2014年8月17日日曜日

【STAP騒動の解説 260817】 剽窃論 第三章 知の財産の人類的意味




剽窃論 第三章 知の財産の人類的意味


1.「知の財産」の意味
このところの地球は13万年ごとに寒くなったり暖かくなったりしているが、現代の私たちの住んでいる時代はちょうど13万年の周期の温暖期の2万年に当たる。そろそろ寒くなる時期で、あと5000年も経つと日本は一面の氷河におおわれて人は住んでいないと推定されている。
一つ前の温暖期にはネアンデルタール人がいたけれど、彼らは10人ぐらいの集団を作り、主として狩りをしながら生計を立てていたと考えられている。文化人類学などの知見によるとその頃でも原始的な所有権の概念があり、あたたかい洞窟の中の場所や鋭い矢じりなどはその集団で最も力の強い男性の所有物であった。しかし、なぜそれらが「所有物」になるかというと、洞窟の一か所を占有していると、同一空間に別のものが入れないので一人の独占になる。矢じりもまた同じだ。
現代でも同じで、自動車を持っているとその自動車に乗ってあちこちに行くことができる。ところが、その人の隣に住んでいても、自動車を持っている人といくら親友でも、自分が自動車を持っていない限り、自動車に乗ることができない。このように「物」というのには所有権があり、その人だけしか、その物の恩恵にあずかることはできないのが大きな特徴だ。
ところが、先のネアンデルタール人の集団でも、誰かが「あの坂を上ったところを左に曲がるとウサギが捕れる」という情報を口から出すと、その瞬間にその「知の財産」はその集団全員の共通の所有物になる。聞いていた人の頭にはその「知の財産」が入っているし、聞いていなかった人はない。でも外から見てもどこから見ても、だれがその知の財産を持っているかも判別できない。
しかし、それは確実に「財産」である。知っている人はウサギを手に入れることができるし、知らない人はウサギを捕ることができない。つまり知の財産を行使しなければウサギは手に入らないが、行使すれば手に入るから「準所有権」のようなものである。
近代になって印刷物ができてから、たとえばトルストイが「戦争と平和」という素晴らしい小説を書く。まず小説を紙に印刷すると何百万人という人が同時に、トルストイの創造力や知に接することができる。さらに、図書館からトルストイの「戦争と平和」を借りて読むと、その人の頭の中にある物語は二度と再び消し去ることはできない。
つまり、印刷物というのは形を成しているように見えるが、そこに書いてある「字」は単に伝達するときに必要なだけで、知の財産そのものはトルストイから読者へ伝わってしまう。もちろん、文学ばかりではなく、音楽、絵画、科学などすべて同じだ。
ダーウィンが進化論を唱え、「人間はサルから生まれた」という素晴らしい知の財産を私たちに提供してくれたので、ダーウィンの著作を読まなくても、また何回使っても、人間の頭からダーウィンがくれた知の財産は減ることもなく、去ることもない。このブログに書いた「五条川の桜」も、読者の方からメールをいただいた「夏の花火」も、景色という知の財産であり、見た人はその瞬間にその美しい景色が脳に焼き付き、その後、その人の所有物になる。
つまり、「物」はそれを所有する人だけに恩恵を与え、古くなったり、捨てたりすればそれで終わりだがが、人が生み出した知だけは消えることなく、人間社会の中で拡散し、永久に残り、利用される。
それでは、誰かが「人はサルから生まれた」と「思う」たびに、それはダーウィンが発見してくれたことだから、常にダーウィンの名前をだし、その対価、つまりお金をダーウィンに払わなければならないのだろうか。日本語を話すときには必ず日本語を作った人、または明治の初めに「民主、国家・・・」などの多くの熟語を作った福沢諭吉の名前を出す必要があるのだろうか? それは人類の歴史が始まってからすべては共有財産だった。
ところが、社会が複雑になり、18世紀のイギリスで知の権利に対して関心が高まった。それまでは物の所有権しかなかったが、人間の知の産物に対しても権利を認めようではないか、そうしたほうが知の財産が増えるのではないか(社会的に得をするから個人に権利を与えたほうが良い)ということになった。
でも、「物の所有権」は人間本来の権利であるが、「知の所有権」は「入会権」(ネアンデルタールの時代に、洞窟の奥の場所と鋭い矢じりには所有権があっても、みんなで獲物を取りに行く森は共通財産)と同じとされた。それは現在でも同じで、まったく変化していない。「物」の権利は普遍的だが、「知」のほうは共有が基本で、特別の場合に権利を認めている。第一、書籍とか写真のように「形」になっている知の財産はまだ保護の使用があるが、人の頭に入っている知は、それに他人が権利を主張しようとしても現実的に実施する方法がない。ある人から「その知識は俺のものだ」と言われても、頭の中の知識を捨てることもできない。
そこで、知の財産に特例を設け、著作権(表現しているもの)と特許権(現在は工業所有権。請求範囲が特許庁などの公的機関で確定しているもの)に限定して「時限的に」権利を与えることになった。だから「表現されているもので、法律で定められている著作権」と「権利範囲が明示されている工業的産物」だけが共有財産で、理研の内規で定められている「他人の考え、実験方法、事実としての実験結果」などは誰がいつ使ってもよいものだ。
しかし、このことがあまりはっきりと社会に認知されていない隙をついて、過度に権利を主張しようとしているのが、学者、メディアなどの情報を発信できる立場の「知識人」なので、混乱が生じている。知識人は「知」で商売をしているので、どうしても自分の知を守ろうとするし、それを少しでも収益に結びつけようと画策する。また知の財産の所有権がもともと難しいので、素人をごまかすのは容易でもあるので、社会はついだまされる。
2014年のSTAP事件や、2011年の福島原発事故の3号機爆発映像などは専門家が知の財産について社会をごまかした典型的な例でもある。その意味で、ごまかす方も必死で、総がかりであり、NHKが数度の特集を組んだのも法律(著作権法や放送法)を破ってまで利権を守る行為だった。

(平成26年8月17日)

武田邦彦

(出典:武田邦彦先生のブログ



2014年8月16日土曜日

【STAP騒動の解説 260815】 剽窃論 第二章 法律と内規(著作権法と剽窃の内規)(その6)




剽窃論 第二章 法律と内規
(著作権法と剽窃の内規)(その6)



6.第二章のまとめ


さて、この章では剽窃とは何かということを「法律と内規」、それから「学問領域、教育」に分解して議論を進めてきた。その結果、わかったことは、次のことである。
1)法律は整備されていて合理的である、
2)内規は村の掟で誰でも任意に罰することができる、
3)したがって内規を用いて不正という人はアウトローである、
4)このことは理科系でも文科系でも同じである、
5)教育の剽窃はあらゆる場合に成立しない。


学問は普遍的であり、特定の「人間」などに的を当てるものではないので、その点では現在の日本の研究機関における剽窃の規定はすべて学問にはなじまない。まして2014年7月に日本学術会議がSTAP事件で小保方さんの処分を急ぐべきだと勧告したと報じられているが、私はまったく異なる考えである。


科学が嫌うのは「魔女狩り」であり、「魔女狩り」を退治したことが科学のプライドでもある。科学は人間の闇の心に光を与え、闇をなくすのが科学の一つの役割でもあるからだ。現在、名古屋駅前で異常気象の原因と言って女性が火あぶりにならないのはとても良いことだ。それこそが科学の成果である。


しかし、文科省が推奨している「剽窃」の基準を使えば、現代の魔女が火あぶりになる。それこそが許されざるものであると私は思う。ただ、これは武田という個人がそう思うだけで、多くの日本の科学者、評論家、日本学術会議、理研、文科省などは魔女狩りを推奨しているのも事実なので、現代でも魔女狩りが必要なのかも知れない。


また本章の整理をすることで、次のような結論を得た。
1)学生の作品の所有権(著者)は先生である、
2)学生の作品に問題があればその責は先生が負う、
3)研究で「引用」の意味がはっきりしていない、
4)「引用」の必要性が文章で曖昧で、口伝になっているのは学問とはなじまない。


しかし、奇妙である。あらゆる社会的活動の中でもっとも利権と無関係で、誠実、事実、論理などが大切な学問領域でなぜこのような不合理、非論理的なことが起こるのだろうか? 多くの一般の人がそう思うに違いない。


でも、残念ながら科学に長く身を置いた私は、それは仕方がないと思う。というのは学問の世界、教育の世界は一般社会に比べて、妬み、親分子分、不合理、不当な圧力などが満ち満ちているからである。


第一章、第二章の整理を行って、私がもっとも驚いたのは(自分で整理して自分で驚いた)のは、「剽窃で処分を受ける人」が正しく、「剽窃を言って他人をバッシングする人」が社会的な正義に悖る人だったということだ。著作権にも触れず、守ることが不可能な規則を盾に取られて剽窃を言われるのだから、近代国家とも思えない社会の反応である。


しかし日本社会は剽窃で責められている人を悪人をして取り扱っている。これは、現在の日本社会が「公的な財産」を忘れて、「すべてのものには個人の所有権がある」と固く信じていることによると考えられる。日常的な生活では家の前は公道で誰が歩いても構わないし、公園に行けばベンチがある。しかし、それらは本来的に公共のものではなく、税金を払っているので、所有を強要しているだけという感覚である。


人間という集団が本来持つ財産という概念は、個人主義の社会で大きく後退しているように見える。しかし、仮に「公園のベンチ」が本来的な共有財産ではなく、みんなで税金を払っているから共有だというなら、理研の研究費もまた税金で行われている。人類の知の財産はもともと共有財産であるし、さらに加えて理研の研究は税金で行われているのに、それを所有物のように考えることが事件を引き起こしているようにも見える。


アメリカの国家的著述物がアメリカ人全体の財産であるとされているのに対して、日本政府の刊行物は必ずしも共有財産ではない。第一章の冒頭に示した厚生省から国立研究機関の所長になった人が朝日新聞の故なきバッシングを受けたのも、このあいまいさが原因している。


さらなる研究が必要である。

(平成26年8月15日)

武田邦彦

(出典:武田邦彦先生のブログ






2014年8月15日金曜日

【STAP騒動の解説 260804】 剽窃論 第二章 法律と内規(著作権法と剽窃の内規)(その5)




剽窃論 第二章 法律と内規
(著作権法と剽窃の内規)(その5)



5.教育と剽窃


これまで学問領域での剽窃を取り扱ってきたが、この節では「教育における剽窃」を整理してみたいと思う。STAP事件が起こったとき、テレビは「教育での剽窃」、「論文の剽窃」をほぼ同じく取り扱っていた。テレビカメラが学生にインタビューして「先生から必ず引用しろ、コピペはダメだ」と厳しく言われたという映像が流れ、そのあとに「だから、論文もコピペはとんでもない」と続く。実に非論理的だった。


このようなことが起こるのは、教育と研究の差がわかっていないこと、教育より研究が「上位」だから、教育で注意されることを研究する人が守らないでどうするのだという世俗的なことが背景にあると考えられる。


小学校の教育は基本的にはコピペを許さない。それは自分で字を書くこと、文章を書く力を養うことなど、基礎的な「訓練」が必要だからだ。お習字を学ぶときに隣の子供の作品をコピーして先生に提出すると怒られる。それは「お習字で書いたもの」を必要としているのではなく、書いたものは価値がないのだが、書く過程が教育だからだ。


ところが、会社では昨年の入社式次第をコピーしてそれに今年の年だけを書き直すのは「よいこと」である。つまり上手な人が書いた昨年の入社式の式次第は有効に利用すべきであり、わざわざ時間を使って下手な人が作り直す必要はない。そんなことをしたら上司が「少しは頭を使え」と怒るだろう。


教育でコピペが嫌われるのは、「訓練」であり、「作品」には意味がないからだ。事実、私が試験をして学生から膨大な解答を集める。そこには素晴らしい論述もあるが、採点して必要なものだけは取っておくが大半の学生の解答は捨ててしまう。実にもったいないが、教育は学生が論説を書くときに完結してしまうからだ。


私は美術大学で20年ほど教鞭をとった。ある時、学生に課題を出したら素晴らしい作品が提出された。なにしろ美術は学生だから下手な作品をつくるということはない。モーツアルトの5歳、7歳の曲は高く評価されている。あまりによい作品でひょっとしたら値段がつくのではないかと思ったので大学に聞いてみたら、「学生に出した課題で提出された作品の所有権は先生にありますから、先生が価値があると思ったら先生のものです」と言われた。


確かに、学生の作品に勝手に教師が手を加えることがある。作品の指導という意味では、学生の作品が学生の所有物であると、指導することができないこともある。先生の所有なら「こうしたほうが良い」と先生が作品に手を加えることができる。


普段の試験や課題の解答や作品でもこのようなことが多いのだから、卒業論文、博士論文になるとさらにややこしくなる。卒業論文や博士論文は学生から提出されると、普通は主査の先生(指導教官)が見て、学生に修正を求める。特に卒業論文は一人の学生にとって人生初めての論文だから、文章、図表、論理、構成、引用、謝辞にいたるまで指導が必要だ。だから事細かに指導する。


先生が学生に指導するとき、もし学生が修正箇所の多くで「修正しません」と言った場合、論文が通らず卒業できないことになる。すでに就職などが決まっている学生は論文が通らずに就職もできず、学資がなければ退学ということになる。だから、先生の修正の指示はほぼ守る必要があるし、それは学校教育全体も同じである。


ということは普通の卒業論文も先生が所有権を持っていて、学生の名前がそこに書かれているのは単に「最初はこの人が書いた」というぐらいの意味しか持っていない。


ここで注意しなければならないのは、初歩的な議論では「その研究は学生がしたのだから、先生がとるのはズルい」ということが言われるが、学問は作業ではない。最近の実験の作業の多くが自動化されたから、このような議論の延長線上には「実験器具に卒業免状を与える」という奇妙なことになる。


博士論文の場合はやや趣が違うが、基本的には同じである。不十分な博士論文が提出されると、主査の教官は修正を指示する。そしてほとんどすべての場合、学生が修正に応じなければ合格しない。私の場合、主査の先生はOKしたが、副査の先生のおひとりが論文の一部の記述の修正を求めた。私は「これは研究の中心だから修正することはできない」と頑張り、主査の教授がなんとか話をつけてくれたことがあり、私は文章を修正し、概念や理論式は修正しなかった。具体的には「・・・考えられる」という文章を「・・・とも考えられる」と修正した。論文を提出する人が「考えられる」と言っているのだから、それでよいようにも思うが、副査の先生は「学問的に考えられない」という判断だった。それも正しい。


卒業論文や博士論文については、修正をせずに提出されたものが合格なら合格、不合格なら不合格とする方法もあり、その場合は、論文の所有権、著作権、著者としての権限を学生が持つことになるが、その場合は不合格がかなり多くなる。現実とは違う。


ところで、剽窃という意味では全く違うことも教育では考える必要がある。たとえば、「できるだけ多くの資料を探して、早く・・・のレポートを提出せよ。情報の出典は必要があれば記載せよ」という課題を出したとする。一般社会では、自分の調べたものを論文として出すなどということは少ないので、先生は学生が一般社会でできるだけ内容の良い調査を早くできるための訓練をさせることがある。


このような場合、先生はコピペを奨励し、特に図表などはそのまま切り貼りさせる。たとえば、「最近のハイブリッドカーのメカニズムの進化」というレポートを学生に求めたとき、学生が「図表の著作権」などを考えて、切り貼りができなければレポートを作ることはできない。あくまで将来、社内などで使うことを目的とし、かつレポートが提出されれば学生に発表させ、みんなで現状を深く理解するためだから、「剽窃」などは関係がない。


著作権法では教育で使う場合は原則として自由だが、著作権のないものには制限がかかるという逆の関係にある。STAP事件の場合も、著作権のないアメリカ国立機関NIHの文章をコピペして「盗用」、研究不正とされた。著作権がないということは「自由に使ってください」という意味なのに、そういわれて使ったら罰せられたという例だ。またこの時、指導教官が「緒言などは創造性がないから、著作権のないものはコピペしたり、図表は書き換えなくてもよい」と指示したとすると、教官の指示に従ったら「研究不正」と言われたということになる。


博士論文も含めて教育中の作品の所有権は先生にあり、提出した時に不十分だったり、合格作品(論文など)が不適切だからと言って取り消すことはできない。もし社会的制裁を加えるなら、先生が退職するべきである。

(平成26年8月4日)

武田邦彦

(出典:武田邦彦先生のブログ


2014年8月14日木曜日

【STAP騒動の解説 260810】STAPの悲劇を作った人たち(3) 2番目は学問より政治が好きな学者たち




STAPの悲劇を作った人たち(3) 
2番目は学問より政治が好きな学者たち


先回の記事にまとめたように、理研の調査報告書ほど奇妙なものはありませんでしたが、1)論文は複数の著者で書いていて、故笹井さんが中心になって執筆したとされているのに小保方さんだけを研究不正の調査対象にしたこと(筆頭著者が責任を持つというのは特定の学会の掟に過ぎない)、2)不正とされた写真2枚はすでに調査委員会が調査を始める前に自主的に小保方さんから提出されているのに其れに触れずに不正としたこと、3)写真を正しいものに入れ替えても論文の結論や成立性は変わらないこと、4)理研の規則には「悪意のないときには不正にはならない」と定めているのに「悪意がなくても悪意とする」としたこと、などが特に奇妙でした。


そして、調査結果に対して不服があれば再調査するとしておきながら、再調査はしないとしたり、調査委員長がSTAP論文と同じミスをしていたのに辞任だけで研究不正とはしなかったことなど、実に不誠実な経過をたどったのです。


しかし、その後の展開もさらに奇妙なものになったのです。2014年5月にSTAP事件に関する理研の最終報告書がでると、メディアは「論文の不正が確定した」と報道し、さらに論文が取り下げられると「これですべてゼロになった」としたのです。つまりメディアと理研で、研究者を不正として非難を展開し、論文を取り下げざるを得ないようにし、2014年7月2日にSTAP事件は、論文が取り下げられたことによって、
1)不正が確定し、
2)もともと何もなかったことになった。
 のです。しかし、その後、さらに社会は奇妙な方向に進みます。それは
3)STAP細胞の再現性が得られれば良い、
4)STAP論文にさらに別の不正がある、
 と言い始めたのです。この奇妙な仕掛けをした人はまだ特定できませんが、もともとこの事件はSTAP論文にあり、その論文が取り下げられたことで「ゼロになった」としたのですから、STAP細胞があるかどうか、つまり研究が成功したかどうかも問題ではありません。


(もちろん、「再現実験」などは科学的にあまり意味のないことで、価値のある研究ほど論文の再現性には時間がかかりますし、再現性があるかどうかは科学的価値とは無関係です。)


ですから、日本社会が正常なら、STAP研究は社会の目から遠く離れて、また2013年までのように「理研内で静かに研究ができる」という環境に戻ったのです。今頃、笹井さんも小保方さんも通常の生活に帰り、理研かあるいは別の場所で研究を続けていたでしょう。


小保方さんは研究は順調で、論文にケアレスミスはあったけれど、ウソやダマシはないと言っていましたし、笹井さんも記者会見や取材で「自分のチェックが甘く論文に欠陥があったことは責任があるが、研究は順調だ。論文に示された4本のビデオからも研究が有望であることがわかる」ということを言っておられました。


ところが、この経過の中で再び火の手が上がったのです。それが、若山さん、メディアの登場していた研究不正に関する専門家と言われる人たち、そして分子生物学会を中心とする学者や日本学術会議でした。私はメディアに登場する専門家の方の論文を調べてみましたが、暗闇の中で苦しく創造的な研究の経験のある人はおられませんでした。


その中で、若山さんは何が目的であったかはっきりしませんが、共同研究者でなければわからないような日常的で小さなことを何回かにわたってメディアに暴露を繰り返しました。特に「マウスが違っていた」とか、「小保方さんがポケットにマウスを入れて研究室に入ることができる」など、研究内容より人格攻撃と思われることを言われたのにはびっくりしました。


私は研究者が身内をかばう方が良いと言っているのではなく、犯罪も被害者もなく、論文も取り下げたのですから、研究の内部の人だけが知っている細かいことを言う必要がないのです。特にマウスの問題は若山さんのほうが間違っていました。


次に、研究不正の専門家ですが、理研内部の人、東大東工大グループと称する匿名の人、京都大学の人、それに医学部出身者を中心にして、きわめて厳しいコメントが続きました。すでに理研の調査が終わり、「不正が確定した」とし(わたしはそう思わないが)、論文が取り下げられ、もしくは取り下げの手続きが進んでいるのですから、その論文の欠陥をさらに追及したところでまったく意味がありません。


また、論文を執筆したのは最初は小保方さんと錯覚されていましたが、すでに3月ごろには笹井さんが中心になって書き直したことがわかっていましたし、若山さんの力では論文が通らないので、笹井さんの知識をもって論文をまとめたこともわかっていたのです。研究不正の専門家は研究不正という点では知識があると思いますが、研究そのものについてははるかに笹井さんのほうが力があると考えられますから、普通の学者なら「私より力のある人が書いたものだから」と遠慮するのが普通です。


それに加えて分子生物学会が学会としての声明を出しました。3月11日の理事長声明をはじめとして、7月4日の第3次声明が続き、論文が撤回された後も、「不正の追及」をするように理研に求めました。この声明に答えて、学会幹部も声明を出しました。たとえば大阪大学教授が理事長声明を支持することを社会に向かって表明し、「STAP論文はネッシーだ」という趣旨の発言もあったと伝えられています。


学問というのは「坊主憎けりゃ袈裟まで憎い」というような不合理を排するものですし、STAP論文で指摘されているのは(ネットの匿名を除いて)、「写真2枚のミスと1枚の加工」だけであり、「その裏に理研の腐敗体質がある」かどうかは不明なのです。理事長声明はSTAP論文に関する研究に大きな不正があったとして、理研にその返答を求めていますが、学会が伝聞によってある特定の研究者や研究機関を批判するのは、好ましくないことです。


学会は学問的に間違っていることを明らかにすることはその役目の一つですが、組織の運営や研究者個人の人生にも活動を及ぼすものではありません。普通なら笹井さん、若山さん、小保方さんの発表を聞きに行って、自分が疑問に思うことを質問するとか、学会単位なら、研究者を丁寧に研究会にお呼びして、ご足労をお詫びし、疑問点を質問するということをします。


このような活動は「学者は学問的なことに興味がある人」だからで、「運営、管理、虚偽などには興味がなく、また自分の研究時間を犠牲にしてそんなものに関係する時間も惜しい」のが普通です。


私は、ネットの人、理研内部の人、研究不正の専門家という人たち、それに分子生物学会の学者の方は学問には興味がなく、管理運営などにご興味があるということなら、学会から去っていただき、別の仕事をされたらよいと思うのです。学問は比較的簡単で、人を批判しなくても自分でよい仕事をすれば、みんなは評価してくれるからです。


「学者なのにいやに政治家のようだな。自然より人間に興味があるのかな?」というのが私の感想です。この人たちがSTAPの悲劇に加担することになりました。

(平成26年8月10日)

武田邦彦

(出典:武田邦彦先生のブログ




2014年8月12日火曜日

【STAP騒動の解説 260804】 剽窃論 第二章 法律と内規(著作権法と剽窃の内規) (その4)




剽窃論 第二章 法律と内規
(著作権法と剽窃の内規)(その4)



5. 文科系学問の剽窃と文理融合


剽窃の問題では、歴史学のような人文科学や経済学のような社会科学と、自然科学の間に大きな認識の差があるように感じられる。一般的にいわゆる文科系の論文や書籍では、自然科学者から見ると、膨大な引用文献、さらには引用文献についての注釈などがついている。


自然科学でも「引用の目的」ははっきりしないが、他の科学の分野とともに考える場合は、さらに複雑になる。自然科学の論文で引用する目的は、1)著作権のある書物などの引用(法律的な引用・・・ほとんどない)、2)仲間内の仁義上の引用(無断で他人の論文のデータなど使うと悪いから、あるいは所属する機関の内規などで決まっているから)、3)読者がデータの出所に関してさらに調べたいという場合のサービス、4)自らが使ったデータや理論式の信ぴょう性を上げるため、5)引用文献数が少ないと格好が悪いから、などがある。


私自身は、所属する大学などの内規は見たことがないでの、自分の経験や仲間内の「飲み方」などでみんなが言っていることを参考にして、主として3)を意識している。私はやや考えがあって、4)を重視していないが、科学者の中には4)のために引用している人も多いように思う。


つまり、自分自身の先行論文や他人のデータなどを使うとき、その実験条件などを書くには紙面の制限から許されないので、読者の人には不親切ではあるけれど、引用文献を示すことによって「そちらを見てください」という意味で引用することが多い。これについては神経質な学会が多く、他人のデータの説明をすると「そんなものは引用に示せ」と査読委員が言ってくる場合がほとんどだ。


現在のようにネットが発達し、ほとんどの論文がネットで見ることができる場合はよいが、少し前まで、引用文献を示されても、現実にそれを参照するのが実に大変だった。大きな大学にいれば学術雑誌のいくらかは図書館にあったが膨大な製本した黒くて重い本を取り出し、その中から該当する論文に到達するのは労力のいることで、いつも気が重かった。小さな大学などでは「取り寄せ」が必要で、手元に来るまでかなりまたなければならない時もあった。


でも最近ではネットの発達で文献をすぐ見ることができるし、場合によっては引用文献を見るより、自分で検索したほうが適切な論文を見つけることも多い。論文に引用されている文献はその著者が「これが良い」と思って引用しているものだが、ネットの検索ではキーワードで拾われる文献はすべて表示されるからである。


私は数年前から論文を引用するのがばからしくなっていた。自分が引用するときに、ネットで検索して自分がかつて読んだ文献を探し、それを書く。それなら文献を引用するのではなく、著者やネットで検索するときのキーワードを示す方が良いからだ。


ところが、人文科学や社会科学では、引用する文献自体がその論文の論理構成を作るうえで必須な場合がある。つまり、「歴史的事実」(歴史学)、「社会的活動データ」(経済学)も不確かな場合があり、研究者自らが採取したデータではないことが多い。そうなると、一つの論文を完成するのに、実質的に他人の思考結果やデータを利用しないと論理が成立しない。そこで、「引用文献は命である」という自然科学とは全く違う考えが述べられる。


また、自然科学でも同じだが、学問は常に事実認識やその解釈が学者によって大きくことなり、それが大学の系列や恩師弟子といった人間的関係によって補強されるので、常に(恒常的に)グループ化、派閥、いがみ合いがある。特に学者は人間的に狭量な人も多いので、他人の考えの価値を認めず、憎しみ合うことが多い。


このような「学説の対立」があるので、その中で引用がさらに大切になることもある。つまり、もともと学問的にあってはいけないことをカバーするために、これもあまり望ましくない「引用過多」が起こるということも頻繁である。


人文科学や社会科学分野での「文献」は、その論文を理解するうえで必要なものであればよいので、たとえばキリスト教の聖書に文献が引用していないから、聖書は学問的にもつまらない書籍だということでもない。そこに記載されていることが十分に根拠があり、新規性を持ち、価値の高いものであれば、それだけで立派な学問的進歩であり、そこに引用があるかどうかは全く別である。


もし、ある一人の学者が、日本史の分野で新しく素晴らしい解釈に思い付き、それを「歴史的事実を引用しない」で、「鎌倉時代には・・・いうことがあり、江戸時代には・・・であり」と記述し、それに素晴らしい解釈をつけたとする。多くの歴史学者がその新しい着眼点に驚き、新しい歴史学が拓かれるということもあるだろう。それに相当するのが自然科学では1953年のDNA論文であり、ほぼ1ページで単に「DNAは二重らせん構造であり、鎖の上の塩基が水素結合を作っている」という文章だけで、「生命の神秘、進化の秘密、遺伝子操作、新しい生物の合成、病気の治療方法の発見・・・・」などのもとになった。


もし、この論文が「引用なし、根拠なし、再現性の方法が書いていない」など論文の本質とは無関係のことで雑誌への掲載が認められず、それから20年たって、同じ内容の論文が、世俗的な苦労をいとわず、性格的にきちんとした学者が書いて論文として認められたら、世俗的なことができる学者が発見者になるという間違った事態が起こる。


私は人文系、社会系、自然系にまたがるテーマ、世間でいう文理融合のテーマを研究することがあるが、自然系の学会に出しても、社会系の学会でも拒絶される。それは「その村の掟とは違うレベルの低い論文」ということになるからだ。ところが、現実にそのような論文を出すと「査読委員がいないから他の雑誌に出してくれ」と言われる。しかし、そんな雑誌はない。つまり、新しい分野には雑誌はないからだ。かつてのように学問が細分化されていなければ「学問誌」とか、「科学誌」というものがあったが、今では学問があまりに細分化され、特定の分野の中にジッと閉じこもり学問の発展的な進歩を阻害している人が大きな顔をする時代でもある。


人文系や社会系の学者は「引用しないなど研究者ではない」という人が多く、それも激しく非難するが、それが「論文の論理構成上必要」というなら「剽窃」や「盗用」ではない。つまり、引用してもしなくても、ある事実や解釈が書かれていて、それを読んだ人が理解できれば、それを引用するかどうかは論理構成で問題にならないからである。


人文系や社会系は、「俗人的情報」を必要としているという面もある。たとえば歴史家「トインビーが・・・言っている」や「ケインズが・・・している」という文章からトインビーやケインズを除くと、意味が変わってくる。つまり、トインビーの「文章」は文章で表現しているのが不十分でトインビーがそういったならこういう意味、ケインズの言葉なら違う意味ということになる面がある。


これは人文系、社会系で、文章力が不足している、もしくは言語の欠陥があるまま使用していることを意味している。また自然科学では、理論式やデータは大切であるが、文章はほとんど意味がない。アインシュタインやワトソンがどのような文章を書いたかが参照されることはなく、アインシュタインの式やワトソンのスケッチが自然科学の成果だからである。


機会があったら社会科学の人にあって、社会科学や人文科学でなぜ引用が必要かを聞きたいと思っている。

(平成26年8月4日)

武田邦彦

(出典:武田邦彦先生のブログ



2014年8月10日日曜日

【STAP騒動の解説 260808】 STAPの悲劇を作った人たち(2) 最初の人は理研




STAPの悲劇を作った人たち(2) 最初の人は理研



先回のこのシリーズで、STAP事件の報道が放送法に適合していたかという整理から、もともとこの事件は「論文を書いた著者」たち、あるいはその「組織である理研」しか当事者(野次馬ではなく、一般の日本社会の概念で「外野」ではない人。ほぼ利害関係者にあたる)がいなかったのではないか、それ以外の「当事者」はNHKなどが作り上げた特別な人たちではなかったかというところまで書きました。


それでは2014年の1月から笹井さんが自殺をされる8月までの実質6か月(半年)間、放送法第4条の4に記載された「意見が対立している問題」というのはいったい何だったのか、それを整理してみたいと思います。


まず研究をして論文を発表した人たちは当事者です。日本の報道では著者のうち、最初から小保方さんだけを特別に扱っていましたが、それは組織体である理研が小保方さんを区別したこと、NHKなどがその判断をそのまま踏襲したことだけで、学問的に言えば著者は同じ立場と言えます(筆頭著者が責任を持つというのは村の掟で、どこにも書いていません。責任著者というのは一部の雑誌で使われています)。


次に理研ですが、研究を支えてきた組織ですから、やはり当事者です。理研は当初から組織としてはやや常識的ではない振舞をしていました。自ら企画して記者会見をし、論文がネイチャーに投稿されて1週間ぐらいすると、ネットで論文の不備が指摘されました。しかし、この時点で指摘されたことは、写真3枚と小保方さんの個人的なこと(卒業論文の不備)で、論文全体が撤回に相当するような欠陥ではありませんでした。


しかし、この段階で当事者の理研は、記者会見を開き、ノーベル賞を受賞した理事長が「頭を下げて謝罪」をしました。ここでこの事件は、大きくこれまでの日本の常識を逸脱し、その後の「錯覚」を加速させたと考えられます。論文の不備を指摘したのはネットの匿名の人ですから、普通なら理研の担当部長クラスの人が故笹井さんらに電話をして、「論文が不備だという声があるけれどどうか」という問い合わせをしたでしょう。


その後の故笹井さん、小保方さんの記者会見などによると、「研究は先進的なものであり、論文には不備はあったが、不正はない」と言っているのですから、理研の調査や記者会見が行われたころは、「理研内部の当事者は研究には問題はないと言い、ネットが炎上している」という状態だったのです。この段階で理研がなにかの声明を出すとしたら、「STAP論文についてネットなどで疑義が呈されているが、論文は価値のあるものであり、著者らも問題はないとしている。理研としては念のため理研内で調査を行う予定である」というぐらいでしょう。


実際、理研は2013年初頭から「若山、小保方」の研究で論文が拒絶されたことから、故笹井さんを研究に参加させ、2013年4月には特許を出願しています。また、故笹井さんは2014年5月ごろの取材に対して、「論文を作成し始めてから、繰り返し若山、小保方さんと議論を重ねた」と言っていますが、新たに研究に参加した人が、それまで研究していた人と十分な議論をすることも当然です。


つまり理研は1年半ほどの間、理研のエース級の研究者だった故笹井さんにSTAP細胞の論文や研究の進展を任せ、それが新しい研究センターへつながるように進めていたことを示しています。その中心的な論文の一つがネットから指摘があったからと言って、方針が変わるのも不思議です。理研としては、論文評価にあたって信頼できる人は、第一に故笹井さんであり、第二に特許を申請するときにその担当をした弁理士(特許出願担当)であり、第三にネイチャー査読委員だったはずです。その研究が基礎になっている論文の80枚ある写真のうち、2枚に違うものが入っていたとしても、全体の研究に影響が及ぶはずもありません。


理研は笹井さんを信頼して副センター長に起用していましたし、この方面では日本の第一人者として世界の評価も高かったのです。その人が執筆した論文をネットで指摘されたからと言って理研が信頼をなくするということになると、「笹井さんより実力が低い他人(ネット)が、「1年間にわたって笹井、若山、小保方が検討を重ねた論文」について、発表後、1週間も経たないうちに指摘したほうが正しい」と理研が判断したことになるからです。


つまり、STAPの悲劇を作った最初の人は「理研」だったことがわかります。理研が普通の研究機関にように、1)謙虚に批判は受け止め、2)なにが問題だったかを調べ、3)十分な科学的根拠をもって調査をする、ことをしていれば、STAP事件そのものは「ネットの炎上」だけで終わったでしょう。


ところが理研が「調査委員会」なるものを作り、不完全な規則を使い(このブログの剽窃論に詳しい。実施不可能な内規で捏造や剽窃とした)、論文の不備が問題になっている(小保方さん個人の問題ではない)のに著者のうち理由を示さずに小保方さんだけを理研は調査対象にしたのです。さらに調査が行き届かないうちに中間報告をして、その中でたとえば実験ノートが提出されていないのに、提出されたと委員長が記者会見でウソまで言ったのです。


この段階で、社会はあまりに不合理に進む理研の調査に疑問を持ちつつ、これほどの不合理が続くのであれば、表面的に発表されること以外になにか大きな間違いがあったのではないか、それが理事長の記者会見の異様ともいえる表情に表れているのではないかと勘繰り始めたのです。


つまり、理研は「もともと無いものをあることにした」という意味で、当事者のいない事件を創作し、それを引き継いだのがNHK、毎日新聞、そして関西系のテレビ番組などでした。

(平成26年8月8日)

武田邦彦

(出典:武田邦彦先生のブログ


2014年8月9日土曜日

【STAP騒動の解説 260802】 剽窃論 第二章 法律と内規(著作権法と剽窃の内規)(その3)




剽窃論 第二章 法律と内規
(著作権法と剽窃の内規)(その3)


 3.自然科学の論文とその内容

科学には、人文科学、社会科学、そして自然科学があるが、ここではそれぞれの例として、歴史学、経済学、物理学を取り上げる。
 歴史学   歴史的事実を明らかにして、解釈を与える。
 経済学   経済的事実を明らかにして、解釈を与える。
 物理学   物理的事実を明らかにして、解釈を与える。

時々刻々、場所によっても違いはあるが、「事実」は基本的には1つしかない。そして解釈も基本的には「もっとも真実に近い解釈」が1つあるだけで、それに近づくために人間の能力の範囲で複数の解釈が生まれるが、最終的には1つを目指している。ただ、歴史学は事実の観測手段が複雑で、価値観と結びつきやすく、経済学は研究対象とする人間社会の変化が複雑で、今のところ、「学問が事実の変化に追いつくことはできない」という状態である。つまり、歴史学では、将来、過去に起こった歴史的事実を遠方の星からの反射波を分析して確定する(たとえば、1000光年かなたの星の反射光は2000年後に地球に到達するので、この技術ができれば2000年前の事実を確定できる)手段が生まれるまでは、事実の確定は難しいだろう。 

また経済学では社会のすべての人の行動をビッグデータで解析できるようになったら、推定が減って諸説は一つの解釈にまとまると考えられる。現在の状態はちょうど、コンピュータで天気予報をしようとしても、計算が終わるまでに翌日になってしまうという状態に似ている。このように、どの分野でもほぼ類似の活動をしているが、現実に使われている手法はかなり異なる。現実に「引用」、「盗用」ということでは大きく考え方も現実的な方法も異なるので、まずは整理や議論が拡散しないために物理学からスタートすることとしたい。

具体的な例として、1905年にアインシュタインが出した有名な3論文(相対性原理や光電効果など)、1953年にワトソンとクリックが出したDNA論文(ネイチャーに掲載)、この論文(文理融合論文で、ネットにだすもの)、さらに先日、私がテレビで使った画像を用いたい。

まず、1905年のアインシュタインの相対性原理の論文であるが、アインシュタインが提案し、まだ議論のある頃には、「アインシュタインが***としている場所と時間を含む方程式は・・・」というような学術論文がでて、その時には論文は引用されている。つまり、1)公開されてからしばらくの間、2)その結果について議論がある期間、に限って引用されていたが、相対性原理が普遍的な原理として認められたあとは、「アインシュタインの相対性原理によれば」と記載されて、論文は引用されなくなる。さらに原理として定着したあとは、「アインシュタインの」という個人名が抜けて、単に「相対性原理によれば」と記載される。

現代では、なにも記載せずに「質量とエネルギーの関係は、mc2=Eであることから」と書く。すでに論文引用も発見者も、そして原理の名称も表示しない。このことから、「他人が論文で明らかにしたもの」を引用するかどうかは、発表されて議論がある時代、議論がなくなったがまだその村(学会)に十分に知られていない時代、さらに社会的にも認知されていて名称などを示す必要がない程度になった場合、などによって異なることがわかる。

しかし、初期の状態から原論文を引用しなくてよい次の段階に入るかの規則はなく、単に「村の雰囲気」で決まる。それで問題にならなかったのは、1)アインシュタインの相対性原理論文が著作権や特許権を持っていないこと、2)アインシュタインが権利を主張していないこと、3)あまりに専門的だったので感情的な反応がなかったこと、4)そのうち定説となったこと、が原因だったと思う。いずれにしても学問がもとめる「普遍的なこと」とは遠いことだ。

ところで、物理を学んだ私の感じでは、物理学の勉強や研究でアインシュタインの論文を参照したことはなかった。すでに多くの基礎物理学の書籍に偉い先生が丁寧に解説してくれているので、それを勉強してアインシュタインの概念と式を学んだ。

その後、複数の論文で質量とエネルギーの関係の説明および式を使ったが、引用することはなかった。引用するとしても、私が勉強した教科書を引用するのか、それともアインシュタインの原著を引用するのかは判断できなかった。このようなとき、普通は教科書を引用するのだが、その逆の経験もあった。

ある時に、ダーウィンの原著の中の一節を引用したので、原著を引用欄に書いた。出版時期は1870年ぐらいと思う。そうしたら、査読の時に査読委員から「原著を引用しても、それを見ることができないから、読者が参照できるものを引用しなさい」と言われて困ったことがある。実は引用は英語で、英語で直接引用することが大切だったが、日本では日本訳しか普通には手に入らないからだ。

つまり、この場合、査読委員は私が引用した「内容」はダーウィンがオリジナルだということで引用するのではなく、読者が参考になるためにということで、「引用」のもう一つの意味を言っている。つまり、剽窃を防ぐには引用すればよいというが、引用には二つの意味があり、一つは著者への敬意、一つは読者の参考だ。そのどちらを指しているのかが不明確なのである。

さらに、DNAの構造は膨大な書籍の中に1953年にワトソンとクリックがネイチャーの論文で示した「二重らせん構造」が使用されている。書籍のほとんどは彼らの論文を引用していない。それは「DNAの二重らせん構造」は「公知の事実」と思われているので、「無断で利用してよい」と「暗黙の掟」で思っているからに過ぎない。

もちろんDNA論文は著作権もないし、特許権も申請されていないので、法的には問題がないが、論文を引用しないで「DNAはらせん構造だから」と書くのは剽窃にあたる。そうするとほとんどの書物が剽窃として「研究不正」にあたるだろう。

次にぐっとレベルが下がって、「この論文」(武田邦彦著、ネット掲載)を取り上げてみたい。この論文はそのレベルはともかく、私が書いて公開したものだ。しかし、この論文には多くの「他人の考え、文章」が示されている。だから、この論文を書いた瞬間(つまり、私の考えをパソコンに表示した瞬間)から、もし剽窃について他人が同じ「考え」をどこかに書いたら、それは剽窃に当たるから「研究者として許すことができない」と断罪しなければならない。

でも、研究不正の専門家は、「武田が自分の頭に浮かんだものなどわからないじゃないか。それにネットに掲載したからといってその全部に目を通すことはできない」というだろう。つまり政府や理研の規則にある「他人の考えを引用せずに使うことは剽窃」というのは、なにか別の意味を持つ制限を持っていることは明らかである。

もう一つ、この論文はなにも引用していない。アインシュタインもワトソン・クリックも、理研の規則集も無断で使っている。ということはこの論文は剽窃に満ち満ちているが、そのことで私がこの文章をネットに出すと、「剽窃」として罰せられるのだろうか? 私を剽窃の罪で調査するのは私の所属する大学だろうか? 著作権なら著作権者がいるから私が無断で利用すると「損害」を受けるからあるいは著作権者が訴えると思うが、この論文でアインシュタインが損害を受けるわけではない。だれも訴えても得をしない。

もし、この論文を私が所属する大学が審査する場合、その目的はなんだろうか? 誰にも損害は与えていないが、教育上の配慮で老教授の自由な論評の欠陥を調査して、教授会で議論するということをすると、かなり時間の浪費のように思われる。それは社会的に正しいことだろうか??

さらに最後に私はテレビで「未来の科学」をお話しすることがある。そこでは、顔認証による自由な預貯金の払い出しや改札のように、すでに誰かが着想しているものもあるが、一つ一つはテレビでお話をする時に、「これは誰の着想」などと引用しない。また私独自に「こんなものはできるだろう。なぜなら物理学でここまでは分かっているから」という新しい材料や機器を創造して示しているが、それが現実になった時に発明者は私のテレビ放送を引用してくれるのだろうか?

「他人の考え」というのは、映像や文章そのものではない。その映像や文章によって示された科学的概念やデータから導き出されて新しく発見された現象などである。それらは「思想又は感情に基づく創造物」ではないので著作権はないが、「剽窃」に当たる。

2014年に問題になった理研の調査は「自然科学領域における剽窃」に関するものであり、日本の多くの学者(少なくともメディアが取り上げた学者)は「他人の考えや文章を引用なしに使うのは許されない。そんなことは学者にとって当たり前のことだ」と言ったが、ここまでの検討で明らかになったように、それは「狭い仲間内で、査読付き論文に書かれているか、権威のある人が書いたもので、仲間の間の仁義から許されざるもの」ということと推定される。

しかし、「仲間」、「権威」、「仁義」のいずれも「学問」とはかなり距離が遠いので、結局、その人その人で任意に「やってはいけないこと」を決めていると考えられ、厳密で正確、感情を排する自然科学では、あいまいな制限をする方が「許されないもの」と考えられる。

(平成26年8月2日)

武田邦彦

(出典:武田邦彦先生のブログ



2014年8月8日金曜日

【STAP騒動の解説 260808】 STAPの悲劇を作った人たち(1) 放送法の意味




STAPの悲劇を作った人たち(1) 放送法の意味



(先日、このブログで笹井さんの自殺について扱ったが、あまりに可哀想な事件が起こったことから、記事の調子がこのブログの趣旨(常に前向き)と少し違ったので、いったん下げてキチンと論述することにした。内容としては同じである)


NHKは国民の預託を受けて放送業をしていますが、その時に国民と約束したことがあります。それが放送法で、特にその第4条が重要です。
 一  公安及び善良な風俗を害しないこと。
 二  政治的に公平であること。
 三  報道は事実をまげないですること。
 四  意見が対立している問題については、できるだけ多くの角度から論点を明らかにすること。


放送はNHKでも民法でも基本的には同じですが、特にNHKは国民から強制的に受信料をとり、日本人全員が良質な放送を見たり聞いたりできるように特別なシステムを持っていますので、良い方向を向けば国民にとっては有意義なことになりますが、間違ったことをしたらその被害はものすごいものになります。


だから、第4条に定められた4つの最低条件は、民放にも及びますが、まずはNHKが絶対に守る必要があるもので、この条件を守るからこそNHKというものが存在できるともいえます。


7月27日のNHKスペシャル、STAP事件を扱ったこの番組は第4条に大きく悖る(もとる、反する)もので、STAPの悲劇を招いた直接的原因になったと考えられます。NHKスペシャルは第4条の一、三にも反していますが、特にここでは“四”の重要性について整理をしてみたいと思っています。


社会生活を送っていると、時々、不意にトラブルに巻き込まれることがあります。それは自分が原因していることもあれば、他人から仕掛けられることもあります。日常的な小さなトラブルはともかく、社会的に問題になるようなことが起これば、その内容はともかく、日本人が相互に約束したこと(法律で決まっていること)によって裁判所で和解か判決を受けて処理できるという確信があります。


このような日本社会の基本を守ることは、NHKはもとより一国民としてもとても重要なことは言うまでもありません。“一”に書かれた「善良は風俗」というのをあまり大きく拡大してはいけませんが、まずは「法律を守ること」や「相手をゆえなく侮辱すること」などが大切でしょう。


ところが、ある特定の人が法律にも訴えずに、全国民にある個人の名誉に関係することを一方的に放送したり、報道されたりしたら、とんでもないことになります。幸福で平和な生活を一瞬にして特定の人の為に奪われることになります。そんな場合でも被害を受けたほうが裁判に訴えることができますが、NHKのような巨大な組織を相手に裁判を起こすこと自体が難しいのです。


まず、裁判になると訴えた一個人の方は仕事もできず、体力も消耗し、お金もかかります。一方、NHKの方は裁判担当弁護士をお金で雇い、大勢の人が分担し、それにかかった費用は受信料から支払うことができます。これでは形式だけ「もしNHKが一個人の名誉を傷つけたら裁判に訴えればよい」と言っても、それは形式だけであって、現実性のない話になります。


そこで、NHKという組織を置く前提として、この4つの項目を守ることをNHKは国民と約束即しているのですが、特に“四”は重要です。「意見が対立している問題については、できるだけ多くの角度から論点を明らかにすること」です。


この条文はとても大切(法律ですから、国民とNHKの約束なので、もともと「大切」とか「大切ではない」ということはなく、すべて「大切」)です。日本国民が法律で罰せられる場合は、キチンとした手続きがあり、十分な弁明の機会が与えられます。日本の裁判は「起訴されたら有罪」というところがあり、「裁判は死んだ」とも言われていますが、それでも弁明の機会は与えられます。


しかし、NHKがある特定の個人を葬ろうと思ったら、「放送」という権力を使って、手続きなしに個人を葬ることができます。そんなことをされたら、日本という自由で人権がある国に住んでいるとは言えなくなります。もしそんなことをNHKがしたら、日本は「NHK独裁国家」になり、いつ何時、社会的に葬り去られるか、あるいは精神的な圧力を受けて自らの命を絶たなければならない羽目に陥ります。


NHKは政治団体でもなく、宗教団体でもなく、もしくは教育機関でもありません。単に国民がNHKという情報提供機関を作って、できるだけ正確な情報の提供を求め、それによって国民が正しく考えられるシステムを作ったに過ぎないのです。


STAP事件の当事者は、(故)笹井さん、小保方さん、丹羽さん、それに若山さんであり、この人たちと「意見が対立している人」というのは、「現在の日本にはいません」!! だからNHKがSTAP事件を報じるときには、研究者の言っていることを報じることはあり得ますが、STAP事件を批判している人のことを報じることはあり得ないのです。


STAP事件発生以来、当事者というのは、「STAPの研究者」、「理研」、それにかなり拡大すれば「文科省」ぐらいで、あとは「外野」、つまり「利害関係者」ではありません。それにもかかわらず、NHKが7月27日のNHKスペシャルで、仮想的な「反撃グループ」を中心に据えて、当事者のことを報じないというあり得ないことをして、当事者としての研究者に大きな打撃を与え、因果関係はまだはっきりしないものの、その直後に研究者の自殺を招いたことは日本社会にとってどうしても解明しなければならないことです。

(平成26年8月8日)

武田邦彦

(出典:武田邦彦先生のブログ




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