2014年9月9日火曜日

【STAP騒動の解説 260909】 STAPの悲劇を作った人たち(7) 主犯 NHK-3 暴君の放送法違反



 
STAPの悲劇を作った人たち(7) 
主犯 NHK-3 暴君の放送法違反



すでに示したように主犯NHKの犯した反社会的な行為は、次の5つである。

1)STAP論文の記者会見を大げさに報道して有名にしておいて、後で叩くという「マッチポンプ報道」をしたこと。

2) STAP論文の主要な著者は4人なのに、小保方さんだけに焦点を当てて批判を展開したこと。完全にNHKの判断で「良い人、悪い人」を分け、著者の中でも恣意的に区別を行ったこと。

3) STAP論文にネットで疑義が出されると、「意見が異なる両者」の意見を比較して報道するのではなく、放送法4条に違反して「疑義を言う人だけの言い分を報道する」という放送法違反の報道をしたこと。

4)理研の調査委員会が結論をだし、論文が取り下げられたのに、特定の個人(笹井さん、小保方さん)の的を絞った批判の報道を続けたこと。

5)取材に当たって小保方さんに2週間の怪我をさせ、女子トイレに閉じ込めたこと。個人の私信であるメールを公開したこと。

1),2)については整理を済ませたので、3)へ進みたい。STAP事件が2月に起こってから、4月になると、この問題について、意見が2つに分かれていることが明らかになった。さらに6月末になると旗色は鮮明になる。

1)当事者のうち、笹井さん、小保方さんは「研究も論文も一所懸命やった。すこし間違ったが大筋で問題がない」という立場だ(これが一方の当事者。ネイチャーも掲載した以上は形式的に支持の立場)。
2)当事者のうち、若山氏、理研は自分の行為は自分の意思ではないという「裏切り」の言動にでた。

3)外野(ネットの匿名バッシング、テレビに出る専門家(テレビは報道しようとすることをいう人しか出さない)、マスコミ、芸能人など)は「論文を取り下げろ」、「再現性が問題だ」という立場を取った(人名は記録しておく必要がある)。

つまり、この問題は、裏切り者(自分の行為を自分で責任を持たない人)を除いて、はっきり、2つに分かれていた。放送法第4条(極めて重要な条文)には、

「四  意見が対立している問題については、できるだけ多くの角度から論点を明らかにすること。」

とあり、報道はこの条文に違反しないように最大の注意を払う必要がある。ところが現実に行われた報道は当事者側では記者会見をほぼそのまま報道するだけで、その記者会見も記者の質問は「糾弾」と言えるものだった。

つまり、「研究も論文も非難するほどのことではない。むしろ日本の学術の発展に寄与する」という立場の論評はまったくなかった。実は私のところにも10回程度、テレビなどから取材があったが、東京や大阪のテレビは私が「論文は優れたものだった」というと、それで「ああ、そうですか。それじゃ」と取材を打ち切った(具体的な放送局名や質問内容などは講演会などでは言うことにしている)ことからわかるように放送法を守ろうという雰囲気はなく、単にバッシングしたいという一念だった。

このように「放送局自体が、事実ではなく、ある価値観を持って善悪を決める」という姿勢は今に始まったことではない。慰安婦問題や南京虐殺報道の朝日新聞、台湾報道やツバル報道などのNHKに象徴されるように、NHKはすでに「自ら善悪を決める神様」と「それを一方的に強要する暴君」を兼ね備えるようになった。

政治家が抵抗できない報道という権力と、厚い弁護士団に守られたNHKは法律違反など大したことはない、その意識がこの報道でもはっきりと見えた。まさに個人に的を当てた「自分の娯楽のためにピストルの代わりに報道を使うリンチ」をしたのだ。

(平成26年9月9日)

武田邦彦

(出典:武田邦彦先生のブログ



2014年9月8日月曜日

【STAP騒動の解説 260908】 STAPの悲劇を作った人たち(6) 主犯 NHK-2 好き・嫌い報道




STAPの悲劇を作った人たち(6) 
主犯 NHK-2 好き・嫌い報道



前回、示したように主犯NHKの犯した反社会的な行為は、次の5つある。

1)STAP論文の記者会見を大げさに報道して有名にしておいて、後で叩くという「マッチポンプ報道」をしたこと。

2) STAP論文の主要な著者は4人なのに、小保方さんだけに焦点を当てて批判を展開したこと。NHKの判断で「良い人、悪い人」を分け、恣意的に的を絞ったこと。

3) STAP論文にネットで疑義が出されると、「意見が異なる両者」の意見を比較して報道するのではなく、放送法4条に違反して「疑義を言う人だけの言い分を報道する」という放送法違反の報道をしたこと。

4)理研の調査委員会が結論をだし、論文が取り下げられたのに、特定の個人(笹井さん、小保方さん)の批判を続けたこと。

5)取材に当たって小保方さんに2週間の怪我をさせ、女子トイレに閉じ込めたこと。個人の私信であるメールを公開したこと。

このうち、1)については先回に整理し、マッチポンプが誤報を生んだことを証明した。

今回は、2 著者は4人である。研究の主任的立場にいた若山氏、指導的立場で論文の執筆に当たった笹井氏、組織として研究を支援し、論文を指導し、記者会見を主導した丹羽氏、それに若山研究室で無休研究員として働き、実験を担当していた小保方さんだ。

大学でもこのようなケースは多く、教授が立案し、准教授が日常的な指導をし、博士課程の学生が発表することがある。その場合、教授なども発表会場にいて、実験した学生に発表させるが、質問などがこじれた場合、責任者として学術的に回答するのは教授か准教授であり、まさか30歳前後の若い人に全責任を負わせ、その発表に名前を連ねている教授や准教授が「私は知らなかった」などということを聞いたことはない。

普通は、厳しい質問が来て、若い人が答えにくい場合、教授は率先して手を挙げ、「共同研究者ですが・・・」とどんな場合でも発表に対して責任を持つ。そんなことはあまりに当然で、発表した後、だれかしつこい人が若い人に廊下などで回答を迫り、怪我をさせ、おまけにトイレまで追いかけて閉じ込めるようなことが怒ったら、教授は身を持って、それを防ぐだろう。

ところがSTAP事件ではマスコミはこぞって小保方さんを批判し、NHKの記者も小保方さんの記者会見で悪意に満ちた質問をした。仮にNHK以外のマスコミが興味本位に走って小保方さんを批判することがあると思うが、そのためにこそ、私たちは受信料を払って、NHKが「正しい報道」をし、それを見て判断をしようとしている。

NHKは、他のマスコミが小保方さんの個人批判を続ける中、彼女の卒業論文や個人的なことは別のことであること、責任を持つべき著者は「正規の理研研究員」(毎日新聞によると問題の核心は小保方さんの無給研究員時代に若山氏が出した論文だという)であり、それはまず第一に若山氏である。

ある事件が起こったとき、あるいはNHKが誤報をしたとき、NHKが恣意的に「犯人」を決めて、その犯人のことを集中的に報道することはもちろん望ましくない。後に理研が小保方さんだけを「犯人」にして、論文の不正の責任を彼女だけに被せた。たとえば、小保方さんの実験ノートが不十分であるとの報道があったが、若山氏の実験ノートや研究記録もある。なければ共同著者になること自体がサギになる。

研究は実験が主ではない。実験だけならロボットでも自動測定器でも、自動培養器でもできる。研究において「人間らしい」活動というのは、実験データの解析、解釈、評価、結論などであり、それは役割から言えば、若山氏の役割である。だから、小保方さんに充実した実験ノートを求めるなら、若山氏に立派な解析結果、評価結果を求めるべきだ。

事実、若山氏は3月に外国のインタビューに応じて、「自ら実験しSTAP細胞を確認している。自分の学生も確認した」と述べている。その時の実験ノートこそ、問題にすべきものである。

芥川竜之介が書いているように、「リンチが娯楽になり、ピストルと報道は同じ」ということを防ぐためには、NHKのような独占的報道機関が「どうせ、庶民がもがいても、おれは権力があるから、何とでもできる」という気持ちを持ち、報道で人を殺すことに対して、その「快感」以上のブレーキを持つことだ。それは記者ひとりひとりの良心や人格でもあるし、NHKという報道システムが持つべき社会的責任でもある。

STAPの悲劇が現実のものとなった今、NHKの報道責任者はSTAP関係者をリンチすることに無常の快感を味わったとして良いだろう。でも、この推論にはぜひ、強く反論してもらいたい。なぜ、4人の著者のうち、指導者を無視したのか、なぜ小保方さんの実験ノートだけを問題にしたのかなど詳細にわたって、その理由を明らかにするべきである。

人からお金をもらうというのはそんなに簡単なことではない。NHKの認可、予算承認は国会がやっているように見えるが、それは受信料を払っている国民が単に委託しているに過ぎないからである。人の命を取るような報道がされた場合、NHKは国会での説明では不足する。

(平成26年9月8日)

武田邦彦

(出典:武田邦彦先生のブログ





2014年9月6日土曜日

【STAP騒動の解説 260906】 STAPの悲劇を作った人たち(5) 主犯 NHKー1 佐村河内氏に続くマッチポンプ




STAPの悲劇を作った人たち(5) 
主犯 NHKー1 佐村河内氏に続くマッチポンプ



NHKがSTAPの悲劇に主要な役割を果たしたことは明確である。それは主として次の5つに集約される。

1)STAP論文の記者会見を大げさに報道して有名にしておいて、後で叩くという「マッチポンプ報道」をしたこと。

2)STAP論文にネットで疑義が出されると、「意見が異なる両者」の意見を比較して報道するのではなく、放送法4条に違反して「疑義を言う人だけの言い分を報道する」という放送法違反の報道をしたこと。

3)STAP論文の主要な著者は4人なのに、小保方さんだけに焦点を当てて批判を展開したこと。完全にNHKの判断で「良い人、悪い人」を分け、著者の中でも恣意的に区別を行ったこと。

4)理研の調査委員会が結論をだし、論文が取り下げられたのに、特定の個人(笹井さん、小保方さん)の的を絞った批判の報道を続けたこと。

5)取材に当たって小保方さんに2週間の怪我をさせ、女子トイレに閉じ込めたこと。個人の私信であるメールを公開したこと。

佐村河内氏の報道問題でNHKは謝罪したばかりだが、それと全く同じ「マッチポンプ型報道」を行った。1月末の記者会見では「リケジョ」を前面に出し、科学的業績より、若い女性であることに焦点を当てて報道した。

NHKが報道するにあたっては、記者や関係者が責任を持って報道するものが適正であるかをチェックする。特に社会的影響の大きいNHKの場合、十分な人材でチェックを行う。佐村河内氏の時は「個人」だったが、すでにNHKと佐村河内氏との付き合いは10年を超えているのに、「耳が不自由である」という報道をした。NHKが知っていて「架空の英雄」をでっち上げたと判断されるだろう。

今回もNHKの報道の数日後には激しいネットの批判が続いた。だから、「理研が発表したから信じた」という釈明はできない。つまり報道というのは公式発表をそのまま伝えるのではなく、それが「事実である」とNHKが判断して報道するものである。社会にウソやサギが横行していることは周知の事実であり、ネットではなくNHKの報道が高い信頼性を持っていたのは「NHKのフィルター」の信頼性が高いことにほかならない。

私たちはNHKフィルターの信頼性で受信料を払っているのであり、誤報が続くなら、NHKでなくてもタダのネットでいくらでも情報を得ることができる。だからNHKの誤報というのは他の放送局やネットに比べて格段に厳しい事を知ってもらわなければならない。私たちはNHKの社員を「雇用するため」に受信料を払っているのではない。少なくとも重大な誤報があったら、受信料の支払いを求めて訪問する人を「お詫び」に回らせるぐらいの覚悟がいる。

・・・・・・

マッチポンプ型の誤報には、「不作為の誤報」と「作為的誤報」がある。作為的誤報は、最初から視聴者をダマすつもりか、あるいは大げさな報道の場合に起こる。その特徴は、「報道すべきこと以外のことに重点を置く」という特徴がある。

佐村河内氏の誤報の場合、もともと彼の作曲が良いのだから、「曲の評価」を中心にして報道していれば、あんなに大騒ぎになることはなかった。ところが、佐村河内氏が耳が不自由であるとか、広島(HIROSHIMA)と名づけた曲がなんとなく原爆との関係を思わせ、さらにそれを増幅させたのが、彼を東北の被災地まで連れて行って子供と対話する番組を作ったことだ。

耳が不自由なことで「現代のベートーベン」(ベートーベンは晩年、聴力を失っている)というコピーを宣伝し、広島、東北という悲劇の地との関係を強調することによって、曲の評価より人物像に報道の焦点を合わせた。このような手法は「下品」であり、「正統派」ではないことは明らかである。三流週刊誌が、本人の活動などより恋人、離婚などのゴシップを報道することからもNHKが取るべき手法ではない。

この手法はSTAP事件でも取られ、NHKは記者会見当日の夕方の国民的ニュースで「リケジョ」という女性蔑視の用語を多用したほか、研究室のピンクの壁、小保方さんの割烹着などに焦点を当てた。このことによって、論文自体の評価は後退した。

(NHKの報道)

仮に、NHKが論文と科学的業績に焦点を当てた場合、理研、京大、分子生物学会など関係する学者への放送の前のチェック取材を多くするので、その時点で「批判的論評」の取材があるはずだからである。

記者会見の後、数日であれほどの反撃があり、さらにすぐネットの批判に続いて、ほぼ日本全体の学者が「STAP悪し」と評価したところを見ると、記者会見の後、少しでも「国民に正しいことを報道しなければならない」という意識がNHKにあったら、批判的な学者に遭遇した可能性は高い。

もし、後の厳しい批判をした学者が「社会がSTAPを批判するまでは高く評価する」というのでは、学者ではないし、後にそのようなコウモリのような人に取材するべきでもない。つまり、

1)記者会見の後、真偽や評価をチェックしたのか?

2)その時に批判的な学者はいなかったのか?

ということで、チェックをして批判的な学者がいないのに、その後、あれほど全員一致で批判する(少なくともNHKの報道では、小保方さん、笹井さん以外は100%批判的だったということだった)事態にはならないだろう。取材したNHKか、コメントした学者のどちらかがウソをついていることになる。

それとも、後に批判した大多数の学者はNHKのチェックの時には取材されなかったとすると、NHKはSTAP論文を肯定的に報道するときに取材した人と、批判的に報道するときに取材した人を変え、それでもあえてそれが主な意見のように誤報を続けたことになる。

つまり、マッチポンプ報道というのは、NHKが作為的に報道しないとできないものであり、佐村河内氏の時も、STAPの時も実にいかがわしい取材に基づいた記事を書いたことが分かる。

(平成26年9 月6 日)

武田邦彦

(出典:武田邦彦先生のブログ





2014年9月2日火曜日

【STAP騒動の解説 260902】 時事評論 科学における日本の後進性




時事評論 科学における日本の後進性



STAP事件はさまざまな意味で、「科学技術立国」と言っている日本の多くの人がほとんど科学技術を知らないことを露呈した。たとえばごく最近でも、日経新聞の記者が「科学論文ではどんな仮説を立て、実験でどう検証し、結論に至ったかを具体的なデータを示し理路整然と説明しなければならない。」と書いている。

この記者は「優れた科学論文」を読んだことがなく、日本の多くの学者が出しているような「人の後を追って、条件を細かく検討している論文」しか見たことがないのだろう。科学は「仮説、実験、検証、結論、データ、理路整然」が大切なのではなく、「直感、推定、あやふや、再現性なし・・・」でもなんでもよく、要はわれわれ人間がどうしたら自然を少しでも理解し(理学)、その原理を人間社会に役立てるか(工学)であり、「確実性」などは本来は関係がない。

かつて日米の学生の態度を比較したものに、「エントロピーの原理が正しいかを疑って、若干の考察をせよ」という出題に対して、アメリカの6割の大学生がチャレンジするのに対して、日本の学生はほとんど全てが取り組まない(エントロピーの原理は正しいと教えられているから)というのがあった。自分で科学を切り開いてきたアメリカ人は、科学があやふやであることを知っているが、欧米が作り上げた科学を勉強し、それを金科玉条のように思って疑わない日本人の後進性を示している。

最近、相対論を疑っている人の話を聞き、その人が学会から締め出されようとしていること聞いた。そういえば、私もレベルは低いが、「リサイクルは資源の浪費を早める」という発表をした時に、発表会場から「売国奴!」と罵倒されたことがある。

日本人が科学を楽しむ柔らかい頭脳を持っていないのか、それとも野蛮なのかは不明だが、STAP事件は野蛮人が現代人を痛めつけた一つの例だった。しかし、日経新聞の記者が「科学論文はしっかりしたもの」と固く錯覚しているのは、日本の科学のトップクラスの人が後進性を持っているからにほかならない。そこではSTAP事件で頻繁に出てきた「科学者ソサエティー」なるものが存在し、開放的な科学ではなく、ボス社会を構成しているからだ。

(平成26年9月2日)

武田邦彦

(出典:武田邦彦先生のブログ




2014年8月27日水曜日

【STAP騒動の解説 260822】 芥川龍之介談・・・「娯楽」で人を死に追いやる人たち



【STAP騒動の解説 260822】 
芥川龍之介談・・・「娯楽」で人を死に追いやる人たち



芥川龍之介が「輿論は常に私刑であり、私刑は又常に娯楽である。たといピストルを用うる代りに新聞の記事を用いたとしても」とあるが、さすが芥川龍之介で、遠く明治の時代に今日のバッシング文化を鋭く批判している。
この警句が載っているブログの記事に「リンチ(私刑)は許されるか」というのがあった。それによると、(1)この世には「悪いこと」があり、(2)それは罰するべきである、という考えが、現代日本の社会に蔓延していて、ネットという新しい手段で、それが正当化される可能性があるとしている。

恐ろしいことだ。

まず第一に「この世に悪いこと」があるという。そうであれば誰かが「これは悪いことだ」というのを決めなければならない。それは「神様」か「偉人」ということになっている。普通の人が「これは悪いことだ」と決めることはできない。たとえば、浄瑠璃の世界では主君のために我が子を殺すことが正当化される。殺人ですら、常に「正義」の名のもとで行われるのだから、「普通のこと」の「善悪」というのは誰も自分で判断することはできない。

そこで人間は長い歴史の中で「合意」をしていることがある。第一には宗教団体のように任意に参加できる団体内では、その団体内だけで「善悪」を決めることができること、第二に一般社会ではその社会を構成する人(国民)が相互に約束して「これは悪いこと」と決めて法律を作り、税金を出してその法律を政府や警察に守らせるというシステム、である。

また「倫理」と「道徳」は区別されないこともあるが、厳密に言えば、「倫理」の倫は相手という意味だから、相手の理(ことわり)に従うことを意味している。これをいれると、「正しいこと」というのは、宗教団体では神様が決め、社会では法律(約束)が決め、個人的には相手(倫)が決める、ということになる。

ネットでは「自分で正しいことを決めることができる」ということになると、それはこれまでの人間の歴史ではありえないことで、もしネットで「自分が正しいと思うことに基づいて、「悪いこと」を罰する」ということになると、まさに「リンチ」であり、それは「反社会的なこと」で、それ自体が「悪いこと」になる。つまり「悪いことを罰する」という行為自体が「悪いこと」なのだ。

また、私たちの約束事(法律)では、単に「何が悪いか」を決めているだけではなく、「悪いことをした人の自由を奪ったり、罰したりする手続き」も決まっている。これが民事訴訟法、刑事訴訟法で、とても大切な法律だ。

つまり、「なにが悪いか」を決めただけでは不十分で、「悪いことを決める手続き」も同じように大切である。仮にネットの人で神様のような人がいて「悪いこと」を決めることができても、その人が「悪い」と決めれば、即、死刑ということではなく、たとえば「ネットで批判する場合は名前を名乗らなければならない」とか、「批判に対して、同程度の反論の場を与えなければならない」などの細かい手続きが必要だ。

このような手続きが重要なのは、「原理原則」と「それを現実にする方法」が大切だからだ。その意味では、ネットのバッシングは (1)ネットの人が神様になることと、(2)手続きを無視して直ちに「首を跳ねろ!」というような暴君になること、を意味している。

STAP事件のマスコミ・リンチで言えば、NHK、毎日新聞、分子生物学会などが「神様」と「暴君」の役割を同時に果たし、その結果、リンチが成立した例でもある。

(平成26年8月22日)

武田邦彦

(出典:武田邦彦先生のブログ




2014年8月22日金曜日

【STAP騒動の解説 260810】 STAPの悲劇を作った人たち(4) 3番目は言うまでもなく毎日新聞




STAPの悲劇を作った人たち(4) 
 3番目は言うまでもなく毎日新聞


毎日新聞というのは伝統的で素晴らしい新聞でした。満州国建国に際して国際連盟を脱退した時、朝日新聞がその時の政府に迎合して脱退を支持したのに対して、毎日新聞は断固、筋を通し、販売部数を減らしたのです。
沖縄返還の時の日米の密約でも、毎日新聞は断固、メディアとしての立場を貫き、時の政府からいじめられて不買運動に泣いて、朝日、読売の後塵を拝するようになりました。でも、そんな逆境だったからでもあるでしょう、毎日新聞には立派な人が多く、ここでお名前を挙げるのは控えますが、そういえばあの人・・・と思いだします。
その毎日新聞が「窮すれば瀕した」のでしょう。こともあろうに、STAP事件に関する理研の調査が終わり、「不正が確定」(私は不正とは思わないが)し、最後に論文が取り下げられ、日本としては大きな痛手をこうむった後も、毎日のようにSTAP事件の取材を続けて、紙面に掲載していました。
それは、著者を痛めつけたい!そう思う一心の記事でした。そして論文が撤回されて約半月後、毎日新聞は驚くべき記事を全国版の1面に出したのです(7月16日の朝刊と思う)。それは、奇妙奇天烈というか、前代未聞、それとも魔女狩り・・・なんと表現してもそれ以上の醜悪な記事でした。
1)問題となった論文ではないものを取り上げた、
2)若山先生(共著者は小保方さん)が出して拒絶された論文を取り上げた、
3)論文の査読過程のやり取りを「不正」とした。
毎日新聞の記事をたぶん月曜日に読んで、私はあまりのことに絶句した。この記事を笹井さんがお読みになったかは不明だが、関係のない私が読んでもびっくりしたのだから、当事者が読んだら腹が煮えくり返っただろう。

理由
1)掲載に至らなかった論文の原稿は著者の手元にしかない、
2)ましてその査読結果などは執筆担当の主要な著者の手元にしかない、
3)従って、毎日新聞は若山さんから情報を得たか、建物に侵入して獲得した以外にない。
4)掲載に至らなかった論文は欠陥があるから掲載されなかったのだから、その論文に欠陥があるということは当然であり、そのような学問上のことを知らない一般の読者を騙す手法だった、
5)若山さんが自らそんなことをしたら大学教授を辞任しなければならないから、記者が不当な方法で入手した盗品である、
6)すでに掲載された本論文が撤回された(7月2日)後だから、学問的意味も、社会的意味もない。
毎日新聞は沖縄の密約で外務省の女性事務官に記者が接近し「情を通じて」国家機密を手に入れたとされました。行為は不倫で、これを政治家に「情を通じて」と言われて社会が反応し、毎日新聞の不買運動につながりました。私は、国家機密を得るときには小さな犯罪は許されると思っていましたが、今回のことで毎日新聞は性根から曲がっていることを知ったのです。
今回のことを沖縄の報道になぞらえると、「情に通じて」と言われた後、他の新聞やテレビが「どのように情を通じたか」、「セックスの回数は何回だったか」、「最初の時に積極的に体に触ったのはどちらだったのか」などを微にいり細にいり書き立てるのと同じです。人間としてすべきではなく、また興味本位のいかがわしい雑誌が取り上げるならまだ別ですが、天下の毎日新聞だから取り返しがつかない。今後、何を記事にしても国民は毎日新聞をバカにしているから信用しないでしょう。ついに毎日新聞はその誇りある長い歴史に終わりが来ると思います。

【学術的意味】
ここでは、以上のような世俗的な倫理違反とは別に、「掲載されなかった論文の査読経過は意味があるか」ということについて参考までに述べます。論文を提出したことがない人には参考になると思うからです。
人にはそれぞれ考えがあります。だから研究者が「これは論文として価値がある」と思えば、そのまま論文として掲載してもよいのですが、昔はネットのようなものがなかったので、印刷代がかかり、さらに「誰かがある程度は審査したもののほうが読みやすい」ということで「査読」が始まりました。
査読は「論理的に整合性があるか」、「他人が読んで理解できるか」、「すでにどこかで知られていないか」などをチェックし、時には親切に誤字脱字も見ます。しかし、時に研究者は「このデータは必要だ」と思っても、査読委員は「論理的に不要である」としたりしますが、そんな時に、ほぼ査読委員の通りにしておかないと論文は通りません。
また、研究者は自分の研究に思いいれがあるので、若干、論理が通らなくても「言いたいこと」がある場合も多いのですが、査読委員は他人なので冷たく削除を求めることもあります。その他、いろいろあって、毎日新聞の記事のように5ケのデータのうち、査読委員が修正を求めたので、2つを削除したということをとらえて、「これは不正をするためだ」と邪推するのは科学の世界に感情を持ち込むことだから、この記事は断じて科学者としては許せないのです。
おまけにこの論文は「掲載が認められていない」のですから毎日新聞が指摘したことそのものが指摘の対象になっていたかも知れません。査読委員が問題にしたことを、著者がいやいや削除したとすると、それを不正だというのは査読委員が不正ということになります。
そしてこの問題は、さらに取材方法が偏っていることです。
まず第一に若山さんが出した論文なのに若山さんに取材していません。当時、若山さんは理研の研究者で、小保方さんは臨時の無休研究員です。だから、共同著者のうち、若山さんにその事情を聴くべきですし、聞いても若山さんは答える必要もありません。「それは取り下げた論文ですからいろいろなことがありました」と言えばよいのです。
私は近年、これほど醜悪な記事を見たことがなく(大新聞の一面)、またこの記事もSTAPの悲劇を生んだ一つとして検証されるべきであり、このようなメディアの力を使った精神的リンチによる殺人の可能性について、司法は捜査を開始すべきと考えられるほどひどい記事です。言論の自由は無制限ではなく、大新聞が個人をめがけて圧倒的で不当な攻撃を続けるのは犯罪だからです。
その時の私の感想は「論文を取り下げても、ここまでやってくるのか? これは記者の出世のためか、または毎日新聞の販売部数を増やすためか」と思ったのです。たとえば理研の不正、日本の生物学会関係の腐敗を報じるなら、それ自体を取材して報じるのがマスコミというもので、掲載されなかった論文の審査過程を読んで日本の研究の不正を推定するなどはしません。
また、掲載されない論文の査読過程で何が起こっても犯罪でも研究不正でも倫理違反でもありませんし、そんな規則、内規、法律もないのです。記者は新聞という巨大な力を身につけて「裁きの神」になったのでしょう。
毎日新聞はとりあえず、「掲載されなかった論文の査読過程の修正」が「ある人から見て不適切」というだけで、なぜ「全国紙の1面に載せるほどの大事件」と判断したのか、新聞さとして論理的に示さなければならないと思います。

(平成26年8月10日)

武田邦彦

(出典:武田邦彦先生のブログ




2014年8月20日水曜日

【STAP騒動の解説 260820】 日常的なことと研究



日常的なことと研究


人間の活動にはさまざまなものがあり、あることをしている人は、まったく別の人生を歩んでいる人のことを理解するのは難しい。たとえば、「日常生活」と「研究」というものを取り上げてみると、
日常的には「今、わかっていることを真実と思って行動するしかない」
研究は「今、わかっていることは間違っていると思っている」
ということになる。
紫式部の時代には、「人間には生まれながらに貴賤がある」とか、「大根を煮るときには薪(たきぎ)が必要だ」と思っていて、それが変わることなどないし、貴賤を無視して平等だと言ったら殺され、電子レンジを使えばよいと言えば気がふれていると思われる。
でも、現在では「平等」も「電子レンジ」も日常生活の中で受け入れられている。でも、1000年前にはなかったのだから、いつの時代かに「今、わかっていることは間違っている」と思った人が一つ一つ、新しいことを発見し、発明してきた。
現代の日本を見ると、「日常的なことをしている人で、常識的な人」があまりに威張っているように見える。「そんなの当然じゃないか!」と怒鳴り、「そんなの非常識だ」と叫ぶ。でも本当の常識人というのは、「自分が今、正しいと思っていることは間違っている」ことを知っている人だろう。
1000年後、現代の日本の常識人は笑い者になるだろう。でも、現代でも「常識人」はそのことを実は心の底でわかっているようにも思える。というのは、STAP事件にしても、温暖化にしても、「常識」を言う人はいつも「怒りっぽい」。それは本当のことまで議論が進むことを恐れているのだと私は思う。

(平成26年8月20日)

武田邦彦

(出典:武田邦彦先生のブログ

2014年8月19日火曜日

【STAP騒動の解説 260815】 剽窃論 第三章 知的財産の人類的意味 その2




剽窃論 第三章 知的財産の人類的意味その2



2.学問における他人と自分・・・学者のプライド


「利権」だの「ごまかし」だのとつまらない話が続いたが、実は剽窃論の中心はもっと崇高なものである。私も学者の一人だが、私たちは人類に「知の財産」を提供することを業としている。コメやサカナを捕る仕事、自動車や家電製品のように物品を提供する仕事、家事や育児、床屋、デイサービスなどのサービスを提供する仕事などがこの世にあるが、その一つが「知的財産の提供業」がある。


知的財産の提供業としては、学者、作家、画家、音楽家、戯曲家、番組制作業などがあり、放送業、出版業は知的財産の拡散業で通常は収益を目的としている場合が多い。学者以外も同じだが、学者としての仕事は原則として「非営利」であり、仕事の動機は「興味、探求心」などであり、人間の性質に含まれるこの種のものを原動力にして仕事をする。


多くの人が「趣味の生活」や「自分のやりたいことをする」という人生を望んでいるのだが、なかなかこの世はそうはいかない。ほとんどの人は「手間賃」(他人を車で運ぶタクシーの運転手さん、卸から品物を買って小分けして売る小売商、全自動ができないんで組み立てる自動車工などで立派な職業)で生活している。知恵をもとにして仕事をする弁護士さん、会計士さん、お医者さんなども「自分の好きなことをする」のではなく、「知恵を使った手間賃」というところがある。


それに対して学者というのは実に自由な職業で、「自分で何を研究するかを決め」、「自分で自由に研究し」、「嫌いなったらいつでも止められる」というのだから、世にも珍しい仕事だ。でも大学教授のほとんどはそうだし、理研などの研究機関も若干の縛りはあっても、やはり自由が多い。


しかも、研究費は自分のお金ではない。お金も出さない、自由奔放に研究ができる、それに学会発表に行くのに国内はもとより海外まで行ける、さらに結構、他人は「先生」と言って尊重してくれる・・・だから、私は自分の仕事の成果が「公知」になることがプライドだった。誰でも私の研究結果、文章、式、なんでもどういう形でも利用してください、なにも求めませんということだ。それは当たり前で、お金から場所からテーマからやり方まで自由に与えてくれるのに、それで何かの権利を主張する方がおかしい。


だから私は「学問の結果は共有物」との認識が強く、「誰」とか「何時」というものを問題にしなかった。当時(私が完全に現役の時)、「属人的、経時的なことはすべて排除する」と言っていた。たとえば「トインビーが1960年代に著した歴史の研究で、民族が目覚めるときは」と書くところ、「歴史学によると民族が目覚めるときは」と書き、もちろん文献も引用しなかった。


学生があるデータを整理して持ってきたら、「君、このデータも入れて整理したらよい」と言って他の学生のデータを示した。学生が「それは**君のデータだから」というと、「科学に「誰」ということはないよ。データに所有権はないし、仁義もないから」と教えた。


ところが、「学問には人も時も関係がない」という私の考えは多くの人は受け入れてくれなかった。だから、現実には、他人の業績(私に言わせれば人類共通の成果)を引用したり、学生に「とはいっても、整理するときだけ人のことを忘れて、レポートの末尾に彼の名前を入れておいた方が良いだろうね」と言った。妥協していたが、本当は不本意だった。


学問は真実を追求するものであり、それは人間にとって困難なことだ。だから、できるだけ「事実や因果」と関係のないものを考えないようにして、純粋にデータと向き合わないと真実がわからないと思っていた。学生にも、「自分のデータ、他人のデータと区別していたら事実は分からないよ。全部、自然のものなのだから」と教えていた。


そんな私にとってみると、もともと剽窃などということの意味も理解が難しい。著作権や特許権は社会が権利として認めているのだから、それに従うが、権利もないものを自由に使ってはいけないと言われると、その理由を聞きたくなる。聞いてみると、「その人に悪い」とか、「自分の業績を膨らまそうと思っているのか」といった、およそ学問に関係のない理由を言われる。まったく納得できない。


学問に身を投じたのだから、すでに禊は済んでいて、「学問の前に個は捨てる」ことはできている。「個」がないのだから、「他人」も「自分」もなく、「遠慮」も「業績」もない。自分がこの研究を考えるのに使うべきだと思うものは自分であるとか他人であるという意識はない。また自分が使っている言語、思想、概念、理論式、解析方法、データなどおそらくは99%は、言ってみれば他人のものであって、自分が独自にやることは自分の著作物であっても1000分の1を上回ることはあるまい。だから学問には自分はもともと無い。


自分が「個」から離れて「真実」と向き合うとき、はじめて私は「学問にたずさわる喜びと感激」を味わうことができる。人から評価されるかとか、そんなことは一切、私の心にはない。それでも不満には感じない。お金も場所も地位も提供してもらい、自分勝手に研究したのだから、もう求めるものはないからだ。


剽窃論の中心がここにあると思う。だから私は「剽窃」という言葉自体が学問への冒涜と感じられるのだ。

(平成26年8月15日)

武田邦彦

(出典:武田邦彦先生のブログ





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