2014年6月15日日曜日

【STAP騒動の解説 260606】 なぜ、科学者は「ウソ」を問題にしないか?(1)  小保方さんとの対話


なぜ、科学者は「ウソ」を問題にしないか?(1)
  小保方さんとの対話



私がSTAP論文を読んだとき、小保方さんが横の机にいたとしましょう。なんと言っても著者が隣にいるのですから、とても便利です。私が読み終わって、


武田 「小保方さん、なかなかおもしろい論文ですね」
 小保方「ありがとうございます」


武田 「ちょっと質問なのですが、この2枚の画像は少し論旨と違うような気がしますが」
 小保方「えっ、そうですか? ちょっと、チェックしてみます・・・・・・」(しばらくして)
 小保方「すみません。先生。少し古い写真と間違えたようです」
 武田 「ああ、そうですか。これですか(小保方さんが示してくれた写真を見て)・・・なるほど、結論などは変わりませんが、正しい方に入れ替えておいた方が良いですよ」
 小保方「すぐ、ネイチャーに連絡してそうします」


・・・・・・・・・


武田 「それはそうと、外部からの刺激で万能性を持つ可能性もあるのですね」
 小保方「ええ、研究はまだまだですが、おもしろいと思います」
 武田 「この研究、小保方さんが理研に入ってまだ無給研究員だった30歳前にやったのですか?」
 小保方「ええ。そうです。若山研究室の時の仕事です」
 武田 「ご立派ですね。写真の取り扱いなどは慎重にした方が良いですが、これからの研究に期待しています」
 小保方「ありがとうございます」


私の興味は「そんな細胞もあるのか」ということであり、写真が少し間違っているかどうかなどということはない。武田「学問は厳密なものだから、これからは写真をしっかり管理して間違えないようにした方が良いですよ」と若い研究者を指導する。私達ベテランの研究者は若い研究者のミスを糾弾するために存在するのではなく、指導し励ますことである。


それに私の興味は学問的なことなので、写真が2枚、3枚間違っていても、論文を取り下げもらっては困る。彼女のアイディアに接することができなくなる方が痛手だ。日本社会は論文が読めなくなる方がうれしいという反応をしたが、私には全く理解できない。


論文に小さなミスがあることは若い研究者にはときどきあることで、良いことではないが、だからといってよってたかって研究者をいじめる気持ちにはまったくならない。むしろ、着想の良い研究をした人は励まし、教育しなければならないし、自分としても興味があるからだ。


その点では、日本の専門家やマスコミが「小保方さんの論文を撤回させられるか」に懸命だったことは実に奇妙だった。


さらに私と小保方さんは少し会話をするだろう。私がこれまで大学院の学生と話してきたように・・・
 武田 「小保方さん、小保方さんは時々、論文やネットの文章をそのままコピペして使うと聞いていますが」
 小保方「はいそうです。その方が効率的ですから。私が書いても、書いたものを使っても同じですから」


武田 「それは正しい認識です。著作権法で定められた文章以外に著作権のあるものはありませんし、科学の論文は著作権法の言う「思想または感情に基づく創作物」でもありませんから、人類共通の公知の財産として大いに利用するのが良いのです」


小保方「でも、ダメだって言う先生もおられるのですが」
 武田 「確かに学会の「村の掟」があって、世間を知らない先生や文化系の人が「公知」というものそのものを知らないこともあります。だから、私は学生に、「本当はどんどんコピペした方が学問の進歩にはよいのだけれど、つまらない非難を浴びないようにできるだけわからないようにコピペしておいた方が良い」と教えています。」
 小保方「そうですか。私も今後、注意してわからないようにコピペします」


悲しい現実です。学問の世界は正しいことを厳密に追求するのに、社会がお金にまみれ、学問の世界もお金にまみれてしまっているので、「公知」をいやがってお金にしたい学者が多いのです。

 (平成26年6月6日)

武田邦彦

(出典:武田邦彦先生のブログ


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