


「意見が対立している」というのは、「数」ではなく、もちろん「質」であり、特に今回のように批判されているのが個人である場合、必然的に「多勢に無勢」になる。しかし、当人は明らかに一方の当事者であり、質的には批判側とは対等である。


このことを考えると、マスメディアが放送法に反して個人のバッシングを続けたことになり、国民は正しい情報を均等に得ることができなかった。その結果、報道機関がもっとも大切にしなければならない「表現の自由」が「凶器」となって、一個人を追い詰めた。これは表現の自由を重んじる人たちにとって恥辱以外の何物でもない。


すし職人が仕事に使う包丁で人を殺めることがないように、仕事の道具を凶器に使うほど恥ずかしいことはない。


私は総務大臣から業務停止を求められる前に、NHKをはじめテレビ局が自主的に業務の一部停止をして、自らの非を認めることが、現在のメディアの信用失墜を回復する手段の一つであると思う。


事実は明らかなのだから、ほうかむりせずに、潔く自らを処して欲しい。それこそが報道の心、魂、そして覚悟だろう。


(平成26年5月1日)
武田邦彦

(出典:武田邦彦先生のブログ





2014年4月29日火曜日

【STAP騒動の解説 260429】 ダーウィンの番犬・・・バッシングの均等発信論




ダーウィンの番犬・・・バッシングの均等発信論



STAP事件は、「科学技術立国」と言いながらあまり科学とは縁が遠かった日本社会が初めて「科学」というものを真剣に考えたきっかけにもなった。そこでは、京都大学の先生が「仮説は論文にならない」などと荒唐無稽のことを言われたり、多くの先生が「著作権」をご存じなかったり、日本の学術界の曖昧さを露呈した面もあった。


ところで、この事件は「社会の中の一個人」というものがいかに脆弱であるかも示した。あることでネットの一部の人が騒ぐと、それがたちまちのうちに日本中に広がり、その真偽やソースをあまり確かめることなく、マスメディアは「社会の中の一個人」を葬りさり、所属する団体は冷たく切り離すことがはっきりしたからだ。


そこで、この事件を前向きに転換するために、少しでも日本社会が前進することに役立てようと思う。


私は政府、NHK、東大など強力な組織は批判することがあるが、個人はほとんど批判の対象にしない。これまで個人を批判したのは東大総長、国連大学副学長などだ。それは「自分より発信力の低い人を批判すると、その人が私の批判で打撃を受けることがある」からだ。


言論の自由があっても、それが「凶器」になってはいけない。そのためには、批判する相手が、十分に強力で、体力もあり、地位が揺らがないという前提があると思う。その人がいよいよ社会的に危険になれば警察がでるのだから、「批判」というのは、それよりずっと内輪でなければいけないからだ。


今回のSTAP事件ではネットをはじめ、マスコミが繰り返し、繰り返しかなりの時間をかけて小保方さんという一個人の批判を行った。特に昼のワイドショーのような番組では、怪しげな科学論から研究者としての批判まで、醜悪だった。


でも、今回のことを教訓にして、私は次のことをマスコミとネットに提案したいと思う。
● 一個人を批判する場合は、ネット及びマスコミにおける「総批判時間数」の制限を設ける。
● 一個人を批判するネット及びマスコミは、その個人が反論を希望した場合、批判した時間やページ数と同じ時間やページ数を提供する義務を負う。


なんで言い始めたかと言うと、STAP事件が起きてから、小保方さんを攻撃する人はネットやテレビ新聞の関係者が1000人もいただろうし、それを見た視聴者やネット参加者は膨大な数に上る。その人たちの多くは「こんなにひどいことをしている。小保方でてこい。釈明しろ!」と言う。


別に小保方さんはネイチャーに論文を投稿しただけで、誰にも迷惑をかけていないのだから、「出てこい!」と命令する方がおかしいのだけれど、社会がヒステリー状態になると「そんなことを言ったら失礼ではないか」という日本人の謙虚さなどどこかに行ってしまった。


批判している人はテレビや、新聞、ネットなどさまざまで、その数も多いから、それを小保方さんが反論に回っていたら疲れ果てる。また彼女には彼女の仕事があるから、彼女の人生が最優先で、彼女が「気が向いたら来てください」ぐらいだろう。


「俺が興味があるのだから、彼女の都合など考えなくても良い」ということは私には成立しないように思える。現在はディジタル時代なので時間は簡単に割り当てられるので、「批判時間登録所」をネット上に作り、そこで「一個人の批判時間」の管理を自動的に行うことが可能だと思う。ネットもバッシングばかりではなく、社会がスムースに進むような仕組みもいるだろう。


そして、テレビや新聞などは、放送法で定められている通り、どんなことでも「賛否両論」をバランスよく取り上げること、もし一個人を批判することが多くなれば、その本人、もしくは本人を代弁する人にかならず同程度のスペースを出す必要があると思う。


ダーウィンが進化論を出した時、それまで「人間は神から作られた」と思っていた人からの総攻撃で研究ができなくなったことがあった。その時、必ずしもダーウィンの進化論に全面的に同意していたわけでもないハクスリーが世間のダーウィン・バッシングに対抗して頑張り、戦いを好まなかったダーウィンが社会の批判にさらされるのを防いだ。


後の「ダーウィンの番犬」と呼ばれるハクスリーがダーウィンという静かな研究者を守ったことが、それからのダーウィンにとってとても大切になる。


ダーウィンの進化論から155年を経るが、まだ人間社会は「新しいことをする人をバッシングする」ということから抜け出せていない。でもすでにディジタル社会だから、「STAP番犬」の登場を待つより、もう少しましな方法を取れないかと思う。


(平成26年4月29日)
武田邦彦








2014年4月26日土曜日

【STAP騒動の解説 260426】 知の鍛錬(4) 平和への道の1 クーベルタン男爵




知の鍛錬(4)
 平和への道の1 クーベルタン男爵



「あなたは平和を愛しますか?」と聞けば日本人の100人が100人、「もちろんです」と答えるだろう。マスコミならさらにそれを強調するに相違ない。


平和運動というのがある。そこに行くと「平和の大切さ」、「命の尊さ」が叫ばれる。でも、ウクライナにロシアが侵攻しても、尖閣諸島の防衛にアメリカ軍が参加しても、声を上げない。


平和運動は批判しにくいし、批判に対してあまりにも激しい攻撃がくるので、あまりやる気もないが、私は平和の大切さとか命の尊さというのはあまりに簡単すぎて、それを言っていても平和は訪れないと長く思ってきた。つまり「平和」というのは非常に難しく、平和の尊さを強調するやさしさとあまりにもレベルが違うから、解決策にはならないからだ。


つまり、航空機の安全運航という問題を、小学生が解けないということと同じで、難しい問題を解決するためには、その難しさを超えるレベルが必要だからだ。「そういっても平和の大切さを強調するのは必要だ」と言われるが、私がそれに反論すれば「戦後、70年、それだけじゃないか。国連で否決されているのに、イラクにアメリカ軍が侵攻しても、なんでアメリカを支持するのか? 中国はチベット、ウィグル、満州はもともとの領土ではないのに、なぜ中国を支持しているのか?」と言いたくなる。


そして、STAP事件でも、「平和のために学問の成果は公知にする」となっているのに、「公知」を非難して「盗用」というのだから、これも「戦争をしたい」ということにほかならない。


その一つに「オリンピックのメダル争い」がある。オリンピックは「平和の祭典」であるがゆえに「国」をできるだけ後退させなければならない。団体戦など仕方がないものもあるが、個人がどの国に所属するかは事務的な手続きに必要なもの以外は使ってはいけない。


もちろんIOC(国際オリンピック委員会)は、「国別メダル数」をまったく発表していない。それを計算して毎日の紙面にだし、戦争をあおっているのがマスコミである。


スポーツは人間の神聖な活動だから、国を超えたものだ。アメリカの大リーグで田中選手が活躍して拍手をうけ、日本の国技である相撲で外国人が3人、横綱を独占しても良い。それがスポーツである。


スポーツに国の対立を持ってくると、サッカーで韓国がやったように政治的横断幕を使ったり、負けていたら審判がペナルティーキックで救うという奇妙なことが起きる。


「国の税金を使っているのだから、選手はメダルを取れ」と言うのなら、「オリンピックのような平和の祭典に行くな」と言ったほうがまだ筋が通っている。日本が国連に分担金を出したり、ユネスコに協力しているように、スポーツを通じて世界平和に向うのがオリンピックなのだ。


今から100年ほど前にすでにクーベルタン男爵が声をからして国別対抗を止めるように説得し、イギリス国教会の牧師様(呼び名は違うが)がオリンピックで対抗心を燃やしたイギリスとアメリカの選手さんをいさめたように、すでに世界の合意を得ているのだ。


平和への道の第一歩、それは「国別メダル数をマスコミが計算せず、報道しないこと」である。それすら今の日本はできない。韓国や中国が「対立を激化させ、戦争に向かおう」としているのと私にはほぼ同じと思う。


平和への道を一歩、一歩、勇気をもって進むことが、私たちが子供にできるとても大きなことだ。


(平成26年4月26日)
武田邦彦

(出典:武田邦彦先生のブログ






2014年4月25日金曜日

【STAP騒動の解説 260425】 知の鍛錬(3) 学問とコピペの3:科学には盗用はない




知の鍛錬(3) 学問とコピペの3:
科学には盗用はない



STAP事件が起こってから、経験の浅い「学者」と自称する人が「論文はそれを見たらだれでも再現できるようになっていなければならない」とか、「仮説が論文にならないのは常識」などと間違ったことを連発している。


そして日本中が騙されたのが「科学論文でコピペは許されない」というのがあった。なにしろ文章がダメな学生が先生から「コピペはいけない」と言われるものだから、それが自分がいたらないから教育を受けていることを棚に上げて、「大人もコピペはいけない」と言いだしたからややこしくなった。


先回と先々回、アインシュタインの業績を例にとって、大切なのは「概念=相対性原理」と「式(データ)」であって、説明の文章は極端に言えば頭脳明晰な人にとっては「カス」であることを明らかにした。


次に、もともと価値のある論文と言うのはどういうものか、20世紀の最大の科学的発見(着想)と言われているワトソンとクリックの論文を示したい。これはノーベル賞を受賞した論文だから、まさか20世紀の科学の最高峰と言われる論文を「ダメな論文だ」と言う豪の人はいないだろう。


ネイチャーに投稿されたこの論文は実質1ページで(2ページめは数行なのでここでは示していない)、実験結果も理論式もなにもない。わずかな文章とDNAの構造(仮説)が示されているだけだ。


しかも、この論文のもとになったのは、「ワトソンとクリックのデータ」は一つもなく、現代の理研とマスコミが言うなら「盗用したデータ」だった。このことは後に問題になるが、「科学のデータは公園のベンチと同じように人類共通の財産である」=公知 であることで、結局、ワトソンとクリックがノーベル賞を受賞した。


科学で大切なのは、一に「概念」、二に「理論式やデータ」、そして三にほとんど意味はないけれど「文章」だ。概念が画期的なら、理論式やデータはいらないし、DNAのようにデータが「盗用」でもOKである。


科学には所有権がないから、もともと「盗む」という行為がない。それを知らない専門家が間違ったことを言っただけだが、もし仮に科学的事実に所有権があって、人のデータを使うことが「盗用」としても、科学は人間の所有権を超えるものだから、「盗用でも新しい概念の価値は変わらない」のである。


もう少し具体的に考えてみたい。データを取った人は近くの研究室の女性研究員だったが、その人はDNAのX線のデータを取ったが、それから「DNAは二重らせん構造であり、生命は化学物質である」という極めて重要な結論を導き出すことができなかった。


もし彼女のデータに所有権があり、他の人が使えなければ(もし、彼女に断ったとしても、彼女がデータの使用を断ることがある)、人類はDNAの構造を明らかにすることができず、自然を解明することが不可能になる。


科学がすべての結果を「人類共通の財産」としているのは、一つは争いをもたらさないためだが、もう一つは「科学的財産を公知にしておかないと人類の叡智を発揮することができない」からである。


「他人のデータを使ってはいけない」、「引用しなければならない」、「文章をコピペしてはいけない」などは「人間の発展をどう考えるか」について良く考察していないからと思う。


そして、自然科学者は「人間の所有権、個人の名誉」などは「自然を明らかにすること」に比べてとても小さいという感覚を持っている。自然が嫌いで、名誉やお金が欲しい人が自然科学をするから、ややこしい。


(平成26年4月25日)
武田邦彦


(出典:武田邦彦先生のブログ







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