2014年3月31日月曜日

【STAP騒動の解説 260331】 学生の錯覚・・・普段の社会の仁義と科学の世界




学生の錯覚・・・普段の社会の仁義と科学の世界



ある読者の方から、「どうしてそんなに小保方さんを擁護するのか」、「武田の言い方が単なる擁護から共同研究者などへの批判へと変わっている」、さらに「武田は小保方さんのパトロンではないか」とのメールをいただきました。


ご返事は出しておきましたが、この読者の方が錯覚されるのは無理からぬことです。私が科学の教育をしてきて、矛盾を感じ、悩んできたことそのものだからです。


日本の大学の理科系の学部では、4年になると「卒業研究」で各研究室に配属になります。サボりの学生もいますが、結構、熱心に研究をする学生も多いのが事実です。


ところが、真面目な学生ほど、一つの特徴があります。それは「自分」と「他人」を区別することです。最初の症状は、レポートを書くときに「自分のデータ」だけを使って書こうとします。同じ研究室ですから、類似のデータを研究室の別の学生も測定していて、それを加えたほうがはるかに前に進むのに、どうしても「自分」にこだわるのです。


そんな学生は「自分」にこだわるがゆえに、実験も良くするのですが、自分にこだわるのです。


武田「なぜ、自分のデータでなければいけないのだ?」


学生「だって・・・・」


学生は、小さいころから、「自分のことは自分でやりなさい」、「人のものを盗んではいけません」、「他人のものは他人のもの」、「汚いことをしてはいけません」などと言われてきて、正直に自分の力で生きてきたのでしょう。だから「自分」にこだわっているのです。


現世の社会は、全てもものが「誰かの所有物」です。国土、自分が住む土地、家、家の中のもの、すべて「所有者」がいます。食べる時にもお金を払わなければなりませんし、電車も切符が必要です。すべてのものは「所有者」が決まっていて、もしそれをもらう場合はお金などが必要なのは当然の社会で生活をしています。


でも、学問は違います。もともと、人間の「知、情、体」から生まれる「知、芸、武」は人類共通の財産でした(武とはスポーツのこと)。学問、芸術、スポーツは誰に所属することもなく、所有者もいなかったのです。


それが、18世紀になって例外を設けることにしました。一つは「著作権」、もう一つが「工業所有権」です。これらは所有権ですが、厳重な制限があります。著作物というのは、「誰かが書いたもの」ではなく、著作権法で「思想又は感情を創作的に表現したものであって、文芸、学術、美術又は音楽の範囲に属するもの」とされていて、権利として認められるには次の事項をすべて満たしていることが必要です。


 ①「思想又は感情」に基づいているもの(単なるデータは対象外)
 ②思想又は感情を「表現したもの」(アイデア等は対象外)
 ③思想又は感情を「創作的」に表現したもの(「事実」は対象外)
 ④「文芸、学術、美術又は音楽の範囲」に属するもの(工業製品等は対象外)


また「工業所有権」は自分が権利にしたい範囲を明確に示し、特許庁に申請して認められたものに限定されます。これも「書いたから」とか「出版したから」という理由では権利はありません。


つまり、現在でも「人間の知恵の産物」のうち、単なるデータや、アイディア、思想や感情を表現したもの以外、学術など以外は、「誰が実験しても、誰が書いたり、出版したりしても」なんの制約もなく共通に使用しても良いのです。


また、著作権法第32条には、「公表された著作物は、引用して利用することができる・・・」とあり、引用元を示さなければならないのは、「著作物」に限定されるので、思想や感情に基づかないものは引用も必要がありません。


私はこの制限をとても誇りに思ってきました。つまり、科学は人間にとってとても大切なものだから、その成果は「人類共通の財産」であり、所有権などの世俗の権利とは違う神聖なものだ・・・それが私が科学に人生をかけた大きな理由だったのです。


スポーツの感動が人類共通の財産であり、オリンピックは勝つためではないというクーベルタン男爵の思想と同じです。


だから私自身は、世の中にあるもので「思想や感情に基づかず、創作でもなく、特許も申請されていないもの」については「所属なし」で、自由に使い、引用もしないのを原則としてきました。自分の著作物も同じです。


でも、世の中には科学を「お金儲け、収入、名誉、地位、所有物」のためにやっている人がいて、その人たちからクレームが来るので、面倒だから引用したり、使用したりをしないようにしてきましたが、私には苦痛でした。


この世には、世俗的なことも必要だが、崇高なものが残されていても良いというのが私の考えです。そして現実に法令でも残っているのです。ただ、法令に違反して科学の利権を主張する不届きものが多い(圧倒的)というのが残念です。


でも、マックスウェルは20世紀初頭(100年ほど前)、「学問が世俗にまみれてしまった」と書いています(「職業としての学問」(岩波文庫))


これをストレートに学生に教えると、学生は戸惑います。その理由は、
1)あまりにも常識に反する(世俗社会と違いすぎる)、
2)これまで教えられた世俗社会の道徳と違う(潔くない)、
3)他人に罵倒されるのが嫌だ(学生にあるまじきと言われる)
ということで、学生はせっかく崇高な科学の道に進んだのに、世俗にまみれてしまうのです。


科学の成果は、お金でも名誉にも関係なく、発見発明した人の所有物でもなく、人類共通の財産だ。それをよく著作権法、知的財産という特殊な分野を作り、一般的な知の自由を守ってくれたというのが私の感者の気持ちで、それを支えに私は学問をやってきました。


・・・・・・・・


かくして、私が「科学の世界では「自分」はないよ。私たちは自然に対して小さな存在だ。だから、自分のデータと他人のデータを区別するような力はない。全力を尽くして人類がもっている知識をすべて使い、ベストな考察をしてくれ」と言うと、学生はあまりのカルチャーの差にキョトンとしています。


そしてもし学生が私の言葉を理解して、自分と他人の区別をしないようになると素晴らしい科学者になるのですが、同時に激しくバッシングされます。だから学生に間違ったことを少し教えます。


今回のSTAP論文の誤解のほとんどは、社会が科学を利権レベルに引き摺り下ろそうとしていることに原因があると感じられます。残念でたまりません。


(平成26年3月31日)
武田邦彦

(出典:武田邦彦先生のブログ






2014年3月24日月曜日

【STAP騒動の解説 260324】 北極の氷が増えたことを報道せず、海洋の酸性化の誤報が続く




北極の氷が増えたことを報道せず、海洋の酸性化の誤報が続く



かつてソ連のルイセンコが数1000人の科学者と徒党と組み、「共産主義のもとでは小麦が良く育つ」というウソの学説を打ち立て、多くの科学者がそれに従った。今から、わずか60年ほど前のことだ。彼らの主張は、


1)共産主義のもとで育てると(低温処理)小麦が多く生産できる、
2)メンデルの法則はブルジュア思想である、
というものだった。


ルイセンコの説に賛同しないか学者は処刑、シベリア送りになった(現在の日本が温暖化に疑問を呈すると、国の研究費が来ないのと同じ)。そして中国の毛沢東がルイセンコに学んで大量の餓死者をだし、北朝鮮も大失敗した。科学は事実に基づくものであり、学者の数がどうかとか、政策との一致とは無関係のものである。


それから60年、日本にルイセンコ旋風が吹き、まだNHKがそれを主導している。NHKのルイセンコ風世論操作で最近の二つを紹介する。


まず、ヨーロッパの宇宙機関と日本のJAXAがほぼ同時に「北極の氷が1.5倍になっている」ことを2014年(今年)1月に発表。これまで「面積」しか話あらなかった北極の氷が「体積」が測定されると、増えていることが分かった。


これまでの報道と全く違う結果なので、もしマスコミがSTPA細胞と同じ報道態度ととるなら、大々的にキャンペーンをして、「これまで北極の氷が増えたと報道したのは、誰が言ったのか」とリンチを加えなければならないだろう。国内の新聞でもこの事実を報じたところもあるが、報道は仲間内なので、女性研究員とは相手が違うということでリンチは行っていない。


またゴア副大統領は2008年に「2013年には北極の氷はすべてなくなる」と言い、それをNHKも報道したが、全く違う現実を報道しようとしない。


ウソを発表するが「積極的誤報」に対して、一方の学説や発見だけを報道する「消極的誤報」に分けると、今回の誤報ははっきりした「学説の選別」であり「論文の選別」だ。「論文には本当のことを書くべきだ。だからSTAP細胞論文は非難しなければならない」と書いた記者は、温暖化で正反対の学説があり、その一方だけを報道しているのは、「自分たちが理系論文の正誤を判断できる」と思っているのだろうか? それならSTAP細胞の正義も自分で判断できるはずだ。


もう一つ、読者からの情報によるとNHKが教育チャンネルで、CO2が海に溶けると海が酸性になるという番組を放映したという。言葉はわるいが「化学の基礎ぐらい勉強しろ!」と言いたくなる。


酸性、アルカリ性というのは、地球全体で変わりようがなく、地表にはカルシウム、ナトリウムなどのアルカリが豊富にあり、酸性やアルカリ性が変化するとそれに伴って、融けたり沈殿したりして海の酸性度を一定に保っている。


もともと海にCO2だけを溶かすということはできず、酸性度の変化によって海の周辺の陸地、海底などから物質が溶け出し、酸性度を中和する。


このぐらいの科学の初歩が分からないなら、NHKは科学放送を止めるか、NHK自体を解散するしかない。日本は今、ルイセンコ風の誤報に振り回されている。科学技術立国と言うなら、事実に忠実であること、科学として確立したことに反するときには特段の説明をつけること、という二つを大切にすることだろう。


「空気」の後を追う人ほどみじめな人はいない。


(平成26年3月24日)
武田邦彦

(出典:武田邦彦先生のブログ







2014年3月19日水曜日

【STAP騒動の解説 260319】 クーベルタン男爵、再び登場してください!





クーベルタン男爵、再び登場してください!



ソチオリンピックの選手批判、そしてSTAP細胞の理研問題、いずれも「クーベルタン男爵がいない歪み」がでた事件だった。コピペや間違いなどの個別の問題以外に少し奥深い、基本的問題を論じてみたいと思う。


ソチオリンピックでは、「税金を使ってオリンピックに行って、不本意な成績を収めるとはどういうことか!」という批判だったし、理研の方は「日本の科学が他国に負けてはいけない」という政策が原因となっていた。


クーベルタン男爵が近代オリンピックを始めた動機は「教育活動」であったが、その真なる目的は「スポーツと言う人間の崇高な活動をもとに世界平和、人類融和に寄与したい」という心があった。


スポーツも学問も人間の活動の大切なもので、一つは「体」、一つは「頭」だ。これに「心」の活動の芸術、文学などが加わるが、いずれにしても、スポーツ、学問、芸術を「国家間の競争」の問題にするのは、適切ではない。


むしろ、今後の世界を考えれば平和日本としては、スポーツ、学問、芸術を国家間競争にしないように、クーベルタン男爵の思想を受け継ぐ国家にしたいものである。


国家はその全力を挙げて相互に戦う必要はない。そうなるとどうなるかは総力戦であった第二次世界大戦でよくわかっている。私たちは第二次世界大戦しかしらないので、戦争は総力戦と思っているが、19世紀までは「戦争は将兵同士の戦い」であって、一般人を巻き込むことは少なかった。


だから、さらに人類が進歩しているなら、国家間の争いになることを少しずつ減らしていくのが良い。そのためには、スポーツ、学問、芸術を国家間競争から外すことを日本から国際社会に提案するべきと思う。


(平成26年3月19日)
武田邦彦


(出典:武田邦彦先生のブログ







2014年3月16日日曜日

【STAP騒動の解説 260316】 学問と社会・・・この世の栄達も大切だが・・・




学問と社会・・・この世の栄達も大切だが・・・



(学問はむつかしいもので、社会とはかなり違うし、誤解もあるようですので、お話したいと思います。)


人間はパンのみでは生きることができない。
事実、学問は人間を野獣から考える葦にした。
そして、学問は人間社会から迷信や虐待を少なくしてきた。


哲学は私たちの思想を作り、文学は安らぎを与えた。
科学技術も自然を明らかにし、人間の寿命を延ばした。
学問はそれ自体に意味があり、社会の大きな発展と幸福に貢献する。
だから、学問はそれだけで良いと私は思う。


科学技術は自然を探求するものだから社会の規則や道徳に縛られない。
科学技術は創造物ではなく事実だから著作権などもない。
科学技術には誰がやったとか、誰のデータというものはない。


自分の大学でノーベル賞がでたら、夕刻、みんなで研究室にあつまって拍手をする。
そして翌日には普通のように当人も周りも研究する。
努力や成果に対して惜しみない拍手をするけれど、それによってお金、地位、名誉をもらってはいけない。私たちは自然の子であるから。
誰の論文か、引用の有無、他人のデータ、繰り返し使う図表、コピペ・・・どれもこれも娑婆では問題だが、自然の前には意味のないことだ。人間が必死になって自然を解明し、それを利用する。そこでは万人が平等であり、その成果は万人に属する。そのために古から科学は人間社会から解放され、そして人間社会に貢献してきた。

それがキャベンディッシュであり、マックスウェーバーの嘆きでもあった。
貧弱でみじめ、お金と利権と地位亡者の日本にはなりたくない。


(平成26年3月16日)

武田邦彦


(出典:武田邦彦先生のブログ







【STAP騒動の解説 260316】 学生が書いたものが不完全の時、それは学生の「責任」か?





学生が書いたものが不完全の時、それは学生の「責任」か?



教授が学生に与えたテーマで、学生が教授の指導のもとに研究をして、その成果がノーベル賞や学会賞のレベルに達した時、賞を受賞するのは学生でしょうか、先生でしょうか?


この問題は非常に難しい問題で、まだはっきりした答えはでていませんが、これまでの慣習では、テーマと研究方法を指示した教授が「頭脳」であることから、賞をもらうのは先生ということになっています。このようになるために学会では「学生賞」のようなものを作って、学生にも賞を与えることがあります。


「学生がやったのだから、学生が賞を取るべきだ」という意見も強いのですが、学問というのは「作業」ではなく、「頭脳活動」なので、学生とか先生という立場を考えずに、発明発見についての「頭脳の寄与度」を比較すると、どうしても先生の方が寄与が大きいということになってしまうからです。


また、大学でも学部時代の場合の学生実験や講義のレポートというのは、研究論文とは全く違います。研究というのは「研究をする時には正解が分からない」というものですから、そこに頭脳活動が入りますが、学生実験や講義のレポートは「最初から正解が分かっていて、正解なら100点、白紙なら0点で、その間は理解度や努力による」という教育です。


教育と研究は全く違います。教育は「わかっていることを教える」ことと、「本人の能力を高めること」に目的がありますから、全員が同じレポートを提出して模範解答と同じで、全員が100点を取るのが理想的教育と言うことになります。


これに対して研究はテーマを決める先生が「どうなるかわからない」ということですから、本質的に違います。この中で日本では理工系の大学4年生が行う「卒論」というのは人生初めて「研究」の真似事をして、将来に備えるというもので、中間的です。


理工系大学の4年生が卒論をするのは日本が独特で、欧米では珍しいというか20%程度と思います。卒論が学生から提出されると、教師は地獄の苦しみを味わいます。なにしろ文章はまずい、図表はダメ、文献引用などはさらにひどく、考察を書けない学生が多いということになります。


それは大いに結構で、だからこそ先生が丁寧に指導し、一応の研究論文の体裁を整え、発表練習を繰り返し、夜中までつきあい、やっと卒業にこぎつけます。


最終的に提出された学生の論文は図書館に入りますから、立派な学術論文なのですが、その成立過程から言いますと、学生の作品というより先生の作ったものに近いのですが、教育ですからそれでよいのです。


教育を受けているときには、美術大学でも理工系の大学でも、このようなプロセスは同じですから、美術大学でも提出された作品の所有権は先生になります。


また、レポートのコピペが良いかどうかは、その時の教育の目的によります。自分で書くことが「教育上大切」な時には教師はコピペを認めませんが、素早く世界の情報を集めてまとめることが目的の時にはコピペを推奨します。その時に資料の利用先が引用を表示することを求めている場合は引用することを指示し、自由な使用を認めているときには引用は特に求めません。それもルールを教えるための教育的な決まりになります。


結論として、学生が書いたものに問題があっても、それは学生の責任ではないことは明確です。


いずれにしても、教育では三つの原理原則があります。

1.あくまでも本人の成長が第一で、研究成果などは第二、

2.不出来だからと言って本人を罰さない、

3.学問としての科学は、お金、地位、名誉などと無関係で、世間的な所有権なども関係なく、その成果はすべて人類共通の財産である。


(平成26年3月16日)
武田邦彦
(出典:武田邦彦先生のブログ







2014年3月11日火曜日

【STAP騒動の解説 260311】 日本とアメリカの論文の違い・・・細胞論文の考え方について





日本とアメリカの論文の違い・・・細胞論文の考え方について



論文が査読(審査)を通るのはアメリカの方がはるかに通りやすい。

アメリカでは論文が不出来でも、そこに新しいことや価値のあることがあれば通る。

日本の論文審査はどんなに良いデータがあっても欠点があると罵倒される。

日本では時には、「これが何の役に立つのか」という拒絶が来たりする。


不出来だからといって記載されている事実の価値がないわけではない。

あまりに形式に厳密な学者が日本では多い。

特に若い人の論文に過度の正確性、厳密性を求めると進歩につながらない。


学問はもともとわからないことをしているので、本人に悪意がなくても間違いの論文も審査を通る。

「査読付きの論文」というのが金科玉条のように言うのは学問の本質を知らない人で、新しい研究をやったことがない人が言うことだ。

中には間違いの論文、故意のいい加減な論文があるが、それは学会の中で淘汰されていく。


マスコミが騒ぐと奇妙な結果になることが多い(環境ホルモンがその例)。


(平成26年3月11日)

武田邦彦

(出典:武田邦彦先生のブログ







2014年2月15日土曜日

【STAP騒動の解説 260219】 学問のテーマが政治問題になった時の学者の立居振舞





学問のテーマが政治問題になった時の学者の立居振舞



本来、学問と政治や思想は別のものだが、歴史的にも学問のテーマが政治化することが多い。ガリレオが「地動説」について異端審判にかかった時、(歴史的真偽は別にして)「それでも地球は回っている」とつぶやいたという話はその象徴でもある。


つまり政治や思想が「地球が宇宙の中心だ」というのは別に学問とは関係がないが、「それでも地球は回っている」という学問的事実には変わりはないという話だ。


ダーウィンが進化論を発表した時に、「人は神が創りたもうた」という反論に辟易し、「真実を知るには勇気がいる」と述懐したのもその一つである。


近年では、スターリン独裁時代のルイセンコ学説(共産主義のもとでは穀類・野菜はよく育つ)とか、ヒットラー・ナチス時代のゲルマン民族優位説(後に民族の虐待、虐殺につながる)、アメリカによる地球温暖化政治問題化事件(1988年に自ら言いだして、その後、25年間、アメリカは何もしない)などがその典型的なものである。


最近、日本でも相変わらず「政治や思想は科学の上にある。科学的事実より、政治や思想からの事実を優先すべきだ」という考えがなくならない。ある気象予報士が「温暖化で北極の寒気が蛇行している。アメリカのホワイトハウスがそういうのだから間違いない」とか、アメリカの国務長官が「温暖化に異論を述べる学者は過激な人物だ」といったと報じられるなど、「学問のテーマを政治や思想が指導する」という状態が続いている。


「IPCCは学者の集団だから」というのも、ルイセンコ学派やナチス時代の大学と同じ考え方である。学者の約8割程度は「その時代の権力におもねる」。その原因は学者自体がその学問については良く知っていても、やや純情で世の中の汚れを知らないことや、現在の日本のように研究費のほとんどが役人が決めるというシステムなどがある。


IPCCは学者の集団だが、簡単にいえば「御用学者」の集団であり、1988年(アメリカが温暖化を言いだした年)まで近未来の寒冷化の研究をしていた学者はすべてパージされている。つまり政治と言うのは時に異論を許さず、学問は異論がもっとも大切な活動だから相反する。


もっとも、地球の気温に関しては、「寒冷化」が主流であり、「温暖化」は異論に属する。ただ、異論にお金と権力がついたので、現在では温暖化が主流のように見えるに過ぎない。「ホワイトハウスが言った」とか「アメリカの国務長官が」というのは、学問的な異論側に政府が付いた時に、異論が主流になることを示している。


すでに20世紀の前半、マックスウェーバーが「職業としての学問」という書を著していて、学問がお金のために動くようになったことを鋭く指摘している。学問から離れているので、温暖化のデータが科学的に不正確であることは仕方がないことである。


しかし、日本にも日本人としての誠の心を持った学者がいると思う。だから、学者は学問と「政治や思想」とを分離して、それによって社会に貢献することをもう一度、ここで意識をする必要があるだろう。


(平成26年2月19日)
武田邦彦

(出典:武田邦彦先生のブログ






2014年2月10日月曜日

【STAP騒動の解説 260210】 学問・芸術と報道 「査読委員はわかってくれない」





学問・芸術と報道
 「査読委員はわかってくれない」



暗い話題では「現代のベートーベン」と囃した作曲家が実は作曲をしていなかったという事件があり、明るいほうでは若い女性が新しい万能細胞で画期的な業績を上げたことが伝えられていた。


その若い女性が「論文を査読した学者が、「300年にわたる細胞の歴史を冒とくしている」と理解してくれなかった」と言っていた。これについてテレビでもコメントを求められたが、「普通にあることです」と答えました。


学問というのは相反する2つの側面がある。一つは「これまで築き上げてきた知識と学問体系を大切にする」ということであり、もう一つの活動が「今まで築き上げてきたことが間違いであることを発見する」ということだ。


この2つは全く違う概念で相互に矛盾しているが、それでも両方とも学問としては欠かすことができない。最近ではもう一つ「役に立つ、あるいはお金になる活動」というのが学問の中に混入してきて学会は混乱している。


学問は一つ一つの事実や理論を慎重に積み上げてきて、人間の知恵の集積を行う。それが役に立つかどうかはやがてわかることで、学問が体系化の作業をしているときには「役に立つかどうか」を考えることはできない。


学問が新しい分野を拓いたり、新しい進歩がもたらされても、それが社会で活用されるまでには平均的に30年、ものによっては80年ぐらいかかる。それは当たり前のことで、発見された時にそれが社会にどのように役立つかわかるようなら、「新しい分野」とは言えないからだ。


それはともかくとして、女性の研究者の論文に対して、実験で観測された事実を拒絶した査読委員は、第一の立場(これまで築かれてきた学問体系を大切にする)に立っているからだ。それが間違っているかというとそうでもない。


学問の世界は「正しいこと」がわからない。これまでの学問を覆すようなことは極端に言うと日常的に起こる。たとえば「エネルギーが要らない駆動装置」という発明は膨大にあるが、これまではすべて「間違い、錯覚、サギ」の類だった。それでも、テスト方法や実験結果がきれいに整理されている論文がでる。


でも、「間違い、錯覚、サギ」を見分ける唯一の方法は、「新しいことはまず拒絶してみる」という手法である。この手法が適切かどうかは不明だが、人間の頭脳で真偽を判別できないのだから、それしかないという感じだ。論文審査は書面だけだからである。


もし、新しい発見が本当のことだったら、本人もあきらめないし、どこかで同じ結果が得られるので、徐々にそれが真実であることがわかる。学者はそんなことは十分に知っているので、論文をだし、罵倒されても、「それはまだ証明が不足しているな」と考えて、またアタックする。学問は新しいことを目指すがゆえにそれは宿命と言っても良い。


(平成26年2月10日)
武田邦彦

(出典:武田邦彦先生のブログ








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