2014年7月24日木曜日

【STAP騒動の解説 260723】    (毎日新聞追補)   共同研究者は研究を知らないのか?



(毎日新聞追補)共同研究者は研究を知らないのか?



STAP事件で、かなりの人が「私は研究内容を知らないけれど、共同研究者として名前を連ねた」と言っています。これは「詐欺」ですから、この発言だけで学会から追放ということになります。もちろん毎日新聞ももしそんなことをいった人がいたら、そちらを追究する必要があります。


ところが、現在の日本の学会、特に「お金と名誉にまみれている学会」(ほとんど)はこんな簡単な「倫理」すら守られていないのが現状です。今回のことで論文には査読があるということを知った人が多いと覆いますが、論文を出すと数回の査読を受けます。


査読委員は批判的に論文を読むのが役割ですから、厳しい「批判的意見」が述べられます。これに対して、どう答えるか、どの部分をなおすか、どのデータを追加したり削除したりするかは「全著者」に聞かなければなりません。


私は「実体的に研究に参加し、内容を理解し、討論に参加できる」という人しか共同研究者にはしなかったので、いつも査読結果が来ると、その結果と私や私のところの若手が作った答弁と回答案を共同著者に送ります。そうすると必然的に時間がかかりますが、学会の方から「早く返事をしろ」と言ってきます。そんなとき、いつも「共著者全員の了解を取っているので」と返事します。


つまり、共著者になっていて研究に参加していないか、内容を知らない人を入れるのが「村の掟」なのです。著作権のないものをコピペしてはいけないというように、掟で支配されています。まず第一に「お世話になった先生や先輩」は欠かさずに入れて、その次には「前に自分が参加していない論文に名前を出してくれた人」を入れます。


そうすることによって、自分の論文数が増えます。今は官僚が研究費を支配している(もしくは御用学者の東大教授)ので、論文数を増やしておかないと研究費が来ないのです。官僚や東大教授は日本の科学を発展させたいとか、倫理を守りたいと思ってはいないので(自分の権限が増えることが第一目的)、論文著者数が10名ぐらいになっても平気ということです。


また「引用数」というのが問題で、他人が自分の論文を引用してくれる方が点数が上がるので、仲間が多い方が有利になります。そこでボス先生を中心にして仲間を増やします。しばらくその仲間に入っているとそのうちボス先生から「かわいいやつ」ということで、青虫(研究費)がいただけます。アウトローの世界のようですね。


理研や東大、京大のようにお金が中心の研究機関では「著者になることの貸し借り」が日常的で、その結果、若山さん、笹井さんなど一流の先生が「論文内容は知らない」という発言を平気ですることになっています。


もし、毎日新聞が誠意のある新聞で日本の研究のことを心配して記事を作っているなら、今回のSTAP事件での取材対象は全く違っていたでしょう。


(平成26年7月23日)

武田邦彦

(出典:武田邦彦先生のブログ




2014年7月23日水曜日

【STAP騒動の解説 260723】  「毎日新聞の暴力行為」に関する削除と見解(1) 疑問と質問




「毎日新聞の暴力行為」に関する削除と見解
(1)疑問と質問


毎日新聞がSTAP事件に関して執拗に小保方批判を続けていることは多くの人がご存知ですが、先日(2014年7月21日)に全国版1面上部にスペースを4分の1ほどとって、一個人の過去のことに関して個人攻撃の記事を掲載するに至って、先日、とりあえずこのブログでも警告を出しました。それはこのままで放置すると、「善良な一個人」が「社会のある事件」で叩きのめされるという現代の日本にあってはいけないことになってしまう可能性があったからです。


ナチス時代のドイツ。家に突然、憲兵がやってきて家族の一人をしょっ引き、それがもとでその家族は悲惨な生活を強いられるということが、現代の日本で起こっているからです。私が最初の論評を削除したのは、このブログの目的にもあります。


現代の日本社会がひずみを持っていることは多くの人が感じることですが、その一つの原因に私は「合意より反目」の方向に進む傾向があると思っています。そこで、毎日新聞の記事も「まずは相手の立場(毎日新聞の立場)」にたって整理をしてみて、合意が得られなければその時はさらに進展させるという手順が必要と考えたのです。


このSTAP事件は最近の日本社会の価値観、責任感などと比較すると隔絶に違うものでした。その要点をまとめると次のようになります。


一.主として実験をした人が学生や若手の研究者であっても、その人と一緒に教授やそのクラスの指導者が共著者になっている論文については、疑念があったりすると教授などが直接受け答えするのが普通です。私の場合も、学生や若手が研究したものはできるだけその人の功績を前面に出すために論文の筆頭著者は若手にして、私は後ろのほうに名前を出させてもらいます。


このような場合、私が共著者になるのは学問的にも倫理的にも問題はありません。むしろ、私が実験を指示したり、実験内容をともに検討してきた時には、「実施した人(作業した人)」より「頭脳を使った人」を中心にするのが学問の常道だからです。


したがって、今回の場合、小保方さんは無給研究員として今回の論文の主たる部分を実験し、その時には「世界の若山さん」が共同で研究をし、3回目の論文の作成が始まったときには「京都大学教授から理研に転籍した笹井さん」が指導したのですから、マスコミも質問があれば若山さん、笹井さんに質問するのが普通です。


この点は、小保方さんの博士論文でも同じで、博士論文の出来が悪いとか、博士に相当しないなどという疑問があったら、それは指導教授の問題であって、学生が提出した論文の内容が学生の責任になることなどありません。ここでも、指導教授はまったくマスコミに登場せず、メディアもあたかも論文の問題は小保方さんという学生(当時)の問題にしたということは日本社会のこれまでの教育のやり方と全く違います。


毎日新聞は現在でも基本的には小保方さんを攻撃のターゲットにした批判記事を出していますが、この理由は何なのでしょうか? 一つは最初から毎日新聞が間違ったので、それを訂正するのが気が向かないというなら、それはあまり感心した報道姿勢ではありません。


二.次に、今回の論文が社会的に注目されたのは、理研が大々的な記者会見をしたからで、それに無非難に乗ったメディアの責任もありますが、まずは理研の問題です。理研は組織として記者会見をしたのですし、そこには笹井、若山さんが同席して、一緒に説明をした(小保方さんの発表を補充することはあっても、反論などはなかった)のですから、これも普通に考えれば、理研、笹井、若山さんに「なぜ、欠点のある研究発表を自ら積極的にやったのか」が問題になるのも当然です。


また、いわば主犯と思われる理研が、被害者の一人でもある小保方さんに対して「調査委員会」を作り、「2枚の写真の入れ違いと1枚の写真の加工」だけを問題にして調査を打ち切り、その後、「改革委員会」が「世界三大不正」とコメントしたことについての大きな矛盾について、メディアは理研側にたって、調査委員会の結論がでると「小保方さんの不正確定」と完全に理研側に立っていることも不思議なことです。


もともと小保方さんの手元には実験した2枚の写真があったのですし、それに入れ替えても結論が変わらないのですから、ケアレスミスに間違いないのです。さらに調査員会委員長が同じミスで辞任に追い込まれたのに、小保方さんだけを不正としたことについて毎日新聞は追及をしていません。


三.報道は公平を期さなければなりませんし、一個人を批判するときには「自分の情報発信力=毎日新聞の発行部数と専属の記者の給料の支払元など」と一個人の力のバランスを保つ必要があります。このような考え方は近代国家ではあまりに当然で、ある時に、ある新聞かテレビが「あいつをやっつけよう」と決意し、大々的なキャンペーンを張ったら、社会はスキャンダルとして受け取り、その人は人生を失うでしょう。


私たち社会はそんなために大新聞を持っているわけではありません。毎日新聞と小保方さんでは力の差は歴然としています。また毎日新聞の一連の記事、さらには7月21日の朝刊の記事の問題点は、報道が公平ではないということです。STAP事件の報道をするのはある意味で意味があるのですが、その時には必ず両面から見た報道が必要です。


今回の場合、「掲載を放棄した論文」の「査読過程のデータの処理の仕方」ですから、もともとは公開されるべきものではなく(新聞でも草稿段階で不適切な表現を使ったものをわざと白日の下に晒して、その記事を書いた記者を糾弾するということはなく、あくまで最終的に新聞に掲載されたものだけを問題にするはずです。その点で、今回の記事は個人を誹謗中傷するばかりではなく、ルール違反でもあります)、入手手段もきわめて不透明です。


情報の入手先に関する秘匿はメディアの権利でもありますが、今回のように「特定の情報から特定の個人だけを批判することを続ける」という場合は別でしょう。


また、毎日新聞の1面の上段に4分の1ほどのスペースを取ったということは、「小保方さんを日本社会から抹殺する価値はそれほど大きい」という毎日新聞の意思を示しています。記事は論文の批判に終始していますが、もしその背後に理研の闇などがある場合、それを直接、記事にすべきです。それなら私たちは毎日新聞を支持できます。


今回のことはなぞが多く、ここに疑問点を書きましたので、関係者は「合意を得るために」、毎日新聞の意図(本人たちは自分たちのしたことが正しいという確信があるはずですから、現在までの記事では、小保方さんの欠陥を繰り返し報道し、彼女を社会から葬り去るために膨大な紙面を使うだけの価値があると考えていると受け取られる)を明らかにすべきです。


議論はそれからです。


(平成26年7月23日)

武田邦彦

(出典:武田邦彦先生のブログ




2014年7月22日火曜日

調査報告 STAP細胞 不正の深層 NHKスペシャル

STAP細胞問題の論文不正や組織の隠ぺい体質の実態に迫る番組がNHKスペシャルで放送される。独自資料を専門家と分析。

NHKスペシャル
初回放送
2014年7月27日(日)
午後9時00分~9時49分

今月2日、英科学誌ネイチャーは、新型万能細胞の作製に成功したとして世界的な注目を集めたSTAP細胞の論文を取り下げたと発表。研究成果は白紙に戻った。

日本を代表する研究機関である理化学研究所で起きた史上空前と言われる論文の捏造。改革委員会は、熾烈な研究費獲得競争の中で、理研が“スター科学者”を早急に生み出すために論文をほとんどチェックせずに世に送り出した実態や、問題が発覚した後も幕引きを図ろうとする理研の隠蔽体質を断罪。

STAP細胞の存在そのものが“捏造”された可能性について、更に検証を進めるべきだと提言した。しかし執筆者の小保方晴子研究ユニットリーダーは徹底抗戦。

真相は何か、背景に何があるのか、全容の解明には至っていない。番組では、独自に入手した資料を専門家と共に分析。関係者への徹底取材を通して論文の不正の実態に迫る。

更に、捏造論文がなぜ世の中に喧伝されるに至ったのか、その背景を探っていく。(出典:NHKスペシャル)


今回のSTAP論文は作成時に些細なミスがあるだけで、詳細に調査をしていれば論文不正に当たらない。

理研の不正な調査委員会が、速い幕引きを狙って「個人的な論文不正である」と発表しただけで、裁判で不正と確定している訳では無い。小保方氏サイドは論文不正とされたことに承服していない。

「不正の深層」という標題については、理研サイドの「不正の深層」ということであれば納得できる。公正な報道を期待したい。

毎日新聞は、公共の大新聞でありながら、一般人(小保方氏)をバッシングしており、偏った報道が多く、凶器のペンになっている。こちらの方がむしろ社会的に問題だ。




2014年7月21日月曜日

【STAP騒動の解説 260708】   科学の楽しみ(5)   厳しくはチェックしないが、少しは仲間でチェックしよう



科学の楽しみ(5)  厳しくはチェックしないが、少しは仲間でチェックしよう


自然を研究して、自分の意思で自由に発表したり、論文を書いたりする。発表するにも論文を書くにもお金がいるし(発表はおおよそ交通費、宿泊費、参加費などで5万円から10万円、論文は印刷代を含めて7万円ぐらい)、見返りはないのだから、そんなことでケチをつけられたり、批判されたらたまらない。


面倒だから発表などしたくない・・・という人が歴史的にもいて、ニュートンの時代のイギリス貴族のキャビンディッシュである。彼は偉大な発見をいくつもしたが、世間との関係ができるのをいやがって生涯、一つも発表しなかったという剛の者である。


でも普通の人は自分のやったことを自慢したいこともあり、仲間に批判されたい(そうしないと独善に陥るから研究が進まない)という気持ちもあって発表する。学会発表なら面と向かうので、それで良いが論文は一方向なので、「査読」をしようじゃないかということになった。


学会が論文の査読委員を選んで、その人達に提出された論文を審査する。昔はベテランの学者が選ばれたが、最近では若い人もやっている。審査の目的は「あらを探す」とか「再現性のないものはダメ」ということではなく、「最低の記述がされて、論理性があるか」と言うことぐらいをチェックする。その時に誤字脱字なども見てくれる。


なにしろ、論文を出す人も無償、査読委員も無償(少なくとも私は数10年、報酬をいただいたことはない)の世界だから、悪いこともしないし、批判もほどほどである。仕事としてやっているわけでもなく、単なる興味のグループがすることなのだから。


この手続きを踏んだ論文を「査読つき論文」という。だから「科学的に正しい」ということではない。地球温暖化が話題になったとき、「査読つき論文」という言葉が流行った。「査読つき論文を多く出している人は信用できる」と科学と関係の無い人が言って、困った物だった。査読つき論文など簡単で、自分たちで「温暖化学会」のような物を作り、そこに論文を出せば、いくらでも「査読つき論文」などできるからだ


ところで、20世紀も過ぎてくると、学問も商業的になり、ネイチャーのような「商業誌」が「学会誌」より偉くなる。というのは学会誌は儲けなどに関係がないので、「皆が注目するかどうか」に関係なく論文を掲載する。それに対して商業誌は「売れるかどうか」で論文を決めるようになった。そうなるとその方が面白いので、だんだん商業誌が有名になる。STAP事件も商業誌だ。


仲間内で論文をチェックして、科学の道を究めようというのはずいぶん変質した。でも現在でも変質しているのは、普通の学者ではなく、文科省のお金や地位を狙っている御用学者、賞を取りたいと名誉欲が非常に強い学者などであり、一般の学者は学問的興味で一所懸命に研究している人が多い。でも、新聞記者とおつきあいをしている学者はおおむね、名誉欲が強く、ワインが好きな場合が多い。


科学に興味の無い人は、「報酬がなくて努力するはずはない」と確信しているが、そうでもない。多くの学者は報酬とは関係なく、興味に基づいて研究をしている。私の感じでは、世間が学問の世界に入ってくると、まさに「悪貨、良貨を駆逐する」という具合に、悪い学者が指導層にいって、ますます学問の世界が汚れ、それだけ進歩しなくなる。


それは「自由な魂」と「謙虚な気持ち」を失うからに他ならない。私は32歳の時、ふとした機会に「自分は外に飲みに行くより、部屋で論文を読んでいた方が楽しい」という自分の奇妙な性格に気がついたことで、学者としての人生を歩んできた。 今でも、知らないことを知り、判らないナゾが解けることに無常の喜びを感じる。


この世には音楽を聴くのが楽しくて仕方が無い、小説を読むのが好きでたまらないという人はいないのだろうか?? 誰もが儲かるため、名誉を得るために音楽を聴き、小説を読み、スポーツをしているのだろうか? わたしはそうではないと思う。でもそんな人が目立って、その世界を破壊しているような気がする。


江戸末期、日本に来た外国人は、日本人の職人が「それがどのぐらいの儲けになるのか、どのぐらい世間が認めてくれるかとは全く関係なく、ただ自分が満足するまで一心不乱に作品に取り組み、決して止めない」と記述している。まさに我々も職人なのだ。


(平成26年7月8日)

武田邦彦

(出典:武田邦彦先生のブログ




2014年7月17日木曜日

小保方晴子さんの博士論文「学位取り消しに該当しない」  早稲田大学が調査結果を発表 (STAP関連)

2014年07月17日 16時55分
(出典:弁護士ドットコム

「理化学研究所の小保方晴子ユニットリーダーの「博士論文」をめぐり、海外サイトなどの文章や画像の盗用が疑われていた問題で、早稲田大学の調査委員会(委員長・小林英明弁護士)は7月17日、小保方リーダーの行為は学位取り消しにあたらないとする調査結果を公表した。」


当然ですね。下記の解説で、より理解できると思います

【STAP騒動の解説 260317】
コピペは良いことか悪いことか? (1)基礎知識

【STAP騒動の解説 260318】
コピペは良いことか悪いことか? (2)学術論文の内容は誰のものか?

【STAP騒動の解説 260321】
コピペは良いことか悪いことか? (3)・・・「村の掟」で罰する人たち

【STAP騒動の解説 260327】
教育者がどんな時でも死守しなければならないこと・・STAPと教育

2014年07月17日 18:29 弁護士ドットコム
<小保方博士論文>「不正あったが学位取消に該当せず」早大調査委・配布資料(全文)




2014年7月16日水曜日

【STAP騒動の解説 260327】  教育者がどんな時でも死守しなければならないこと・・STAPと教育





教育者がどんな時でも死守しなければならないこと・・STAPと教育



教育者たるもの、どんな時でも命を懸けて守らなければならないもの、それは「教え子の名誉」だ。教育の責任はすべて教師にある。教えを受けた子供にはない。


STAP論文の関連で、早稲田大学がかつて認めた博士論文の審査を改めて外部に頼むとの報道があった。なんということか!!


・・・・・・・・・


中学校の時、定期試験で国語の答案を書いて先生に提出し、90点をもらって卒業したとする。その答案が保存され、公開され、ある時に、その答案の内容が「ある有名な文学者の作品の盗用」であったことが分かった。本人はすでに30歳で社会で活躍していたが、学校に呼び出されて卒業が取り消されたことを告げられる。


卒業生:「えっ! 卒業取り消し?! だって、先生が・・・それに僕は盗用したのではありません。僕の頭の中に文章が入っていたので、それを書いたのだと記憶しています・・・先生はどういっておられるのですか?」


学校:「先生はすでにご退職され、記憶もない。でも、ちゃんと証拠が残っている」


・・・・・・・・・


こんな日本は嫌だ。生徒がどんな答案を書こうが、先生が90点をつければ90点なのだ。そして、もしその答案に問題があれば、責任は90点をつけた先生にあり、生徒は教育中なので、責任は問われない。


教育とは「成果を残す」ことではなく、本人の実力をあげることだ。だから、基本的には教育が終わったら、本人に関することはすべて捨てても良い。本人が記念に持っておきたいと言うなら本人に渡せばよい。


この教育の原理原則は、小学校から大学、さらに大学院博士課程まで変わらない。提出した作品はどんなものでも、所有権は教育を受ける方にはなく、教育をしたほうにある。


大学でも採点の権限はすべて先生にあり、それは普段の試験でも、論文でも同じである。学生は博士論文の成果を自分のものにしたいなら、普通の学術論文として提出する必要がある。捨てるのはもったいないので、卒論などを図書館に保管することがあるが、それは「少しでも役に立てば」ということである。


法治国家では「法や規則はすべての人に平等」でなければならない。優れた答案や論文だから本人の責任を問うたり、中学校なら良いけれど博士論文はだめという「村の掟」を作ってはいけない。


また博士論文は、本人提出→主任教授の訂正指示→副査の先生の訂正指示→審査会→公聴会→教授会 というプロセスを経る。本人は提出した後は指示に従って修正するだけだから、社会的責任と言う点では、修正を強制される学生に責任を問うことはできず、主任教授、副査、公聴会に出た社会人、教授会にあり、本人にはない。権限なきところに責任もない。


また、学問としては、本人、そして主任教授、さらに副査の先生が意見を述べる必要があり、もしその意見を聞く必要があるとしたら、大学ではなく教授会である。大学は会社でも役所でもない。「上のものが責任を取る」ということは大学ではない。むしろ教授が採点した結果を学長が変更したら、そちらが罪になる。


教授は自分の授業を受けた「学長の息子」を「学長命令」に反して落第させることができる。このような専門職の業務の場合に、学長が責任を取る必要もない。学長が責任を取るのは、教授に任命したからでもない(教授の決定は教授会)、学校の経営などに関する「学長権限内」のことしかできない。


だから、今回の報道が正しければ、早稲田大学は権限を違反し、教育の基本中の基本(学生の責任を問わない)に反している。日本人の常識、マスコミの冷静で正しい報道に期待したい。


早稲田大学は直ちにステートメントを取り消すか、あるいは新しい教育論を説明してからにするとよい。大学は教授の保護者ではない。大学は過去の学生の瑕疵を責める権限もない。教授を保護して学生を罰するなら、大学を解散しなければならない。


(平成26年3月27日)

武田邦彦

(出典:武田邦彦先生のブログ





【STAP騒動の解説 260708】   科学の楽しみ(4)   好意で発表



科学の楽しみ(4) 好意で発表



科学の楽しみを3回に分けてお話をしました。この世は効率、お金、期限、対人関係などにまみれていますが、科学は世間とは一歩離れて、「真理の探究」をやっています。そうすると世間とはうまくいかないので、科学の世界で「掟」を決めていました。本当はまったく自由でも良いのですが、歴史的に少しずつ自然発生的に掟がありました。


まず、何かを研究して新しいことが判ったら、それを「社会」ではなく、「仲間」に発表します。それが「学会発表や学術論文」です。学会発表は仲間が聴き、学術論文は仲間しか読みません。学会に出るのに交通費もいるし、参加費を1万円ぐらいとられます。学会誌をとるのも1年に1万円ぐらいです。だから仲間しか見ません。


科学の成果は人類共通のものですから、オープンにした方が良いのに、仲間だけに発表するのは、2014年(今回)のSTAP事件のようになって、酷い仕打ちを受けるからです。科学は「自然を明らかにする」ことを目的としているのに、世間は「お金、利権、効率」などを目的にしているからです。普通は次のような批判を浴びます。


1)まだ、未完成じゃないか!
2)何の役に立つのか!
3)写真を張り間違っているじゃないか!
4)再現性はあるのか!
5)俺の結果と違う!
6)ウソじゃないか!


などです。今回もある学者が「論文を読んでも、実験ができない!」と批判していましたが、私がテレビなどで説明したように20世紀最大の発見と言われ、ノーベル賞をもらったDNA論文は1ページでポンチ絵があるだけです。「未完成」というのは科学では問題にならないのですが、一般社会では「立派な論文なのに作り方が厳密に書いていない」などと言われることがあります(批判した先生は研究をされていない人です。)


また科学は「役に立つ」ことを目的にしているのではなく、「真実」に近づくことですから役に立つかどうかなど100年後にしか判らないのです。でも、私はある学会に論文を出したら、査読委員から「この論文は何の役にも立たない」というコメントで拒絶されたことがあります。特に産業界の人が査読委員に当たると「科学は役に立つ物」という意識があるようです。


「写真が張り間違っているじゃないか!」というのはある程度、まともな指摘なのですが、私たちはあまり気にしません。もちろん、間違いがない方が良いのですが、私たちは「欠点を指摘するため」に論文を読むわけではなく、「なにか新しいことを教えてもらいたい」と思っているからです。


今回も、若山さん、笹井さん、小保方さんが「ご厚意」で論文を出していただいたので、STAP細胞というのを知ることができたわけで、あくまで彼らの親切心であって、義務ではありません。「こちらが論文の提出を命じて、出てきた論文をチェックする」というのではなく、彼らが「好意で私たちに教えてくれた」というものですから、間違いがあっても、そんなことを指摘することすら普通は遠慮します。


まして再現性があるか(これは第一回でお話をしました)、俺の結果と違う(最初のうちだからいろいろなデータがある。そのうち、一つになる)などはあまり関心もありません。まして「ウソ」などはまったく気にもしません。もともと「義務、お金」などで発表しているのではなく、「好意」なのですから、ウソをつく必要が無いからです。


それでも、人間ですから、長い年月(100年ぐらい)には数件のウソがありますが、そんなことを日常的に気にしても仕方が無いのです。また、自然は最終的にはウソをつきませんから、しばらくしたら自然にウソは判ります。だから、論文がウソかどうかを調べるより、しばらくほかっておいた方が効率的にウソを見分ける事ができます。


このように仲間内なら、今回のSTAP事件で問題にされていることは、問題にはならず、おそらく小保方さんは普通に研究を続けていたと思います。そして、もし研究がウソなら、次の論文は出てこないでしょうし、他の人も関心を失っていくでしょう。つまり何もなかったように消えていって、さして労力もかからなかったと思います。


論文の間違いを指摘した人は、科学者のようですが、むしろどういう人で何が目的なのか、私には少し理解できないところがあります。


(平成26年7月8日)

武田邦彦

(出典:武田邦彦先生のブログ






PAGE
TOP