2014年7月16日水曜日

【STAP騒動の解説 260327】  教育者がどんな時でも死守しなければならないこと・・STAPと教育





教育者がどんな時でも死守しなければならないこと・・STAPと教育



教育者たるもの、どんな時でも命を懸けて守らなければならないもの、それは「教え子の名誉」だ。教育の責任はすべて教師にある。教えを受けた子供にはない。


STAP論文の関連で、早稲田大学がかつて認めた博士論文の審査を改めて外部に頼むとの報道があった。なんということか!!


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中学校の時、定期試験で国語の答案を書いて先生に提出し、90点をもらって卒業したとする。その答案が保存され、公開され、ある時に、その答案の内容が「ある有名な文学者の作品の盗用」であったことが分かった。本人はすでに30歳で社会で活躍していたが、学校に呼び出されて卒業が取り消されたことを告げられる。


卒業生:「えっ! 卒業取り消し?! だって、先生が・・・それに僕は盗用したのではありません。僕の頭の中に文章が入っていたので、それを書いたのだと記憶しています・・・先生はどういっておられるのですか?」


学校:「先生はすでにご退職され、記憶もない。でも、ちゃんと証拠が残っている」


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こんな日本は嫌だ。生徒がどんな答案を書こうが、先生が90点をつければ90点なのだ。そして、もしその答案に問題があれば、責任は90点をつけた先生にあり、生徒は教育中なので、責任は問われない。


教育とは「成果を残す」ことではなく、本人の実力をあげることだ。だから、基本的には教育が終わったら、本人に関することはすべて捨てても良い。本人が記念に持っておきたいと言うなら本人に渡せばよい。


この教育の原理原則は、小学校から大学、さらに大学院博士課程まで変わらない。提出した作品はどんなものでも、所有権は教育を受ける方にはなく、教育をしたほうにある。


大学でも採点の権限はすべて先生にあり、それは普段の試験でも、論文でも同じである。学生は博士論文の成果を自分のものにしたいなら、普通の学術論文として提出する必要がある。捨てるのはもったいないので、卒論などを図書館に保管することがあるが、それは「少しでも役に立てば」ということである。


法治国家では「法や規則はすべての人に平等」でなければならない。優れた答案や論文だから本人の責任を問うたり、中学校なら良いけれど博士論文はだめという「村の掟」を作ってはいけない。


また博士論文は、本人提出→主任教授の訂正指示→副査の先生の訂正指示→審査会→公聴会→教授会 というプロセスを経る。本人は提出した後は指示に従って修正するだけだから、社会的責任と言う点では、修正を強制される学生に責任を問うことはできず、主任教授、副査、公聴会に出た社会人、教授会にあり、本人にはない。権限なきところに責任もない。


また、学問としては、本人、そして主任教授、さらに副査の先生が意見を述べる必要があり、もしその意見を聞く必要があるとしたら、大学ではなく教授会である。大学は会社でも役所でもない。「上のものが責任を取る」ということは大学ではない。むしろ教授が採点した結果を学長が変更したら、そちらが罪になる。


教授は自分の授業を受けた「学長の息子」を「学長命令」に反して落第させることができる。このような専門職の業務の場合に、学長が責任を取る必要もない。学長が責任を取るのは、教授に任命したからでもない(教授の決定は教授会)、学校の経営などに関する「学長権限内」のことしかできない。


だから、今回の報道が正しければ、早稲田大学は権限を違反し、教育の基本中の基本(学生の責任を問わない)に反している。日本人の常識、マスコミの冷静で正しい報道に期待したい。


早稲田大学は直ちにステートメントを取り消すか、あるいは新しい教育論を説明してからにするとよい。大学は教授の保護者ではない。大学は過去の学生の瑕疵を責める権限もない。教授を保護して学生を罰するなら、大学を解散しなければならない。


(平成26年3月27日)

武田邦彦

(出典:武田邦彦先生のブログ





【STAP騒動の解説 260708】   科学の楽しみ(4)   好意で発表



科学の楽しみ(4) 好意で発表



科学の楽しみを3回に分けてお話をしました。この世は効率、お金、期限、対人関係などにまみれていますが、科学は世間とは一歩離れて、「真理の探究」をやっています。そうすると世間とはうまくいかないので、科学の世界で「掟」を決めていました。本当はまったく自由でも良いのですが、歴史的に少しずつ自然発生的に掟がありました。


まず、何かを研究して新しいことが判ったら、それを「社会」ではなく、「仲間」に発表します。それが「学会発表や学術論文」です。学会発表は仲間が聴き、学術論文は仲間しか読みません。学会に出るのに交通費もいるし、参加費を1万円ぐらいとられます。学会誌をとるのも1年に1万円ぐらいです。だから仲間しか見ません。


科学の成果は人類共通のものですから、オープンにした方が良いのに、仲間だけに発表するのは、2014年(今回)のSTAP事件のようになって、酷い仕打ちを受けるからです。科学は「自然を明らかにする」ことを目的としているのに、世間は「お金、利権、効率」などを目的にしているからです。普通は次のような批判を浴びます。


1)まだ、未完成じゃないか!
2)何の役に立つのか!
3)写真を張り間違っているじゃないか!
4)再現性はあるのか!
5)俺の結果と違う!
6)ウソじゃないか!


などです。今回もある学者が「論文を読んでも、実験ができない!」と批判していましたが、私がテレビなどで説明したように20世紀最大の発見と言われ、ノーベル賞をもらったDNA論文は1ページでポンチ絵があるだけです。「未完成」というのは科学では問題にならないのですが、一般社会では「立派な論文なのに作り方が厳密に書いていない」などと言われることがあります(批判した先生は研究をされていない人です。)


また科学は「役に立つ」ことを目的にしているのではなく、「真実」に近づくことですから役に立つかどうかなど100年後にしか判らないのです。でも、私はある学会に論文を出したら、査読委員から「この論文は何の役にも立たない」というコメントで拒絶されたことがあります。特に産業界の人が査読委員に当たると「科学は役に立つ物」という意識があるようです。


「写真が張り間違っているじゃないか!」というのはある程度、まともな指摘なのですが、私たちはあまり気にしません。もちろん、間違いがない方が良いのですが、私たちは「欠点を指摘するため」に論文を読むわけではなく、「なにか新しいことを教えてもらいたい」と思っているからです。


今回も、若山さん、笹井さん、小保方さんが「ご厚意」で論文を出していただいたので、STAP細胞というのを知ることができたわけで、あくまで彼らの親切心であって、義務ではありません。「こちらが論文の提出を命じて、出てきた論文をチェックする」というのではなく、彼らが「好意で私たちに教えてくれた」というものですから、間違いがあっても、そんなことを指摘することすら普通は遠慮します。


まして再現性があるか(これは第一回でお話をしました)、俺の結果と違う(最初のうちだからいろいろなデータがある。そのうち、一つになる)などはあまり関心もありません。まして「ウソ」などはまったく気にもしません。もともと「義務、お金」などで発表しているのではなく、「好意」なのですから、ウソをつく必要が無いからです。


それでも、人間ですから、長い年月(100年ぐらい)には数件のウソがありますが、そんなことを日常的に気にしても仕方が無いのです。また、自然は最終的にはウソをつきませんから、しばらくしたら自然にウソは判ります。だから、論文がウソかどうかを調べるより、しばらくほかっておいた方が効率的にウソを見分ける事ができます。


このように仲間内なら、今回のSTAP事件で問題にされていることは、問題にはならず、おそらく小保方さんは普通に研究を続けていたと思います。そして、もし研究がウソなら、次の論文は出てこないでしょうし、他の人も関心を失っていくでしょう。つまり何もなかったように消えていって、さして労力もかからなかったと思います。


論文の間違いを指摘した人は、科学者のようですが、むしろどういう人で何が目的なのか、私には少し理解できないところがあります。


(平成26年7月8日)

武田邦彦

(出典:武田邦彦先生のブログ





2014年7月14日月曜日

【STAP騒動の解説 260707】  科学の楽しみ(3)   温暖化とタバコ


科学の楽しみ(3)  温暖化とタバコ



科学者は物事をどう見るのだろうか? 一般の人が「人間界のこと」を見ているとしたら、科学者は「自然界」を見る。さらに研究者は「未知の自然界」に挑戦しているので、そこは「意外なこと」だらけだ。でも、意外なことがなければ研究をしても「予想されること」や「あたりまえの事」が判るだけだから、面白くない。


そうなると科学の研究者は常に「意外なこと」に遭遇することになる。このシリーズの第一話は「ある駅のダイヤ」の話をした。一週間、ずっと1時から3時まで10分おきに列車が来たので、翌週も来ると思ったら全く来ない。なぜ、こんなことが起こるのかというと、ダイヤを決めているのが自然だから、人間の予想や最適なこととは無関係だからだ。


ある鋭い弁護士が、STAP細胞があれば事件は解決すると発言しているのを見て、自然に関係する事件に巻き込まれたら助からないとゾッとした。科学は再現性がない等と言っても「厳密な科学にそんなことはあり得ない」と言われて終わりだろうからである。ダイヤの話が少しでも役に立てばと思っている。


第二話は「結果と原因」だが、学生が陥りやすい間違いを例にしてお話をした。今回は、社会人が陥りやすいもので「自分の損得」や「社会の空気」が「事実」に優先して、相反する判断をすることを示したい。

このグラフは空気中のCO2濃度と世界の都市部の平均気温をプロットしたものである。20世紀に入って石油や石炭を燃やしたので、CO2が増えて都市部の気温が上がったと説明される。そして多くの人が「CO2が増えると温暖化するのだな」と強く信じる。

本当は、このグラフだけでCO2が増えたら温暖化するなどと思うはずもない。というのは、いろいろ考えられるからだ。
1)太陽活動が盛んになっているのではないか?
2)雲が少なくなって地表が暖められているのではないか?
 何しろ、地球の気温を支配する要因は数多いのだから、一つだけをとって「それが原因だ」と言っても少なくとも科学者は納得することができない。ところが一般の人が騙されるのは、さらに次のような科学的ではないことが入るからだ。


1)政府が言っている。
2)NHKが言っている。
3)アメリカ人が言っている、ドイツ人も言っている。
4)みんなが言っている。
5)専門家(事実は一部の専門家だが、NHKが片方しか出さない)が言っている。
6)石油ストーブを焚くと温かい。


これらはすべて「科学的ではない」ことだから、正しい判断をするために何の助けにもならない。科学は多数決でも、権力でもないからだ。たとえば「自分は科学者ではないから、専門家が言えばそう思わざるを得ない」という話があるが、これは「自分には判らない」と言っているのだから、「判らないことは口に出さない方が良い」と忠告してあげたい。


それでもどうしても科学者の判断を参考にしたいというなら、学問的な議論の場を作って、中立的にそれを聞いて判断するという方法もあるが、現在のIPCCのように「温暖化が起こるという学者だけを選んだ秘密会」の結果だけを聞いても、それは科学ではない。

次のグラフはこれで、「喫煙率が下がるほど、肺がんが増える」というものだ。地球温暖化ではCO2が増えると温暖化すると判断した人が、今度はこのグラフを見ると「おかしい?そんなはずはない」と言う。科学は思想でも損得でも、社会現象でもないので、グラフは常に同じ見方をしなければならない。地球温暖化は儲かるからCO2と関係があるといい、タバコの煙は嫌いだからこのグラフはウソと言うというのでは、「科学の衣を着て人を騙す」と言うことになる。


しかし、さらに言い訳がある。それは「温暖化は専門家が言っているし、タバコは医師が違う事を言っている」というものだ。これにはトリックがある。自分の気に入るグラフが出てくると、それを採用する理由として専門家を出してきて、自分の先入観と異なるグラフの場合は、専門家が違う事を言っているということで、受け入れない。それなら最初から、グラフを見ない方が良い。


このようなことは学生でも起こる。6月ぐらいから卒業研究を始め、やっと12月になってまとめようとしているときに相反するデータが出る。そうすると、「このデータは間違っている」と主張する。「なぜ間違っていると思うの?」と聞くと、「間違っている。先生、これは間違っています」という。


実際には、相反するデータが出ただけで、どちらが間違っていると言うことではない。「自分が卒業するためには、このデータを間違っているとしてください」といっているだけだ。私が「自然は複雑だから、相反するデータは出るよ。それを含めて論文を書いたら」というと、その力がないので、動揺し、頑張る。それが人間というものだ。


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自然に対して人間はとても小さな存在だ。だから人間は常に錯覚し、間違う。でもそれが人間だから仕方が無い。人間ができることは、「人間が小さい」ということを知っている事だ。そしてその中で最大限の努力だけはできるという謙虚な気持ちがあって始めて科学は進歩する。


再現性があるとか、厳密で正しいのが科学だ、という人は自然の上に人間がいると思っている浅はかな人に見える。


(平成26年7月7日)

武田邦彦

(出典:武田邦彦先生のブログ





2014年7月13日日曜日

【STAP騒動の解説 260606】 官房長官と理研調査委員会の記者会見





官房長官と理研調査委員会の記者会見



「説明してみんなにわかってもらいたい」という気配がまったく感じられないのが、官房長官のいつもの記者会見と、理研の調査委員会で前調査委員長が写真の(不正)使用で退任した後、代わりに委員長になった弁護士の人である。


もし、この世に政府が二つあり、それぞれの政府に官房長官がいて、どちらかわかりやすい方に予算を分配する仕組みなら(普通の町の商売)、にこにこ笑い、わかりやすい説明を試みるだろう。でも、官房長官は一人だし、彼の給料が国民から支払われていることはとうの昔に頭の中にはないように見える。


アメリカのように陽気で民主主義が根についているところのスポークスマンはほぼ笑顔で、愛想もよい。最近では中国も少しずつ女性のスポークスマンなどを使っているが、まだ「教えてやるぞ」という気配が感じられる。


一方、理研の調査委員長は、税金を使った理研の研究に不正があったかも知れないという時の責任者だから、調査については理研を代表してお詫びの気持ちでいっぱいのはずであるし、不正があってはいけないという気持ちも持っているはずである。


特に前委員長がこともあろうに、写真の不正を糾弾する責任者が不正な写真の使用をしていたということで辞任したのだから、かなり腰が低いかと思ったら、説明は不親切、一見して傲慢な顔つきだった。ぶっきらぼうの説明で「国民にわかってもらいたい」というのではなく、「できるだけ話したくない」という態度に終始していた。


若い研究員が80枚ある論文の写真を3枚、ミスしたというだけで調査を打ち切り、不正をしたのは若い研究員個人だけと言ったのに、現在の状態はそれどころか、政府、理研、関係学会が総出で、なにか「日本国の研究不正」に取り組んでいる。もし、「日本国の研究不正」に取り組む方が正しいなら、逆に「小保方さんの写真の取り違え」などは個人の問題だから、それで調査を終了して小保方さんだけを、写真3枚のとりちがえだけで処分するというのは実に奇妙だ。


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「説明責任」という時代、「民主主義」のものと日本でもあり、懇切丁寧に多くの人の疑問に答え、政府は政府の方針が国民に伝わるように力を尽くし、理研は不祥事をわびてできるだけ正確に国民に理解してもらわなければならないのは当然でもある。


憲法改正論議もそうであり、原発再開問題でも同じだが、まだ日本は近代化されていないので、どうしても「上に立つもの」とか「天下り」という意識があり、政府の上層部や国の機関の人が、税金を使っていることに対する正しい認識を持てないようである。


おそらくは日本では民主主義は、その考え方を輸入したもので、戦い、あるいは血を流して獲得したものではないので、なかなか身にしみるには時間が必要なのかも知れない。でも、「国民が判断するのだから、国民にできるだけ多くの情報を丁寧に伝える」ということに力を注ぎ、国民の合意の元で日本の力を結集できるようにしてもらいたいものである。


特に、スポークスマンの立場にいる人(官房長官や理研の説明に当たる人)は、まず第一に「どんなことがあってもウソをつかないこと」、「丁寧に説明すること」について十分な配慮をして、我慢強く新しい日本を作る努力をして欲しい。


たとえば、秘密保護法にしても、集団的自衛権にしても、多くの国民が「よくわからない」と言っているのだから内閣としては可能な限り説明の機会を作るべきだろう。また理研は、笹井、若山、丹羽、小保方さんの役割や、現実の研究状態など、普通の人にわかりやすく、包み隠さず(理研は特に隠す必要がない)、説明をすることを望んでいる。


理解できないことが山積みになるのは、選挙で代議士を選出するという議会制民主主義というものと反するけれど、それを補充する役割を持っている新聞やテレビはどうしているのだろうか?


(平成26年6月9日・・・日付は最初に執筆した日を示しています。掲載日は自動的に記録されるのと、その間での調査、修正がわかるからでもあります。)

武田邦彦

(出典:武田邦彦先生のブログ





2014年7月10日木曜日

【STAP騒動の解説 260706】   科学の楽しみ(2)   「結果」と「原因」


科学の楽しみ(2)
 「結果」と「原因」



STAP事件をキッカケにして「科学とは何か?」、そして「科学の楽しみとは」ということに少し触れてみたくなった。第一回は「未知の世界」というのがどういうものか、なぜ科学の論文で「再現性」を求めないのかについて書いた。


第二回目は、学生が良く陥る「原因と結果」である。たとえば、学生に「人間の筋肉の量は何によって決まるかを調べてくれ」と言うと、学生は身の回りのネットなどで手軽に調べられる資料で調べてグラフにしても持ってくる。そのグラフが次のような関係だったとする。


学生が提出したグラフには横軸が年齢、縦軸が筋肉量で、20歳から筋肉は徐々に減少している図が書かれていた。そして学生は「先生、筋肉は年齢によって減少します」と説明する。


そうすると私が「そうかな。このグラフだけではそんなことは判らないと思うけれど」と言うと、学生は血相を変えて「先生!ハッキリと年齢が原因で筋肉量が減ることが判るじゃないですか!実際に僕の身の回りを見ても・・・」と必死になる。


このグラフは「現在の日本人の年齢と筋肉の関係を調べたら年齢とともに筋肉が減ることが判った」というだけで、「年齢によって筋肉が減少する」ということを示しているものではないが、この差は学生には判らない。


学生は単にネットで手に入りやすいデータを調べて、グラフにしてきただけで、しかも「年齢とともに筋肉が減少する」というのは「自分のこれまでの先入観」や「日常的な感覚」にあうから、これで先生がOKしてくれると思ったのだろう。


学生の人ばかりではなく、一般の人も何かのグラフと先入観が一致すると、それを信じる傾向がある。しかし科学者は慎重なので、この段階ではまだペンディングだ。そして、学生には「年齢によらずに同じ負荷を筋肉に与えた実験はないだろうか?」と聞く。


このような追加の調査を言うと、サボりの学生はいやがる。彼は事実を知りたいのではなく、早く課題を終わりたいからだ。本当に事実を知りたいという学生はほとんどいないが、もしいればさらに調べてくれる。そうしてグラフを持ってくる。


「先生、やはり年齢とともに筋肉は落ちるようですね。同じ負荷をかけている場合は、少し減り方が少なくなりますが」と言う。私はそれでも納得していない。「そうだね。かなり減少率が変わったね。同じ負荷の場合、なぜ年齢が違うと筋肉の減り方が変わるのだろうか?」と学生に聞く。この場合のサボりの学生なら「先生は面倒なことを言うな」という顔をする。


私は学生を一流の科学者に育てたいから、さらにいう。「すまないけれど、スポーツ選手の筋肉の減り方を調べてみてくれないか?」


その結果がこのグラフだ。意外なことにスポーツ選手は年齢によって筋肉の減少が大きく、特に30才を超えると急激に減少する。実に奇妙だ。スポーツ選手は鍛えているのだから、筋肉は普通の人より減り方が少ないはずなのに逆に大きいし、年齢によって大きく変化している? そこで、少し専門的な論文集を学生に渡してヒントを与える.自分自身もその結果がどうなるかわからない。


学生が最後に持ってきたグラフがこれだ。かなりゴチャゴチャしてきたが、ようやく一段落する所まで来た。これが真実かどうかは不明だが、このぐらい解析すれば次の研究に役立つ。


筋肉には普通の生活に使う範囲のものと、人間の体の全体に見られることだが、能力一杯に出すときの筋肉とに分けることができる。その区別をして見ると、筋肉に同じ負荷をかけた場合、日常的な生活に使う筋肉の量は年齢によらないが、スポーツなど特別に鍛えてつけた筋肉は同一の負荷をかけても年齢とともに減少し、特に30才以後はその傾向が強いことが判った。


つまり、私たちの経験から来る常識(年齢とともに筋肉の衰えを感じる。スポーツ選手も30を超えると成績が落ちる)から、最初のグラフ(年齢とともに筋肉が落ちる)のは当然で、歳を取ると筋肉が減るのはやむを得ないように感じる。


ところがさらに調べて行くと、実は日常的な筋肉は、若い頃の方がスポーツや力仕事をするから筋肉が減らず、歳を取るとサボるから筋肉が落ちるということがわかる。さらにスポーツに使うような「普通にはない余分な筋肉」は、20台ならまだ何とかなるが、30を過ぎると低下することが判る。


できるだけ少ない労力で筋肉の衰えを理解しようとすると学生のようになる。でも科学者は効率も義務も関係ない。そして「ああ、そうか!筋肉が年齢によって衰えると思うのはこういうことか!!」ということが判る.その楽しみが科学なのだ。


自然現象というのは難しいものだ。でもそれだから面白い。でも「なんでも早くかたづけたい」と思う人は科学には向いていないし、もしかすると科学者はある程度、偏執狂であり、常識を疑わう人の方が適正があるかも知れない。職人が自分の作品に満足するまでやるように、科学者は自分の頭脳が完全に満足するまでは疑問を持ち続けるものだ。


(平成26年7月6日)

武田邦彦

(出典:武田邦彦先生のブログ






2014年7月9日水曜日

【STAP騒動の解説 260705】  科学の楽しみ(1)  「未知の世界」はどんなものか



科学の楽しみ(1)
 「未知の世界」はどんなものか



かなり高名で見識もある弁護士さんが「STAP論文は再現性があるかで決まる」と言っておられた。その論説を読んでみると、やはり弁護士さんは法律の世界だから、「人間が作った法律、人間が運営している社会、人間のすること」の範囲で、厳密に考えておられることが判った。


STAP論文の価値は「再現性」では決まらない。そのことを科学の言葉ではなく、人間が作った対象物(社会や法律、経済など)を相手にしている人にどのように説明すれば判ってもらえるか、それを考えていたところ、もしかするとこの説明で判ってもらえるのではないかと思い、書いてみた。


・・・・・・・・・


ある人が「鉄道の駅」から徒歩10分か20分ぐらいの所に住んでいたが、生まれて30歳になるまで何回、駅に行っても列車はこなかった。30歳の誕生日になって列車に乗ってみようかと思い、午後の2時に駅に行ってみたら、10分ほど待ったら列車がきた(新発見)。


次の日は少し遅れて、2時12分頃に駅に着いてもやはり10分ほど待ったら、列車が来た。そんな感じで1週間を過ごし、毎日、列車に乗ることができた(本人の確信)。日曜日に皆に呼び掛けて「これから、列車で移動しよう。その方が便利だ。10分も待つと列車が来る」と言って、月曜日から列車に乗ることになった(論文を出した段階)。


・・・・・・・


月曜日が来て、午後2時に皆で駅にいって列車を待ったが、10分待っても、1時間待っても列車は来ない。ついに日暮れになった。なにか事故でもあったのかと思い、火曜日も皆で行ったが、また列車は来ない。おかしい? 先週は毎日、10分ほど待ったら来たのに??と言いながら、その日も引き上げた。そしてそれから毎日、何時に行っても列車は来ない日が続いた(世間の批判の段階)。


その人はすっかり信用を失い、誰も相手にしなくなった。そして、もう、列車は来なくなったと思っていたら、1ヶ月ほど経ったら、列車の音がする。慌てて駅にいったら列車が発車した後だった。・・・どうなっているのだろうか??


実はこの列車は1ヶ月に第一週には1時から3時まで運行するダイヤで、しかも次の月は第二週、さらに次の週は第三週とずれていくことが判った。でも、そのことが判ったのは、駅の側に見張りを置いて1年ほど経った時だった。それから数10年間、駅に監視員を置いて、ダイヤを詳細に調べてみると、1ヶ月に1週間だけ1時から3時に列車が来るのは10年に一度になっていることも判ってきた(自然の判明)。


かくして、最初に幸運にも列車に乗った時から50年をへて、やっと「列車に乗るにはどのタイミングで言ったら乗れるか」という再現性が得られるようになった。


・・・・・・・・・


つまり、再現性実験とは「運行ダイヤが判らない列車に乗る」ようなもので、最初の一週間に偶然に乗ることができたからと言って、「ダイヤの全体像」(新しく発見された自然の摂理)が判るまでは「再現性はない」のだ。それでも「あるタイミングで行けば列車に乗れる」というのは事実で、「全体像が判らない時期に再現性がないということは、そのことが事実ではない」というのとは全く違う・・・このことは私のようなベテランの自然の研究者は痛いほどわかっている事である。


しかし、法律家は判らないだろう。人間があらかじめ作った法律に基づいて、その枠から出ないのだから、論理は正確になるが、「人間が作ったものではない未知のもの」とはどういうものかについての経験が無いからである。


人間は自然のごく一部しか知らない。そのことを科学者は知っているから傲慢ではない。「再現実験をすればSTAP論文の評価ができる」というのは私にはあまりにも傲慢に見える。


科学者は新しいものを発見し、馬鹿にされ、再現性がないと言われ、不運な一生を送る。それは人間が「自分は何でも判っている」と思う傲慢な心で、私たち科学者は毎年、この事実に叩かれる。でも、日本の科学者はアメリカで全体像が判ってから、細かいところの研究をする。だから「研究は厳密に実証できる」と思っている。でも、それは全体像がすでに判っているからである。


(平成26年7月5日)

武田邦彦

(出典:武田邦彦先生のブログ





2014年7月8日火曜日

小保方研究ユニットリーダーが参加する「STAP現象の検証計画」の進め方

小保方研究ユニットリーダーが参加する「STAP現象の検証計画」の進め方について、理化学研究所から次の発表がなされています。

『平成26年4月1日に公表した「STAP現象の検証計画」に、小保方研究ユニットリーダーを参加させることを6月30日に決定し、7月2日にマスコミ向けのブリーフィングを実施しましたが、その時に使用した資料を掲載します。』

小保方研究ユニットリーダーが参加する「STAP現象の検証計画」の進め方(PDF)


早くSTAP現象の再現を実現して、真実を明らかにしてもらいたいと思いますね。

しかし、科学の最先端の研究では、簡単に再現できないこともあるので、その場合のことを心配します。最後まで闘ってもらいたいですね。必ず何処かで再現できると思います。








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