2014年6月12日木曜日

STAP細胞問題 改革委、理研に提言「小保方氏に厳しい処分を」(14/06/12)

小保方さんには、法廷で、論文不正では無いことを明らかにして欲しいと思いますね。
「論文不正」を認めると、それを今度は拡大解釈して「研究不正」だと言う人も出てきますから、困ったものです。



小保方STAP再現実験参加への提言QA
 6/12改革委員会





2014年6月5日木曜日

「超」不明朗なSTAP事件・・・関係者は全員、学問から身を引いてもらいたい




「超」不明朗なSTAP事件
・・・関係者は全員、学問から身を引いてもらいたい



昨日の四大新聞の夕刊にはすべて一面トップで小保方さんが論文取り下げに応じたという記事を掲載していた。テレビでも盛んに報道されていたが、いったい、なんだろうか?


STAP論文は科学論文であり、科学的に問題があった場合は、科学的に何が問題かが明らかになることが先決である。私たち科学者(この場合は自然科学を指している。広い意味の科学には文学(人文科学)なども入る。)は「人」を相手にしたり、まして「人のゴシップ」などは全く関心がない。「人」や「ゴシップ」も大切かもしれないが、科学の世界から切り離してもらいたい。


小保方さんは3年前に理研の若山研究室に無給研究として入り(事実はほとんど説明されていないので、推定を含む)、一年目にSTAP細胞の研究の第一段階を突破して、ネイチャーに論文を出した。若山氏は自らの研究室に小保方さんを招き、研究させていたのだから、その内容も成果も十分に理解している。


研究室では週に一回か、月に一回は研究会をするし、小保方さんが外部で発表するときにはその内容を見ている。論文の共著者で分析など一部を担当した人は別にして、若山ー小保方は同一研究室の上下関係にあるから、すこしでも大学や企業で研究をしたことがある人はこんなことは当たり前のことだ。


もし、若山氏が2年前に小保方さんが論文を出すとき、「実験していない」とか、「データが不自然だ」というなら、論文を出すのを止めさせ、自分が共著者になるのを断るはずである。
しかし現実には2年前にネイチャーとサイエンスという二つの雑誌に投稿している。審査(査読)段階で拒否されているので、余計に内容は理解している。


次に、昨年の1月だから、小保方さんが若山研究室にいるときに、笹井さんが論文作成のためにチームに加わった。その時に誰かが笹井さんに依頼し、笹井さんも京大教授から理研に転身した人だから、実験内容、研究解析状態、データの確実性、査読の経緯、査読委員の反論などすべてに目を通した結果、「自分ならできる」と考えた。このとき、まだ小保方さんは無給研究員である。


小保方さんの業績は理研の中で高く評価されて、4月からリーダーになった。部下もついて本格的な実験が始まり、4月には理研は特許も出した。12月に論文が通り、2014年1月に理研主導で記者会見が行われ、世の注目を浴びた。


しかし、「論文が不出来だった」という指摘をネットから受けて、理研はなぜか狼狽し、調査委員会で「論文が不出来だ」という判定をだした。「研究方法に欠陥があった」とか「研究結果が間違っていた」ということは2014年5月に理研が最終的に調査を打ち切る時点で、明らかになっていない。


つまり、「論文のできが悪いから、論文を掲載する雑誌社(民間の出版社)が掲載を認めても、理研は認められない」ということで取り下げを迫った。理研は取り下げを迫る権限を持っていない。そのときの理由は、3枚の写真のミスであり、残りの77枚の図表や4本のビデオについては適否を述べていない。


実に不明朗だ。理研も、若山氏も、そして笹井さんも学問をする場所、あるいは学者ではない。学者のもっとも基本的な用件は「世間がどう考えようと、自らの学問的判断から「真実」と考えていることをそのまま言う」ということだ。それでなければ学問は成立しない。


マスコミは主として東大・京大などの論理曖昧な学者に聞いて事実を見誤っているが、せめてマスコミらしく、若山氏(上司)、笹井さん(協力者)、小保方さんの部下(実験担当者)などに積極的に取材し、事実を明らかにする行為をするべきだった。


昨日、あるテレビで「若山氏も発言すべきだ」と言っていたが、マスコミとしては不見識だ。記者というのは取材の権利を持っているので、理研の正式発表や、記者会見だけにソースを求めるのではなく、取材によって得られたことを中心として番組を構成するべきだからである。


科学の問題は科学で解明し、解決していかなければならない。それなのに、科学のことがほとんどでないまま、あるいは単なる噂の段階で新聞の一面をスキャンダルとしてでて、ケリがついたようになったのは日本の学問にとって実に大きな損失である。日本学術会議、東大、京大など日本の学問の中枢はいったい何をしているのか? 一説(噂)に「小保方さんは倫理観がない」というのが中枢部から聞こえているが、自分たちだけがわかっている事実を示さないとしたら学者を止めてもらいたい。


それに、「論文が取り下げられたのでSTAP細胞はないことになる」などと荒唐無稽な記事を出している新聞もあったが、「知的財産」というのは一回、見たり聞いたりしたら頭に残っている。消すことはできない。裁判所で「それでも地球は回っている」と言っただけで地動説は残っている。学問は形式、隠蔽、権威などとは無関係である。

(平成26年6月5日)

武田邦彦

(出典:武田邦彦先生のブログ






2014年6月2日月曜日

STAP事件後日譚・・・醜悪な理研と毎日新聞





STAP事件後日譚・・・醜悪な理研と毎日新聞


どうしたことでしょうか? 毎日新聞の特定の女性記者のようですが、毎日のように小保方さんをバッシングする記事を出しています。すでにSTAP事件は理研が「調査委員会を再開しない」と発表して一段落しています。


もともと、この事件は理研(小保方さんではない)が大々的に記者会見をしたことで世間の注目を浴びたものですが、その後、論文に疑義が生じ、社会的な話題を集めました。そして理研が2回、小保方さんが1回、笹井さんが1回記者会見を行い、それぞれ違った見解を示しています。


そして理研が調査委員会を開かないことを表明し、お互いに情報戦は終わりになっています。また小保方さんは法律に違反した犯罪人でもなく、タレントでもありません。単なる一般人の一個人です。


ところが、最近、どういう意図を持っているのかは不明ですが、「すでに終わったことで、一般人」なのに、毎日のように毎日新聞から「理研がリークした小保方さんに不利なこと」が報道されています。


その内容は小保方さん(2013年正式社員で入社一年目)の責任とは考えられない予算の使い方の不都合、論文のさらなるミス(”ミス“としたほうが間違いと思うが)、採用の時の問題(小保方さんに関係がないが印象を悪くすることは確か)などです。


くり返しますが、まず、第一に小保方さんは犯罪人でも、タレントでもなく、普通の一般人で研究者で、しかも理研の従業員です。騒ぎになったのは、単にマスコミが理研の記者会見に幻惑されて1月末に報道しすぎたというだけのことです。彼女の論文に科学的な興味を感じて読んだ人は少ないと思います。多くの人が単にスキャンダルとして見ているのが現状です。


毎日新聞というのは全国紙で、その発信力は絶大です。その絶大な発信力を使って犯罪人でもタレントでもない一個人をここまで執拗にバッシングする意図はどこにあるのでしょうか?


まず、この行為は「社会正義」ではありません。社会正義の最も基礎的なものは「法律」ですから、放送法第四条のように巨大マスコミは「意見の違う時には多角的に」というのが原則ですから、理研の方の情報に重きを置くのは問題です。


また、オウム真理教の松本事件の時に、普通の人がマスコミによって犯人に仕立て上げられたことをキッカケに、一般人の報道についてはかなり改善されてきたのに、小保方さんの件になると、まるで「小保方さんは刑事事件の犯人だ」といわんばかりの報道姿勢です。


コピペにしても、写真の誤用にしても、むしろコピペの方が著作権法に合致しているのですから、法令を守って村の掟を破った人を村の掟を重視する側に大新聞がつくのは不見識です。


放送は中止になりましたが、小保方さんの名前をもじって彼女の人格を傷つけようとしたテレビ局もあり、日本社会が「法律に基づかないリンチ」=子どものイジメとなんら変わりない・・・という状態にあるのは残念です。


また、「理研の規則」のうち、他人の文章をコピペしたことを「盗用」としているのは、理研の規則が法令に違反しているのですから、「理研の規則で罰せられたのだから有罪だ」などということも無く、むしろ法令に違反する規則を決めて、従業員を罰っしようとしている理研の方に辛い姿勢を取らなければならないでしょう。


このように見て行くと、毎日新聞の報道姿勢は、「法令に元ずく正義を軽んじ、自分たちの村の掟、日本の空気、個人のバッシング、イジメを優先する」という実に醜悪なものであることが判ります。


即刻、これまでの報道態度についての見解を示し、軌道修正することを求めます.こんなことではどんな社会問題も解決せず、こじれるだけで日本の大新聞としての存在価値がなくなります。

(平成26年5月28日)

武田邦彦

(出典:武田邦彦先生のブログ




2014年5月31日土曜日

【STAP騒動の解説 260525】科学利権からの離脱(2) 学者はなぜ「論文」を出すのか?





科学利権からの離脱(2)
学者はなぜ「論文」を出すのか?



先回このシリーズで示したように、「国のお金をもらった研究の成果は公知」、「会社のお金でやった研究は特許と製品で会社の収益」であって、理研が言っているような「税金を使って研究をして、その成果を個人が採る」などということはもともとあり得ないのです.


でも、なぜこれほどまでに日本の学問の世界は汚染されたのでしょうか? さらに理研は特殊法人の資格を取って、「国民の税金を使い、年俸1億円の研究者を雇いたい」としてきたのです。


お金で何かを推進しようとしたら、「お金が欲しい人」が熱心になり、その結果「不正を防止する方法が必要」で、「膨大なチェック機構が求められ」、その結果、「ほとんど何も成果がない」と言うことになるのはこれまでの学問の歴史が示しています.


つまり会社で研究すれば、経営陣や上司が厳しく「研究資金と成果」を見て、ダメとなればヤメさせますし、自分勝手なことができないのも当然です.それは「会社のお金をムダにしない」ために必要なことです。


それに対して、理研では「お金は税金」、研究は「自由」、論文発表も「自由」(理研が小保方論文を出すのを認めたかどうか不明。会社なら提出前にできあがった論文を知的財産部に提出して許可を得る)、さらに理研に反対する記者会見を従業員が勝手に開くことができる、正式に入社して1年目の社員の不祥事(もし不祥事なら)に、上司などが誰も責任を取らない、ということですから、まさに「欲呆け研究所」と言うことができます。


その組織が「公知の論文などの文章をコピペしたら「盗用」」という独自の規則を決めたのも奇妙です.これは日本学術会議の指針を参考にしたものですが、これは「著作権を持つもの」に限定されますから、理研が対象とするものは範囲に入りません.


もし、公園のベンチを利用すると同じにしなければ人類の科学に貢献できないということで、論文に出したものが「公知」になっているのに、科学の進歩を妨げる規則を決めているのですから、驚きます。


この際、日本の科学界は徹底的に論理を正し、日本と人類の科学的発展を求め、村の掟を排除し、正しい学問の道筋を示してもらいたいものです.


ところで、これまで暗黙の村の掟だった「論文業績」をどのようにするか、これも議論を要することです。


研究者が研究資金と地位をもらって研究を始め、普通の場合はしばらくすると、しかるべき成果が出ます。でもその「成果を論文にしろ」という命令も強制力も持っている人はい無いので、サボりの研究者は論文を書きません.そうすると税金を使って研究した成果が国民に還元されないので、研究者が論文を書く何らかの「モチベーション」が要ります。


というのは、「論文を出す」というのは、結構、大変で、今回のSTAP論文でも判るように、英語で10ページほどの文章を書き、グラフや表をそろえ、計算間違いなどがないかを繰り返しチェックし、さらに引用文献を調えるのに共著者がいれば3ヶ月ぐらいはかかります。


さらに学会によって提出する様式をそろえるのも大変で、しかも提出すると5万円から10万円ほどの掲載料をとられ、さらに意地の悪い「査読」を通過しなければなりません。だから論文を出さない研究者も現実には多いのです。


選挙に出る人が「世のため」と言って土下座しているのと同じで、本当は自分に大きな得にならないと、地位が保証されている大学教授が論文を出すことはありません。


つまり、「少なくとも5年に数報の論文を出さないと地位が上がらない」とか、「優れた雑誌に論文を出したら、大きな研究費をもらえる」という方式がとられるようになっています。


現代の社会では「学者の学問的誠意に任せることはできない」と管理側(大学当局、文科省、その他の研究管理組織)が考えるようになったのですが、その一つの原因が学長とか国の委員になりたい学者は「権力志向」であることにもよっています。まさに100年前にマックス・ウェーバーが「職業としての学問」になったと嘆いた通りになっているのです。


そこで、「論文をでっち上げれば研究費がもらえる」と言うことになり、「研究不正」が起こる可能性が出てきました.京都大学の山中先生が「実験ノートは不正を見つけるため」と言われたのはこのことですが、実に哀れな研究現場の状態です。


だいぶ整理が進んできましたので、多くの人がSTAP事件の本質に迫るようになり、また「実験ノート」が「不正防止」という学問とは無縁のことで求められ、挙げ句の果てに研究もしていない「科学倫理」を専門とするという奇妙な人たちの食い物になっている現状も次第に判ってきました。


「学問の世界に議論が不足している」というのは学問そのものとも相容れないのですが、学者はややこしいところがあり、胸襟を開いて議論し、合意をえるのが不得意でもあります。そのうちに徐々に「学問は嫌いだが、管理は好き」という人たちにすっかりやられてしまったというのが現状でもあります。


(平成26年5月25日)

武田邦彦

(出典:武田邦彦先生のブログ




2014年5月29日木曜日

【STAP騒動の解説 260514】 バッシング文化と死後30年





バッシング文化と死後30年



私が高校生の頃、父は「クニ、生きている間に評価されてはダメだぞ。死んで30年ぐらいが良い」と教えてくれた。このことは一度、このブログで、また先日、中日新聞や東京新聞が載せてくれた。


社会は「普通の人の集まり」だから、「現在、正しいと思っていることを正しいとする」ということで成立している。人間は一つ一つの言動を「自分が正しい」と思うことに従ってやるのだから、「何が正しいか」が決まっていなければ生活ができない。だから「今、正しいと思っていることに従う」のは当然なのである。


でも、世の中を切り拓く人とか学者はどうだろうか? それらの人たちは現在と違うことをするのだから、当然、「今、正しいと思っていることには従わない」という特殊なことが求められる。おやじは高校生の私にそれを教えてくれたのだ。


その後、私は企業の研究者となった。企業の研究の中では超長期の研究だったから、「世界ができないと言ったこと」にチャレンジすることになったが、それでも「企業」という保護体の中でのことだったから、どんなに奇妙なことを言ってもバッシングを受けることはなかった。事実、企業にいる時には外からのバッシングは企業が防いでくれた。


大学の先生になってから、私は学問の自由を手にして深く社会に感謝し、私のつたない学問的業績はすべてオープンにして恩返しをしてきた。でも学問なので「今、正しいと思っていることと違う」ことだらけだった。


「すべての燃えるものは燃えない」、「人工的に作られたものも命を持たせることができる」、「リサイクルはすれば環境を破壊する」、「CO2は増やしたほうが良い」というようなことだから、これがバッシングされないで済むはずもない。社会と正反対だ。


でも、自分は研究や調査を通じて、それが正しいと思っている。自分が思っているだけで間違っている可能性もあるが、学問と言うのはそれで良い。政治ならいくら正しくても人を説得しなければならないし、商売ならとても役に立ってもお客さんがそう思ってくれないとだめだ。


でも、学問は自分だけでよい。どうせ自然に対しては私たちは小さい。その代り、それが本当になるのは30年後で、その時には私の子供や少しの友人が「あの人は正しかった」と言ってくれれば満足だ。


もし、間違いだったら、「あれはダメだったね」と言ってくれれば良い。その時はできると思ったのだから。


私が「バッシングは平気です」というとみんなびっくりする。「なんと傲慢な人か」、「おかしいんじゃないか、あいつは?」ということになるけれど、それが親父の教えてくれたことであり、私の望みなのだから、始末が悪い。攻める方は一般的な攻撃手段が取れない。


ある時、会社の顧問をしていたが、社長が「ほかの人は簡単だけれど、武田先生は厄介だ。お金で動かないから、どうしたら良いかわからない」と言った。私もお金がいらないということはない。その頃は大学の先生の給料だけだったから、豊かではなかったが、朝ご飯を食べ、電車に乗り、大学で研究をすることができた。別に私の人生にとって十分だった。


そんな私にとってSTAP事件は驚くことばかりだ。どうもお金や名誉のために論文を出している人が多いらしいし、人が親切心で論文を出したのだから、良いところだけを取ればよいのにバッシングしている。それより、小保方さんの論文は上出来で、面白い。でも、競争やお金の中にいる人は欠点が目につくのだろう。


ノーベル賞やオリンピックのメダルを取る人は偉い。私は素直に尊敬する。でも、その人たちは、地位も、名誉もいらないはずだ。自分の好きなことをして世界的なレベルに達したのだから、それで満足しているだろう。もし、足すとしたらお金や地位ではなく、「みんなの尊敬のまなざし」だけではないか?


(平成26年5月14日)
武田邦彦

(出典:武田邦彦先生のブログ






2014年5月28日水曜日

小保方晴子氏、STAP細胞論文1本の撤回に同意







若山教授の行動が、いつも不自然に感じるのは、私だけでしょうか?

若山教授が今回のSTAP騒動の火元のように思いますね。
理研も若山教授の件は、調査しないと決定したので、もっと大きな何かの秘密があるように感じます。



2014年5月27日火曜日

STAP論文新たな疑義 理研は調査せず 2014年5月26日



STAP論文新たな疑義 理研は調査せず



2014/05/26 に公開
STAP細胞の論文のグラフや画像に、新たに見つかった疑義について、理化学研究所は­、一部の著者からすでに論文を取り下げる意向が示されていることを理由に調査は行わな­いことを決めました。

STAP細胞の論文について理化学研究所は、小保方晴子研究ユニットリーダーがねつ造­と改ざんの2つの不正行為を行ったと認定して調査を終了し、これを基に関係者の処分の­検討を進めています。

こうしたなか、先週新たにこれらの不正以外にも複数の画像やグラフに疑義があるとする­調査内容を研究所の別の検証チームがまとめていたことが分かりました。

これを受けて外部の有識者などで作る改革委員会は、研究所に対し正式な調査を求めてい­ましたが、理化学研究所は26日、一部の著者からすでに論文を取り下げる意向が示され­ていることを理由に調査は行わないことを決めました。

専門家「常識的には考えられない」
これについて、研究の倫理問題に詳しい東京大学医科学研究所の上昌広特任教授は「論文­を取り下げるかどうかと不正かどうかの調査は別の話で、常識的には考えられない対応だ­。

まだ表に出ていない不正の構造が隠れている可能性もあり、再発を防ぐためにも調査す­る必要がある。

小保方リーダー以外の著者の責任があいまいにされてしまう可能性もあり­、調査しないと決めた理化学研究所の組織の在り方が問われる」と話しています。

(出典:YouTube revirasu)


2014年5月20日火曜日

科学利権からの離脱 (1) 研究の変質




科学利権からの離脱 (1) 研究の変質


大学で研究する時、まず日本社会は私に「学問の自由」をくれる。どういう研究をするか、研究の方法をどうするか、いつ諦めるか・・・すべての自由が私に与えられる。研究をするものとしてこの自由はかけがえのないものだ。それを憲法が与えてくれている。


次に研究資金として「税金」をいただく。国立大学は給料も含めて、研究費もほとんど全部が税金で、私立大学でも授業料を先生の研究費に投じるのはむつかしいので、いろいろなところから「公的資金」を獲得して研究する。自分のお金で研究している人はほとんどいない。


だから、大学で研究して成果を出したら、それは「自分のしたいことをさせてもらった」ということで社会に恩返しをする。それが発表であり論文だ。このことによって社会は新たな「知」を獲得し、それを利用して発展する。これを「公知にする」という。


この図は、3種類の研究とその成果の帰属を整理してみたもので、会社の研究の場合は、研究ではテーマを指定され、会社の資金で研究する。だから成果がでたら、特許を取り、製品を作る。研究の自由はある程度あるが、会社の都合で研究を途中で止めろと言われればそれに従うことになる。


でも、大学の研究も、会社の開発も、つじつまがあっている。大学では、学問の自由と税金をもらったのだから、成果を自分のものにするのは良くない。それでも立派な業績を上げると表彰されたり、教授になったりするので、自分にも十分に返ってくる。


会社でも研究で会社の収益に貢献したら、やや出世に有利だし、良い仕事をするチャンスも増える。それなりにつじつまが合っていて、報われている。それに対して、今度事件をおこした理研はかなりひどく、社会的な悪ともいえる状態だ。


学問の自由をもらい、国民の税金を使い、自由に研究して成果が出ると、特許と論文を出し、それでまた給料や待遇が上がる。そんな「矛盾したシステム、わがままシステム」だから、不正も起こるし、「実験ノート」も必要となる。


今回の事件が、「自由とお金」をもらった人が、その成果も「自分もの」にしようとする理研そのものの考え方があまりにも図々しいことによる。こんなことは普通の社会にはないが、それに気が付かないのは「俺たちは頭が良いのだから、お金をもらおうが、自由を得ようが、そんなことは当たり前だ」と言う傲慢な心があるからだ。


人が知恵をつけるのは、自分を見つめることができ、頭が下がってくることだ。「稲穂は実るほど首を垂れる」と言うことでなければ、頭に何を詰めても意味がない。立派な学問を積み、成果を上げてもふんぞり返るなら、本当は頭の中が空っぽであることを示している。


しかし、今回の理研のことで、大学の学者が「コピペが悪い(公知ではない)」、「実験ノートが必要だ」と言ったのは、残念ながら大学の研究も、いまや「立身出世と研究資金獲得、ただでヨーロッパに行く」と言うことを目的とし、それでも「自分のお金で研究するのは嫌だ」ということになるからだ。


それではなぜ成果が自分のものになるのに、自分のお金を出したがらないかと言うと、「俺は頭が良いから、世間は俺にそのぐらいはするべきだ」と言う傲慢な心があるからだ。


科学の研究を「科学利権」から遠ざけていかないと、日本人は学者に無駄な税金を投入することになる。


(平成26年5月20日)
武田邦彦

(出典:武田邦彦先生のブログ







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