2014年7月10日木曜日

【STAP騒動の解説 260706】   科学の楽しみ(2)   「結果」と「原因」


科学の楽しみ(2)
 「結果」と「原因」



STAP事件をキッカケにして「科学とは何か?」、そして「科学の楽しみとは」ということに少し触れてみたくなった。第一回は「未知の世界」というのがどういうものか、なぜ科学の論文で「再現性」を求めないのかについて書いた。


第二回目は、学生が良く陥る「原因と結果」である。たとえば、学生に「人間の筋肉の量は何によって決まるかを調べてくれ」と言うと、学生は身の回りのネットなどで手軽に調べられる資料で調べてグラフにしても持ってくる。そのグラフが次のような関係だったとする。


学生が提出したグラフには横軸が年齢、縦軸が筋肉量で、20歳から筋肉は徐々に減少している図が書かれていた。そして学生は「先生、筋肉は年齢によって減少します」と説明する。


そうすると私が「そうかな。このグラフだけではそんなことは判らないと思うけれど」と言うと、学生は血相を変えて「先生!ハッキリと年齢が原因で筋肉量が減ることが判るじゃないですか!実際に僕の身の回りを見ても・・・」と必死になる。


このグラフは「現在の日本人の年齢と筋肉の関係を調べたら年齢とともに筋肉が減ることが判った」というだけで、「年齢によって筋肉が減少する」ということを示しているものではないが、この差は学生には判らない。


学生は単にネットで手に入りやすいデータを調べて、グラフにしてきただけで、しかも「年齢とともに筋肉が減少する」というのは「自分のこれまでの先入観」や「日常的な感覚」にあうから、これで先生がOKしてくれると思ったのだろう。


学生の人ばかりではなく、一般の人も何かのグラフと先入観が一致すると、それを信じる傾向がある。しかし科学者は慎重なので、この段階ではまだペンディングだ。そして、学生には「年齢によらずに同じ負荷を筋肉に与えた実験はないだろうか?」と聞く。


このような追加の調査を言うと、サボりの学生はいやがる。彼は事実を知りたいのではなく、早く課題を終わりたいからだ。本当に事実を知りたいという学生はほとんどいないが、もしいればさらに調べてくれる。そうしてグラフを持ってくる。


「先生、やはり年齢とともに筋肉は落ちるようですね。同じ負荷をかけている場合は、少し減り方が少なくなりますが」と言う。私はそれでも納得していない。「そうだね。かなり減少率が変わったね。同じ負荷の場合、なぜ年齢が違うと筋肉の減り方が変わるのだろうか?」と学生に聞く。この場合のサボりの学生なら「先生は面倒なことを言うな」という顔をする。


私は学生を一流の科学者に育てたいから、さらにいう。「すまないけれど、スポーツ選手の筋肉の減り方を調べてみてくれないか?」


その結果がこのグラフだ。意外なことにスポーツ選手は年齢によって筋肉の減少が大きく、特に30才を超えると急激に減少する。実に奇妙だ。スポーツ選手は鍛えているのだから、筋肉は普通の人より減り方が少ないはずなのに逆に大きいし、年齢によって大きく変化している? そこで、少し専門的な論文集を学生に渡してヒントを与える.自分自身もその結果がどうなるかわからない。


学生が最後に持ってきたグラフがこれだ。かなりゴチャゴチャしてきたが、ようやく一段落する所まで来た。これが真実かどうかは不明だが、このぐらい解析すれば次の研究に役立つ。


筋肉には普通の生活に使う範囲のものと、人間の体の全体に見られることだが、能力一杯に出すときの筋肉とに分けることができる。その区別をして見ると、筋肉に同じ負荷をかけた場合、日常的な生活に使う筋肉の量は年齢によらないが、スポーツなど特別に鍛えてつけた筋肉は同一の負荷をかけても年齢とともに減少し、特に30才以後はその傾向が強いことが判った。


つまり、私たちの経験から来る常識(年齢とともに筋肉の衰えを感じる。スポーツ選手も30を超えると成績が落ちる)から、最初のグラフ(年齢とともに筋肉が落ちる)のは当然で、歳を取ると筋肉が減るのはやむを得ないように感じる。


ところがさらに調べて行くと、実は日常的な筋肉は、若い頃の方がスポーツや力仕事をするから筋肉が減らず、歳を取るとサボるから筋肉が落ちるということがわかる。さらにスポーツに使うような「普通にはない余分な筋肉」は、20台ならまだ何とかなるが、30を過ぎると低下することが判る。


できるだけ少ない労力で筋肉の衰えを理解しようとすると学生のようになる。でも科学者は効率も義務も関係ない。そして「ああ、そうか!筋肉が年齢によって衰えると思うのはこういうことか!!」ということが判る.その楽しみが科学なのだ。


自然現象というのは難しいものだ。でもそれだから面白い。でも「なんでも早くかたづけたい」と思う人は科学には向いていないし、もしかすると科学者はある程度、偏執狂であり、常識を疑わう人の方が適正があるかも知れない。職人が自分の作品に満足するまでやるように、科学者は自分の頭脳が完全に満足するまでは疑問を持ち続けるものだ。


(平成26年7月6日)

武田邦彦

(出典:武田邦彦先生のブログ






2014年7月9日水曜日

【STAP騒動の解説 260705】  科学の楽しみ(1)  「未知の世界」はどんなものか



科学の楽しみ(1)
 「未知の世界」はどんなものか



かなり高名で見識もある弁護士さんが「STAP論文は再現性があるかで決まる」と言っておられた。その論説を読んでみると、やはり弁護士さんは法律の世界だから、「人間が作った法律、人間が運営している社会、人間のすること」の範囲で、厳密に考えておられることが判った。


STAP論文の価値は「再現性」では決まらない。そのことを科学の言葉ではなく、人間が作った対象物(社会や法律、経済など)を相手にしている人にどのように説明すれば判ってもらえるか、それを考えていたところ、もしかするとこの説明で判ってもらえるのではないかと思い、書いてみた。


・・・・・・・・・


ある人が「鉄道の駅」から徒歩10分か20分ぐらいの所に住んでいたが、生まれて30歳になるまで何回、駅に行っても列車はこなかった。30歳の誕生日になって列車に乗ってみようかと思い、午後の2時に駅に行ってみたら、10分ほど待ったら列車がきた(新発見)。


次の日は少し遅れて、2時12分頃に駅に着いてもやはり10分ほど待ったら、列車が来た。そんな感じで1週間を過ごし、毎日、列車に乗ることができた(本人の確信)。日曜日に皆に呼び掛けて「これから、列車で移動しよう。その方が便利だ。10分も待つと列車が来る」と言って、月曜日から列車に乗ることになった(論文を出した段階)。


・・・・・・・


月曜日が来て、午後2時に皆で駅にいって列車を待ったが、10分待っても、1時間待っても列車は来ない。ついに日暮れになった。なにか事故でもあったのかと思い、火曜日も皆で行ったが、また列車は来ない。おかしい? 先週は毎日、10分ほど待ったら来たのに??と言いながら、その日も引き上げた。そしてそれから毎日、何時に行っても列車は来ない日が続いた(世間の批判の段階)。


その人はすっかり信用を失い、誰も相手にしなくなった。そして、もう、列車は来なくなったと思っていたら、1ヶ月ほど経ったら、列車の音がする。慌てて駅にいったら列車が発車した後だった。・・・どうなっているのだろうか??


実はこの列車は1ヶ月に第一週には1時から3時まで運行するダイヤで、しかも次の月は第二週、さらに次の週は第三週とずれていくことが判った。でも、そのことが判ったのは、駅の側に見張りを置いて1年ほど経った時だった。それから数10年間、駅に監視員を置いて、ダイヤを詳細に調べてみると、1ヶ月に1週間だけ1時から3時に列車が来るのは10年に一度になっていることも判ってきた(自然の判明)。


かくして、最初に幸運にも列車に乗った時から50年をへて、やっと「列車に乗るにはどのタイミングで言ったら乗れるか」という再現性が得られるようになった。


・・・・・・・・・


つまり、再現性実験とは「運行ダイヤが判らない列車に乗る」ようなもので、最初の一週間に偶然に乗ることができたからと言って、「ダイヤの全体像」(新しく発見された自然の摂理)が判るまでは「再現性はない」のだ。それでも「あるタイミングで行けば列車に乗れる」というのは事実で、「全体像が判らない時期に再現性がないということは、そのことが事実ではない」というのとは全く違う・・・このことは私のようなベテランの自然の研究者は痛いほどわかっている事である。


しかし、法律家は判らないだろう。人間があらかじめ作った法律に基づいて、その枠から出ないのだから、論理は正確になるが、「人間が作ったものではない未知のもの」とはどういうものかについての経験が無いからである。


人間は自然のごく一部しか知らない。そのことを科学者は知っているから傲慢ではない。「再現実験をすればSTAP論文の評価ができる」というのは私にはあまりにも傲慢に見える。


科学者は新しいものを発見し、馬鹿にされ、再現性がないと言われ、不運な一生を送る。それは人間が「自分は何でも判っている」と思う傲慢な心で、私たち科学者は毎年、この事実に叩かれる。でも、日本の科学者はアメリカで全体像が判ってから、細かいところの研究をする。だから「研究は厳密に実証できる」と思っている。でも、それは全体像がすでに判っているからである。


(平成26年7月5日)

武田邦彦

(出典:武田邦彦先生のブログ





2014年7月8日火曜日

小保方研究ユニットリーダーが参加する「STAP現象の検証計画」の進め方

小保方研究ユニットリーダーが参加する「STAP現象の検証計画」の進め方について、理化学研究所から次の発表がなされています。

『平成26年4月1日に公表した「STAP現象の検証計画」に、小保方研究ユニットリーダーを参加させることを6月30日に決定し、7月2日にマスコミ向けのブリーフィングを実施しましたが、その時に使用した資料を掲載します。』

小保方研究ユニットリーダーが参加する「STAP現象の検証計画」の進め方(PDF)


早くSTAP現象の再現を実現して、真実を明らかにしてもらいたいと思いますね。

しかし、科学の最先端の研究では、簡単に再現できないこともあるので、その場合のことを心配します。最後まで闘ってもらいたいですね。必ず何処かで再現できると思います。







2014年7月2日水曜日

小保方さん理研に出勤「STAP証明の一歩 頑張る」(14/07/02)

小保方リーダーが理研に出勤 STAP検証へ「頑張ってきます」 Obokata arrives at Riken







2014年7月1日火曜日

文科省、おまえもか?! 非論理的なSTAP事件評価


文科省、おまえもか?!
 非論理的なSTAP事件評価



文科省が「STAP事件が起こったことを契機に研究不正を減らす政策」を始めることになった。その内容はネットからの指摘に注意すること、研究不正を防ぐために若手の教育などを始めることなどであるが、もっとも二つの重要なことが抜けている。
1)今回の事件が「大きな不正事件」だったのか?
2)研究不正がなぜ起こるのか?
 の2つが抜けている。学力も知力もある人たちが検討したのだから、おそらく「故意に重要な部分を除いた」と考えられる。報道もされないので、ここで考えてみたいと思う。


まず第一に、このブログでも何回も書いたが、小保方さんの論文(笹井さん、若山さんも同じ責任著者)は80枚の写真と4本のビデオと文章出できていて、そのうち写真3枚が貼り違えたというもので、理研の内規には触れたかも知れないが(科学論文としては問題なし。ネイチャーも通っている)、写真を正しいものに代えても結論が変わらないのだから、意図的な不正ではない。


「不正」と結論した理研の調査委員会の方が「不正」である。


しかし、なにか大きなものが背後にあるのだろう。理研は税金で研究している公的な機関だ。もし大きな不正があるなら、その不正を明らかにしてから、対策を練るべきだ。外人が「三大不正と言った」という言葉を引用した改革委員会の不見識もさることながら、日本の科学のトップが自分たちだけの情報で事件を左右し、かつ日本の将来を決める科学の政策を決めようとしている。


まずは、三大不正に相当する不正とはいったい何なのか、それを明らかにしなければならない。若気の至りで少しのミスをした人がいるから、日本の科学技術政策の一部を変更するというのはいかにも不明瞭である。


第二に、もともと研究は企業なら製品を、大学なら公知を目指してやるもので、その中に「国の研究費」という特殊な分野が入り込んできた。それをあたかも科学の研究の一般系として政策を決めるのは、日本の科学技術を破壊すると考えられる。


「国の税金を使い、その結果を自分の出世と研究費にする」という理研、東大、京大などの研究態度が今日の不正や「実験ノートが必要」と言うことを生んでいるのであり、多くの科学者は科学に純粋に献身している。


マスコミはこの問題を小保方さん個人や、理研内部の権力闘争としてではなく、日本の科学の正しい発展のために、見識ある報道と論評を求めたい。また学会のトップは学問の世界の指導者として立派な言動を求める。


科学は秘密や駆け引き、権力者だけの密談などを嫌うものである。


(平成26年6月29日)

武田邦彦

(出典:武田邦彦先生のブログ




2014年6月23日月曜日

STAP事件後日譚 ムチャクチャな理研の改革委員会・・・やはりまだ整理が必要


STAP事件後日譚 ムチャクチャな理研の改革委員会・・・やはりまだ整理が必要



理研の改革委員会(外部委員による)が2014年6月12日に答申を出し、理研で「広く不正が行われたことを重視して理研の抜本的な改革に乗り出す必要がある」と結論した。あまりに論理性のない答申に私はびっくりしました。


今回の問題は「小保方さんという若い研究員が、論文を出すときに写真を3枚ほど間違えた」ということで、それらは一般的には問題にならない(理研の調査委員長が同じことをしていたことで辞任したことでわかる)が、今回だけは「理研の内規に抵触する」として処分することになったということだけだ。それ以上のことは調査が打ち切られたので「それ以外はなにもなかった」と言うことになった。これは理研の判断である。


ところが、改革委員会は「科学の三大不正事件の一つ」として理研の大改革を提案した。実に奇妙だ。理研は「写真3枚が不適切だった」として調査を打ち切ったのだから、それが理研全体を改革しなければならないなどという話ではない。


もし、論文か研究に組織的な不正(この不正とは理研の内規で言う不正ではなく、一般的な科学での不正)があったなら、調査委員会が笹井さん、若山さん、知的財産部、センター長などの関与について調査をして、その結果を受けて改革委員会が判断しなければならない。


改革委員会の答申が本当なら、調査委員会は日本社会に対してウソをついたことになる。論文の問題は小保方さんの不正(理研の不正の定義。一般的ではない)ではなく、複数の人の不正なのに、それを小保方さんだけの不正にしたのだから、はっきりとしたウソだ。


日本社会はウソに対して甘いから、調査委員会は何らかの事情があってウソをついたのだろうと組織の方に味方するが、それでは個人を尊重することはできない。


もし調査委員会が正しく、今回の問題が小保方さんの初歩的ミスによるなら、改革委員会がウソをついていることになる。つまり改革委員会は調査もしないか、調査の権限がなく、結論を出したことになる。もし調査委員会の結果が不十分ならまずは調査委員会の解散と再調査を命じ、その結果によって改革の方向を決めなければならない。


まして、再生センターの解散なども答申の中に入っているが、再生センターの一人が写真をミスしたら、再生センターが解散になると言う実に奇妙なことになっている。


改革委員会は調査もせず、単なる憶測か、文科省の指令で理研の不祥事を結論づけて、「外国が三大不正事件と言っている」という不誠実な表現でSTAP事件の総括を行った。もし小保方さんの写真の貼り間違いだけなら、この発言は日本の科学の信頼性を著しく落とす結果になっている。


ところで改革委員会と平行して、主として理研側からリークされたと考えられる、小保方さんの採用の経緯、経費の使用の仕方の問題、実験室の中の様子など、普通なら組織の外からは見えないことが、内部リークという形で次々と報道され、改革委員会の結論のほぼそれらの「不正なリーク」に基づいている。


ということは小保方さんの「理研の内規での不正」(本当は防いではない)よりも、より上位の人たち、調査委員会、改革委員会、理研理事などの不正の方が遙かに大きく、しかも、事実をそのまま話すことなく、内部リークという形で世論操作を行い、それを毎日新聞が報道するというきわめて暗い方法をとったのは実に残念だった。


毎日新聞がSTAP事件を報道するのは自由だが、その報道態度は一貫して「小保方悪し」に集中しており、理研のリークの仕方、調査委員会の不備、内規と法律の齟齬など、報道が公平を期する配慮を全くしていない。このことについては、糾弾する毎日新聞自体が報道としての不正をしていることになる。


小さな小保方さんのミスを追求する、理研中枢部、調査委員会、改革委員会、内部情報をリークする経理部、知的財産部、元従業員、それに自分は正しく悪いのは小保方さんだけと言い続ける笹井さん、若山さんなど実に醜悪である。


科学利権とはかくのごとく恐ろしいものであり、人の心をむしばみ、税金を無駄に使うことになる。日本社会には何か大きな傷があるのだろう。一人の研究者が書いた一つの論文の写真の貼り間違え(80枚のうちの3枚の軽微な間違い。ビデオ4本は正しいとされている)が「世界を揺るがす科学不正」であり、それは理研の体質がもたらしたものであるとされている。


おそらく、日本人の頭に「論文のミスばかりではなく、もっと悪いことが行われたのに相違ない。そんなことは調べなくても示さなくてもよい。日本村にある空気を作れば、その空気にそって特定の個人を罰し、組織全体に罪を問う。「わかっているじゃないか」と有識者は言う。「何がわかっているのですか?」と聞くと「そんなこと、言いたくない。わかっているじゃないか!」と怒鳴る。さらに聞いてみると、ネットの情報や理研のリークだけだ。


理研のリークを信じて、理研を解体する。そんな論理はない。研究がおかしいという遠藤さんというよくわからない人が情報を発信する、毎日新聞が理研リークを積極的に報道する、若山さんの前後がつじつまが合わない会見をNHKが整理して伝える・・・そうしてできた空気で「わかっている事実」を拡大に拡大している。単に販売部数を増やすためだけの目的で報道し、それに踊らされているのではないか?

(平成26年6月17日)

武田邦彦

(出典:武田邦彦先生のブログ




2014年6月19日木曜日

【STAP騒動の解説 260610】 なぜ、科学者は「ウソ」を問題にしないか?(2) 「自然」と「新しいこと」の特徴



なぜ、科学者は「ウソ」を問題にしないか?(2) 「自然」と「新しいこと」の特徴



前回、小保方さんと私の会話という形で、論文のミスより、内容に興味がある人はどういう態度で接するかという具体例を示しました。それと現実に1月から5月までに起こったことがあまりにかけ離れていることに私がびっくりしたことが理解されたことと思います。


2回目は、一般的に科学者が「ウソ」を問題にしないことについて、整理をしてみたいと思います。


私たち科学者は、研究して、その成果を学会で発表、まとまってきたら論文に出します。普段は学会にでて自分の研究を発表したり、他の人の研究発表を聞きます。私はこんなことを40年もやってきましたが、未だかつて「その結果は本当ですか、ウソですか」という質問を聞いたことがない。


学会での発表は、「ウソはない」ということを前提として聞く。そんなこと聞いては失礼だと言うこともない。私たちは科学に忠誠を誓っているのだから、もしウソではないかと思えば、「ウソではないか」と聞く必要がある。科学は人間社会の上にあるからである。


研究発表は原則として新しいことだから、「発表を聞く前には自分の頭に入っていない事実」だから、それが「ウソか本当か」など判別できるはずもない。だから、科学の世界では「ウソか本当か」を考えるだけ時間の無駄というものである。


それではまったくウソはないのだろうか? 科学は「研究対象の自然」と「研究する人間」の二つがあり、人間の方はウソをつくことがあるだろうけれど、自然はウソをつかない。だから、もし誰かがウソをついて、その研究がその人だけしかやらなければ永久にそのウソはばれないし、また誰も注目しないのだから、ばれてもばれなくても「意味がないもの」として歴史の中に消えていくだけのことだ。


STAP事件で日本社会が間違ったのは、「日常生活や政治など人間しか介在しないこと」と錯覚したからに他ならない。STAP細胞がウソなら、今後、だれも見向きもしないだろうし、本当ならだんだん、事実が出てくるだろうからである。その方が前向きで、労力も少ない。


人間がすることをいちいち「ウソか本当か」を確かめるとすると、学会にも膨大な「捜査班」を作らなければならない。しかし、「自然」という監察官がいるので、時が経つのを待てば自ずからウソか本当かはわかってくるし、ウソならウソを言った人は学会では誰も信用しなくなるので、罰も受ける。検察官も裁判所もあるので、問題はない。


第一、新発見、研究者の錯覚、ウソは紙一重で、それほど区別できるものではない。新発見でも100年近くは再現性がないものもあれば、研究者は多くのデータから間違いないと(善意で)思ったことが結果的にウソだったと言うこともおおい。なにしろ「新しく困難なこと」に挑戦しているので、難しいのだ。


単純ミスもある。私などは学生に「サンプル瓶には必ず名前を書け」と口酸っぱく言っていた。男子大学生はサボりだから、サンプル瓶に名前を書かず取り間違えることはおおい。また測定器が不調で思わぬ結果を出し、そのときにそれが「すばらしい結果」と思うこともある。あまりに荒唐無稽なら気がつくが、自分が「そんなデータが欲しい」と思っているときに測定器が偶然に壊れて、期待されるようなデータを出すこともある。


それも全部飲み込んで私たちは学会発表を聞く。国内はもとより、世界でも研究仲間はそれほど多くない。同じ研究の最大人数は4000名ぐらいと言われるが、普通は200人とか300人でも多い方だから、一度「ウソ」をついたら、その後は何回発表しても誰も聞いてくれないから意味がない。


また、ウソをつく人はほとんどいないが、それでも2種類の人がいて、卒業を間近にした学生、もう一つがやや頭の調子が悪くなった名誉欲の強い40歳から50歳代の人だ。学生は就職が決まり、万が一卒論を落第すると大変なことになるので、インチキをすることがある。また40歳代50歳代で他人との競争、地位を獲得するなどのことで、将来が見えなくなり、ウソに走る人もいるが、私の経験では最大でもウソは5年ぐらいでバレる。


STAP事件ではこのような私たちの日常生活と全く違う展開をした。多くの日本人が「ウソか本当か?」、あるいは「STAP細胞はあるのか?」などに関心を持った。小保方さんにレベルの低い質問をした記者は今頃恥じているだろうが、「STAP細胞はあります」と小保方さんが答えたのは実に可哀想だ。そんなこと、決まっているじゃないか。論文を提出した人は、その論文が不出来かどうかは別にして、論文の主旨はそう考えているから出している。それを聞いてどうするのか?と記者の頭脳の程度か、日本社会の異常性を感じた。


STAP論文が理研の誰かが仕掛けをしてウソだったこともある。でも、そんなことを詮索するぐらいなら、自分の興味のあることを研究して欲しい。詮索する人はSTAPに興味がないのだから関係ないじゃないか! もし正義感があるなら、小さな正義感ではなく、科学と人間のことを深く考えた正義感(無視)を選択するべきである。


科学に一般社会のしきたりや常識が入り込んだら、科学は進歩が大幅に遅れる。


(平成26年6月10日)

武田邦彦

(出典:武田邦彦先生のブログ




2014年6月15日日曜日

【STAP騒動の解説 260606】 なぜ、科学者は「ウソ」を問題にしないか?(1)  小保方さんとの対話


なぜ、科学者は「ウソ」を問題にしないか?(1)
  小保方さんとの対話



私がSTAP論文を読んだとき、小保方さんが横の机にいたとしましょう。なんと言っても著者が隣にいるのですから、とても便利です。私が読み終わって、


武田 「小保方さん、なかなかおもしろい論文ですね」
 小保方「ありがとうございます」


武田 「ちょっと質問なのですが、この2枚の画像は少し論旨と違うような気がしますが」
 小保方「えっ、そうですか? ちょっと、チェックしてみます・・・・・・」(しばらくして)
 小保方「すみません。先生。少し古い写真と間違えたようです」
 武田 「ああ、そうですか。これですか(小保方さんが示してくれた写真を見て)・・・なるほど、結論などは変わりませんが、正しい方に入れ替えておいた方が良いですよ」
 小保方「すぐ、ネイチャーに連絡してそうします」


・・・・・・・・・


武田 「それはそうと、外部からの刺激で万能性を持つ可能性もあるのですね」
 小保方「ええ、研究はまだまだですが、おもしろいと思います」
 武田 「この研究、小保方さんが理研に入ってまだ無給研究員だった30歳前にやったのですか?」
 小保方「ええ。そうです。若山研究室の時の仕事です」
 武田 「ご立派ですね。写真の取り扱いなどは慎重にした方が良いですが、これからの研究に期待しています」
 小保方「ありがとうございます」


私の興味は「そんな細胞もあるのか」ということであり、写真が少し間違っているかどうかなどということはない。武田「学問は厳密なものだから、これからは写真をしっかり管理して間違えないようにした方が良いですよ」と若い研究者を指導する。私達ベテランの研究者は若い研究者のミスを糾弾するために存在するのではなく、指導し励ますことである。


それに私の興味は学問的なことなので、写真が2枚、3枚間違っていても、論文を取り下げもらっては困る。彼女のアイディアに接することができなくなる方が痛手だ。日本社会は論文が読めなくなる方がうれしいという反応をしたが、私には全く理解できない。


論文に小さなミスがあることは若い研究者にはときどきあることで、良いことではないが、だからといってよってたかって研究者をいじめる気持ちにはまったくならない。むしろ、着想の良い研究をした人は励まし、教育しなければならないし、自分としても興味があるからだ。


その点では、日本の専門家やマスコミが「小保方さんの論文を撤回させられるか」に懸命だったことは実に奇妙だった。


さらに私と小保方さんは少し会話をするだろう。私がこれまで大学院の学生と話してきたように・・・
 武田 「小保方さん、小保方さんは時々、論文やネットの文章をそのままコピペして使うと聞いていますが」
 小保方「はいそうです。その方が効率的ですから。私が書いても、書いたものを使っても同じですから」


武田 「それは正しい認識です。著作権法で定められた文章以外に著作権のあるものはありませんし、科学の論文は著作権法の言う「思想または感情に基づく創作物」でもありませんから、人類共通の公知の財産として大いに利用するのが良いのです」


小保方「でも、ダメだって言う先生もおられるのですが」
 武田 「確かに学会の「村の掟」があって、世間を知らない先生や文化系の人が「公知」というものそのものを知らないこともあります。だから、私は学生に、「本当はどんどんコピペした方が学問の進歩にはよいのだけれど、つまらない非難を浴びないようにできるだけわからないようにコピペしておいた方が良い」と教えています。」
 小保方「そうですか。私も今後、注意してわからないようにコピペします」


悲しい現実です。学問の世界は正しいことを厳密に追求するのに、社会がお金にまみれ、学問の世界もお金にまみれてしまっているので、「公知」をいやがってお金にしたい学者が多いのです。

 (平成26年6月6日)

武田邦彦

(出典:武田邦彦先生のブログ


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