2015年9月17日木曜日

知恵の価値と著作権(1) まじめな日本人の錯覚





知恵の価値と著作権(1) まじめな日本人の錯覚


人間の作品は大きく分けて、「物」と「情報」がある。「物」はたとえば自動車とかマグカップのようなもので、基本的には一人が使っていると他の人は使えない。だから社会的には「所有権」というのを認めて、ある人がマグカップを持っていたら、そのカップはその人が他の人に譲らない限り、未来永劫、その人のものだ。

ところが、「情報」は最初、ある人の頭の中にあっても、それを口に出してしまえば、音波に乗ってどこまでも行き、他の人の頭の中に入ってしまう。つまり、「情報」はあっという間に一つ(一人の頭の中の情報)から、膨大な数に増えてしまうし、それを誰かが使ったからと言って、その情報を発信した人が使えなくなるわけではない。

今から200年ほど前までは、人類は「物」には権利を認めたが、「情報」には権利を認めなかった。そして人類はお互いの知恵(情報)を共有することによって大きく発展してきた。

たとえば、ガリレオが「宇宙の中心は地球ではない。地球は太陽の周りを回っている」という新しい発見をしても、それを聞いた人はその知識を自由に使っても良い(そう考えても良い)ということであり、ニュートンが万有引力や運動方程式を導き出したので、それによって馬車が走り、鉄道ができ、航空機が生まれても、ニュートンにその対価を払うわけでもなかった。

でも、近代ヨーロッパで「お金を中心とした考え方」ができてきて、「著作権」や「特許権」という「情報の所有権」を認めるようになった。その理由は「情報はなんの苦労もなく、増やせるので、本来は自由に使えるものではあるが、特定の期間だけ所有権のようなものを認めよう」ということになった。でも、そうすると言語も、日常生活のいろいろな情報もすべて「誰かが思いついた」ものなので、際限が無い。そこで、「思想または感情を対象とする情報で、新たに思いつき、かつそれが創造的なもので、表現されたもの」に限定し、所有権のようなものの期間も20年ぐらいとすることになった。

これが著作権で、類似のものに特許権ができ、それは「科学技術の分野で、新規性(新しいもの)であって、進歩性(社会の進歩に役立つもの)で、審査に通ったもの」に限定して与えられることになった。

私は人間の知恵を抑制すると言う意味で(著作権も特許権の人間の知恵を増大させるためのとされているが)、あまり賛成ではない。現実にはそんなものを認めなくても、人間の本質的な欲求から、芸術作品も文学も、工業的なものも創造されていくと思っているからだ。

でも、現実的には著作権も特許権もある。だから法律を守らなければならないが、日本人はまじめだから、あまりに守りすぎ、「思想、感情」の範囲外(たとえばニュース)などで「創造物」でもないのに新聞記事に著作権があるようなことを言ったりする。

またSTAP事件の時に小保方さんの著作が理研の著作物の制限に違反していると言われたが、理研の制限がもともと法律違反であり、人間の知の産物の共用性を否定する守銭奴のような規則である。

でも、現代の日本人はまじめで、お上は偉いと思っているので、「理研の規則にこうなっているじゃないか!」と居丈高になる。理研の規則がお金にまみれた、根拠のない規制であっても、そのものを判断せずに盲目的に権威にひれ伏している。

アメリカは白人でもあり、思想が低劣なので、人間の知恵の産物の所有権を認める方向だが、日本にはそのような文化はもともとない。ここでジックリと考えて世界に向けて人類の知恵の産物の共用性を高めるような方向に持って行く必要があると思っている。

(平成27年9月15日)

(出典:武田邦彦(中部大学)ブログ





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