2014年4月11日金曜日

STAP事件簿13 研究が悪いのか、書き方が不十分なのか?






STAP事件簿13 
研究が悪いのか、書き方が不十分なのか?



(小保方さんの記者会見前後で、原稿の順番を変えました。音声では“08”と言っています)


STAP事件では、マスコミや批判する学者の多くに論理があっていないように見える。つまり、



具体的な批判は「論文の書き方」なのに、

研究そのものを止めさせようとしている。


ネイチャー論文の批判は、最初、写真の貼り間違えと写真に手を加えたこと、つまり「論文の書き方」が指摘され、その後、卒業論文のコピペや、実験ノートの不備など、本人の研究姿勢に及んできた。



しかし、論文を読むと、写真の問題はあってもそれは「論文の書き方のうまい下手」、「示している資料の正確性」であり、いわば文章の一部がぬけていたり、「てにおは」が修正されていないという類だ。



写真は70枚ぐらいあって、多くは適切なものが使われているし、説明、文章、文献の引き方などは30歳の研究者としてみれば、上出来の部類だ。



さらに、論文に示されていることは、「細胞がかなり傷む刺激を与えると、分化がリセットされる可能性がある」ということを明確に述べており、研究としては問題はない。



1953年、20世紀の最高のノーベル賞と言われる、ワトソン・クリックのDNA論文は、同じネイチャーに掲載されたものだが、「ノート」で、わずか2ページ。実験方法も(彼らは自分のデータを使ったのではなく、他人のデータがほとんどだったが)、詳細な説明もない。しかし、DNAは二重らせんだ、それが生命の源だという画期的な着想だった。



後にノーベル物理学賞を受賞した日本の江崎玲於奈博士も、たしかフィジカル・レターに簡単な2ページの論文を投稿してノーベル賞を受賞している。私は江崎先生から直接、「この論文で賞をいただいたのです」と言われて渡されて、その簡単な記述にびっくりしたものだ。論文には1枚のグラフがあるだけで、説明はごくごく簡単なものだった。



人間の着想の素晴らしさというものは、詳細がキチンと書かれていることではない。書かれている内容が間違いを含んでいるということでもない。そこに示された考えが「これまで人類がほとんど考えたことではない」というのを少しの事実から導き出すことである。



したがって、それは不確かであり、危ういものではあるが、その後、多くの人が関心を持ち、だんだん膨らみ、やがて巨大な発見や人類の福利に役立つものである。



したがって、「こうしたらできる」とか、「他人が追試してできるような記述」とか、まして「70枚のうちに2枚ほど図を間違って貼った」などということは問題にはならない。



STAP事件は、1)科学の進歩の体験をしていない素人の人たち、2)大騒ぎをしたいマスコミ、3)それに乗って有名になりたく、他人の批判が好きな学者、4)研究をお金や名誉でやっている人、それに、5)よく勉強しなかったので先生のコピペやデータの間違いを叱られた子供や青年、が「火の無いところに煙を立てて、日本の科学に打撃を与えた」と言う事件だった。



(平成26年4月10日)
武田邦彦

(出典:武田邦彦先生のブログ







STAP事件簿12 深層(1)小保方さんは誰に迷惑をかけたのか? 謝るのは記者の方だった!!




STAP事件簿12 深層(1)
小保方さんは誰に迷惑をかけたのか? 
謝るのは記者の方だった!!



2014年4月8日に行われた小保方さんの記者会見では、小保方さんは何回も頭を下げて謝っていた。「自分が未熟だった」という理由だが、小保方さんは誰に、どういう迷惑をかけたのだろうか?「未熟」というのは謝らなければならないことだろうか?



彼女は29歳と言う若い年齢で研究リーダーとして新しい細胞の研究をし、「どうも、外部からの刺激で初期化される細胞があるらしい」ということがわかり、その研究成果をまとめて世界的に有名なネイチャーと言う科学誌に論文を投稿した(2013年3月10日)。



投稿した論文は、まだ研究は途上で、未完成のところもあり、やや不十分な記載もあったが、全体としては価値があると認められて、厳しい査読委員の審査を通って、同年12月20日、アクセプト(掲載可)にまでこぎつけた。論文は「ミスがないから掲載される」のではなく、「その論文のどこかに価値があれば掲載される」という性質のものだ。減点主義ではない。



また、論文を提出するというのは、自分の研究(黙っていれば自分や自分の組織しか知らない)を人類に役立てるために公知(だれでも使える人類共通の財産)にするための行為だから、論文を出すだけで立派だ。普通、企業などは研究成果を論文として出さないので、頭脳活動は人類共通財産にはならず、その会社の利益に結び付く。



さて、ネイチャーに論文が掲載されると、興味のある人が読む。20ページ近い英語の論文だから、専門家しか見ないのが普通である。そして専門家は「将来にわたって事実として認定されるかどうかは不明だが、小保方という研究者が何かをやってこういう結果を得たか」というのを知ることができる。



雑誌への掲載料金は自分が払い、すべての労働対価は自分持ち(組織もち)なので、一般社会になにも迷惑はかけていない。また内容は斬新だが、なんといってもまだ世界的に知られていない人だから、共著者に笹井さん、若山先生、バカンティ教授などがいるので、「ああ、あの研究関係の中の若手が書いたのだな」と思って読む。



この論文を読んだほとんどの人は、1)外部からの刺激で細胞が初期化する可能性があるなということ、2)実験は豊富だが、まだ初期の研究だから少しの間違いや錯覚もあるだろう、3)これからの研究や考え方にかなりの刺激になった、と感じただろう。



そして、とても強く興味を持った学者がいたら、追試をしたり、小保方さんの知恵を拝借してさらに研究をしたいと思った人もいるだろう。でも、人の知恵を借りて始めるのだし、研究がまだ初歩的な段階にあり、書いた人も若いので、全面的に信用した人もいなかったと思う。



論文、特にその中でも画期的な内容を含む論文には間違いが多い。人間の知恵は、自分が目標としているのに甘いから、研究者はとかく自然現象を自分の目標としていることにつなげてしまう傾向にある。だから錯覚しやすいが、それをあまり意識すると今度は必要なことを見落としてしまう。



科学史などを少しでも勉強した人は、新しい発見が本人の強い錯覚によったり、偶然だったりすることを良く知っている。たとえばノーベル賞をもらったポリエチレンの合成の発見では、オートクレーブの端についたわずかなシミが気になった研究者がそれを分析したことから始まる。



サラリーマン的、官僚的な研究では新しいことは見つからないし、まして「誤りのない論文を書こう」と思っていたら、新しい内容の論文はかけない。「完成してから書け」と言う人がいるが、どの段階で完成したと言えるかすら、分からない。



「管理主義」と「発明」はまったく相反する性格を持っているからである。前者は制服が似合い、後者はジーパンがあう。私の経験ではまんべんない気配り、隙の無い仕事、キチンとした人づきあいなどができる人で画期的発明をした人をあまりしらない。でもそのことは「適材適所」から言ってもわるいことではない。それぞれ人間には持ち分があるからだ。



論文は未完成で出始める。そのほうが多くの人が参加できて良い。また超電導でも、DNA構造でも、トンネル効果でも、最初の論文から詳細に書いてあるものはない。「こんなことが起こった」とか「おそらくこうではないか」という学問的提案がだんだん、実ってくるものである。



その点から言って、小保方さんは「社会に大きな貢献をした」、「若い日本人の見本になる一人」であることは間違いないが、決して「迷惑」も「悪いこと」もしていない。記者会見では謝る必要はなく、むしろみんなで立ち上がって、拍手をすべきだった。



学術論文はもともと受動的(読む人が判断する)ものだから、書いた人は査読を通る(査読委員が責任を持つ)ことで問題はないのである。また、科学はウソをつかないから、科学者は原理的に悪意はない。



頭を下げるべきは記者の方だった。小保方さんは日本の若者の見本だったのだから。若い人、ミスを怖がらずに!!



(平成26年4月11日)
武田邦彦

(出典:武田邦彦先生のブログ






STAP事件簿11 世間の参戦(4)「学生は教育中ではない」??





STAP事件簿11 世間の参戦(4)
「学生は教育中ではない」??



今回の事件では、学生が登場した。まず第一に、小保方さんの博士論文、第二にコピペ問題で学生の感想、だった。でも両方とも「学生は教育中ではない」という奇妙な前提だ。



教育中というのは学生がお金を払っている。それに対して研究は本人がお金をもらう。だから、学生と社会人(研究者)は全く違う。これが誤解されていることと、弱いもの(学生)は正しいことを言うという前提で、無条件に学生の言うことを正しいとして判断せずにマスコミが報道した。



学生がコピペしてよいかというのは、科学論文がコピペしてよいかとはまったく違う基準で決まる。もし学生が文章が下手だったり、研究している内容をよく理解していない場合、「コピペしてはいけない」と言うでしょう。また文科系の場合、対象とする文献が「思想又は感情に基づく創作物」であれば、著作権がありますから、「事実を教える」ということでコピペを禁止することもあります。



これらはすべて「教育上の配慮」であって、「社会的にどうすべきか」とは違います。お習字の練習をしている時には先生は全員に書かせますが、職場では字のうまい人が式次第を書きます。職場でも教育中と同じように、「順番に式次第を書きなさい。学校でそう習ったでしょう」という上司はいるでしょうか?



学校は「教育のため」であり、社会は「仕事のため」だから、行動規範から基準から、してはいけないことからすべて違うのです。それを学生に聞いてどうするのでしょうか?



・・・・・・・



また試験の答案、卒業論文、博士論文(学生の作品)は「なんのために作る」のかを忘れた報道も多く見られました。



学生(教育中)の作品は「本人の力を高めるため」に提出させるものであり、研究者の作品は「世のため人のため」に出されるものです。したがって、簡単に言うと、学生の作品は合格したらその場で捨てて良いもので、取っておくとか、作品が良かったかどうかなどは問題がありません。



卒業論文や博士論文などを保存しておくのは慣例でやっているだけで、その必要性についてしっかり論議されたことはないのです。私は大学教育改革に深く関係してきましたが、現代の学生の論文についてその意義などを議論するときには、当然ですが、「修行中」であることが前提です。



そして、学生を合格させるかどうかはすべて先生の判断です。でも卒業論文では学科の先生方の同意、博士論文では副査(4人程度で学外を含む)、公聴会(社会)の承認を必要とします。それでも、問題になった場合、主査の先生が合否の理由を述べるのであって、これもあまりにも当然ですが、本人が合否の理由を説明することはありません。



もともと学生の作品の所有権は先生にありますから、先生が修正を指示することができます。もし学生の所有物なら先生は修正をさせることができません。理系の論文の場合、コピペが良いか悪いかは先生が決めることです。



また私は「科学の産物は人類共通の財産」ということを学生に教えるために、自分と他人のものを区別したがる学生に、「自然に対して忠実になり、人間は忘れろ」と教育します。それと同時に、「社会はお金や所有にまみれていて誤解を招くから引用ぐらいはしておいた方が良い」と世渡りの方法を教えておきます。



つまり現代の社会はあまりに考えずにバッシングする人が多いので、「正義ではないこと」も教えておく必要があるという哀しい現実なのです。今回のSTAPもその通りになりました。



本当は科学は自然に忠実であることですから、人間社会とは違う、それがあるからこそ学問の進歩があるのです。人間社会にまみれた科学はルイセンコの「共産主義で小麦を育てるとよく育つ」となってしまいます。



いずれにしても「教育」と「社会」を混合した今回の事件はまことに残念でしたし、かつ早稲田大学が主任教授も説明せず、教授会も調査委員会を作らないのに、大学が「ネットで問題になっているから」と法律(教育ではない)の専門家である弁護士を立てて調査をするのは大学の破壊です。



早稲田大学の卒業生は、「都の西北」の精神を思い出し、大学に正しい教育に立ち返るように求めてほしいと思います。



(平成26年4月11日)
武田邦彦

(出典:武田邦彦先生のブログ







STAP事件簿10 世間の参戦(3)「科学者もウソをつく」??





STAP事件簿10 世間の参戦(3)
「科学者もウソをつく」??



STAP事件では、「不正な研究」が問題になり、「不正な研究」の定義や、それを防止するための「実験ノート」など、不可解な言葉が横行した。でも、科学に不正があるだろうか?



人はその人が死ぬまでウソを突き通すことができる。だから、科学にもウソがあると多くの人が錯覚するのは無理もない。でも科学には「ウソがない」という原理原則がある。



科学を研究する目的は、1)自然現象を明らかにしたり、それを応用して人類の福利に貢献する、ということか、2)工場などを作ってもうける、と言うことの二つである。いずれも自然科学では「自然」をもとにしている。



人間と違って、自然は常に「正しい結果」を出してくる。だから、自分がデータや論理を「捏造」したら、しばらくして必ず(100%)捏造した結果と違う「正しい結果」が出てくる。捏造したデータで工場を作れば、その工場は動かない。



このことは科学者は誰でも知っているので、少なくとも10年以上は科学者を続けようと思っている人や、事業にしたいと考えている人がねつ造するはずはあり得ない。すぐばれることは100%、間違いないからである。



例外がある。1)大学4年生で卒業すれば終わりという学生が実験をさぼった場合、2)何かの地位を得ればそこで安定するので、とりあえずウソをつく場合、3)補助金をもらいたいなどの理由でウソを言う場合、である。いずれも学問が「お金、名誉、地位」などに関係するからウソをつく。



でも、その割合はものすごく少ないので、チェックするより、自然に消えていくのを待った方が社会としては得策だ。つまり、「他人がやってもできないこと」などはほっておけば自然消滅するし、「工場が運転できないこと」をやっても損が重なるだけだ。



だから、通常、科学は「ウソや悪意はない」として、すべてを行う。その方が、ウソや悪意をチェックする活動より労力が極端に少なくて済むからだ。



もう一つは、私がテレビで解説したように、「論文はそれが素晴らしければ素晴らしいほど、現在の知見から見ると間違っている」からである。天動説が正しいと考えられている時に星のわずかな動きを問題にして計算し、地動説を唱えても「間違い」と判定されるのは確実だ。



かくして、科学の進歩は「ウソや悪意はない」として前に進めたほうが良いということになっている。もちろん、科学史の中には多くのウソがあるが、それは社会的な問題になっても、科学の世界ではなんら不都合はない。時に、化石のウソなどが起きると、それをきっかけにして、別の視点が生まれ学問は発展し、ウソは原理的につき続けないので、その人は没落する。私は長い科学の歴史で、ウソを突き通して人生を成功の裡に終わった人を知らない。



自然はだませないので、100%露見する。私の先輩の一人が研究責任者から社長になってしばらくして、「武田君、社長は楽だね。どうしようもなくなったらだますこともできるけれど、自然はだませないから研究はどうにもならないから」と言われたことを思い出す。



STAP論文が悪意だったなどということはあり得ず、考えなくてよく、かつ動機もない。動機の無い犯罪はない。ただ、むしろバッシングしたマスコミ、専門家、理研首脳部には動機がある。それは、視聴率を上げたい、販売量を増やしたい、ライバルを蹴落としたい、有名になりたい、組織を守りたい、特殊法人の指定を受けたい・・・などがあるからだ。



むしろ、そちらがバッシングは悪意がなかった説明しなければならないだろう。小保方さんが悪意がないことは言う必要もない。私は研究者を守ろうとはしていないが(事実を解説するだけ)、このようなことが起こったら「善意の研究者が社会の悪意で消される」ことが起こり、それこそ社会正義は崩壊する。



(平成26年4月11日)
武田邦彦

(出典:武田邦彦先生のブログ







STAP事件簿09 世間の参戦(2)「あり得ないミス」??






STAP事件簿09 世間の参戦(2)
「あり得ないミス」??



STAP事件では、科学研究の経験がない多くの素人が参戦した。これは良いことだったが、小保方さんはかわいそうなことになった。つまり、リンチ的になったからだ。その一つがコピペでこれは前回に説明した。次に「間違った図など使うなんて、あり得ないミスだ」と言う人が多かった。



でも、これまで長く論文を審査し、またネイチャーなどの有力紙を読んできた私にとっては、今度のSTAP論文ぐらい多くの図と豊富な情報を提供した場合、1や2つはミスがあるのが「普通」で、「ミスがないのはあり得ない」ことだ。



これは私の先生で「歩く教科書」と言われたぐらいの権威のある先生が「武田さん、ミスがない論文を出そうとすると、死ぬまで出せませんね」と言ったことを思い出す。私も万が一にもミスがないようにと思って論文を出すが、まずミスがある。



特に今回は「写真の使い回し」という悪意のある言葉をマスコミが使ったことが問題になった。「使い回し」というと一度、どこかに使ったものを意図的にまた使ったというように聞こえるが、事実は「膨大なデータがパソコンにあり、そこから論文を書くときには「これが適切だ」と思うものを取り出す」ということで、特に数年前のデータなどは時々、錯覚する。



おそらく、「あり得ないミス」という学者は、データが少ないのだろう。一所懸命、研究しデータが多い研究者は常に間違いの恐怖の中にある。彼女が記者会見で、「実はバージョンアップしている間に、どこかで写真を間違えて貼った。そして「正しい写真」を探すのにずいぶん、時間がかかった」と言っていた。私もまったく同じ経験をしたことが多くある。正しいデータが頭に浮かぶのだが、それを見つけることができないことが多い。



また、論文というのは、学会などに提出したら、その論文にミスがないか、論旨はしっかりしているかについて責任を持つのは「査読委員」であり、それを読んだ人が「あり得ないミス」などに気が付くはずもない。それこそ、ミスを見つける人に悪意が必要だ。



ここで、この論文がどんなに良心的なものだったか、図や写真、ビデオはどんなに多かったかを「感覚」でわかってもらうために、いかに問題の論文に使用された図表、ビデオ(一画面だけ切り取っているが、現実の論文には長い実験結果がビデオで示されている)を示す。解像度がわるいので詳細は分からないが、こんなに多い図表や写真、ビデオを使用したのはそれほど多くない。



これだけ良心的な論文をだし、社会に多くの情報を提供した意図が、なぜ、1,2枚の写真を間違えた(私はそのことは論文を読んだ人に絶対に錯覚を与えないと思う)のを問題にしてバッシングするのだろう。おそらく科学に興味がないと思う。


(平成26年4月11日)
武田邦彦

(出典:武田邦彦先生のブログ







2014年4月10日木曜日

STAP事件簿08 世間の参戦(1)「あり得ないコピペ」??





STAP事件簿08 世間の参戦(1)
「あり得ないコピペ」??



STAP事件では、相変わらず日本社会が情緒的で、リンチ的であることが露見した。マスコミの問題だけではない。



それは、「コピペ」が「絶対にしてはいけない悪いこと」というのが前提で事件が進んだことでわかり、その大きな理由の一つが、学生や若い研究者、また文科系の人が「科学の執筆物の著作権と社会への貢献」という勉強も体験もないことが大きかった(未知が野蛮な社会をリードする)。



「コピペが良いことか悪いことか」は「自然科学の著作物」の「権利と名誉」はどうなっているかによる。情緒的な判断や自分勝手な倫理は学問的ではない。

1)18世紀まで「人間の知の活動」の成果は人類共通の財産として常に解放されていた。文学などを含む。学者にとっても自分の業績が人類共通の財産になることが誇りだった(例外はある・ニュートンに代表される)。

2)ヨーロッパ社会の進展とともに、成果の権利について例外を設けたほうが良いということになった。



3)例外は「著作権」と「特許権(意匠権などを含む)」の2つで、それ以外は「人類共通の知」ということで「公知」と言う名前になっている(公道、公海、公園などと同じ。断らなくてもだれでも使ってよい知)

4)現在の日本でも同じで、例外は「著作権」と「特許権」だけである。でも、それはあくまで個人の利益のためではなく、社会の発展のためのベストな選択という意味である。



5)多くの人が誤解しているが、「著作権」というのは「書いたから俺の権利」ではなく、「思想又は感情に基づく創作物で表現されたもの」に限定されている。

7)通常の理科系の著作は、「思想又は感情」に基づいていないし、「創作物」でもないので、著作権はない。裁判の判例もそうである。

8)「著作権がない著作物」は公知であるから引用は不要である(これも多くの人が間違っている。著作権法32条は著作物に限り引用が必要とされている).著者は公知になって無断で利用してくれることを望んでいるはずである。


9)論文を書いたり、ネットに出したりする行為は、もともと「公知にしたい」という意思の表れだから、どんどん無断で使ってよい。それが嫌なら論文やネットに書かなければよいので、自分の頭の中のものを知られたくないという権利は十分に保障されている。


10)理科系の知の成果で、自分の権利にしたければ、特許を申請することができるし、論文を書かずに特許だけ書けばよい。その代り特許では「特許請求の範囲」という権利の範囲を明示して、その審査に合格する必要がある。

11)「倫理」と言う点では、社会の認識と反対だが、無断で引用するほうが倫理的である。つまり「人類共通の財産」を認め「公知」であるという法律に従っているからだ。引用しなければならないというのは法律より村の掟を上位に置く思想だから危険。



なぜ、人類の知の成果は「公知」が原則かと言うと、そのほうが人類全体が繁栄するからという理由と、人類が「自分、自分」というと争いになるので平和に向かうために「共通財産」をそのままにしようという考えがあるから、と言える。



オリンピックも「勝つために参加するのではなく、参加するのが意義がある」と言われるのは、「国別対抗」などにならないようにしている。今でもIOC(国際オリンピック委員会)は「国別メダル数」などは出していない。あれは商業主義のマスコミが集計しているだけだ。



私は論文を出したり、ものを書いたりする時には、「公知になって欲しい。多くの人の参考になれば」と思い、人類共通の財産を提供するつもりであり、決して「自分」ではない。



学者は憲法で学問の自由が保障され、教授は身分まで守られている。その恩返しをするのは日本人として当然だ。もしお金や権利が欲しければ、特許を申請して論文を書かなければ良いのだから、これも簡単なことだ。



ところでこれは数回後に欠く予定だが、「学校の先生がコピペはダメと言った」という学生の話を放映するテレビもテレビだが、「人類共通の財産を故意に使わせない」という先生の意図は「文章が下手だから訓練させる」ということであって、教育上の罰のようなものである。



でも相当な先生でも、論文に権利があると思っているし、「引用しないと失礼」とか「他人の文章を利用するなんて!」という人がいるが、学者なのに論理的にものを考えず、直感的、村の掟優先する人がいるから、いざこざが絶えず、結果的に戦争になる。(人類共通の財産と言うことを理解できず、所有権ばかりを主張している)



その人は公園のベンチに座るときに市役所に申請書をだすのだろうか? 公園のベンチも苦労して作った人がいるのだ。ずいぶん、わかりやすいと思うけれど、著作権法は法律だから自らの倫理観より社会的には優先する。



コピペを批判する学者は「思想または感情に基づいて」理系の論文を「創造」しているのだろうか?


(平成26年4月10日)
武田邦彦

(出典:武田邦彦先生のブログ






STAP事件簿07 私がSTAP論文を読んでみると・・・






STAP事件簿07 私がSTAP論文を読んでみると・・・



私がSTAP論文を読んでみると、なかなかの大作で、図表が70枚ぐらいもある有意義で良い論文と言う印象を受けた。英語のレベルも高く、説明も丁寧、引用文献も多からず少なからず、なかなか優れた論文だ。



なにはともあれ、論文を読んでいくと、厳しい環境の中で生き残った細胞が初期化するのだな、そしてそれから生体が誕生する可能性があるということがわかる。それが真実かどうかではなく、著者はそう考えていることが分かる。論文はそれで十分で、真実が示されているわけではない(人間には不可能)。



基礎的な研究もあり、面白くもあり、さらに将来につながる大きな発見の可能性もあるなという感じだった。これならネイチャーの査読委員も掲載するだろう、世界の科学には大きな貢献をすることは明らかだ。



読んでいるとわたしには「間違った写真」というのはわからなかったし(査読委員もわからなかった)、もし2,3枚の写真が違っていても、この論文で示した新事実にはまったく影響はない。



私が日本の学者でこの論文に批判的な意見が理解できないのは、問題になっている論文は立派な論文で、刺激的であるし、かりに今、問題になっているところを修正してもしなくても、結果として示されていることは変わらないから、「科学的事実としてなにが問題なのだろう?」と思う。



たとえば、小保方さんや共著者の笹井さんなどを「再教育」する必要があるという見地からは、「もう少し慎重に論文を書きなさい」という忠告や指導はあり得るが、笹井さんなどは一流の研究者だから、それも失礼なことだ。



あえて言えば、あまりに親切に説明していることが結果的に小さな欠陥を作った感じもする。ベテランの学者なら写真などは半分も出さなかったと思うけれど、やはり若い研究者は(自分もそうだったが)「説明したい」という気持ちがあって、丁寧に写真などを出す傾向がある。



でも、それも問題はない。データを多く出すというのは危険なことだ。ミスも増えるし、基礎的な段階では「相反するデータ」というのが多くあるので、すべてを出すと論旨が通らない。これは「ウソをつく」とか「隠す」と言うことではなく、「相反するデータのある中で、その研究者はどのように考えているか」が分かればよいからである。



もし、すべてのことが分かってから論文を出したら、他の人はSTAP研究をすることすらなくなり(すべてが分かっているから研究にならない)、しかもそれが一人の人の人生の中で終わるかどうかわからない。



記者会見の後、やや心配な議論は「STAP細胞があればOK,なければダメ」という意見が出てきたことだ。いま、問題になっているのは、「論文の書き方に少し欠陥があった」ということであり、「論文自体が間違っていた」ということではない。



また基礎研究段階では、「これまでの事実から、こう考えられる」ということを「正しく」推論しても、後のそれが間違っていることがある。たとえば、地動説でも、ロケットを宇宙に打ち上げて太陽系を見たわけではなく、小さな望遠鏡で星の動きを見て、惑星の動きは計算してみると太陽の周りをまわっていないとつじつまが合わないと言っているだけだ。



でも最初はそれからスタートして、いろいろな観測をみんなでして、次第に新しい発見が完成していく。最初から「正しいかどうか」などを問うたら学問は成立しない。その意味で、STAP細胞は本当か?という質問は科学の進歩にとってきわめて危険である。


(平成26年4月10日)
武田邦彦

(出典:武田邦彦先生のブログ







STAP事件簿06 暗闇研究と月明かり研究





STAP事件簿06 暗闇研究と月明かり研究



どちらの研究が「正しい研究」かということではないけれど、研究には「暗闇研究」と「月明かり研究」がある。



暗闇研究と言うのは人類がまだ知らないことを手探りで調べていくもので、月明かり研究と言うのは先人がアメリカなどにいて、それを発展させたり、手法を作ったり、最適条件を探すような研究だ。



それ以外にも「昼間研究」というのもある。ある建物を設計するためにまだ不足している「材料疲労特性」を調べる研究で「研究さえすれば、結果がでる」というものだ。今回はこの「昼間研究」は触れないことにする。



私が若いころ、ある大先輩から「武田君はよく真っ暗闇を歩くことができるね。真っ暗闇だと、次に踏み出す一歩が谷底かも知れないから、恐怖心はない?」と聞いてくれた。



その頃、私はアメリカもフランスもチャレンジして失敗した研究に挑戦していた。だから「完全に暗闇」ということはないが、途中までは月明かりがあったけれど、すでに真っ暗闇に突入していた。



そんな研究では二つの恐怖心がある。一つは、「次の一歩で谷底に」という恐怖である。つまり先が見えないのだから、やっているうちに「これまでのことはすべて間違い」というのが分かる可能性がある。そうすると評判を落とし職を失い。



もう一つは、自分が歩いている道はすでに失敗する道で、さっきの分かれ道みたいなところで左に行かないといけないのではないかという研究の方向に対する恐怖である。この場合は、やってもやっても泥沼に入る。



いずれにしても、月明かりもないのだから、一歩一歩、手探りで進み、周囲もまったく理解してくれない。「成功する可能性は?」と言われても「わかりません」と答えるしかないし、「成功したらどういう役に立つの?」と聞かれても、最終的にどんな結果になるかわからないからこれにも答えられない。



それではそんな「真っ暗闇研究」はこれまで誰がやっていたかと言うと、アメリカ人やヨーロッパ人だ。日本の科学者とか東大教授とかいっても、彼らの追従をしてきたに過ぎない。人によっては彼らの理論を理解するだけで精いっぱいと言う学者もいる。



今回のSTAP事件の論評を見ると、「月明かり研究」をした人か、あるいは「研究をしたことがない人」が厳しいことを言っている。月明かり研究なら、研究は研究だが、うっすらと月明かりがあるから、それをたどっていけば目的に達する可能性が高い。不安も少ないし、研究結果がどのようなものになるかはうっすらとわかる。周囲も研究の意味や結果がわかるし、「アメリカに追いつけ」ということで協力してくれる。全然違う。



私の周辺の「真っ暗闇研究」を経験してきた人(その一人は私の大先輩、もう一人は国際的な研究者、さらにお一人は学会のトップだがよく見てきた人)は口をそろえて「武田先生の言っておられることの99%は同意です」と言ってくださった。



STAPに関して言えば、大筋の研究は正しい、論文のうまい下手は研究には無関係、写真の取り違えなど問題はない、基本的にはコピペOK、30歳ではあっぱれ、実験ノートなどいらない・・・ということだ。



特にテレビでコメントしていた、東大教授、名古屋大学教授、大阪大学准教授の方はいずれも「研究者としてありえない」という趣旨のことを言われていたが、それは「月明かり研究者としては」とさらに説明を加えたほうが良かった。


(平成26年4月10日)
武田邦彦

(出典:武田邦彦先生のブログ








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